アジア通貨危機を引き起こしたヘッジファンドは、1997年10月に香港ドルを攻撃したが、一時撤退を余儀なくされた。そもそも金融危機から生まれた香港ドルは、通貨攻撃を撃退する仕組みが予め備わっており、それが機能したためだ。しかし、それは金利の急騰と株価の急落という副作用をともない、香港経済は苦境に陥った。そうしたなか、香港ドルの特殊性を学んだヘッジファンドは、新たな攻撃手法を考案。香港政府もヘッジファンドの動きを察知し、非常の手段で対決することになった。
香港ドル攻撃の第一波
1997年10月23日に香港銀行間市場で翌日物金利が一時は年利で300%近くに上昇した。これを嫌気し、ハンセン指数が急落。終値は前日比10.4%安の1万426.3ポイントを記録した。この日の下落幅は1,211.47ポイント。一時は1万ポイントの大台を割り、前日比16.08%安に達する場面もあった。
異常な金利の急騰は、ヘッジファンドの香港ドル調達コストを増大させた。ヘッジファンドは香港ドルの空売り攻撃を緩めるほかなくなり、香港は通貨攻撃の第一波を撃退した。
きっかけとなった異常な金利の急騰は、米ドル本位カレンシーボード制という香港ドルの通貨メカニズムにあった。香港ドルは100%外貨で裏付けられている“本位貨幣”(本位通貨)だ。香港ドルの“現金通貨”や“預金通貨”の量は、香港金融管理局(HKMA)の管理下にある外貨基金(外匯基金)が保有する米ドルの量に比例する。
例えば、ヘッジファンドの香港ドルの売りを外貨基金が保有する米ドルで買い受ける。すると、外貨基金が保有する米ドルがヘッジファンドに渡る一方、その分だけ香港ドルの発行残高が消去される。香港ドルの発行を裏付ける外貨基金の米ドルがなくなったからだ。
1997年10月28日の金融機関サイネージ
終値は前日比13.7%安
この場合、香港ドルは紙幣である現金通貨ではなく、帳簿上の数字である預金通貨が減少することになる。それは日本の日本銀行当座預金(日銀当預)残高に相当する香港のアグリゲート・バランス(総結余)の減少となって現れる。ヘッジファンドの強烈な香港ドル売りは、アグリゲート・バランスを完全に枯渇させた。
アグリゲート・バランスの香港ドルは、香港の市中銀行が決済用に預けている資金だ。これが枯渇するということは、市中銀行から香港ドルの余剰資金がなくなることを意味する。
こうしたなか、香港金融管理局は10月23日、市中銀行が“流動性調節ファシリティ”(LAF)を何度も利用していると批判した。流動性調節ファシリティは本来的に“最後の貸し手”としての機能を果たすべきだが、それがヘッジファンドに香港ドルを貸し付ける便利な道具として使われていたからだ。そのうえで香港金融管理局は流動性調節ファシリティを過剰に利用する銀行に対しては、懲罰的金利を適用すると明言した。
アグリゲート・バランスの香港ドル資金は枯渇しているうえ、流動性調節ファシリティから融通することもできない。この状況に市中銀行は狼狽し、何とかして香港ドル資金を確保しようと、高い借入金利を提示した。だが、どんなに高い金利を提示しても、それに応じる銀行は現れなかった。なぜなら、香港ドル資金は枯渇し、どこの銀行も貸し出せる余裕がなかったからだ。これが異常な金利急騰を起こしたメカニズムだ。
金利の上昇を受け、外国為替市場では香港ドル買いが優勢に転じた。直物為替相場(スポットレート)は22日の1米ドル=7.7475香港ドルから、23日には1米ドル=7.6900香港ドルまで香港ドル高が進んだ。
なお、日本円や香港ドルの仕組みは、この連載の第六十回で詳しく解説している。
通貨防衛の後始末
江沢民・国家主席(左)と董建華・行政長官(右)
(1996年12月18日)
香港ドル金利が急騰した1997年10月23日、香港特別行政区の董建華・行政長官は外遊先のロンドンで記者の質問に応じ、香港ドルと米ドルの固定相場を絶対に守ると強調。金利の上昇と株価の下落については、短期的なことであるとの見解を示した。
左から順に許仕仁、曽蔭権、任志剛
(1998年)
同じ日に香港政府の曽蔭権(ドナルド・ツァン)財政長官、財経事務及庫務局(FSTB)の許仕仁(ラファエル・ホイ)局長、香港金融管理局の任志剛(ジョセフ・ヤム)総裁はそろって記者会見を開催。香港ドル防衛の決意と自信を表明した。そのうえで、香港経済や香港上場企業のファンダメンタルズ(基礎的条件)が良好であることを強調し、不安解消に努めた。
董建華・行政長官は10月24日に香港に到着。待ち受けていた記者の質問に答えた。ある記者の質問はこうだった。
「香港政府は金利の引き上げで香港ドルを防衛しましたが、株価は下落し、いまでは不動産市場も影響を受けています。香港政府が今回支払った代償は高すぎと思いますか?また、香港政府はどのような措置で香港経済を救済しようと考えていますか?」
株価の急落に驚く香港の投資家たち この記者は香港政府が自らの意思で香港ドルを引き上げたと考えており、米ドル本位カレンシーボード制のメカニズムを知らないようだった。これに対し、董建華・行政長官は「株式市場や不動産市場に影響はあるだろうが、短期的なものだと考えている。投機筋も1~2度ほど通貨攻撃に失敗すれば、もう来ないのではないだろうか」とコメントした。
香港の衰退を予言した特集“香港の死”
1995年6月の米誌「フォーチュン」
2007年に予言は誤りだったと陳謝した。
また、別の記者は次のような質問をした。「多くの経済の専門家がコメントしているのですが、海外投資家は行政長官の施政報告を受け、香港が社会主義的な計画経済の道を歩もうとしていると受けとめたようです。その結果として投資資金を引き揚げ、株式市場が暴落したと指摘しています。施政報告が株価や不動産の下落を引き起こしたと考えていますか?」
今日から見ると、この記者の質問は滑稽なほど的外れだが、当時は香港返還の直後であり、社会主義化への恐れも強かった。もちろん、董建華・行政長官の答えは“ノー”だった。
香港金融管理局の対応
香港金融管理局は1997年11月7日のプレスリリースで、香港を視察した国際通貨基金(IMF)が、香港経済のファンダメンタルズをポジティブに評価したと発表。通貨防衛に成功した香港ドルの米ドル本位カレンシーボード制をIMFも支持したとアピールした。
流動性調節ファシリティをめぐっては、罰則的金利を恐れる市中銀行が、利用を渋るようになっていた。このため市中銀行は業務資金を確保するため、金利を引き上げることで、香港市民からの預金を増やす一方、企業などへの融資に慎重になった。このため、金利は高止まりが続いた。
こうした状況を改善するため、香港金融管理局は11月12日、流動性調節ファシリティの“過剰な利用”を定義。「流動性調節ファシリティからの借入回数が25日以内で8回に達した場合」あるいは「4日連続で借り入れた場合」と定め、そうした場合にだけ罰則的金利を適用すると明確化した。
また、流動性調節ファシリティからの借り入れに使える担保証券についても、“外貨基金・短期債券”(EFN)や“外貨基金・中期債券”(EFB)だけではなく、民間が発行した債券も使えるようにした。こうして流動性調節ファシリティの利用が回復し、香港ドル金利の高止まりも、徐々に解消に向かった。
だが、香港ドル防衛に成功した代償として、金利の急騰と株価の暴落を招いたことを受け、米ドル本位カレンシーボード制に批判的な意見も出るようになり、固定相場制の撤廃を求める声さえ上がった。しかし、香港政府と経済学者の多くは、この通貨制度が香港に最も適しているという認識を示している。
通貨攻撃の第二波と第三波
香港ドルへの通貨攻撃の第一波を迎えた1997年10月23日、香港ドルの先物為替相場(フォワードレート)は、1年物で1米ドル=13.69000香港ドルを記録。直物相場の1米ドル=7.6900香港ドルに比べ、大幅な香港ドル安となった。先物相場は1年後の直物相場に対する取引参加者の見方を反映する。つまり、これまでの香港ドルの固定相場が崩れ、1米ドル=13.69000香港ドルになるという予想が市場コンセンサスだった。
これに続く通貨攻撃の第二波は、1998年1月に到来した。きっかけは、インドネシアのルピアの急落だった。インドネシアは1997年10月31日にIMFなどから総額230億米ドルの金融支援を受けることで合意。その条件として、経常収支の黒字化、財政収支の健全化、金融改革などの条件が示された。
経済構造改革の合意書に署名するスハルト大統領
腕組みしているのはIMFのカムドシュ専務理事
この写真でスハルトの威信は大きく揺らいだ。
同時にIMFに対する国民の反感も生まれた。
(1998年1月15日)
こうした危機的状況にもかかわらず、当時のスハルト大統領が1月6日に発表した同年の予算案は、前年比32%増という非現実的な内容。改革への疑念が強まり、ルピアが急落。1月8日には取引時間中に1米ドル=1万ルピアを突破した。こうしてアジア通貨危機が再燃し、香港ドルへの通貨攻撃は第二波を迎えた。
1月12日に香港ドルの1年物先物相場は1米ドル=15.54550香港ドルを記録。第一波を超える香港ドル安となった。同じ日の直物相場は安定を保ち、1米ドル=7.74550香港ドル。しかし、香港ドル金利が再び急騰した。
この日の翌日物金利は、終値が年利で12%に達した。この金利急騰を嫌気し、ハンセン指数は前日比8.7%安で終了。金利の急騰と株価の急落に見舞われたが、香港ドルは固定相場を死守し、ヘッジファンドはまたしても手を引くことになった。
通貨攻撃の第三波は、1998年6月に到来。きっかけは、日本の金融機関の経営不安と円安だった。1997年末は1米ドル=130円ほどだったが、1998年6月には1米ドル=140円ほどまで円安が進んでいた。なお、金融機関の経営不安は現実となり、1998年は10月23日に日本長期信用銀行の経営が破綻。12月14日には日本債券信用銀行も同じ道をたどった。
円安の進行で、アジア域内の通貨安が進み、香港ドルへの通貨攻撃は第三波を迎えた。6月15日に1年物先物相場は1米ドル=13.59500香港ドルを付け、翌日物金利は終値が再び12.5%に達した。ハンセン指数も前日比5.7%安で終了した。直物相場は相変わらず安定し、1米ドル=7.74500香港ドルだった。
ヘッジファンドは一連の香港ドル攻撃を通じ、この通貨の固定相場を崩すことが容易ではないことを悟った。その一方で一つの単純なメカニズムを学んだ。つまり、香港ドルを売れば、必ず金利が急上昇し、株価が急落するということだ。
この特性を上手く利用すれば、別の方法で大儲けすることも可能。ヘッジファンドは新たな攻撃態勢の構築に向け、着々と準備を進めた。
通貨防衛の代償~株式市場
中国電信(香港)有限公司の海外上場記者会見
当時は浙江省と広東省の事業だけを上場
異常な金利の上昇で、ハンセン指数が前日比10.4%安を記録した1997年10月23日は、中国電信(香港)有限公司の上場日だった。この会社は現在の中国移動有限公司(チャイナモバイル)であり、中国の移動通信最大手。公募価格は11.80香港ドルだったが、強烈な地合いの悪さを背景に、上場初日は公募価格比19.5%安の9.50香港ドルで終了した。なんとも運の悪い船出だった。
余談だが、チャイナモバイルは上場24周年直前の2022年10月22日の終値が48.95香港ドルで、それまでの累計配当額は50.775香港ドルだった。1997年10月23日の終値9.50香港ドルで買っておけば、24年間で年平均10.3%のペースで投資リターンを得たことになる。まさに“人の行く裏に道あり花の山”だった。
英領香港で最後の株式取引日だった1997年6月27日は、ハンセン指数が1万5,196.79ポイントで終了。アジア通貨危機の拡大と香港ドル通貨攻撃の第一波を背景に、1997年10月28日には終値が1万ポイントの大台を割り、9,059.89ポイントを付けた。
第一波を退けた後も、ハンセン指数は1万ポイントを挟んで不安定な動きが続き、大台を割り込む場面もあれば、1万1,000ポイント台まで戻すこともあった。しかし、香港ドル攻撃の第二波が始まると、1998年1月9日にハンセン指数は終値で9,000ポイントを割った。
1月13日には香港最大の証券会社だったペレグリン(百富勤)が清算手続きを開始。経営破綻のきっかけは、インドネシアのタクシー会社に対する無担保融資だった。1月16日には正達証券の経営が破綻。正達証券を通じた3,900万香港ドルの取引が決済不能となった。
取引所に押し寄せた正達証券の顧客 正達証券は顧客からの預かり資産である株式を無断で金融機関に担保として差し入れ、金融機関から総額5億7,000万香港ドルを借り入れていた。1月21日には株式を取り戻そうとする正達証券の顧客300人あまりが、監督機関の証券及期貨事務監察委員会(SFC)や香港証券取引所に押し寄せ、大混乱に陥った。
香港ドル攻撃の第二波が後退すると、ハンセン指数は2月2日に1万ポイントを回復。しかし、5月7日に再び大台を割ると、5月27日には再び9,000ポイントを下回った。香港ドル攻撃の第三波が到来すると、6月10日には終値で8,000ポイントを割った。
ハンセン指数は香港返還からの1年ほどで半分となり、多くの香港市民が保有金融資産を減らしたことで、“負の資産効果”が拡大。香港市民の消費活動に大きな悪影響を及ぼした。
通貨防衛の代償~日系百貨店の相次ぐ閉鎖
香港の消費が冷え込んだことで、日系百貨店の閉鎖が相次いだ。1984年に香港に進出した百貨店のヤオハン(八佰伴)は、1997年11月20日に香港の全店舗を閉鎖。2,700人ほどが職を失った。
1995年12月20日にオープンした上海第一ヤオハン
初日は107万人が来店し、ギネス世界記録に
背景には中国での“おしんブーム”があった。
余談だが、ヤオハンはアジアを中心にブームを起こした“おしん”の会社として知られ、中華圏での人気が非常に高かった。ヤオハンを経営するヤオハン・インターナショナルは、1993年に香港証券取引所に上場。経営破綻を受け、2002年5月6日に上場廃止となった。ちなみに、この会社が使っていた証券コード“00700”は、現在ではIT大手のテンセント(騰訊控股)が使用している。
閉店セール中の松坂屋(香港)
(1998年8月)
1998年6月25日には大丸が香港での全業務を終了。松坂屋も1998年8月31日にコーズウェイベイ(銅鑼湾)の店舗を閉鎖した。
通貨防衛の代償~不動産
香港ドル防衛にともなう金利の上昇と株価の下落は、香港の個人住宅価格にも悪影響を及ぼした。
香港島に位置する個人所有住宅の平均販売価格を見ると、広さ40~69.9平米の物件では、1982年1~3月は1平米単価が1万126香港ドルだった。なお、これ以降に説明する住宅価格の推移は、この条件の物件の1平米単価を基準とする。
香港返還をめぐる英中交渉が本格化すると、多くの香港市民が将来に不安を覚え、住宅価格が下落。1984年7~9月には7,369香港ドルを記録した。1984年12月19日に英中共同声明が調印され、香港返還のスキームが確定すると、住宅価格も回復に向かう。1987年1~3月には1万香港ドルの大台を超え、1990年4~6月には2万香港ドルの大台に乗せた。
香港返還に向けて住宅価格は急上昇。早くも1991年7~9月に3万香港ドルを超え、その後は1年前後のペースで大台突破が続いた。1992年4~6月には4万香港ドル、1993年7~9月には5万香港ドル、1994年1~3月には6万香港ドルを超えた。
1994年の下期に入ると、住宅価格が一旦調整。1995年から1996年の上期にかけては、5万香港ドル台で推移する。しかし、返還目前になると、住宅価格の高騰が加速。1996年7~9月に6万香港ドルを回復すると、1997年1~3月には7万香港ドルを突破。返還直前の1997年4~6月には8万香港ドルの大台を超え、8万6,271香港ドルに達した。
住宅価格の高騰は、投機熱を呼んだ。不動産投資家の多くは、住宅購入費用の7割以上を銀行からの融資(住宅ローン)で賄っていた。銀行も住宅価格の値上がりを見込み、不動産投資家の自己資金が少なくても、融資に応じていた。
しかし、香港返還とアジア通貨危機を迎え、住宅価格は下落に向かう。1998年1~3月は8万香港ドルの大台を割り、7万602香港ドルを付け、不動産開発業者は新築物件や在庫物件の現金化を急いだ。
1998年5月下旬に長江実業は機場快線(エアポート・エクスプレス)の青衣駅に建設した高級マンション“盈翠半島”(ティエラ・ヴェルデ)について、1平方フィート単価4,147香港ドルで販売すると発表した。これを1平米単価に直すと4万4,638香港ドルであり、1997年の住宅価格ピーク時に比べて半値に近い。
青衣島の盈翠半島
22年2月の相場
48.3㎡の物件で825万香港ドル(1.2億円)
1平米単価は17万香港ドル
破格の安値を受け、盈翠半島は5月30日までに1,327戸が完売。これを合図に新築住宅の値下げ合戦が始まり、中古住宅の販売価格も下落が加速した。1998年4~6月に7万香港ドルを割り、6万2,507香港ドルを付けた。これは返還直前のピーク時に比べ27.5%安だった。
そうした状況で住宅販売の値下げ合戦が始まったことで、1998年7~9月に住宅価格は一気に二つの大台を割り、4万4,727香港ドルに落ち込んだ。これはピーク時に比べて42.4%安だった。
通貨防衛の代償~銀行
住宅価格の下落は、銀行の資産を質的に悪化させた。先ほど住宅購入費用の7割以上が銀行からの融資で賄われたと説明した。これは銀行が当該住宅に抵当権を設定したうえで、その販売価格の7割以上相当を融資していることを意味する。
住宅購入者がローン返済不能に陥ると、銀行は当該住宅を売却し、融資を回収することになる。仮に1億香港ドルの住宅購入に7割相当の7,000万香港ドルを融資しているのなら、銀行は単純計算で3,000万香港ドルを儲けることになる。この場合、銀行の融資債権は資産として健全だ。
しかし、当該住宅の価格が融資当初に比べ3割以上の下落となれば、これは銀行にとって “オーバー・ローン”の状態であり、その融資債権は“負の資産”(ネガティブ・エクイティ)となる。先ほどの例に挙げた1億香港ドルの住宅の資産価値が40%安相当の6,000万香港ドルに下落する。
この場合、住宅購入者がローン返済不能に陥ると、融資額の7,000万香港ドルに対し、銀行が当該住宅の売却で回収できるのは6,000万香港ドルだけであり、1,000万香港ドルの損失を出すことになる。このような融資債権を“負の資産”という。
アジア通貨危機が広がると、香港市民の失業が増加した。香港返還直前の1997年4~6月の失業率は2.2%で、失業者数は68万2,000人。失業率は1997年12月~1998年2月に3.0%に達し、失業者は87万4,000人となった。
こうした情勢を背景に、香港では1997年の秋に入ると、銀行の経営危機に関する噂が広がる。そして、11月10日にアラブ・バンキング・コーポレーション(ABC)の傘下にある港基国際銀行(IBA)をめぐる経営不安の情報が流れ、取り付け騒ぎが発生。幸いなことに、IBAの支援を香港金融管理局や香港上海匯豊銀行(HSBC)などが表明したことで、この騒ぎは一日で終息した。
1998年4~6月には失業率が4.3%に達した。失業者は140万3,000人で、1年前の2倍に達した。住宅ローンを返済できなくなる香港市民が急増し、銀行の経営も大きく悪化。預金金利の引き上げで資金を調達する一方、融資には慎重になり、長期にわたって香港経済に悪影響を及ぼした。
香港ドル切り下げ観測の流布
香港ドルの価値は、米ドルで裏付けられる。
7.8香港ドルの発行に1米ドルが必要。
1998年6月15日付の日刊紙「新報」(ホンコン・デイリー・ニュース)に、香港政府が1米ドル=7.8香港ドルの固定相場を放棄し、1米ドル=10香港ドルに切り下げることを計画中という記事が掲載された。
この報道を受け、香港金融管理局は直ちに声明を発表。まったく根拠のない報道であると指摘したうえで、1米ドル=7.8香港ドルの固定相場を維持すると強調した。
このころになると香港では“香港ドルが固定相場を離脱する”“香港ドルが切り下げられる”“人民元が切り下げられる”といった類の観測や憶測が、メディアを通じて頻繁に流れるようになった。
こうした情報は、投資家の弱気心理につながり、ヘッジファンドが空売りを仕掛けるのに有利に働く。そのため香港政府の高官は、記者からの質問を受けるたびに、固定相場の維持を強調した。
しかし、香港は通貨防衛の代償として、金利の上昇に加え、株式と不動産の下落に見舞われており、メディアや専門家も政府高官の発言に懐疑的な姿勢を崩さなかった。こうした状況について香港政府は、メディアがヘッジファンドによるムード醸成に利用されているとみていた。
第四波に向けて整った環境
日本では1998年7月12日投開票の第18回参議院議員通常選挙で、自由民主党が大敗。第八十三代内閣総理大臣の橋本龍太郎は辞職し、7月30日に小渕恵三が第八十四代内閣総理大臣に就任した。こうした政治の混乱を背景に、日本円は軟調に推移。6月30日は1米ドル=138.78円だったが、7月31日には1米ドル=144.66円まで下落した。
米国ではダウ平均株価が8月4日に節目の8,500米ドルを割り、8,487.31米ドルで取引を終了。7月30日の終値は9,026.95米ドルであり、それに比べると6.0%も下落していた。
さらに香港では7月下旬から8月上旬に多くの上場企業が決算を発表したが、業績の悪化が鮮明だった。香港の実体経済も雇用、貿易、小売の統計数値が悪化。ヘッジファンドが空売りを仕掛けるには絶好の環境が整っていた。
ヘッジファンドのダブル・プレイ
1997年は株式市場の売買代金が1日平均155億香港ドルだったが、それが1998年7月には40億香港ドルに低迷していた。こうしたなかでハンセン指数先物は、建玉残高が1997年末の約5万7,000枚から、1998年6月末には約9万1,000枚に増加していた。
ヘッジファンドの新たな戦略は“ダブル・プレイ”だった。香港ドルを売れば、金利が急騰し、株価が下落する。このメカニズムを利用して儲けられるのが、ハンセン指数先物を売り建てることだ。外国為替市場と株式市場を操縦する行為であることから、香港政府の高官はダブル・プレイ(双辺操控)と呼んだ。
香港ドルを売れば、金利が急騰し、ヘッジファンドもダメージを受ける。これを回避するため、ヘッジファンドは事前にマネーマーケットから300億香港ドルを調達。ヘッジファンドが支払う利息は1日あたり400万香港ドルほどだったとみられる。さらにヘッジファンドはハンセン指数先物の売り建玉を8万枚ほど準備した。
この状況を察知した香港政府は、ハンセン指数が1,000ポイント下落するごとに、ヘッジファンドが40億香港ドルの利益を手にすると試算した。
ハンセン指数を1,000ポイント下落させるのに1,000日(約2年9カ月)を要した場合でも、支払う利息は合計40億香港ドルなので、ヘッジファンドの損益はトントンということになる。これがヘッジファンドの損益分岐点だった。
一方、100日(3カ月あまり)でハンセン指数を1,000ポイント下落させれば、支払う利息は4億香港ドルであり、ヘッジファンドの利益は36億香港ドルに上る。もっと短期間でハンセン指数を下落させることができれば、ヘッジファンドの利益はさらに大きくなる。
香港ドル攻撃の第一波では、1997年10月23日だけでハンセン指数は1,211.47ポイントも下落した。1,000日でも損益がトントンという状況は、ヘッジファンドにとって“手堅い戦略”。ヘッジファンドの目標は、ハンセン指数先物の決済日である1998年8月28日までに、ハンセン指数を4,000ポイントに下落させることだった。
第四波の到来
1998年8月に入ると、香港の株式市場や香港ドル固定相場の崩壊を予想するニュースが増加した。投資家心理は極度に弱気となり、ハンセン指数が下落する環境が整った。ヘッジファンドは香港ドル攻撃の第四波を開始。24時間体制で香港ドルをニューヨーク、シドニー、香港、ロンドンなどで売り続けた。
ヘッジファンドによる香港ドル売りを外貨基金は米ドルで買い受けた。8月の第一週に外貨基金は香港ドル買いに約20億米ドルを使った。第二週は約42億米ドル。1997年10月の香港ドル攻撃の第一波でも、外貨基金が使った米ドルは30億米ドルに満たず、第四波の香港ドル売りが強烈だったことがうかがえる。
再び香港ドル金利の急騰が危惧されたが、香港金融管理局は一計を案じた。ちょうど香港の財政収支は周期的な赤字のタイミングにあり、香港政府は外貨基金に預けた財政備蓄を取り崩し、香港ドル資金を得る必要があった。
そこで、香港金融管理局は香港政府の財政備蓄から外貨建て資産を取り崩し、ヘッジファンドの香港ドルを買い受けた。こうして入手した香港ドルを香港政府に回した。
この場合、香港金融管理局が香港ドルを買って、米ドルを手放しても、マネタリーベースは減少しない。これが奏功し、香港ドル売りが続いても、第四波の序盤で金利はあまり上昇しなかった。思惑が外れたヘッジファンドのマネージャーは、香港金融管理局の任志剛・総裁に電話し、米ドル本位カレンシーボード制の原則に反する行為だと批判したという。
しかし、海外や香港のメディアでは、人民元や香港ドルの切り下げをめぐる観測記事が急増。香港ドル金利はあまり上昇しなかったが、ハンセン指数の終値は7月31日の7,936.20ポイントから、8月13日には6,660.42ポイントまで下落していた。9営業日での下落幅は1,275.78ポイントに達していた。
反撃開始
このままでは香港ドル防衛に成功しても、ヘッジファンドに大きな利益を与えてしまう。これに味を占めれば、ヘッジファンドは何度でも香港を攻撃するだろう。そうなれば、香港の金融経済だけではなく、実体経済も甚大な打撃を受けることになる。
こうした見通しを背景に、香港政府はヘッジファンドに反撃する決意を固めた。ヘッジファンドに打撃を与える唯一の方法は、ハンセン指数を下落させないこと。そのための手段は“市場介入”しかなかった。
だが、香港は自由経済と市場原理を信奉する国際金融センター。香港政府の関与を最小限度にとどめる“積極不介入主義”を標榜しており、市場介入はその方針に反する行為と批判される可能性もある。
そこで、香港政府は理論武装を開始。ヘッジファンドの行為は人為的な相場操縦であり、むしろ市場原理をゆがめる行為と定義した。そのうえで、相場操縦を排除することは、従来からの方針を変更するものではないという大義名分を打ち立てた。
外貨基金を管理する香港金融管理局は、8月14日に財経事務及庫務局の名義で、香港の証券大手3社の重役を朝食会に招待した。彼らを貸切室で待ち受けていたのは、それまで証券業界とは面識がなかった香港金融管理局の陳徳霖(ノーマン・チャン)副総裁。証券会社の重役たちは、一様に驚いた。
香港金融管理局の第二代総裁を務めた陳徳霖
(2019年)
陳徳霖・副総裁は彼らに対し、コーヒーを飲んだら、携帯電話の電源を切るように指示。香港金融管理局のオフィスに場所を移し、外貨基金の保有資産を原資とする市場介入の決定と同件に関する機密厳守を伝えた。
証券会社の重役たちは自社に戻ると、さっそく香港金融管理局の株式口座と先物口座を開設。あっという間に市場介入の準備を整えた。ハンセン先物の決済日まで、この日を含めて残り10営業日というタイミングだった。
市場介入初日の8月14日は、ハンセン指数が前日比0.16%安の6,649.45ポイントで寄り付いた。一時は0.25%安まで下げたが、市場介入が始まると、上昇を開始。陳徳霖・副総裁は事情を知らないふりをして、市場関係者にハンセン指数上昇の原因を尋ねたが、誰も市場介入とは答えなかった。機密保持は守られた。
外貨基金は株式資産を保有したことがないため、市場介入の注文を出す設備もなかった。そこで少人数の“取引作戦室”を設け、録音機能付きの電話を用意し、口頭で注文を出した。目標はハンセン指数を構成する株式33銘柄とハンセン指数先物の異常な下落の阻止だった。
この日のハンセン指数は前日比8.5%高の7,224.69ポイントで終了。取引終了後に董建華・行政長官をはじめとする香港政府の高官は記者会見を開き、市場介入を実施したと発表した。
香港政府の弁明
株式市場と指数先物への市場介入を発表した董建華・行政長官は、これは“株価維持政策”(PKO)ではなく、投機行為に対する措置であると強調した。そのうえで、香港政府はこれまで通り、株式市場や先物市場に干渉しないと前置きしたうえで、目下の状況のように、必要に迫られれば、市場の混乱を減らすため、迅速果断な措置を講じるだけだと明言した。
曽蔭権・財政長官はヘッジファンドの目的が、ダブル・プレイで利益を得ることにあると説明した。そのうえで、香港は従来通り自由経済と市場原理を重視し、ヘッジファンドの市場参加やハンセン指数先物の売りも受け容れ、これらを拒絶することはないと強調。ただし、人為的な高金利を作り出し、金融市場を混乱させ、先物市場で利益を売るような行為は、絶対に容認しないと強調した。
「ヘッジファンドの悪質な手口は、みなさんも見た通りだ。香港ドルの固定相場離脱、人民元の切り下げ、銀行の経営不振などの情報を流布し、取り付け騒ぎまで引き起こした。ヘッジファンドの攻撃で金利が上昇すれば、香港経済と香港市民が甚大な損害を被ることになる」と、曽蔭権はメディアに訴えた。
流血事件
市場介入という香港政府の予想外の動きに、ヘッジファンドは動揺した。香港政府が危惧したように、“積極不介入主義”に違反したという報道が溢れ、“香港ドルの固定相場放棄”や“人民元の切り下げ”に関する観測記事も一段と増加した。そうしたニュースの出所は、ヘッジファンドやその支援者が流す情報だったとみられる。
暴漢に襲われた直後の鄭経翰 こうしたなか、リスナー参加型のラジオ番組「風波裏的茶杯」で司会を務める鄭経翰(アルバート・チョン)が、8月19日の早朝に二人組の暴漢に襲われた。鄭経翰は身体の8カ所を刃物で斬られ、一時は危篤状態に陥った。
香港市民への影響力が大きな鄭経翰は、以前から番組を通じてヘッジファンドを批判し、香港政府の市場介入を支持すると表明していた。警察とラジオ局は総額400万香港ドルの懸賞金で情報を求めたが、この事件は迷宮入りとなった。
なお、鄭経翰は2004年12月に香港紙「蘋果日報」(アップル・デイリー)の取材に応じたが、香港政府の市場介入を支持したことで、“何者かの恨みを買ったことが原因だった”とコメントしている。
8月28日の決戦
香港政府の市場介入が始まった後、ロシア財政危機が本格化した。1998年8月17日にロシア政府は対外債務の支払いを90日間停止すると発表。ロシアの通貨であるルーブルが急落した。こうしたなか、ハンセン指数先物は決済日の8月28日を迎えた。
この日までにヘッジファンドは、ハンセン指数を目標水準までに引き下げなければならない。ロシア財政危機という悪材料とヘッジファンドの抵抗を背景に、8月28 日はハンセン指数が前日比0.73%安で寄り付いた。その後も売り注文ばかりで、買い注文を出すのは外貨基金だけという状況。売買代金は記録的なペースで増加し、この日は790億300万香港ドルに達した。
それまでの1日の売買代金の最高記録は、1997年8月29日の460億9,700万香港ドルだったが、1998年8月28日はこれを大幅に上回り、2007年2月27日まで8年半にわたって抜かれることがなかった。
1998年8月28日のハンセン指数は、前日比1.2%安の7,829.74ポイントで終了したが、市場介入前の8月13日に比べると、上昇率は17.6%で、上昇幅は1,169.32ポイント。ヘッジファンドの目標だった4,000ポイントの倍近くだった。
董建華・行政長官は8月28日の取引終了後、市場介入の目標を達成したと表明した。今回の市場介入は、人為的な株価維持が目的ではないと、あらためて強調。また、投機行為を防止するため、関連制度の強化を図る考えを明らかにした。
曽蔭権・財政長官も声明を発表。市場介入によってハンセン指数は下落しないまま、先物の決済日を迎えた。これはヘッジファンドが巨額の損失を抱えたことを意味する。多くのヘッジファンドは香港ドル売りのポジションを解消せねばならず、金融市場も安定に向かうだろうと語った。
ロシア財政危機の影響で、ヘッジファンドのロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)が破綻すると、世界的に銀行が高レバレッジの融資を縮小。ヘッジファンドの資金源が減少したことで、アジア通貨危機も終息に向かった。
戦後処理の課題
外貨基金は市場介入を通じ、ハンセン指数を構成する33銘柄を購入。投資額は計1,181億香港ドルに上った。うち長江実業など3銘柄で、外貨基金は持ち株比率10%以上の主要株主となった。また、17銘柄で持ち株比率5%以上の大株主にもなった。
もちろん、外貨基金はこれら33銘柄に対し、株主総会での議決権を有する。これではあたかも主要上場企業の“国有化”であり、香港が標榜する“積極不介入主義”とは相反する状態だ。
それゆえ、外貨基金は一刻も早く保有する33銘柄を手放したいのだが、大量の株式売却は株式相場を下落させる。それを待たずとも、いつか外貨基金が株式を大量売却するという状況があるだけで、投資家は買い控えする。さらに、外貨基金が儲かれば、香港の投資家が損をするかも知れないという“利益相反”の状態にも陥っている。
市場介入には成功したが、“外貨基金がいかに保有株を手放すか”という難題を香港政府は抱えることになった。また、アジア通貨危機を通じ、香港の米ドル本位カレンシーボード制の弱みが明らかとなり、それを補う制度設計も喫緊の課題となった。これらの問題については、あらためて解説することにする。