香港は特殊な地域だ。主権は中国にあるが、法制度や社会の在り方は、中国本土とまったく異なる。この特殊な地域の証券市場の成り立ちを語るうえで、避けて通れないのが通貨の話だ。香港の通貨は、人民元ではなく、香港ドル。これは特殊な仕組みのうえに成り立つ通貨であり、その特性は香港の実体経済だけではなく、金融市場にも大きな影響を及ぼす。香港の証券市場に足を踏み入れるには、まず香港ドルについて知らねばならない。
通貨を理解する重要性
日本人の外国株投資は、必ず外貨投資をともなう。その国の株式を購入しようとすれば、その国の通貨を買う必要があるからだ。つまり、外国株投資は外貨投資と株式投資の二本立てということになる。
株価が上昇したとしても、通貨がそれ以上に下落すれば、その外国株投資は損失が発生する。「株価は上がったが、為替で損した」といった投資家の嘆きは、よく聞く話だ。もちろん、「株価は下がったが、為替で儲かった」という話もある。
株価と通貨がそろって上昇すれば、その利益は予想以上。どちらも下落すれば、手痛い損失を出すことになる。外国株投資にチャレンジする投資家は、まずは通貨を理解しなければならない。
独自の通貨がなかった香港
1840年のアヘン戦争に敗れた清王朝は、1842年に締結した南京条約で香港島を英国に割譲。こうして英領香港の歴史が始まった。
英領香港が発足すると、アジア各地からアヘン商社が集まり、商業活動が活発化した。英系のジャーディン・マセソン商会やデント商会のほか、米系のラッセル商会が、拠点を広東省広州から香港に移した。英領インドからは、ユダヤ系のサッスーン商会が香港に進出した。
開港当初の香港は、通貨事情が非常に複雑だった。流通していた通貨には、“銀元”という清王朝の銀貨のほか、“洋銀”があった。このほか、少額取引では銅銭も使われた。
サッスーン商会の創業者であるデビッド・サッスーン(右二)
バグダート出身のセファルディム(東方系ユダヤ人)だった
ウィリアム・ジャーディンの肖像画
東インド会社の船医だった人物で、ジェムス・マセソン氏と共同でジャーディン・マセソン商会を設立した
東アジアは“圓”通貨圏
清王朝の銀元は、正式には“銀圓”と表記する。日本円の“円”は、“圓”を簡略化したものであり、本来は同じ漢字だ。“銀圓”を“銀元”と表記するのは、“圓”と“元”の中国語の発音が同じであり、画数が少なくて済むからだ。現在の人民元紙幣も、通貨単位の表記は“元”ではなく、“圓”となっている。
光緒三十年(1904年)の銀元(大清銀幣)
昭和21年(1946年)の百円札
“円”ではなく、“圓”と表記
なお、韓国語の通貨単位の“ウォン”は、“圓”の韓国語発音。つまり、東アジアの日本、中国、韓国は、“圓”という通貨単位を共有している。米ドルやカナダドルのように、本来は日本圓、中国圓、香港圓、韓国圓という違いとも言えるだろう。
人民元の100元紙幣
“元”ではく、“圓”と表記
1953年まで発行の旧ウォン紙幣は“圓”と表記
1953~1962年に圜(ファン)という通貨単位が導入されたものの、再びウォンに戻ったが、漢字表記は消えた
渣打銀行の旧500香港ドル紙幣も“圓”と表記 台湾ドルの表記も“圓”
西洋の銀貨
中国で“双柱”と呼ばれたスペイン・ドル
ジブラルタル海峡の“ヘラクレスの柱”を刻印
中国で“鷹洋”と呼ばれたメキシコ・ドル
東インド会社のルピー銀貨
洋銀とは“鷹洋”と呼ばれたメキシコ・ドル(メキシコ銀)や“双柱”という愛称のスペイン・ドル(ピラー・ドル)のほか、英国東インド会社が発行したルピー銀貨などを指す。これらの洋銀が香港で流通する際は、中国の通貨単位(両、銭、分、厘)を適用していた。
今日の硬貨は額面が刻印され、枚数を数えることにより、交換価値を計算する。紙幣もそうだ。これを計数貨幣という。当たり前の話のようだが、昔は違っていた。
この当時は秤量貨幣(しょうりょうかへい)という考え方が強く、硬貨の“重さ”によって交換価値を計算していた。重さの帳尻合わせのため、銀元や洋銀などを切断し、切銀(きりぎん)という形で使うことも多かった。日本でも江戸時代までは秤量貨幣の考え方であり、ナマコ型の丁銀から切銀を作っていた。
清王朝の制度を踏襲
清王朝の銀錠(馬蹄銀) 銀元や洋銀が流通する通貨事情からも分かるように、この当時の香港は銀本位制であり、これは清王朝と同じ制度だった。
初代香港総督のヘンリー・ポッティンジャーは、まだ香港行政官だった1842年3月29日に、香港の暫定的な通貨流通法を発表した。スペイン・ドル、メキシコ・ドル、ルピー銀貨、英国のスターリング・ポンド銀貨などの洋銀のほか、清王朝の銀錠(馬蹄銀)や銀元の流通を承認。同時にこれらの交換レートも定め、1銀元を2.25ルピーとした。
初代香港総督のポッティンジャー卿 ポッティンジャーの通貨政策は、既存の銀本位制の追認だった。香港は英国の統治下に入ったものの、清王朝の通貨制度から離脱することはできなかった。香港にとって、広東省広州との貿易が最も密接だったからだ。
法定通貨の誕生
開港当初の複雑な通貨事情は、金融マーケットの混乱を起こした。偽造銀貨があふれたうえ、交換レートが複雑だったからだ。そこで香港政府は1845年5月1日に既存の流通制度を再度承認したうえで、金本位制の英ポンドを法定通貨に定めた。
法定通貨が定まったことで、香港政府の財政収支は、すべて金本位制の英ポンドで記帳されることになった。しかし、民間では銀貨と銅銭の流通が続いた。香港政府も地租を徴収する際は、英ポンドよりも、銀貨を好んだという。香港は英領となったものの、英ポンドは流通しなかった。
香港ドルの誕生
第五代香港総督のロビンソン男爵 第五代香港総督のハーキュリーズ・ロビンソンは、1862年に政府予算案の記帳単位を港元(香港ドル)にするよう指示。初めて香港ドルという言葉が、香港政府の公文書に現れた。翌年には香港で流通させる硬貨の鋳造に乗り出した。
香港ドルの補助単位はセント。100セントが、1香港ドルということになる。これに基づき、1863年にロンドンの造幣所で、「香港」という漢字が刻印された銀貨と銅貨が鋳造された。10セント銀貨、1セント銅貨、0.1セント銅貨だ。このうち0.1セント銅貨は“1ミル”と呼ばれ、中国の銅銭に似せ、中央に穴が開けられた。
中国語での単位も定められた。1香港ドルは“元”、10セントは“毫”、1セントは“仙”、0.1セント(1ミル)は“文”と呼ばれた。なお、現在では1香港ドルを広東語で“文”あるいは“蚊”と表記する。
香港造幣所の挑戦と挫折
1864年に香港政府は香港に造幣所を創設すると決定。投資額は40万香港ドルで、年間経費は7万香港ドルを見込んでいた。
香港で1967年に発行された1香港ドル銀貨 造幣所は1866年5月7日に開業。鋳造するのはすべて銀貨で、1香港ドル、50セント、10セント、5セントの4種類だった。1香港ドルの正面にはビクトリア女王のレリーフ、裏面には“香港壹元”の漢字が刻印された。
香港で1966年に発行された0.1セント銅貨
1868年に破産した香港造幣所
広範囲に流通した香港銀元(貿易銀)
有利銀行の50香港ドル紙幣
“圓”を略した“員”という漢字表記
これらの銀貨と銀元や洋銀との交換することにより、香港政府は硬貨の統一を図る考えだった。しかし、市民は交換を拒んだ。その結果、造幣所は1968年5月に破産。210万8054枚の銀貨を発行しただけで力尽きた。
香港造幣所の試みは、大失敗だった。造幣所の土地はジャーディン・マセソン商会に売り払い、設備は日本人に売却。回収できた資金は、たったの12万5000香港ドルだった。
造幣所の破産を受け、香港はしだいに硬貨が不足した。この問題を解決するため、1872年に香港政府は香港上海匯豊銀行(HSBC)に1香港ドル紙幣の発行権を付与。HSBCによる1香港ドル紙幣の発行は1935年まで続いた。
その一方で英国政府は対中貿易に使う銀貨の鋳造をインドの造幣所に指示。こうしてできた銀貨は、しだいに洋銀に取って代わるようになり、“香港銀元”と呼ばれるようになる。香港銀元は中国本土のほか、マレーシアやシンガポールでも流通するようになった。
外貨の駆逐と乗車拒否運動
銀元や洋銀といった“外貨”が香港から駆逐されるのは、1913年になってから。中国本土で中華民国が成立した翌年だった。
香港政府は外貨の流通を禁じる法律を制定。路面電車の香港トラムでは、中華民国の銀元で乗車することができなくなった。この情報が伝わると、市民は騒然となった。成立したばかりの中華民国の硬貨が、香港政府によって拒絶された捉え、これを中国人に対する蔑視と受けとめたからだ。
これを機に1カ月あまりにわたり、香港トラムの乗車拒否運動が広がった。この騒ぎを受けて香港政府は、法律の適用を1914年3月に延期せざると得なくなった。だが、これにより事態は沈静化し、香港の硬貨は徐々に統一された。
植民地銀行の香港進出
これまで硬貨の話をしてきたが、それに並行して紙幣の問題もあった。香港の紙幣発行を担当したのは、民間の銀行だった。
英領香港が成立した当初、銀行の役割を演じたのは、アヘン商社だった。外貨両替や手形割引が主な業務だった。しかし、競争相手の商社に外貨の両替などを依頼するのは、気持ちの良い話ではない。アヘン商社は独立した銀行を求めた。
最初に香港で開業した銀行は、東藩匯理銀行(オリエンタル・バンク)だった。1842年にインドのムンバイで設立された植民地銀行であり、アヘン貿易決済業務を営んでいた。1845年に本店をロンドンに移し、香港に支店を開設した。
オリエンタル・バンクは香港で最初の銀行になると同時に、中国に進出した外国銀行の第一号となった。その後、上海、広州、福州などの沿海都市に支店を開設。名称は統一されず、香港では“金宝銀行”、福州では“東藩匯兌銀行”、上海では“麗如銀行”と呼ばれた。日本にも進出し、横浜に支店を設け、日本国債を積極的に引き受けていた。
民間銀行の紙幣発行
オリエンタル・バンクは香港での開業当初から紙幣を発行した。総発行額は5万6000ドル。国王から紙幣発行の勅許状を取得したのは6年後の1851年になってからだったが、1857年には香港政府に支払うことができる合法紙幣としての地位を得た。オリエンタル・バンクの紙幣発行は1884年に経営破綻するまで続いた。
紙幣を発行したのは、オリエンタル・バンクだけではなかった。1857年に香港に進出した有利銀行も、紙幣を発行した。この銀行はインドのムンバイ発祥。正式名称は長く、印度倫敦中国三処匯理銀行(チャータード・マーカンタイル・バンク・オブ・インディア・ロンドン・アンド・チャイナ)という。
香港で1966年に発行された0.1セント銅貨 有利銀行の100香港ドル紙幣(1974年発行) 有利銀行は1959年にHSBCに買収されたが、1984年にシティバンクに転売された。最終的に1987年に三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)に買収され、姿を消した。
有利銀行は紙幣の発行停止と再開を繰り返した。有限責任会社となった1892年に、紙幣発行の勅許を一度放棄。1912年に発行権を再取得すると、1974年まで香港ドルの発券銀行であり続けた。
1859年に香港に進出した印度新金山中国匯理銀行(チャータード・バンク・オブ・インディアン・オーストラリア・アンド・チャイナ)も、紙幣を発行した。この銀行はロンドン発祥。1956年に中国語社名を渣打銀行に変更。1969年に標準銀行(スタンダード・バンク)と合併し、スタンダード・チャータード銀行となった。今日でも香港ドルの発券銀行の一角を担っている。
このほか、1862年に進出した呵加喇匯理銀行(アーグラ・アンド・ユナイテッド・サービス・バンク)、1863年に進出した印度東方商業銀行(コマーシャル・バンク・コーポレーション・オブ・インディア・アンド・ザ・イースト)も紙幣を発行したが、欧州が経済危機に見舞われた1866年に、いずれも倒産した。
英系銀行だけではなく、華人系銀行も紙幣を発行した。中華匯理銀行は1891年に広東省広州の華人資本によって設立。開業から紙幣発行を手がけ、1911年に倒産するまで続いた。
このように紙幣を発行する民間銀行は、参入と倒産が相次いだ。紙幣発行の安定は、HSBCの誕生を待たねばならなかった。
紙幣の発行とは
ドイツで起きたハイパーインフレ
乱発によって紙幣の価値が失われた
紙幣の乱発、すなわち過剰な通貨供給は、急激に物価が高騰するハイパーインフレーション(ハイパーインフレ)をまねく。第一次世界大戦後のドイツなどがそうだった。山積みの紙幣を使わないと、パン一つ買えないというような事態だ。
紙幣があふれることで、その価値が失われ、売り手は価格を引き上げざるを得なくなる。それを補おうと、さらに紙幣が乱発され、それが一層の物価高騰をまねくという悪循環だ。
香港では開港当初から民間銀行が紙幣発行を担った。中央銀行による紙幣発行は、今日まで行われていない。現在では10香港ドル紙幣のみ香港政府が発行するが、それ以上の額面の紙幣は3つの発券銀行が発行している。
では、民間銀行はどのようにして、紙幣を発行するのだろう?紙幣の額面と製造単価の差額をシニョリッジ(通貨発行益)というが、それ欲しさに民間銀行が乱発し、ハイパーインフレが発生するようなことはないのだろうか?。
香港では戦時中に3年8カ月にわたって日本に占領されたが、その時期を除いて紙幣が乱発されたことはない。なぜなのか?その疑問の答えは、紙幣発行の仕組みにある。
ゴールド・スミスの寓話
17世紀のゴールド・スミスを描いた絵画 紙幣という紙切れに、なぜ価値があるのか?この素朴な疑問と紙幣の起源を説明する恰好の寓話として、ゴールド・スミス(金細工職人)の話がある。色々なバージョンがあるが、以下のような話だ。
17世紀のロンドンに、安全で頑丈な金庫を所有するゴールド・スミスがいました。こんな金庫を所有しているのは、彼の商売柄、たくさんの黄金を持っているからです。これに目をつけた人々がいました。ドロボウではなく、大商人たちです。
外国との貿易は、黄金で決済します。商品を売って儲けた大商人は黄金を貯め込みましたが、自宅には置いておけません。防犯設備がないからです。そこでゴールド・スミスの金庫に目をつけ、預かってもらうことにしたのです。
ゴールド・スミスは黄金を預かると、預かり証(金匠手形)を商人にたちに渡しました。この預かり証を持って来れば、約束通りに黄金を返すという取り決めを交わしました。
その後、商人同士の売買では、この預かり証が支払いに使われるようになりました。危険を冒して重い黄金を運ばなくても、預かり証を渡して「ゴールド・スミスの金庫で受け取ってください」と言うだけで済むからです。その方が楽だし、安全でした。
つまり、この預かり証は紙切れだけど、黄金と同じ価値があるというわけです。なぜなら、黄金と交換が可能だからです。
預かり証は便利な支払い手段として広まりました。預かり証を受け取った商人は、ゴールド・スミスに黄金との交換を求めることが可能です。しかし、実際には黄金と交換することなく、預かり証のまま保管することが多くなりました。自分が支払う時に使うためです。こうしてゴールド・スミスの預かり証は、支払い手段としてますます広まりました。
こうしたなか、ゴールド・スミスは金庫の不思議な現象を発見しました。預かった黄金が、ほとんど減らないという現象です。調べてみると、預かり証の持ち主がコロコロと変わるだけで、実際に黄金を取りに来る人はわずかだと分かりました。
1688年に金細工職人のフランシス・チャイルドが書いた預かり証 そこでゴールド・スミスは悪知恵を働かせます。「だったら、黄金を預かっていなくても、預かり証だけを発行すれば、いろいろな物を買えるぞ!」。そこで預かった黄金の量を超える預かり証を発行し、ゴールド・スミスは急に羽振りが良くなりました。
しかし、そんな幸せな日は長く続きませんでした。なぜか急に多くの商人が預かり証を持って来て、黄金との交換を求めてきたからです。ゴールド・スミスは調子に乗って預かり証を乱発していたため、黄金はすぐに底を突きました。
困ったゴールド・スミスは、黄金との交換を拒否するしかありません。すると、黄金と交換できない預かり証はただの紙切れとなり、ゴールド・スミスは詐欺師として破滅しました。おわり。
兌換紙幣と正貨準備
このゴールド・スミスの預かり証は、紙幣の原点といえるだろう。黄金との交換という裏付けによって、紙切れの預り証に価値が生まれた。
実際、いまから一昔前の紙幣も、黄金と交換することが可能だった。黄金という本来のお金(正貨)と交換できる紙幣は、“兌換紙幣”と呼ばれた。米ドルも1971年8月までは、黄金との交換が可能な兌換紙幣だった。
1971年8月15日のニクソン・ショック
ニクソン大統領は米ドルと金の兌換停止を発表した
兌換紙幣の発行は、交換に備えて黄金の蓄えが欠かせない。これを正貨準備という。兌換紙幣の発行額は、正貨準備をいくらか上回っても問題ないが、大きく超えてしまうと、先ほど紹介したゴールド・スミスのような破滅が訪れる。
正貨は時代とともに変化した。銀だった時代もあれば、黄金だった時期もある。開港したばかりの香港の正貨は銀だった。銀を正貨とする仕組みを銀本位制、黄金であれば金本位制という。
香港の紙幣発行制度
懸命な読者はもうお分かりだろうが、香港の銀行は正貨だった銀を準備することで、兌換紙幣の香港ドルを発行していた。この仕組みがあれば、紙幣の発行額が正貨準備額を大きく超えることはない。
19世紀の香港では、紙幣発行額の3分の2以上の正貨準備額が義務づけられていた。さらに紙幣発行額は、発券銀行の資本金以下という規定もあった。こうした仕組みのおかげで、紙幣の乱発は起きなかった。
なお、現在の主な紙幣は、兌換紙幣ではなく、不換紙幣だ。不換紙幣は正貨との交換が保障されていない紙幣を意味する。現在の米ドルや日本円も不換紙幣だ。しかし、香港ドルは現在でも兌換紙幣だ。ただし、正貨は黄金ではないが……。
こうして始まった香港のお金の仕組みは、今日にも受け継がれている。兌換紙幣の仕組みは、現在の香港ドルを理解するうえでも欠かせない知識。そして、この仕組みがどのように発展していったのかを次回以降も見ていくことにしよう。