四川省成都市の紅廟子街 (2018年) 人であふれる当時の紅廟子街 中国は広い。どこで何が起きているのか?それを把握することは中央政府にすら難しい。深圳市が8.10事件に揺れた1992年、そこから1,300キロメートルあまり離れた四川省成都市では、株券ブームが起きていた。証券取引所のない成都市だが、現物の株券と現金を手にした人々が数万人も集まり、巨大な闇市を形成。まるで1990年の深圳市のような光景が、そこにあった。その闇市の場所は “紅廟子街”。成都市の中心部にある長さ約200メートル、幅10メートルほどの道だった
成都市の株券発行状況
1980年に成都市では成都市工業展銷信託股份公司(略称:成都工展)が初めて“株券”を発行したことは、この連載の第三回でも紹介した。その後も国有企業などの株式会社化、有限会社化が進んだ。
新規発行した株券の販売先は原則的に、取引先の企業や社内の従業員に限定されていた。一般の人々に株券を販売することは、“表面上”はなかったものの、実質的には行われていた。そうした場合の購入者には、現物の株券ではなく、出資者であることを証明する株券証書が交付された。
株券は保有者の違いで区別され、取引先の企業が購入した株券は“法人株”、社内の従業員が購入した株券は“内部従業員株”と呼ばれた。
成都市では1991年末までに株券や株券証書の販売額が、累計で10億元を超えていたと言われている。このほか社債も盛んに発行されたという。
こうして大勢の人々が、株券や株券証書を手にしたものの、換金する手段がなかった。これらの発行元である企業が上場していないうえ、未上場株券の取引市場もなかったからだ。
四川金融市場証券取引センターの設立 当時売買されていた社債 株券とIDカードを手に買い手を探す人々 “株券や株券証書を売却したい”というニーズに応えるため、1992年に四川省政府、成都市体制改革委員会、中国人民銀行(中央銀行)の支店が共同で、紅廟子街にあった約200平方メートルのオフィスを賃借した。ここに四川金融市場証券取引センター(四川金融市場証券交易中心)を開設。国債と社債の取引市場を創設することが目的だった。
上海市や深圳市の株価上昇の話が伝わると、成都市周辺の人々は、彼らを羨んだ。そうした人々がしだいに四川金融市場証券取引センターのある紅廟子街に集まるようになり、株券の闇市が自然発生した。
紅廟子街の闇市
紅廟子街に集まった人々は、株券、株券証書、社債、それに身分証(IDカード)などを持ち寄り、自分たちでルールを決め、取引を始めた。最初のころは人数も少なく、「何をやっているんだろう?」と見物する人が多かった。
株券で大もうけした上海市や深圳市の人々の話が広まると、加速度的に紅廟子街に人が集まるようになった。最盛期は5万人とも、10万人とも言われる人々が、ここで株券などを売買したと言われる。統計が存在しないため詳しい状況は不明だが、売買された銘柄は70~80種に上ったそうだ。
“小口”の投資家は、株券や株券証書を持ちながら歩き、「株券売るよ~」と声をかけて回った。“中口”の投資家は、テーブルを道端に設置し、いろいろな株券や株券証書を並べ、お茶を飲みながら商売した。“大口”の投資家は、紅廟子街に面したオフィスに陣取り、市場全体を把握しながら、密かに相場を操っていた。
テーブルを置き、株券を売買する投資家 株券証書とIDカード 株券の売買は朝から夜9時ごろまで行われていた。ここには値幅制限や受け渡し規則もなかった。取引が決まると、買い手は現金を差し出し、売り手は株券や株券証書、それにIDカードの原本やコピーを渡す。こうした受け渡しが一般的だった。
社債や一部の株券は、四川金融市場証券取引センターや証券会社の店頭で名義書換が行われたが、そうした“きちんとした”受け渡しは少なかった。
株券の発行もここで行われるようになった。四川省で最初の上場企業となった四川峨眉山塩化工業(集団)股份有限公司も、最初は紅廟子街で株券を発行したという。
証券会社が株券の販売を受託すると、責任者が切り取り線の入った用紙にボールペンで“1枚1,000株”などと書き込み、「この紙を売ってこい!」と、営業マンを紅廟子街に行かせた。
営業マンはすれ違う人たちに、「○○会社の株券を買いませんか~」と声をかけて回る。興味がある人は、「いくらだい?」と尋ねてくるので、そこで価格交渉が始まる。うまく折り合えば、そこで現金をもらい、上司が書いた用紙を渡す。まるで野菜を売るかのように、新規発行の株券が販売されていたという。
紅廟子街で売買される株券や株券証書は、上海証券取引所や深圳証券取引所の上場株式に比べ安かった。もし、上場が決まれば、株価の上昇余地は大きい。そう見込んだ上海市や深圳市の大口投資家が紅廟子街を訪れるようになり、大金で株券を買い漁ると、売買はさらに盛り上がった。
株券はどこから?
現金は財布や銀行口座から湧いてくる。では、紅廟子街で売買されていた株券は、どこから来るのか?それは、発行元の会社の従業員や取引先企業から買い取ったものだった。
四川省遂寧市に属する射洪県には、沱牌曲酒の酒造所があった。そこに1992年ごろから、「株券を売ってくれないか」と従業員に尋ねて回る“よそ者”が出没。「1株1元の株券を1株1.5元で買う」と持ちかけていた。
不審に思った従業員が「どこから来たのか?」と尋ねると、「成都の紅廟子」と答えたという。
四川省楽山市にも“よそ者”がやって来た。発電所の従業員から、株券を買い取るためだった。その“よそ者”は、1元の株券を1.5元で買い取り、紅廟子街に持ち込み、2元で売っていたそうだ。
ちなみに、これは後の楽山電力股份有限公司(楽山電力)の株券。紅廟子街では13元に高騰した。1993年4月に楽山電力は上海証券取引所に上場。上場日の初値は37.01元、50元の高値を付け、終値は36.50元だった。
こうした将来を知っていれば、誰も“よそ者”に株券を売らなかっただろう。なお、沱牌曲酒も1996年に上海証券取引所に上場している。
上場できない株券の購入者がデモ このような成功例もあれば、失敗例もある。四川省の病院が3,000万株の株券を発行し、一般の投資家に販売。紅廟子街で売買されていた。しかし、病院は上場できないということが知れわたると、購入者が街に集まり、抗議デモを起こしたという。
闇市の存在が公然化
紅廟子街に集まる人が増加するにつれ、近隣では交通渋滞が慢性化した。その様子を一部のメディアが報道すると、闇市はさらに過熱した。風説の流布や証券偽造の詐欺が横行。一部の会社は資金が欲しくて、無許可で株券証書を乱発した。
こうした状況は四川省外のメディアも報道するようになり、海外からも撮影クルーが来訪。そうなると、四川省政府や成都市政府も、知らんふりするわけにはいかなくなった。中央政府も紅廟子街の闇市を知り、内偵を始めた。
取引所での取引を発展させるため、闇市は根絶しなければならない。だが、紅廟子街の閉鎖を強行すれば、8.10事件のような事態を引き起こす可能性もある。そこで、政府は慎重に行動した。
闇市の静かな最期
四川省政府と成都市政府は、1993年3月19日から株式会社の株券発行について、認可作業を停止。すでに認可された企業による発行もストップした。次に中国共産党や政府の関係者が闇市に加わることを禁止。闇市の規模を縮小するため、既存の株券はすべて集中保管されることになった。メディアも動員され、啓発活動を展開した。
そのうえで、政府は闇市の閉鎖ではなく、移転を決定。1992年3月22日に闇市は紅廟子街から城北体育館に移された。人々はここを“北廟子市場”と呼ぶようになった。城北体育館は成都市の北部にある閑静な場所にあり、壁などで囲まれていることから、管理が容易。とりあえず閉鎖することは避け、移転させることによって、闇市を徐々に弱らせることを当面の目標とした。
政府の思惑通り、城北体育館に来る人は徐々に減り、取引も先細りとなった。株券の集中保管が1993年8月に完了すると、城北体育館は一段と寂しさが増した。1993年末ごろには、やって来る人が百人にも満たなくなったという。さらに闇市が城北体育館を離れ、成都市東部の凍青樹街に移ると、来場者は激減した。
1994年1月3日に四川省政府と成都市政府は、闇市を閉鎖すると決定。一時は国内外のメディアにも注目された闇市は、平穏に幕を下ろした。
後悔
自然発生した紅廟子街の闇市が閉鎖されると、成都市民の投資に対する熱意は大きく減退した。その後、中国本土の金融市場は、上海市と深圳市が二大中心地となり、四川省は蚊帳の外に置かれた。
「人々の熱意が紅廟子街の闇市を生み出した。これを閉鎖したことは、いま思うと残念なことだ。政策面で正しい方向に導いていれば、成都市は金融センターの一つとなっていたかも知れない」と、ある経済学者は語っている。
野望が渦巻く90年代
高西慶さん(2014年) 聯弁の設立式典 STAQシステム準備大会(1990年5月) STAQシステムを視察する政府要人(1992年3月) ただ、悔しい思いをしたのは、成都市だけではなかった。中国の経済と金融が急成長した1990年代は、中国のさまざまな都市で、さまざまな人々が、“証券市場の創設”という野望を持っていた。
1988年に米国から帰国した高西慶さんは、北京市に証券取引所を創設するという大志を抱いていた。さまざまな座談会や会議を開き、取引所創設の構想をまとめ、その熱意は中央政府にも届いた。
その結果、1989年3月15日に非銀行系の金融機関9社が出資するかたちで、証券交易所研究設計聯合弁公室が設置された。この組織は略して“聯弁”と呼ばれ、設立式典には後に中国人民銀行の総裁となる周小川や国家副主席となる王岐山など、そうそうたるメンバーが出席した。
この聯弁という組織は、北京市と各地の大都市をコンピューターネットワークで連結した株式取引システムを開発。これはSTAQシステム(Securities Trading Automated Quotations System)と呼ばれ、上海証券取引所が開業する直前の1990年12月5日に稼働した。
聯弁は1991年12月に中国証券市場研究設計中心に改称。1992年7月1日には企業が保有する法人株をSTAQシステムで売買することが認められた。こうしてSTAQシステムは、取引所ではないものの、全国規模の法人株市場となった。
結局、聯弁は北京証券取引所の創設という大きな目標こそ達成できなかったが、会社法や証券法の起草に参加するなど、証券市場発展のために尽力。構想の多くを実現させた。創設グループの高西慶さんは、後に中国証券監督管理委員会(CSRC)の副主席を務めた。
1993年4月28日には中国証券交易系統有限公司が開発したNETシステム(National Exchange and Trading System)が稼働した。これは北京市と全国100あまりの都市を衛星データ通信で連結したコンピューターネットワークで、証券の取引、清算、決済、受け渡し、保管などが可能。NETシステムは法人株7銘柄が取引される市場となった。
証券市場は分散から集約へ
上海証券取引所、深圳証券取引所、STAQシステム、NETシステムは、“両所両網”と呼ばれた。ちなみに、“両所両網”の“網”は、“ネット”を意味する中国語。この“両所両網”体制は1999年9月8日まで続いたが、取引所外での株式取引をなくす政府の方針に基づき、STAQシステムとNETシステムは1999年9月9日に突然閉鎖された。
国有企業の株式会社化が盛んだった山東省では、青島証券交易中心、済南産権交易所などの市場が設けられ、1997年には50銘柄ほどの株式が取引されていた。そこで取引されていたのは、発行会社の従業員が保有する内部従業員株だった。山東省だけではなく、ほかの地域にも、法人株や内部従業員株の市場が多数存在していた。
このように、1990年代の中国本土では、証券市場が各地に分散していた。
山東省政府は1997年に省内や他地域の取引システムと連携し、山東店頭市場を創設することを計画したが、失敗に終わった。やがて、全国各地にあった法人株や内部従業員株の市場は、相次いで閉鎖。中国本土の証券市場は上海市と深圳市への集約化が進み、2000年代に実施された法整備などを経て、今日のような世界屈指の証券取引所を形成するに至った。