戦後の香港は製造業が目覚ましく発展し、中国人資本の地場企業が数多く育った。その一方で香港の株式市場は、西洋人や中国人エリートの閉鎖的なコミュニティであり続け、1960年代末になっても、取引所の規模や上場企業の数は19世紀と変わらぬ水準にとどまった。取引規模の拡大や地場企業の資金調達という需要に応えられず、既存の取引所の限界が見え始めていた。
暴動の収束と株式市場の急回復
香港社会を恐怖に陥れた1967年の六七暴動が収束すると、株式市場は回復に向かった。1967年8月末に58.61ポイントを付けたハンセン指数だが、同年末には67ポイント台に回復。1968年末には107.55ポイントを付け、1969年末には155.47ポイントに達した。1966年末が80ポイント台だったことから、それを大きく上回る回復ぶりだった。
株式市場の商いも急回復した。1967年は3億520万香港ドルにとどまった売買代金だが、1968年はその3.1倍に相当する9億4,360万香港ドルに達した。さらに1969年は前年の2.7倍に相当する25億4,570万香港ドルを記録。これは暴動があった1967年の8.3倍であり、ジャーディン・マセソンが上場した1961年の記録の1.8倍に相当した。
海外からのマネー流入
シンガポールの海峡華人夫婦(1941年)
現地の風習を受け容れた華人は
プラナカンと呼ばれる
六七暴動が収束した後に起きた株価回復の背景には、複数の要因があった。まず挙げられるのが、海外からの資金還流だ。六七暴動の恐怖を経て、平和を求める声が広がり、香港社会は安定に向かった。すると、東南アジアなどに逃避していたマネーが香港に戻り、株式市場に向かった。
また、海外華人マネーの流入も、株高の一因だった。英領香港は昔から海外と中国本土を結ぶ“仲介役”であり、“マネーの逃避先”でもあった。東南アジア諸国などに住む華人は、英領香港の社会情勢や経済発展に関心を寄せていた。東南アジア情勢が不安定化すると、現地の華人は香港に資金を移し、香港株式市場で運用した。
堅調な地場経済と富の増加
こうした海外からの資金流入があったうえ、香港市民が築き上げた富も潤沢だった。香港は1950年代から製造業が発展。輸出額は1962年から2ケタ成長が続き、六七暴動が起きた1967年も、前年比16.1%増を記録した。
堅調な地場経済を背景に、香港市民の所得水準も向上。そうしたなか、中華系の人々は貯蓄志向が強く、香港の銀行が市民から受け入れた預金額も、2ケタ成長が続いた。
金融統計を見ると、香港の銀行の受入預金総額は、六七暴動が起きる前の1966年末に84億500万香港ドルに達した。1956年末は12億6,700万香港ドルであったことから、10年間で6.6倍に膨らんだことになる。
六七暴動が起きた1967年は、海外への資金逃避が発生したことで、同年末の受入預金総額は前年比2.9%減の81億6,200万香港ドルに落ち込んだ。だが、暴動が収束すると、逃避資金の香港還流が起き、1968年末には27.0%増の103億6,700万香港ドルに急増。暴動発生前の水準を大幅に上回った。
こうした預金の急増の背景には、好調な香港経済のほかに、前述のような東南アジアなどからの華人マネーの流入もあったとみられる。預金の急増を受け、銀行は預金金利を引き下げる一方で、融資条件を緩めた。株式を担保として受け容れる銀行融資も広まり、これも株式市場の商い活性化につながった。
物価高と資産防衛
香港社会のマネーが潤沢となったことで、物価も上昇が続いた。1963年9月~1964年8月を100ポイントとした消費者物価指数(CPI)をみると、1966年末は前年比2.9%高の105ポイントだったが、六七暴動が起きた影響で1967年末は6.7%高の112ポイントを付けた。その後も物価は低下することなく、1969年末には118.1ポイントに達した。
潤沢なマネーを背景とした物価高が続くと、手持ちの資産は購買力が低下する。これを防ごうとしても、預金金利に頼るだけでは不十分だった。賢明な香港市民は、資産防衛の一環として、株式投資に目を付けた。こうした物価高も、株式市場が活況となる一因だった。
加熱する株式売買
エディンバラ・ビルディング(公爵行)の様子
香港証券交易所の相場情報を眺める市民
1968年下期は香港の株式市場が過熱した。証券会社は資金や株式を持たずに、極短時間で買い注文と売り注文を出し、その差額で稼いだ。また、投機的な投資家の間では、株価が一刻み変動しただけで売買を繰り返すという超短期売買が流行した。
その当時の取引時間は前場が10~12時、後場が14時30分~15時30分の合計3時間。土日祝日のほか、水曜日の午後も休みだった。
1969年10月30日は前場だけで売買代金が2,600万香港ドルに上り、後場を合わせると4,160万香港ドルに達した。これは1日の売買代金としては、その当時の最高記録だった。
投資家が売買価格を指定する指値注文を出しても、それが執行される前に株価は3~4割ほど値上がりし、取引が成立しない有様だった。株を買うためには、目先の株価をはるかに上回る価格で指値注文するしかない。こうした状況だったことから、株価は“うなぎのぼり”だった。
それまで投資に興味を持たなかった香港市民も、株式売買に手を染めるようになった。香港証券交易所(The Hong Kong Stock Exchange)の前には長蛇の列ができ、会員証券会社は大繁盛だった。
香港証券交易所の限界
その当時の香港では、香港証券交易所が唯一の証券取引所であり、その会員たちが証券業をほぼ独占していた。この連載の第三十八回でも紹介したが、この取引所は1947年3月に香港股份総会と香港股票経紀協会が合併して誕生した。経営の主導権は、旧・香港股份総会の会員が掌握しており、西洋人や中国人エリートの排他的な既得権益層の集まりという色彩が濃かった。
香港証券交易所は上場企業の数が少なく、これも株高の一因となった。1967年の上場企業は60社に満たず、1969年に増えたと言っても、70社あまりだった。当たり前の話だが、それらの上場企業がすべて投資対象として適格であるわけではない。盛んに売買される銘柄は、さらに少なかった。
そのうえ、上場企業のオーナーは大量の自社株を保有したままであり、実際に市場で売買される株数は、ほんのわずか。つまり、株式の需要は大きいが、供給量が少ないという状況だった。こうした事情を背景に、潤沢な資金が希少な株式を追い求める格好となったため、株価が上がるもの当然だった。
香港証券交易所の売買立会場 その当時の香港証券交易所の会員数は、定員の60人にも満たなかった。取引所は香港島セントラル(中環)アイス・ハウス・ストリート(雪廠街)のエディンバラ・ビルディング(公爵行)にあった。
買い注文や売り注文は、取引所の売買立会場にある黒板(ボールド)にチョークで価格が書き込まれ、才取会員(仲立会員)による媒介(付け合わせ)によって、売買が締結(約定)されていた。
このように香港証券交易所は会員が少なく、取引時間も短かった。しかし、現代と違い、売買の締結や名義変更などは、その多くが人手を介して行われていた。そのため急増する商いに会員証券会社が耐えられず、香港証券交易所は1969年11月1日から前場だけの半日売買を決定。午後の時間を会員証券会社の証券事務作業に充てることになった。
経済発展に不釣り合いな株式市場
1969年の香港 香港では1950年代から製造業が発展し、成長性のある地場企業が数多く出現した。香港の人口も1960年代末には400万人近くに増加し、人々の富も累積していた。
つまり、成長性のある香港地場企業が多く、それらへの投資に振り向けられる人々の富も十分だった。にもかかわらず、1960年代末でも上場企業の数は百にも満たず、19世紀当時の香港株式市場と大差ない状況だった。
成長性のある香港地場企業、なかでも中国人資本の香港地場企業は、株式発行による資金調達と無縁であり、さらなる発展の機会を見出せないでいた。これは香港経済にとって、大きな損失だったとも言える。
上場企業の数が少ないのは、香港証券交易所が閉鎖的なうえ、上場審査が厳しすぎることが原因だった。香港証券交易所に入れるのは、一握りの西洋人と中国人エリートだけであり、コミュニケーション手段は英語だけだった。中国人蔑視の風潮が残り、英語が下手だと、冷たい扱いを受けた。
こうした香港証券交易所の体質を背景に、中国人資本の香港地場企業は、規模がどんなに大きくても、上場申請は拒絶された。成長性があっても、規模の小さな会社などは論外だった。
言葉の問題は、上場を目指す企業や投資家にとって、大きなハードルだった。香港証券交易所や上場企業が扱う書類や開示情報が英語だったことから、中国人資本の企業にとっては上場申請などが大きな手間だった。また、英語の小難しい情報は、香港社会で大多数を占める中国人にとって、よく分からない代物だった。
こうした状況では、香港証券交易所の規模が19世紀の水準にとどまるのも、無理からぬことだった。香港証券交易所の閉鎖的な体質や市場の独占に対し、香港地場企業の経営者などは不満を募らせた。
李福兆の遠東証券交易所
1969年11月8日の新聞に、驚くべきニュースが掲載された。李福兆(ロナルド・リー)をはじめとするグループが、遠東証券交易所(The Far East Exchange Limited)の会社登記を済ませたという記事だった。
記事が伝えた李福兆のコメントによると、香港では製造業の企業がすでに1万社を突破しているにもかかわらず、上場企業は60社ほどにとどまっている。目下の上場企業の数は、香港経済の成長性を反映できていないと主張したという。
猛反対の既得権益者たち
このニュースに対する証券業界の人々の反応は冷ややかだった。新しい取引所について、“必要性がない”“魅力がない”“悪影響しかない”“創設の動機が怪しい”といった声が圧倒的に多かった。
香港証券交易所の徽章
強気相場のブル(牛)と
弱気相場のベア(熊)のデザイン
特に証券市場を独占している香港証券交易所は、潜在的な競争相手である遠東証券交易所の創設に猛反対だった。「新しい取引所の創設は、まったく必要ない。我々の取引所はよくやっている。最近は商いが多すぎて厳しい状況が続いているが、それでもよくやっている」と、香港証券交易所のアレク・ハットン・ポッツ主席は自画自賛した。
もちろん、香港証券交易所の会員証券会社も、新たな競争相手の誕生に大反対だった。李福兆らに対する公開質問状を1969年11月10日の新聞に掲載。その質問は主に以下の3点だった。
- 【1】新しい取引所の創設目的は?全世界の取引所は非営利組織だが、新しい取引所もそうなのか?
- 【2】創設者は証券仲介業を手掛けたいから、取引所を創設するのか?どうやって取引するのか?
- 【3】売買するのは、すでに香港証券交易所に上場している株式なのか?それとも、新しい株式の上場を誘致するのか?
この公開質問状に対し、李福兆は自身の構想を明らかにした。それによると、新しい取引所は非営利組織であり、創設目的は香港市民の利益のため。香港の製造業は金融業からの支援が必要であり、遠東証券交易所は小規模な会社にも資金調達する機会を提供する。この点が香港証券交易所との大きな違いという。
また、会員数は32社ほどを希望しており、英国、米国、カナダなどの証券会社の入会も歓迎する。開業当初は既存の上場株式の取引から始め、徐々に新しい株式の上場を誘致すると説明した。
遠東会の快進撃
遠東証券交易所の正門 香港証券交易所を香港市民は “香港会”と略した。これに対し、遠東証券交易所は“遠東会”と呼んだ。
香港会の会員は、公開の場で遠東会の創設に反対の声をあげた。そうしたなか、香港政庁が反対を表明することはなかった。香港が自由経済体制にあるうえ、証券取引所の創設を禁じる法律もなかったからだ。
遠東会は1969年12月17日に開業。香港会の独占体制は、こうして破られた。遠東会は初日の売買代金が211万香港ドルに上った。同日の香港会の売買代金は456万香港ドル。“必要性がない”“魅力がない”と言われた遠東会だが、初日から香港会の4割半に相当する売買代金を記録した。
遠東会の快進撃は続いた。1970年の株式売買代金は、香港全体で前年比135.2%増の59億8,864万香港ドルに達した。このうち遠東会は48.9%に相当する29億3,134万香港ドルを占めた。翌1971年には遠東会の売買代金が香港会を超えた。
旧弊を破った遠東会
遠東会の取引所はクイーンズ・ロード(皇后大道)のチャイナ・ビルディング(華人行)201号室に設けられた。会員は46人。彼らは香港会の旧弊を次々と打ち破った。
例えば、取引で使う言語には、大多数の香港市民の母語である中国語(広東語)を採用した。その当時の香港では、中国語の公用語化を目指す「中文運動」が盛んだった。香港では1963年に香港中文大学が創設されるまで、大学教育は英語を使用する香港大学に限られていた。それほど、中国語の地位は低かった。
1967年の六七暴動を受け、香港政庁の中国人コミュニティに対する理解不足が、社会不安を招いたとの見方が広がった。その当時の香港政庁の文書は、すべて英語だった。中国語の新聞に掲載された世論などは完全に無視され、香港政庁に訴えたいことがある場合は、英字紙の「サウス・チャイナ・モーニング・ポスト」(SCMP)に投書するほかなかった。
「中文運動」に参加する香港市民
中国語の公用語化を求めている
だが、当時の香港は全体的な教育水準が低く、基本的な英語も操れない市民が多かった。これでは香港社会の大部分を占める中国人の意見を香港政庁が理解できるはずもない。こうした状況を見直そうと、1968年から中国語の公用語化を求める運動が広がった。
1969年に香港で初めて視聴者電話参加番組が放送され、これを通して中国語しか話せない市民でも、香港政庁の官僚と対話することが可能となった。1970年には中国語の使用を検討する委員会が香港政庁に設けられ、中国語に英語と同等の法的地位を与える法律が1974年に成立した。
ちなみに、主な香港市民が使う広東語は、発音や基本的語彙などの面で標準的な中国語と大きく違い、互いに外国語と同じような距離感がある。しかし、広東語の話者も、書き言葉は標準的な中国語と同じ。これは関西弁の話者が、方言で作文しないのと同様の感覚だ。
中国語の方言は多種多様だが、書き言葉は統一されている。広東語を表現するために、独自の漢字も作られているが、これはマンガや小説のセリフなど、通俗的な表現を必要とする時に使われる。
中国語情報の普及と株式市場の大衆化
遠東会の中国語採用は、公用語化を先取りしたものだった。これにより中国人資本の会社も、上場手続きや情報開示が容易になった。また、幅広い市民が開示情報を理解できるようになり、これまで株式市場と無縁だった市民も、投資に関心を寄せるようになった。
さらに遠東会はメディアと連携し、株式投資情報の普及に努めた。ラジオでは取引日に5回の実況放送を行い、タイムリーな情報を投資家に届けた。こうした実況放送は、やがてテレビにも受け継がれた。
“金魚缸”と呼ばれたパブリック・ギャラリー 遠東会の取引所には、“金魚缸”(金魚鉢)と呼ばれたパブリック・ギャラリーが設けられた。ここで投資家は、ガラス越しに立ち合いの様子を見ることができ、文字通り取引の透明性が高まった。“金魚缸”はやがて株式市場を表す代名詞となった。
株式情報を扱う雑誌や新聞の創刊も始まった。だが、雨後の筍のように生まれた出版物は、匿名の怪しげな文書を掲載することが多く、「風説の流布」に相当する内容も多かったという。それはともかく、中国語の株式情報が出回るようになった結果、多くの個人投資家が香港に生まれることになった。
上場基準の緩和
遠東会の売買立会場
香港天線のサンプル品
電気店が思い出の品として展示
多くの企業に資金調達の機会を与えるという創設趣旨を受け、遠東会の上場基準は香港会に比べて緩やかだった。その効果もあり、中国人資本の上場企業が急増。1968年は60社にも満たなかった上場企業の数だが、1971年には100社を超え、1974年には200社を突破した。
今日の香港財閥企業は、その多くが1970年代初期に上場。やがて香港一の富豪に登り詰める李嘉誠も、長江実業を上場させたのは1972年11月1日だった。
こうした華々しい成果を挙げた一方で、上場基準や上場審査が緩いため、とんでもない企業が上場してしまうこともあった。その一例が、ホンコン・アンテナ(香港天線)という会社だ。
この会社は家庭向けの新しいテレビアンテナを発明したと、投資家に売り込んでいた。テレビはまだ普及段階にあり、その将来性が有望視されている時期だったことから、多くの投資家がこの会社の株式を購入。株価は上場時の1香港ドルから、一時は33.5香港ドルに急騰した。
だが、この会社が発明したというアンテナは、ただの針金。電波塔の付近に住む人は、テレビのアンテナ接続口に針金を通すだけでも、荒っぽい画像を視聴できるのだが、この会社が発明したというアンテナは、まさにそれだった。これは世界の笑い話となり、ホンコン・アンテナはすぐに株式市場から姿を消した。
香港市場の対外開放と国際化
遠東会の設立二周年でスピーチする李福兆 香港会では地場や海外の証券会社に対して、排他的な規定が設けられていた。会員の数は、既得権益を守るために、厳格に抑制されていた。海外の証券会社の参入も基本的には排除され、準会員にしかなれなかった。準会員は直接注文を出すことができず、正会員に依頼するしかない。そのうえ、香港会の会員総会における選挙権もなかった。
だが、遠東会は有力な海外証券会社も、正会員として迎え入れた。これは小さな地場系証券会社にとって大きな脅威だったが、遠東会の創設者である李福兆は、当初から香港市場の国際化という目標を掲げており、あえて海外証券会社の誘致に踏み切った。
1973年には香港の金融業界・不動産業界のメンバーで構成された視察団が、欧州を訪問。香港上場株式をプロモーションすると同時に、欧州の証券取引所から学ぶ機会を得た。
また、国際化の推進を受け、英国資本、ユダヤ資本、オランダ資本、インド資本、フィリピン資本の企業も、香港に上場するようになった。
日本資本の企業もこの流れに乗り、香港に上場。三光汽船(1971年上場)、ソニー(1971年上場)、永大産業(1972年上場)、熊谷組(1972年上場)、東レ(1973年上場)、オムロン(1973年)などの名が、記録に残っている。
会員の急増と女性の活躍
遠東会の会員は46人でスタート。オープンな体制を採用したことから、会員数が急増した。1970年には109人となり、1972年には289人に上った。海外からも会員を受け容れたこともあり、1973年には341人に達した。
これに対して閉鎖的な香港会は、1970年も会員は60人にとどまり、1972年になっても、わずか77人だった。遠東会などの影響もあり、1973年は急増したが、それでも127人だった。
遠東会の売買立会場
女性の姿もみえる
遠東会は会員の性別についてもオープンだった。香港会の会員は男性ばかりであり、女性は皆無だった。一方、1970年の遠東会の会員109人のうち、11人が女性。つまり1割が女性会員であり、そのうち1人は理事を務めていた。会員に占める女性の割合は、その後も拡大を続けた。
女性会員が増えた背景には、医師や大学教授など富裕層の家庭で、妻が社会参加を求めていたことがある。こうした女性会員は客の注文を取り次ぐことが少なく、夫の資産を運用する自己売買が多かった。
こうした実情はあれ、取引所に女性会員が誕生したのは、英国連邦では香港が初めてであり、遠東会の誇りとなった。
女性会員が増えるなか、女性投資家も増加した。1950年代から発展した製造業では、女性が重要な労働力だった。徐々に経済的な独立性を高めた女性は、やがて中国語の株式投資情報などを手にするようになり、資産運用に関心を寄せた。
1973年2月24日付の日刊紙「星島日報」は、ある大企業で発行済み株式総数の38%が女性に所有されていたと伝えている。こうした状況を受け、証券会社は女性客の取り込みに励んだ。また、女性投資家を対象とする新聞や雑誌も増加した。
四会時代の幕開け
金銀証券交易所の徽章
通貨に鍵のデザイン
九龍証券交易所の徽章
九龍にちなみ、九匹の龍のデザイン
一匹だけ大きいのは、“大小共存共栄”の意味
遠東会の創業は、前評判とは裏腹に、大成功だった。香港株式市場の大衆化と国際化に大きく貢献し、こうした現実を香港会も認めざるを得なかった。遠東会の大成功は、香港の中国人有力者を刺激し、新しい取引所の創設が相次いだ。
1971年3月15日には貴金属取引所が創設した金銀証券交易所(The Kam Ngan Stock Exchange Limited)が開業。これは“金銀会”と呼ばれた。
金銀会の会員は当初、貴金属取引所の会員に限定されたが、後にオープンな体制に移行した。短期間で急速に発展し、1973年には売買代金が香港会を超えた。ただ、遠東会を超えることはなかった。
1972年1月5日には九龍証券交易所(The Kowloon Stock Exchange Limited)が誕生した。これは九龍会と呼ばれた。九龍会の売買代金は非常に少なく、金銀会にはまったく及ばなかった。
こうして香港の株式市場は、香港会、遠東会、金銀会、九龍会による“四会時代”を迎えた。だが、取引所の創設構想は、これだけにとどまらなかった。記録が残っているだけでも、亜洲証券交易所(The Asia Stock Exchange)、国際交易所(The International Stock Exchange)、聯合交易所(The Association Stock Exchange)、世界交易所(The World Stock Exchange)の創設が計画されていたという。
このうち亜洲証券交易所は、1973年2月18日の開業を目指していたが、香港政庁は取引所の乱立を防止するため、「証券交易所管制条例」を施行。1973年3月2日から香港総督の許可なく、取引所を創設することが禁じられることになった。
亜洲証券交易所の創設は実現せず、こうして四会時代が続くことが固まった。この四会時代は、1986年4月に香港聯合交易所(The Stock Exchange of Hong Kong Limited)が開業するまで、14年ほど続くことになる。それは19世紀の水準にとどまり続けていた香港株式市場に変革をもたらした時代であり、その影響は今日まで続く。