1989年6月4日の香港島
天安門事件に抗議する香港市民のデモ
1989年6月4日起きた天安門事件は、香港の人々に衝撃を与えた。4年半前に調印された英中共同声明で、香港の主権が1997年7月1日に中華人民共和国へ返還されることが決まっていたからだ。天安門広場で起きたことは他人事ではなく、近い将来の自分たちにも起きる出来事と、多くの香港市民が受けとめた。
1980年代の中国本土は改革開放が進み、資本主義的な市場原理も導入され、開放的で自由なムードすら漂っていたが、それが一変した。
“なぜ天安門事件は起きたのか?”これは単純な一言で片づけられる問題ではない。そこに至るまでの複雑な背景を知らなければ、天安門事件だけではなく、今日の中国政治や香港情勢の根底も理解できないだろう。
そこで今回は、天安門事件に至るまでの様々な動きを詳細に解説する。
改革開放初期の中国政治
1978年の中央工作会議
鄧小平(左)と華国鋒(右)
晩年の華国鋒(最上段)
2007年の共産党全国大会に出席
失脚後も党幹部の1人であり続けた
プロレタリア文化大革命(文革)が終結すると、第一次天安門事件で失脚していた鄧小平が、1977年7月17日に職務復帰した。鄧小平は毛沢東の後継者だった華国鋒との論戦に勝利。1978年12月18日に始まった中国共産党(共産党)の第11期中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)で、胡耀邦、趙紫陽、万里、習仲勲など改革派の優位が確定。こうして中国の改革開放政策が始まった。
華国鋒は毛沢東と周恩来から職務を継承しており、共産党中央委員会の主席、国務院総理(首相)、中央軍事委員会の主席を兼任。つまり、中国共産党、中央政府、中国人民解放軍という三つの権力主体を手中に収めていた。これほどの権力を握った人物は、中華人民共和国の歴史上、華国鋒しかしない。
なお、華国鋒が最高権力者となった当時、国家元首である国家主席という役職は廃止されていた。劉少奇が1968年に失脚してから国家主席は空席が続き、1975年の憲法改正で正式に廃止されていた。
鄧小平が最高実力者になると、華国鋒は次々に権力の座を失った。1980年9月に改革派の趙紫陽が総理に就任。1981年6月には鄧小平が中央軍事委員会の主席に就いた。
同じく1981年6月には、改革派の胡耀邦が共産党中央委員会の主席に就任。なお、この中央委員会主席という役職は、1982年9月に開かれた中国共産党の第12回全国代表大会で廃止され、これに代わって中央委員会総書記が設けられた。胡耀邦の役職も、主席から総書記に変わった。
改革派の胡耀邦(左)と
最高実力者の鄧小平(右)
(1982年12月20日)
改革派の鄧小平(右)と保守派の陳雲(左)
第11期三中全会にて
1982年12月に現行の中華人民共和国憲法が採択され、国家主席の役職が復活すると、保守派の李先念が就任した。改革派が優勢とは言っても、その政策に否定的な保守派は、隠然たる勢力を維持していた。その代表格が中央紀律検査委員会の陳雲・第一書記であり、そのほかの保守派としては、李先念、李鵬、薄一波などの名が挙げられる。
このように改革開放の初期は、市場経済の導入に前向きな改革派(右派)と社会主義的政策を重視する保守派(左派)が対立。最高実力者の鄧小平は、両派を調整するバランサー(調整役)という役割を担っていた。
腐敗と政治改革
胡耀邦(中央)と趙紫陽(左)
鄧小平の右手と左手と呼ばれた
北京市西単の家電売場(1981年)
白黒テレビが飛ぶように売れた
最高実力者である鄧小平の後ろ盾を受け、改革開放政策は胡耀邦・総書記と趙紫陽・総理の体制で進められた。彼ら三人は中国を改革開放に導く“三頭立ての馬車”(三駕馬車)と呼ばれた。
中国の経済体制や社会構造はドラスティックに変化した。だが、これに便乗して、権力を利用した蓄財に走る共産党の幹部や官僚が続出した。
例えば、“官倒”がその一例だ。これを理解するには、当時の価格制度を知る必要があるので、簡単に解説しよう。
計画経済体制から市場経済体制へ移行する過程で、1984年5年に価格の自由化が始まった。物資の生産量が国家計画を上回った場合、そうした余剰分については、企業と需要者が一定の範囲内で自由に価格設定することが可能となった。その一方、国家計画の範囲内で生産した物資については、これまで通り国が定めた固定価格が適用された。
こうして同一物資の価格が、“計画内の固定価格”と“計画外の市場価格”に分かれた。これを二重価格制(価格双軌制)と呼ぶ。旺盛な物資需要を背景に、市場価格は固定価格を大きく上回っていた。やがて、市場価格の設定制限も解除され、1985年3月には二重価格制が基本政策となり、これが1989年11月まで続いた。
この二重価格制を利用して、官僚が蓄財に励む行為が“官倒”だ。これは官僚による転売(中国語:倒売)を意味する言葉。官僚やその家族が権限を利用し、安価な計画価格で入手した重要物資を市場価格で転売することで、利ザヤを稼ぐ行為だ。特権を利用した官僚の蓄財に、人々は大きな不満を抱くようになった。
こうした腐敗は経済体制改革の障害にもなることから、1986年6月に入ると鄧小平も政治体制改革に着手した。
党幹部の世代交代について議論する元老たち
陳雲(左)、鄧小平(中央)、李先念(右)
(1986年10月30日)
だが、鄧小平が目指す政治体制改革は、西側諸国の民主制度を模倣するものではなかった。それはあくまでも、共産党と政府の分離、行政効率の向上、官僚主義の弊害排除、経済制度のさらなる改革を狙ったものであり、むしろ鄧小平は資本主義国家の民主制度には反対だった。なぜなら、中華人民共和国は社会主義国家だからだ。
四つの基本原則と人民民主独裁
鄧小平は1979年3月に“四つの基本原則”を掲げ、社会主義国家として以下については、異論を挟む余地も与えないことを明言した。
- 社会主義の道を堅持しなければならない。
- プロレタリア独裁を堅持しなければならない。
- 共産党による指導体制を堅持しなければならない。
- マルクス・レーニン主義と毛沢東思想を堅持しなければならない。
プロレタリア独裁とは、“無産階級”と呼ばれる賃金労働者階級(プロレタリアート)が統治する政治体制を指す。それを毛沢東は独自に発展させ、“人民民主独裁”(中国語:人民民主専制)という概念を生み出した。現行の憲法では、第一条には以下のように明記している。
“中華人民共和国は労働者階級が指導し、労働者と農民の連合を基礎とした人民民主独裁の社会主義国家である。
“四つの基本原則”を発表する鄧小平
理論工作務虚会にて
(1979年3月30日)
社会主義制度は中華人民共和国の根本的制度である。中国共産党による指導は、中国の特色ある社会主義の最も本質的な特徴である。社会主義制度を破壊することは、いかなる組織あるいは個人であっても、これを禁じる”
この“人民民主独裁”は、中華人民共和国の性質を示す“国体”とされ、以下の四つの階級に対して行使される。
- プロレタリアート
- 農民
- 小ブルジョワジー(プチブル)
- 中国土着の資本家(民族ブルジョワジー)
人民民主独裁(人民民主専制)の宣伝画
“本質は人民が国家の主であること”
人民民主独裁の国家は、これら四つの階級の連合とされる。各階級の位置づけによると、プロレタリアートこそ最も強固な中核であり、その利益を代表する政党(共産党)を通じ、指導権を行使する。農民はプロレタリアートの頼れる盟友。一方、プチブルはせいぜい追随者でしかない。民族ブルジョワジーは人民から離反し、“反人民”の敵対陣営に加わる可能性のある階級とされる。
そのうえで「国内で大部分を占める“人民”には民主を実行し、極少数の“敵対分子”や犯罪者には独裁を実施する」というのが、人民民主独裁の概念だ。
こうした“国体”に基づき、共産党と中華人民共和国は、広範な人民の根本的利益を代表。その政権の組織形態である“政体”として、人民代表大会制度が設けられている。これについては、憲法の第二条に明記されている。
共産党は人民民主主義政権を指導し、人民内部の社会主義民主政治を発展させる。その一方で人民民主主義を維持するため、敵対勢力に対しては発言権を与えない独裁的方法を行使できるとされる。
書店に並ぶ中華人民共和国憲法
2018年の改正を受けて
国家機構については、“民主集中制”の原則を実行することが、憲法の第三条に明記されている。これはレーニンが提唱した意思決定の組織原則であり、民主主義的中央集権を意味する。この民主集中制は、社会主義国の国家組織に広く採用されていた。
社会主義国である中華人民共和国では、政治の根底にこうした独特の理念がある。現行の憲法は文革の反省から、立憲主義の精神と思想が盛り込まれており、これが改革開放政策の基盤となった。
共産主義者の鄧小平
鄧小平は働きながら留学する目的で、わずか16歳の時にフランスに渡った。そこで待ち受けていたのは、理想とはほど遠い過酷な労働環境。学業は放棄せざるを得ず、低賃金の長時間労働を強いられるなど、“資本家による搾取”を体験した。
フランスで撮影した鄧小平(右)の写真
左は一緒に渡仏した叔父の鄧紹聖
(1921年3月)
精神汚染排除運動の宣伝画
“精神汚染排除の先駆者になろう!”
そうした経験もあってか、やがて鄧小平はフランスで周恩来が組織する共産主義グループに参加。ソ連で研修を受け、中国に戻り、革命に身を投じた。その詳細は、この連載の第四十六回で詳しく紹介している。このように鄧小平は、根っからの共産主義者なのだ。
中国が改革開放政策に舵を切り、市場原理などを取り入れたとしても、それは資本主義国化を意味するものではなかった。“四つの基本原則”や“人民民主独裁”の理念に基づき、鄧小平は資本家階級(ブルジョワジー)、すなわち“有産階級”を自由にすることは反対だった。そうした考えの背景には、社会主義の教えだけではなく、フランスで過酷な労働経験もあるのだろう。
鄧小平は1980年の談話で、資本主義の崇拝やブルジョワジーの自由化を批判し、これに反対する姿勢を表明した。改革開放で生じた理論界や文芸界の“精神汚染”を排除する政治運動を1983年に保守派が発動すると、改革派の鄧小平もこれに賛同。そうした考えの背景には、“四つの基本原則”や“人民民主独裁”があった。
1985年に鄧小平は台湾大学の哲学者と会談したが、その際にもきっぱりと、「資本主義の邪な道は歩まない」と断言した。
方励之の民主化運動
改革開放政策の推進にともない、西側諸国の資本が中国本土に流入した。しかし、流入したのは資本だけではない。西側諸国の政治思想なども伝わり、若者に大きな影響を及ぼした。
中国本土の経済は立ち遅れ、香港、台湾、それに西側諸国との間には、埋めがたいほどの巨大な格差があった。こうした現実は、共産党や社会主義への懐疑や不信となり、“中国の全面的な西洋化”(中国語:全盤西化)を主張する声も出始めた。
北京大学の学生に向け演説する方励之
(1989年)
中国科学技術大学の校章
1958は創設年を表す
初代校長は歴史・文学者の郭沫若
それを背景に、多党制、三権分立、議会制民主主義、司法の独立など、西側諸国の政治システムも、政治体制改革をめぐるテーマとなった。1980年代中ごろの中国は、文革の反動と改革開放の進展から、政治的ムードは割りと穏やかであり、厳しい弾圧には至らなかった。
こうしたなか、大学生に大きな影響を与えたのが、天体物理学者の方励之だった。方励之は北京大学の物理学部に進学。在学中の1955年に、共産党に入党した。1956年に卒業すると、中国科学院の近代物理研究所に職を得ており、非常に優秀な学者だった。
前途洋々に見えた方励之だが、就職直後に反体制狩りの反右派闘争が始まると、右派分子のレッテルを張られ、党籍を剥奪された。1957年のことだった。しかし、1958年に中国科学技術大学が設立されると、そこで教壇に立つことになる。文革期も相対性理論に基づく天体物理学で実績を残し、教授に上り詰めた。
鄧小平が最高実力者となり、方励之の名誉回復が回復すると、党籍も復活。それにより、1984年9月に方励之は中国科学技術大学の第一副校長に就任した。しかし、反右派闘争や文革を経て、方励之は共産党に大きく失望。現体制を批判し、民主化を訴える活動を始めた。
方励之と陳破空
1985年3月に方励之は科学者である許良英の推薦を受け、浙江大学で講演した。許良英は浙江大学の卒業生であり、中国科学院でアインシュタインを研究。彼も反右派闘争で右派分子のレッテルを張られた経験を持っていた。
北京展覧館を訪れた許良英一家
妻の王来棣は著名な歴史学者だった
(1957年4月)
方励之は民主化について演説し、それは大きな反響を呼んだ。上海市の同済大学の大学院生だった陳破空は、方励之の講演集をまとめ、全国各地の大学に配布。当時の比較的自由なムードを背景に、全国の大学生に大きな影響を及ぼした。
これを重く見た当局は、講演内容がブルジョワジーの自由化を宣伝していたと判断し、推薦者である許良英の党籍を剥奪した。
一方、方励之に感化された陳破空は、1985年12月に胡耀邦に書簡を送付。政治体制改革と民主化の推進を訴えた。
これを受けて胡耀邦は、中央委員会宣伝部の人員を同済大学に派遣。学生と対話する姿勢を示した。学生の声に耳を傾けようとする胡耀邦の姿勢を見て、多くの若者が彼を敬慕し、支持した。
1986年11月に方励之は陳破空の招きを受け、同済大学で講演会を開催。聴衆は1万人近くに達した。この講演で方励之は、共産党による中国統治を徹底的に批判し、社会主義は失敗だったと主張した。
反右派闘争の被害者たち
こうした方励之の活動に、共産党機関紙「人民日報」の記者である劉賓雁などが合流した。劉賓雁も反右派闘争で右派分子のレッテルを張られた人物だった。彼は社会問題を取り扱った記事や著作を相次いで発表。“中国の良心”と呼ばれ、1980年代には大きな影響力を持つようになった。
左から許良英、李淑嫻、方励之、劉賓雁
反右派闘争三十周年の活動を計画したが、失敗した
(1986年)
反右派闘争の被害者だった方励之、許良英、劉賓雁は、1986年夏に学術討論会の開催を計画。そのテーマは“反右派闘争から三十年の歴史”。だが、招待状を受け取った人物が当局に通報し、開催は中止となった。なお、その時の招待状は、後に当局によって“ブルジョワジーの自由化を主張する典型的な文章”とされた。
このように方励之のもとには、中国の民主化を求める人々が続々と集まった。
八六学潮
鄧小平は改革開放を進めるため、上述のように1986年6月に政治体制改革の推進を提唱。ただし、これは行政の効率化を狙ったものであり、民主化を推進することではなかった。鄧小平にとって、“四つの基本原則”は絶対。しかし、大学生たちが求めたのは、民主化だった。
方励之が副校長を務める中国科学技術大学では1986年11月末ごろから、地元の安徽省合肥市で近く開かれる西市区の人民代表選挙を批判する壁新聞やビラが張られるようになった。そこには、自薦の候補者を選挙に送り込もうと呼びかけるメッセージが書かれていた。
これについて方励之は1986年12月4日に講演し、「民主主義は上から下に与えられるものではない。みずから掴み取るものだ」と、学生を激励した。中国科学技術大学の学生は、すぐに反応。翌日に4,000人あまりによる街頭デモを実行し、候補者を選ぶ権利や政治的発言権を求め、シュプレヒコールをあげた。
このデモ行進は、後に“八六学潮”と呼ばれる学生運動の始まりとなった。
各地に広がるデモ行進
上海市の“八六学潮”
(1986年12月22日)
中国科学技術大学で起きたデモ行進の情報は、陳破空が在籍する上海市の同済大学にも伝わり、それを紹介するビラが12月7日から校内に出回るようになった。そうしたビラは、近隣の復旦大学や上海交通大学にも広まった。それから数日後、同済大学のキャンパスには、民主主義を主張する大量の壁新聞が張られるようになった。
“八六学潮”が始まった合肥市では、地元政府が情報を封鎖。学生の要求には応じなかった。すると12月9日には市内の大学から5,000人を超える学生がデモ行進に参加。“民主と自由を求める”“独裁を打倒せよ”“自由がないなら、死んだ方がましだ”などの声をあげた。
このデモ行進を受け、檄を飛ばした方励之のほか、中国科学技術大学の管惟炎・校長なども、学生の行動に支持を表明。これに湖北省武漢市の大学も歩調を合わせ、12月9日に現地で2,500人のデモ行進を敢行した。
学生との対話に応じた江沢民
学生で埋め尽くされた上海市
(1986年12月21日)
一方、同済大学から始まった上海市内のデモ行進は、拡大の一途をたどった。12月18日には上海市の市長だった江沢民が、学生側の代表と対話。しかし、翌日にはデモ行進の規模が5,000人に膨れ、外灘(バンド)一帯に渋滞を引き起こした。デモ行進は深夜まで続き、一部の学生が警察に暴行を働いたり、政府庁舎のガラスを割ったりした。
上海市のデモ行進は12月20日にピークに達した。極寒の天気のなか、千人近くの学生が座り込みを続けており、上海市公安局は彼らを強制的にバスに乗せ、キャンパスに送り返そうとした。こうした手段が学生の反発を招き、6万~7万人が市中心部の人民広場に集結。民主化や報道の自由などを求めた。
同じ日に広東省広州市の中山大学では、400人の学生がデモ行進を実施。12月23日には北京で清華大学、北京大学、中国人民大学の学生1,000人近くが街頭に繰り出し、合肥市と上海市の学生に声援を送った。
各地の政府や大学は、学生との対話に応じるなど、柔軟に対処。上海市でのデモ行進は、12月27日から終息に向かった。
北京市では地元政府がデモ行進の規制を発表。だが、学生はこれを無視し、年明けの1987年1月1日に天安門広場へ向かうデモ行進を実行した。これを受け、警察が83人を逮捕。すると、逮捕された学生の釈放を求める5,000人のデモ行進が発生。翌1月2日に警察は逮捕者全員を釈放し、北京のデモ行進も終息した。
“八六学潮”は1カ月ほどで終息し、大事には至らなかったが、これは天安門事件の予兆と言える事件だった。
胡耀邦の失脚
“八六学潮”を受け、共産党の保守派は胡耀邦を非難。若者に対する大らかな姿勢が、学生運動の拡大を許したと指摘した。改革派と保守派のバランサーである鄧小平も、「ブルジョワジーの自由化に対する共産党の姿勢が不鮮明であり、強い姿勢を表明しなかった結果である」と発言し、胡耀邦の責任を追及。“四つの基本原則”を堅持するよう胡耀邦に要求した。
鄧小平(右一)と胡耀邦(右二)
コントラクトブリッジの遊び仲間でもあった
鄧小平(左)と胡耀邦(右)
中央に立つのは保守派の陳雲
1987年1月10~15日に中南海で“党内生活会”で開かれた。この会合に改革派や保守派の幹部20~30人が参加。ここで胡耀邦は党幹部たちによる吊し上げを受け、自己批判を迫られたという。吊し上げで共産党のトップに辞任を迫る様子は、文革を彷彿させた。その様子に中央書記処の習仲勲・書記は怒りを露わにし、党内生活会を主催した薄一波に非難したという。
なお、改革派の習仲勲は、習近平・国家主席の父親。一方、保守派の薄一波は、2012年に重大事件で失脚した薄熙来の父親。二人の子どもの明暗は、大きく分かれることになる。
この“党内生活会”が終了すると、1987年1月16日に開かれた中央政治局の拡大会議で、胡耀邦は中央政治局常務委員に残るものの、総書記を辞任することが決まった。その理由として、「精神汚染やブルジョワジーの自由化に反対する共産党の努力に抵抗し、西洋化の要求に柔軟だった」ことなどが挙げられた。
胡耀邦は失脚したものの、知識人、学生からの人気は高かった。共産党内の改革派にも彼の支持者が多く、1987年11月の第13期中央委員会第1回全体会議(第13期一中全会)で、胡耀邦は中央政治局の常務委員に当選している。
方励之と陳破空の新天地
全国に広がった“八六学潮”に、共産党は戦慄した。リーダー格の学生たちについては、文革式の動乱を扇動したと判断。そして、学生たちを導いた方励之や劉賓雁などについて、鄧小平は名指しで批判し、彼らの処分を決めた。
1987年1月12日に国務院は中国科学技術大学の人事を発表。管惟炎・校長と方励之・副校長を解任し、中国科学院への転任を命じた。管惟炎は北京物理所、方励之は北京天文台に、それぞれ研究員として配属された。
1月17日には方励之の党籍剥奪が発表された。社会主義制度を否定し、中国の全面的な西洋化を宣伝し、資本主義の道を歩むよう主張したことなどが理由として挙げられた。劉賓雁も1月23日に党籍を剥奪された。1980年代の自由なムードを反映してか、処分は比較的寛大だった。
1985年に米カリフォルニア州に設立された中国民主教育基金会(CDEF)は、中国の民主化や人権保護に貢献した人物を毎年表彰している。1986年の第一回表彰では劉賓雁などが受賞。1987年の第二回表彰では、“八六学潮”を引き起こした方励之も賞を授かった。
北京市に移っても、方励之は学生のスターだった
(1987年9月23日)
北京に移ってからも、方励之の民主化運動は終わらなかった。北京大学の物理学部で副教授を務める李淑嫻は、方励之の妻であり、彼女の協力を得ることができた。1988年5月に物理学部の大学院生だった劉剛が、北京大学で“民主サロン”を主催。これに国際政治学部の王丹も加わった。“民主サロン”は表向きこそ王丹ら学生の活動だったが、方励之と李淑嫻が指南役を務めていた。
方励之も1988年の秋ごろから、北京市内の大学で開かれる政治研究会に積極的に参加するようになる。外国メディアの取材にも応じ、“四つの基本原則”を公然と批判。学生の人気を集めた。
1989年2月に方励之は「中国の希望と失望」を発表。王丹はこの文章を壁新聞に編集し、キャンパスに張った。
方励之と連携していた陳破空は、同済大学を卒業した後、1987年から広州市の中山大学で教鞭を執ることになった。1989年1月に中山大学で“民主サロン”を開き、新たな民主化や学生運動の道を模索した。
北京大学の芝生で民主主義を語る方励之
(1988年5月4日)
方励之(左一)と王丹(左二)
ブルジョワジー自由化の反対運動
胡耀邦が失脚し、趙紫陽が代理総書記に就任すると、ブルジョワジーの自由化に反対する政治運動が始まった。これに鄧小平も賛同。「ブルジョワジーの自由化は、社会主義制度を否定し、資本主義制度を主張することであり、その核心は共産党の指導を否定することである」と断じた。この政治運動のなかで、作家の巴金や高行健も批判を受けた。
改革派の趙紫陽は、この政治運動が無制限に拡大することを恐れた。“反自由化”を口実に、保守派が改革開放を否定する可能性があるからだ。そうした趙紫陽の懸念に、鄧小平も賛同。この政治運動は1987年の中ごろまでに終了した。
ソ連と東欧の動き
ソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長
ペレストロイカを提唱した
(1986年)
鄧小平は経済の改革開放を進めると同時に、社会主義体制が揺るがないことに腐心した。しかし、海外では社会主義国の崩壊が始まっていた。
ソビエト連邦では最高指導者のミハイル・ゴルバチョフ書記長が、1985年にペレストロイカ(再革命)を提唱。その一環として、グラスノスチ(情報公開)も始まった。ソ連は新思考外交を展開。東欧のハンガリーやポーランドでは、1980年代の後半から民主化に向けた機運が高まった。
こうした国際情勢は、社会主義体制を堅持しようとする中国にとって逆風だった。“八六学潮”に参加した知識人や学生は鳴りを潜めたものの、中国の民主化をテーマとした活動を続けていた。ソ連や東欧の情勢を追い風に、大規模な民主化運動が再燃する可能性は、しだいに高まった。
物価の高騰
1980年代後半の中国は、経済の過熱や通貨供給の増大を背景に、深刻な物価高騰(インフレ)に悩まされた。消費者物価指数(CPI)は1987年1月に前年同月比で5.1%上昇。これでもかなりのインフレだが、1988年1月にCPIの上昇率は9.4%に達した。
こうしたなか、市場価格の高騰を利用し、“官倒”で儲ける共産党の幹部や官僚の姿に、人々は不満を募らせた。
趙紫陽はインフレの原因が二重価格制にあると考え、物資の価格が市場メカニズムに帰結するよう促す方針を1988年5月に打ち出した。党内で議論を重ね、1988年8月までに価格改革の案が固まった。極少数の重点物資とサービスの価格だけを国家管理とし、そのほかの大多数の価格については、市場メカニズムに任せることになった。
河南省洛陽市で起きた冷蔵庫の買い占め騒動
(1988年)
宝飾品の購入に殺到した人々
湖北省武漢市の青山友誼商店
(1988年9月)
胡耀邦が残した最後の写真
自宅で撮影(1989年3月24日)
だが、この価格改革の案が外部に漏洩。すると、“大多数の物資が市場価格になることで、さらに値上がりが進む”と、大勢の人々が不安に駆られた。それを背景に、全国で預貯金の引き落としと物資の買い占めが発生。これでインフレはさらにエスカレートし、1988年8月のCPI上昇率は20%を突破し、23.6%を記録した。
こうした騒ぎを受け、趙紫陽は価格改革の延期を決定。しかし、物価はさらに上昇し、1989年2月にはCPIの上昇率が28.4%に達した。急激なインフレは、人々の生活不安に直結。政府への不満が強まった。
胡耀邦の死
インフレで社会の混乱が続く1989年の春節(旧正月)、胡耀邦に故郷の湖南省で休暇していた。その際に風邪をひき、心臓発作を併発。気候が温暖な広西チワン族自治区で療養することになった。
全国人民代表大会(全人代)に出席するため、3月には北京に戻ったが、ひどく憔悴していた。4月8日午前に中央政治局の拡大会議が開かれたが、これに出席していた胡耀邦は、会議中に心臓発作を再発。すぐに医師が呼ばれた。
この会議に出席していた上海市書記の江沢民は、狭心症に効果のあるニトログリセリンの錠剤を取り出し、胡耀邦に服用するよう勧めた。なお、胡耀邦がこれを服用したかについては諸説あり、真相は明らかではない。
現場に到着した医師は、心筋梗塞と判断。この日の午後に、胡耀邦は北京医院に移送された。症状は安定したが、危険な状態が続いた。こうしたなか、4月15日に再び発作を起こし、胡耀邦は帰らぬ人となった。
天安門広場へ
1989年4月19日の人民英雄紀念碑
胡耀邦の死を悼み、大勢の学生が献花した
この胡耀邦の死を受け、大学生ら若者を中心に、追悼活動が始まった。“八六学潮”で高まった胡耀邦の人気は健在だった。各地の大学には胡耀邦を讃えるポスターが張られ、天安門広場の人民英雄紀念碑にも、学生が集まるようになった。天安門広場に向かう学生は日ごとに膨れ、4月15日からの数日間で数千人規模に達した。
天安門広場に集まった学生は、最初こそ胡耀邦の追悼集会を開催していたものの、群衆の規模が膨らむにつれ、そのテーマは社会問題や民主化要求に拡大。そして、政府への抗議活動へと転化した。
新華門事件
新華門の警備兵と座り込む学生
(1989年4月19日夜)
4月18日の午前になると、天安門広場から数千人の学生が、共産党幹部が住む中南海に向かった。中南海の入り口である新華門に集まった学生は、共産党幹部との対話を要求。警察が行く手を阻むと、学生は抗議の座り込みを始めた。
新華門には続々と学生が集まり、その規模は2,000~3,000人に上った。その様子を見物する群衆は、6,000~7,000人に達したと言われる。座り込みを続ける学生は、「李鵬、出てこい!」と連呼。しびれを切らした学生は、警備ラインの突破を試みたが、いずれも失敗に終わった。
しかし、これを機に警察に学生が虐待されたという情報が広がり、事態は一段と緊迫化。さらに多くの学生や若者が、抗議活動に加わった。
胡耀邦の国葬
胡耀邦の国葬に参列した鄧小平(中央)
左は趙紫陽、右は李鵬
前総書記の胡耀邦が死去したことにともない、共産党中央委員会は国葬を決定。1989年4月22日に天安門広場の人民大会堂で葬儀が開かれることになった。これを受け、北京市政府は天安門広場の封鎖を命令。しかし、これを無視して十数万人に上る学生が天安門広場に集まった。
人民大会堂では国家主席の楊尚昆が国葬を取り仕切り、総書記の趙紫陽が追悼文を読み上げた。最高実力者の鄧小平ら共産党の重鎮も参列。式典は40分ほどで終了した。
国葬の様子は、人民大会堂の周辺にいる学生に配慮し、外部に向けて放送された。だが、40分で終了したことに憤慨した学生が、人民大会堂への突入を図る事態に発展。抗議活動は、さらにエスカレートした。
学生の組織化
北京大学の“民主サロン”を主催した劉剛は、天安門広場に集まった学生から、リーダーとなるべき人物を物色していた。胡耀邦の国葬が執り行われた4月22日、劉剛は中国政法大学の周勇軍や北京師範大学のウアルカイシ(吾爾開希)などと接触。各大学の学生組織を連携することを提唱した。
こうして劉剛は4月23日夜に、北京市内の大学21校からの代表を集め、“北京市高校臨時委員会”を結成。その主席には周勇軍が選ばれた。劉剛は裏役を務め、方励之や許良英などとの連絡役として活動した。なお、“高校”は“高等学校”の略称であり、中国語では“大学”を意味する。こうして誕生した学生組織は、授業のボイコットなどを学生に呼びかけた。
北高聯の学生指導者
柴玲(左)、ウアルカイシ(中央)、王丹(右)
壁新聞で埋め尽くされた大学の校舎
北高連は授業のボイコットを呼びかけた
北朝鮮を訪問した趙紫陽(右)
中央の人物は北朝鮮の金日成・総書記
なお、北京市高校臨時委員会は4月28日に中国政法大学で会合を開き、周勇軍を解任。ウアルカイシが主席に就任し、組織名を“北京高校自治聯合会”(北高聯)に変更した。天安門広場での抗議活動は、この北高聯が組織することになった。
学生組織の立ち上げは、共産党による教育管理への挑戦であり、そうした動きは上海市の大学などにも波及した。不穏な動きは全国各地で見られ、湖南省湘潭市や武漢市でも、学生による抗議活動が発生。陝西省西安市では4月22日の夕方に、暴徒による放火や略奪が起きた。湖南省長沙市でも略奪が発生。西安市と長沙市での逮捕者は、合わせて350人を超えた。各地の地方政府と学生の間でも、緊張が高まっていた。
趙紫陽の外遊と強硬派の台頭
趙紫陽は4月23日に北朝鮮を公式訪問。天安門広場の状況は緊迫していたが、動揺を見せないことを狙い、予定通りに外遊した。その間の総書記の職務は、総理の李鵬が代行。その李鵬は4月24日に北京市の幹部と会見し、天安門広場の状況について聞き取りを行った。そして、一連の抗議活動が、中国の現行政治制度を転覆しようとする謀略であると判断した。
趙紫陽が不在の間に中央政治局常務委員会は、抗議活動を続ける学生に断固たる行動をとるべきという結論に至った。4月25日に国家主席の楊尚昆と総理の李鵬は、鄧小平と会見。鄧小平も強硬な姿勢で臨むことに同意し、メディアを通じて学生に“警告”するよう指示した。
学生が訴える腐敗の撲滅や“官倒”の防止は、鄧小平も受け容れることができる。そもそも、1986年に鄧小平が提唱した政治体制改革は、それが狙いだった。しかし、現行政治体制の転覆につながる民主化は、“四つの基本原則”と相容れぬものであり、とても容認できるものではなかった。
四・二六社説に抗議するデモ行進
横断幕は“旗印鮮明に四・二六社説に反対する”
共産党の機関紙「人民日報」は4月26日の紙面に、「旗印鮮明に動乱に反対せよ」という社説(四・二六社説)を掲載。一連の追悼活動や抗議活動について、“一握りの謀略家が学生を扇動し、共産党や中国の現行政治制度の転覆を図っている”と批判した。この“一握りの謀略家”とは、おそらく方励之を中心としたグループを意味しているのだろう。
この四・二六社説に、学生は激怒した。一連の訴えが、愛国心によるものと自負しているからだ。そこで、北高聯の呼びかけで、4月27日に数万人の学生が集結し、天安門広場に向けてデモ行進した。一方、共産党は北京市や上海市で集会を開き、学生運動を動乱と位置づけ、対決姿勢を強めた。
こうしたなか、歩み寄りの動きもあった。4月29日に国務院の袁木・報道官が、一部の学生と対話に応じた。幅広く意見交換を行い、袁木・報道官は国内安定の必要性を訴えた。一方、対話に応じなかった北高聯のウアルカイシなどは、政府が問題を正面から受け止めなかったと不満を表し、強硬姿勢を崩さなかった。
穏健派の巻き返し
趙紫陽が4月30日に帰国すると、学生の抗議活動をめぐる党内の議論は激しさを増した。趙紫陽を筆頭とする穏健派は、学生との対話を主張。李鵬を中心とする強硬派は、強硬的な姿勢で臨むべきと反論した。
5月1日の中央政治局常務会議でも趙紫陽と李鵬は衝突。国家の安定と発展を最優先事項にすべきという李鵬に対し、趙紫陽は強硬姿勢に効果がないことはすでに証明されていると反論。この対立は総書記の趙紫陽が押し切り、抗議活動の積極報道をメディアに許すと同時に、学生との対話に乗り出した。
“五四宣言”を読み上げた周勇軍
独断で授業ボイコットの終了を宣言
これがきっかけで、北高聯は彼の排除を決定
学生グループも分裂が深刻だった
(1989年5月4日)
5月3日と5月4日に趙紫陽は学生の行動に一定の理解を示す談話を行った。腐敗問題に声を上げるのは当然であり、目下の学生運動は愛国心の表れであると発言。学生を激怒させた四・二六社説を事実上否定した。
趙紫陽の発言は学生を満足させ、多くの大学が授業ボイコットの終了を発表。事態の長期化に疲れていた多くの学生が、続々と天安門広場から退いた。
ハンガーストライキの決行
共産党は穏健派と強硬派が対立していたが、学生たちも意見が割れ、不和が生じていた。北高聯のリーダーは強硬姿勢を崩さず、政府との対話を拒否。あくまでも四・二六社説の正式な撤回を望んだ。その一方で、天安門広場の学生が減少していることに、焦りを感じ始めた。
ハンガーストライキを宣言した学生たち
背中には“絶食誓言”の看板
そうした状況下で王丹やウアルカイシは、過激な手段で学生を呼び戻そうと考えた。似たような考えを持つ人間の集団では、合意形成の過程で極端な意見ほど注目を集め、危険度の高いアイデアが賛同を得やすくなる。こうした現象を“リスキーシフト”と呼ぶが、北高聯でもこれが起きていたようだ。
こうして北高聯は5月11日にハンガーストライキ(絶食をともなう座り込みの抗議)を決定。折しも、ソ連のゴルバチョフ書記長が5月15日から訪中する予定であり、天安門広場で歓迎式典が開かれると予想されることから、ハンガーストライキに焦った政府が、学生の要求を呑むと見込んでいた。
このハンガーストライキは世論の同情を引き、学生の活動は息を吹き返した。全国各地の大学で抗議活動や授業ボイコットが再開し、5月13日には北京市でも天安門広場の群衆が約30万人に達した。
ゴルバチョフ訪中
世界のメディアは、ゴルバチョフ訪中と天安門広場に注目した。1950年代後半からの中ソ対立を背景に、ソ連のトップが訪中するのは30年ぶり。学生が天安門広場を占拠するなか、中国政府の対応に国際社会の感心が集まった。
鄧小平は天安門広場から学生が立ち退くことを望んだ。趙紫陽は穏健な方法で目的を果たそうと、部下に学生との対話を命じた。だが、5月14日に開かれた対話の席は混乱に陥り、途中で中断。最終的に学生はゴルバチョフの訪中時も、天安門広場に居座り続けた。
ゴルバチョフ書記長(右)と会談する鄧小平(左)
中ソ関係は正常化へ
5月15日のゴルバチョフ書記長の歓迎式典は、天安門広場ではなく、北京首都空港で挙行された。ゴルバチョフ訪中は中ソ関係の正常化を象徴する出来事だったが、天安門広場は学生に占拠され、盛大な歓迎式典を挙行できず、中国側は面目を失った。こうした結果を受け、当初は穏健派だった党幹部も、強硬派の意見に同調し始めた。
事態の悪化と最後の対話
ゴルバチョフ書記長が中国に滞在している5月17日、北京市の各地で大規模なデモ行進が実施された。ハンガーストライキに共鳴し、各地の学生が北京に集まり、抗議活動は勢いを増した。デモ行進の中には、軍人、警察、共産党員、公務員の姿も見えるようになったという。
抗議活動は全国に飛び火し、各地の都市でも発生。だが、共産党の内部で穏健派と強硬派が対立し、抗議活動の位置づけが不鮮明だったことから、各地の地方政府は対応に苦慮した。
こうした事態を受け、李鵬は5月18日に王丹やウアルカイシなど11人の学生代表と人民大会堂で会見。李鵬が対話に応じたのは、ハンガーストライキを止めさせるのが目的だった。ウアルカイシは絶食中で、酸素補給を受けながら、会見に出席した。その様子はテレビで放送された。
絶食中のウアルカイシ(右)との対話に応じた総理の李鵬
(1989年5月18日)
李鵬は社会の安定の必要性を訴え、学生のリーダーが抗議活動を制御できなくなっていると忠告。政府が最も関心を寄せているのは、絶食中の学生の健康状態であると強調した。
一方、学生たちは四・二六社説の撤回を要求。これに対して李鵬は、学生たちの行動が愛国心や良心に基づくことに、一定の理解を示したが、一部の人間がこの状況を利用し、動乱を引き起こそうとしていると主張した。これに学生が反発し、対話は物別れに終わった。
最後の訴えを行う趙紫陽
後ろの詰襟服を着た人物は温家宝
(1989年5月19日)
趙紫陽も最悪の事態を回避しようと動いた。5月19日の早朝4時50分、趙紫陽は中央弁公庁の主任だった温家宝を引き連れ、天安門広場に向かった。拡声器を手にした趙紫陽は、ハンガーストライキを続ける学生に向け、絶食を止めるように声をあげた。
中国が“四つの現代化”を実現するその日まで、健康に生き続けようと、趙紫陽は学生に呼びかけた。そして、国家を思う学生の心情に理解を示したうえで、冷静になるよう求め、絶食や天安門広場の占拠を止めるべきと訴えた。
これに心を動かされた学生は、次々に趙紫陽に駆け寄り、記念のサインを求めた。しかし、趙紫陽が人々の前に姿を現したのは、これが最後だった。
戒厳令の布告
趙紫陽が学生に最後の訴えを行う前々日、中央政治局常務会議が鄧小平の住まいで開かれた。それは抗議活動が急速に拡大した5月17日のことだった。
この会議で鄧小平や李鵬は、趙紫陽の譲歩姿勢が、事態をエスカレートさせたと批判した。学生が政府を恐れなくなり、抗議活動が拡大の一途であることを指摘。早急に事態を収拾せねば、新たな内戦や文革に陥る可能性があるとして、危機感を露わにした。
鄧小平は中国の分裂と混乱、建国後の政治動乱を肌で知る人物だ。ようやく文革が終わり、経済も軌道に乗り始めているのに、ここで再び国内が混乱に陥るのは、まったく容認できないことだったと思われる。
鄧小平は抗議活動の継続を容認しない姿勢を打ち出すため、戒厳令を敷くことを提案。保守派の多くが、この意見に賛同した。
趙紫陽は戒厳令に抵抗し、辞職の意向を示しそうとした。しかし、いまは辞表を出す時ではないという楊尚昆の忠告を聞き入れ、3日間の病気休暇を申請。こうして趙紫陽が不在の間に、戒厳令の準備が着々と進むことになった。
5月20日に李鵬は同日午前10時から北京市の一部地域に戒厳令を敷くと発表。各地の部隊が北京市に向け動き出した。
北京市内に到着した軍用車を包囲する学生たち 待機中の兵士と天安門広場の学生
終焉の足音
天安門広場の民主の女神像 天安門広場の学生は内部分裂が激しくなり、5月下旬ごろになると組織的統制を失った。こうした混乱のなか、天安門広場の衛生状況も悪化。新たなリーダーを選ぼうとする動きもあったが、大勢の反対に遭い、頓挫した。
だが、学生たちがまとまる動きもあった。民主化運動の象徴として、芸術系大学の学生20人あまりが、“民主の女神像”を作成。毛沢東の肖像画に対峙するかたちで、5月30日に天安門広場に飾られた。
こうしたなか、軍事行動の可能性を察知した一部の学生は、天安門広場からの撤退を主張した。しかし、強硬派の学生は、これに反対。学生の派閥争いは、深刻だった。派閥同士の意見対立や長期間の座り込みで、多くの学生は精神的にも、肉体的にも疲れ切っていた。
だが、リーダー格の学生や反体制派知識人は、この民主化運動が下火となるのを恐れ、疲れ切った若者を励まし続けた。6月2日に知識人の劉暁波、周舵、高新は、台湾の歌手である侯徳健と一緒に、72時間のハンガーストライキを決行すると宣言。香港の主要新聞は、彼ら4人を“四君子”と讃えた。
絶食を宣言した“四君子”
右から侯徳健、劉暁波、周舵、高新
(1989年6月2日)
“四君子”の絶食宣言に高揚する天安門広場
(1989年6月2日)
北京市内で訓練する戒厳部隊
軍事行動が迫っているのは、誰の目にも明らかだった
(1989年6月2日)
トロリーバスを使って戒厳部隊を阻もうとする人々
(1989年6月3日)
天安門広場の周辺では、警察や軍隊の動きが活発化した。6月3日19時(北京時間)に中国中央電視(CCTV)のニュース番組「新聞聯播」が始まると、アナウンサーは次のようなニュース原稿を読み上げた。
“中国人民解放軍・戒厳部隊の指揮部は、緊急通告を発しました。戒厳部隊、公安公務員、武装警察部隊に、あらゆる手段を通じて問題を強行処理する権限が与えられました。すべての結果の責任は、活動の組織者と首謀者にあります。”。
こうして天安門広場に近づかぬよう市民に警告がなされた。それは1カ月半にわたる学生たちの活動に、終わりを告げる声だった。