上海総合指数が前日比105.27%高という驚異的な暴騰を記録した1992年5月21日以降、さらに多くの個人投資家が証券会社の押し寄せるようになった。証券会社の店頭は投資家であふれ、その売買注文の処理能力は限界に達した。こうしたキャパシティ(許容量)の問題を解決するため、上海証券取引所の尉文淵・総経理が再び動いた。
少なすぎた取引所会員
上海証券取引所の開業時、取引所会員は25社しかなかった。何とか掻き集めての25社だった。
“取引所会員”とは証券取引所に売買注文を出すことができる金融機関を意味する。取引所会員ではない者は、証券取引所に注文を出せない。このため個人投資家は手数料を支払うことで、取引所会員である証券会社などに注文を委託する。これを委託売買という。なお、取引所会員が自らの意思で行う売買は、自己売買と呼ばれる。
1990年11月に発表された上海証券取引所の創設承認文書には、“上海市内で証券業を営む金融機関のみを会員とする”と定められていた。上海証券取引所の発足当時、上海市内の証券会社はたったの4社。これに加え、証券業を営む信託投資公司が十数社あるだけだった。
これでは少なすぎると感じた尉さんは、“証券業”ではなく、“証券代理業”の金融機関も取引所会員に加えた。さらに外地の金融機関に上海市内の営業拠点を設けさせ、これも追加。これで上海証券取引所の開業までに、22社が取引所会員となった。
開業初日の夜、中央政府からの協力要請に基づき、外地の金融機関3社の上海支店が取引所会員に加わり、これで第一弾の25社が揃った。
しかし、株式取引の需要が増えると、25社では少なすぎることが明らかとなった。そこで、外地の金融機関は上海拠点の設立を申請したが、たいていは却下された。その当時、地域をまたぐ金融機関の業務展開が、原則的に認められていなかったからだ。
こうした状況を受け、尉さんらは中国人民銀行(中央銀行)上海支店と協議。その結果、外地の金融機関による上海拠点の設立について、管理規則が発表された。1992年5月のことだった。ただ、それでも上海拠点の設立承認のペースは、株式取引のニーズに追いつかなかった。
狭すぎた取引フロア
開業時の上海証券取引所は、外灘(バンド)の北側に位置する浦江飯店の孔雀大庁(ピーコック・ホール)に入居していた。そこには、取引所会員のトレーダーが控える取引ブースが46あり、一人につき一つの机と座席が設けられていた。
孔雀大庁の取引ブース しかし、株式売買が活性化すると、取引ブースの不足という問題に直面した。そこで、尉さんは一つの机と座席を2人で利用するよう指示。これで取引ブースの容量は倍増したが、それでも需要を満たすことができなかった。
外地の金融機関の上海拠点が取引所会員に加わるようになると、浦江飯店の2階に第2取引フロアが設けられ、面積は2倍以上に拡大。取引ブース1992年末までに564に増加した。
なお、取引フロアはその後も増設され、長期にわたって“イタチごっこ”が続いた。上海証券取引所は1997年12月に浦東新区の上海証券ビルに移転したが、それまでに取引フロアは8カ所となり、取引ブースは多い時で5000あまりに上った。
売買注文は肉体労働
投資家が押し寄せた証券会社の窓口
(1990年代初期)
取引所会員の数や取引ブースが、こうした有り様だったことから、取引所会員の店頭、つまり証券会社の窓口は大変な状況だった。1992年当時、株式取引の注文伝票は投資家が自ら記入し、証券会社の営業員に提出する仕組みだった。1992年5月に値幅制限が撤廃されると、この作業が非常に困難なものとなった。
例えば、投資家が指値(売買価格)を書き込み、頭をあげると、すでに株価は上昇し、その価格では買えなくなっている。そうなると、注文伝票に再び記入することになる。注文伝票を書き上げたとしても、次に待ち受けているのが、窓口にできた長い行列だ。
行列ができていれば、まだマシな方だった。売買注文は「価格優先、時間優先」の原則で成立していくのだが、その当時は“腕力優先”が横行した。満員の通勤電車のような押し合いへし合いを乗り越え、窓口にたどり着くには、それ相応の体力が必要だった。株式投資は“肉体労働”だった。
そもそも、注文伝票の入手ですら困難だった。どこの証券会社も業務処理能力が限界に近づいたことを受け、日々の注文伝票の枚数を制限していたからだ。当然ながら、注文伝票がなければ、注文はできず、株式売買は不可能。これにダフ屋が目をつけ、証券会社の店頭で注文伝票を販売した。注文伝票が1枚100元に高騰した時もあったという。
上海市の個人投資家は、注文伝票のヤミ売買に憤った。怒りの矛先は、証券会社にも向けられた。業務処理能力が限られていたことから、大口顧客を優先していたからだ。専用の取引ルームを設け、小口の顧客をぞんざいに扱った。つまり、“腕力優先”に加え、“大口注文優先”という不公正なルールが横行していた。
こうした状況を目撃した尉さんは、対策の必要性を痛感した。そこで目をつけたのが、上海市の中心部にある“文化広場”だった。
ドッグレース場だった文化広場
上海市黄浦区の文化広場 文化広場の地下劇場 逸園のドッグレース場 文化広場の大会場(1970年代) 文化大革命の上海市 文化広場は上海市の黄浦区、むかしの盧湾区に位置する。敷地面積は6.5万平米で、東京ドームの約1.4倍。いまは広々とした緑地と巨大な地下劇場となっている。地下劇場の座席は2010席で、最高深度は26メートルというスケールだ。
この巨大劇場が完成したのは2011年。それまでに文化広場は、さまざまな役割を果たしてきた。
1928年にフランス商人が英国商人から庭園を買い上げ、「逸園」と名づけた。これが文化広場の前身であり、「逸園」はドッグレース場としてにぎわった。その周辺にはレストラン、ホテル、バーなども設けられ、租界時代は上海屈指の娯楽施設だった。
ドッグレース場は多くのギャンブラーでにぎわい、フランス商人に巨額の利益をもたらした。しかし、太平洋戦争が勃発し、フランス租界に日本軍が侵攻すると、「逸園」も占領されてしまう。日本軍は「逸園」の収入の半分を寄こすよう要求したが、利益があがらないとして、フランス商人はドッグレース場の経営をあきらめた。
1949年5月に中国人民解放軍が上海市を占領すると、「逸園」はその広大な敷地と交通の利便性から、政治集会の開催場所として重宝された。
1952年4月に上海市の初代市長だった陳毅は、「逸園」の再開発を決定。1954年末までに大会場、舞台、展示場などの施設が完成した。
プロレタリア文化大革命(文革)の嵐が吹き荒れると、文化広場は紅衛兵たちが有識者や文化人を弾圧する場所と化した。こうしたなか、1969年12月に火災が発生し、大会場など主な施設を焼失。死者14人、負傷者は350人に上った。死者は国家財産を守るために犠牲となったとして、いずれも“革命烈士”の栄誉が贈られた。
1970年に周恩来首相は文化広場の再建を指示。大規模な大会場と舞台が完成した。文革がピークを過ぎると、大会場は政治集会の場から、文化的イベントの場へ変化。文革の最中も、日本の松山バレエ団が文化広場で公演し、混乱に疲れ果てた人々の心を癒した。文革が終結すると、小澤征爾が率いるボストン交響楽団が来訪し、人々を熱狂させた。
1980年代に入ると、こうしたイベントは文化広場から遠ざかった。空調がなかったうえ、音響効果にも問題があったからだ。利用回数の減少は上海市政府でも問題視されたが、解決方法は見当たらず、文化広場は人々から忘れ去られた。
大失敗のスタート
「うちの近所にある文化広場は空き家状態なのだが、そこに行ってみたらどうだい?」――。キャパシティ問題に悩んでいた尉さんに、証券通信会社の社長が声をかけた。
「そうですね、ちょっと見てみましょうか」と、尉さんは返事。文化広場の広さに問題がないことを確認すると、その日の午後に臨時の取引場所を設けると決定した。
上海証券取引所は証券会社に対し、文化広場に注文受付の臨時窓口を設けるよう呼びかけた。こうして、1992年6月1日から20社あまりの証券会社が文化広場に集まり、ここで集中的に投資家の注文に応じることになった。
文化広場に押し寄せた投資家 大混乱の臨時窓口 文化広場での業務初日は、大混乱となった。広場の入り口には前日の午後から行列ができ始め、開門前には4,000人を超えた。門を開くと、群衆が一斉になだれ込み、収拾のつかない状況に陥った。開門から30分で業務中止となり、大失敗に終わった。
この大失敗は株式相場にも影響を与えた。多額の現金を抱えた人々が集まれば、窃盗事件が多発すると考えた尉さんらは、文化広場での注文について、売り注文のみ受け付けると規定した。売り注文だけならば、現金を持ち込む必要がないからだ。
ところが、このルールを受けて投資家たちは、“株価の引き下げを狙った措置”と受けとめた。「早く売らねば、株価はどんどん値下がりする」と人々は信じ込み、幅広い銘柄が売られた。
文化広場の株式売買
「やっぱり諦めましょう」と、尉さんは部下に声をかけられたが、ここまで来て止めるわけにはいかない。6月9日に再チャレンジすることを決定した。事前に多くの警備員を雇い、宣伝活動を展開するなど、周到な準備をして仕切り直した。その結果、再チャレンジは成功した。
深圳証券の臨時窓口 文化広場には多い時で80社ほどの証券会社が臨時窓口を設け、多い日には延べ4万人が来場した。事故防止のために入場制限が設けられ、場内の人数は2,000人以内に制限された。入場するには、IDカードによる身元確認を受ける必要があった。
場内では5分ごとに相場の状況が放送された。臨時窓口で注文伝票を受け付けると、証券会社の担当者が電話で上海証券取引所に注文を出した。
文化広場の臨時窓口は安全上の理由から、売り注文のみを受け付けていた。しかし、2カ月ほど経つと、北京証券公司と中国建設銀行信託公司が銀行決済方式を導入し、買い注文も受け付けるようになった。注文方法も、電話からパソコンに切り替わった。
北京証券公司の臨時窓口は買い注文が可能になったことで人気に火が付き、文化広場で最も長い行列ができるようになった。
その当時はコンピューターの通信速度が遅く、一件の注文を入力してから執行されるまでに、10分ほどの時間を要した。その一方で注文受付のペースと株価の変動は速かった。その結果、臨時窓口には成立不可能な指値が書かれた注文伝票の山ができ、こうした注文は執行されないという状況だった。
文化広場は大口投資家
文化広場での株式売買が始まってからしばらくして、上海市の徐匡迪・副市長(当時)が、尉さんに声をかけた。
上海証取創立5周年を祝う徐匡迪(一番右) 「尉さん、知っていますか?人々が文化広場のことを“大口投資家”と呼んでいることを」
「知りません。なぜですか?」と、尉さんは返事した。
徐副市長は笑いながら、「文化広場の群衆が“いまが買いだ!”と騒ぎだすと、みんなが一斉に買いに走り、株価が上昇する。“いまが売りだ!”となると、今度は下落するからだよ」と説明した。
文化広場では多くの人々が自分の相場見通しを披露したり、議論したり、儲け話に耳を澄ませたりしていた。そうしたなかで、群衆の心理が極端な方向に走る“集団極性化”の状態に陥り、多くの個人投資家が一斉に冒険的な投資行動に乗り出した。こうした“リスキー・シフト”と呼ばれる現象が文化広場では頻発し、相場を動かす一大要因となっていた。
歴史的使命を全う
文化広場での株式売買が始まったことで、ここに外地の証券会社も臨時窓口を設置するようになった。中国人民銀行も証券会社の上海拠点の設置について制限を緩和。証券会社の店頭や臨時窓口の混雑はかなり解消された。
「文化広場はそろそろ潮時では?」と、徐副市長は尉さんに声をかけた。
すると、「まだダメです」と、尉さんは返事。これを聞いて、「なぜかね?」と、徐副市長は尋ねた。
「われわれの株式市場の取引インフラは、ふさわしい規模にまだ達していません。もし、ここで文化広場の株式売買を止めれば、再び売買注文は困難となり、株式市場に悪影響が及ぶでしょう。ですので、もう少し待ちましょう」と、尉さんは説明。徐副市長も納得した。
1993年12月24日になって、文化広場の株式売買は終了。わずか1年半ほどの期間だったが、そこでの喧騒と光景は多くの人々の心に残り続けた。
こうして上海証券取引所はキャパシティ問題を乗り切った。文化広場のおかげで、外地の証券会社が次々と上海拠点を設置。1992年内に上海証券取引所が承認した外地の取引所会員は122社に上った。うち99社に対して、中国人民銀行は証券業の経営を許可。外地の証券会社が設けた上海拠点の数は、1992年末までに108社に達した。
こうしてチベット自治区、内モンゴル自治区、青海省、寧夏回族自治区を除いた省・自治区・直轄市の証券会社が、上海市に拠点を設けた。これにより、上海証券取引所を中心として全国に広がるマーケットが形成された。
わずか1年半の文化広場の時代は、全国規模のマーケット形成という歴史的な役割を全うした。