1841年から1997年まで英国の植民地だった香港だが、その支配が3年8カ月にわたり中断した時期があった。太平洋戦争の始まりと同時に、日本軍が英領香港に侵攻。香港の株式市場も、苦難の時代を迎えることになった。
1930年代の香港経済
香港で1925年6月に発生した大規模ストライキは16カ月にわたり、香港の経済活動を混乱させた。ストライキが終息すると、香港経済は短期間で急回復したが、1929年10月に米国ウォール街の株価が大暴落。これに端を発した世界大恐慌が始まると、香港の貿易額は1930年代の前半にかけてマイナス成長が持続。1935年の香港の貿易額は、1931年の半分に落ち込んだ。
もっとも、1936年に入ると、香港は空前の好景気を迎え、それは日本軍に占領される1941年末まで続いた。
世界経済の回復
アウトバーンの起工式(1934年3月)
ボンネビル・ダムの建設現場
ニューディール政策の公共事業で1934年着工
香港が1930年代の後半に好景気を迎えた背景には、複数の要因があった。その大きなものとしては、世界経済の回復が挙げられる。
最初に景気後退から抜け出したのは、ドイツだった。世界恐慌によってドイツの失業率は40%に達していたが、アドルフ・ヒトラーが率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の下で、1937年までに完全雇用を達成した。
米国経済は1933年に就任したフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策によって、立ち直りをみせた。1935年に第二次ニューディール政策が始まると、経済回復も本格化し、その影響は英国、フランスなど欧州諸国にも波及した。
大英帝国ブロック経済の一角に
1932年の大英帝国経済会議 香港が大英帝国のブロック経済に組み込まれたことも、香港経済の回復を支えた。1932年7月にカナダの首都オタワで開かれた大英帝国経済会議で協定が交わされ、大英帝国特恵関税制度がスタート。大英帝国の域内諸国では、関税が低減・撤廃された一方、域外に対しては関税障壁が強化された。
香港は1934年に特恵関税制度に加入。香港原産の製品は、大英帝国の域内諸国に自由に販売することができるようになった。これは香港の域内マーケットが、大幅に拡張したことに等しく、輸出額が急速に増加した。
特恵関税制度への加入は、香港の経済構造に変化をもたらした。香港の面積は日本の札幌市と同じ程度であり、その当時の人口は100万人に満たなかった。このため原料資源を欠き、域内マーケットも小さかったことから、工業が発達せず、貿易に依存していた。
だが、特恵関税制度に加入したことで、香港は大英帝国の域内諸国から原料資源を輸入し、香港で製品を生産したうえで、輸出することが可能になった。このように特恵関税制度は、香港の工業化に大きく寄与した。
戦火で香港に資産流入
日中戦争勃発の舞台となった盧溝橋
マルコ・ポーロの「東方見聞録」にも記録が残る
香港に迫った日本軍
橋に立っているのは英軍
1937年7月7日に盧溝橋事件が起き、日中戦争が勃発。華北地域は瞬く間に日本軍に占領され、多くの難民が華中地域を目指した。同年内に上海のほか、中華民国の首都である南京も日本軍の手に落ち、難民はさらに華南地域や西南地域に向かった。
こうしたなか、英国が統治する香港には、戦火が及ばなかった。華中地域や華南地域の資産家は一族を率い、資産を抱えて香港を目指した。
1938年10月に広東省広州を陥落させた日本軍はさらに南下し、数日後には深圳に到達。日本の勢力圏が英領香港に接した。これを受け、広東省一帯の難民が、香港になだれ込んだ。1935年は約97万人だった香港の人口は、1938年には約148万人に急増。さらに1940年には約181万人に達した。
香港は資産家の避難場所となり、多額の資産が流入。これも香港の景気回復に寄与した。だが、急激な人口増加により、香港の食糧価格が高騰。雇用、住宅、衛生、医療、治安、教育などの状況も悪化した。
1939年9月に英国がドイツに宣戦布告すると、英領香港も戦争状態に突入。香港在住のドイツ人は強制収容され、香港政庁はドイツ企業の資産を接収した。さらに香港の港湾管制を強化し、船舶の出入りを規制。英領香港は臨戦態勢に入った。
こうした世界情勢を背景に、香港では戦争特需が発生。1930年代の後半は、香港の貿易額が年々増加した。
1930年代の香港株式市場
1933年設立のハンセン・バンク
当時の中国語表記は“恒生銀号”
ダンケルクから撤退する英兵
空襲を受けたロンドン(1940年9月7日)
前述のように、香港の貿易額は1930年代の後半こそ増加したものの、前半にかけては減少していた。1930年代の前半は、こうした不況に見舞われていたが、その当時の香港の株式市場は、意外としっかりしていた。1929年10月の米国ウォール街の大暴落で、世界各地の株価が下落するなか、香港の株式市場は小幅な下落にとどまった。
1930年代前半の香港株式市場では、マレーシア、フィリピン、南米などの鉱山会社が、相次いで株式を公開。資金調達と事業拡大を目論んだ。
上場企業の増加にともない、銀行や証券会社の経営環境は良好だった。こうした状況を追い風に、後にハンセン指数を発表する恒生銀行(ハンセン・バンク)が、1933年3月3日に開業。1934年にはアイス・ハウス・ストリート(雪廠街)に、香港股份総会(The Hong Kong Stock Exchange)の取引所ビルが完成した。
1930年代の中盤に入ると、株価も下落傾向が鮮明となる。1935年は一部の銀行で経営不振が噂され、取り付け騒ぎが発生。株式市場にも悪影響を及ぼした。香港上海匯豊銀行(HSBC)の株価をみると、同年1月末は1,540香港ドルだったが、4月末には975香港ドルまで売られた。
もっとも、その後は下げ止まり、しばらく1,000香港ドル付近での小動きとなる。10月に入ると急回復し、12月末には1,580香港ドルを付けた。ただ、株式市場は1936年も低迷。株式の売買が可能な有限責任公開会社(公開会社)は、大きく数を減らした。
1937年7月7日に日中戦争が始まると、多くの資産家と巨額の資金が香港に流入。中国本土の銀行は相次いで香港支店を開設し、基本的な業務を継続した。
ただ、多くの資産が流入しても、株式市場への好影響は限定的だった。先行き不透明感から、投資家が株式投資に慎重になったからだ。1939年9月に英国がドイツとの戦争状態に入ると、香港市場の株式売買は、一段と低迷。株価は方向感を欠き、小幅な変動にとどまった。
1940年5月に入り、ドイツ軍と英仏軍が交戦すると、香港の投資家の間にも緊張が走った。投資家は資産保全のため、正貨である黄金や国際通貨の米ドルを買い漁った。
1940年6月にフランス軍が降伏し、ドイツの英国侵攻が現実味を帯びると、香港政庁や上流階級の人々に激震が走った。これを受け、HSBCの株価も1,200香港ドルを割り込んだ。だが英空軍は実用化されたばかりのレーダーを駆使し、ドイツ空軍を撃退。ドイツ軍の英国上陸計画は延期され、矛先がソビエト連邦に向かうと、HSBCの株価は同年12月末には1,380香港ドルに回復した。
英領香港100周年
第二十一代香港総督
マーク・エイチソン・ヤング
香港に派遣されたカナダからの援軍
(1941年)
英領香港は第二次世界大戦の最中にある1941年1月に、発足100周年を迎えた。戦争の影響で祝賀ムードを欠き、関連行事は簡素な規模にとどまった。戦火は欧州にとどまらず、香港にも迫っていた。香港のすぐ北にある深圳に、日本軍が兵力を集結し始めたからだ。
1940年末に約181万人に達していた香港の人口は、日本軍の脅威を背景に、1941年3月には約164万人に急減。香港に避難していた人々は、マカオや広東省の僻地へ移動した。
香港の英軍は、日本軍の侵攻に備え、軍備を増強。さらに1941年7月に入ると、香港政庁は域内の日本資産を凍結した。同年8月には軍人出身のマーク・エイチソン・ヤング氏が、第二十一代香港総督に就任。同年11月には戦時緊急法令を施行し、日本軍の侵攻に備えるよう全市民に要求した。
こうして香港の株式市場は、取引が激減した。若い株式仲介人(ブローカー)は、香港の防衛のために英軍に入隊。年配の株式仲介人も、英軍の支援兵団に入った。こうして株式市場は、閉鎖されていないものの、開店休業状態だった。
日本軍の香港攻略
香港島のセントラル(中環)を空襲する日本軍機
深圳河を越えて香港に侵攻する日本軍
(1941年12月8日)
九龍半島南端の尖沙咀を攻略する日本軍
(1941年12月12日)
ペニンシュラホテルでの降伏交渉
(1941年12月25日)
日本軍の第23軍司令官である酒井隆・中将は、1941年12月2日に香港攻略の命令を受領。同月5日には英領香港との境界線である深圳に、約3万人の兵力が集結した。これを察知した香港政庁は、非常事態を宣言した。
真珠湾攻撃があった1941年12月8日、酒井・中将は第23軍に香港攻略を命令。この日の早朝に第23軍の飛行隊が、啓徳空港などの英軍施設に最初の攻撃を加えた。
第23軍の陸軍戦力は、3つのルートから九龍半島を南下。これを迎え撃つ英軍は、1万3,000人にすぎなかった。大きな戦力差を前に、英軍は撤退を重ね、12月11日に九龍半島を放棄すると決定。香港島に退いた。
12月13日までに九龍半島の掃討戦を終えた第23軍は、ヤング総督に降伏を勧告。これが拒否されると、第23軍は12月14日から香港島への砲撃を開始した。
ヤング総督は中国軍との挟撃に持ち込むことに一縷の望みを託し、徹底抗戦に挑んだ。こうしたなか、第23軍は12月18日から19日にかけて香港島への上陸作戦を決行。香港島の地形は複雑であり、第23軍は英軍の頑強な抵抗に手を焼いた。
転機が訪れたのは、12月21日。第23軍が山中で貯水池を発見し、香港島全域を断水。さらに第23軍は香港島内の英軍を東西に二分することに成功した。
追い詰められた英軍は、12月25日に降伏。その日の夜に九龍半島のペニンシュラホテルで、ヤング総督は降伏文書に署名。こうして“香港の戦い”は終結した。日本軍の死者は約700人。英軍は約1,700人が死亡し、約1万人が捕虜となった。
英軍が降伏した1941年12月25日は、“ブラック・クリスマス”と呼ばれた。この日から香港は、3年8カ月にわたる日本占領時期を迎えることになった。
なお、その後のヤング総督や英軍捕虜の悲惨な境遇は、この連載の第二十四回で紹介している。
香港占領地の中国人
香港占領地総督の磯谷廉介・中将 捕虜収容所の英兵 日本軍が公示した香港の地名新旧対照表 日本語教育ラジオ放送の教材 香港を占領した酒井・中将は、ペニンシュラホテルに香港軍政庁を設置し、最高長官に就任。軍政を敷いた。英軍の捕虜はスタンレー(赤柱)の留置所などに送られ、香港警察は憲兵として徴集された。
香港軍政庁は再編され、1942年2月20日に香港占領地総督部が香港上海匯豊銀行(HSBC)本店に設置された。磯谷廉介・中将が初代香港占領地総督に就任。“以華制華”(華をもって華を制す)の方針の下、華民代表会と華民各界協議会という2つの中国人による組織が、諮問機関として設けられた。
これらの組織の創設目的は、日本軍による中国人を利用した香港支配。中国人の地位向上に資するものではなかった。英領香港でも“お飾り的な存在”とはいえ、中国人は行政局議員や立法局議員になることはできた。だが、日本占領下の香港では、中国人には何の権利もなく、その地位は一段と低いものとなった。
英領香港の影響を払しょくするため、香港の地名は日本風に改称された。例えば、ネイザンロード(彌敦道)は“香取通り”と命名された。西暦の使用は中止され、元号の昭和が使われることになった。神社の建設計画も進められた。
学校教育では多くの有名高校の校舎が、日本軍の厩舎、病院、捕虜収容所として徴発された。香港大学は教鞭を執る知識人が不足し、閉校状態となった。
こうしたなかで学校では、日本語課程や日本文化課程が設けられ、“敵性語”に位置づけられた英語は、使用が禁止された。日本に協力的な中国人を育成するため、香港東亜学院という専門学校も設けられた。こうした皇民化政策が、香港でも実施された。
日本占領下の香港経済
香港を占領した日本軍は、船舶や航空機の自由な出入りを禁止した。さらに銀行や銀号(両替商)のほか、株式市場などを封鎖。“敵性金融機関”の接収を始め、横浜正金銀行と台湾銀行が、これらの清算に当たった。
1850年に香港で創業した老舗百貨店のレーン・クロフォードも、英国資本だったことから“敵性企業”として接収され、松坂屋となった。
総督部指定の米配給所 帰郷させられる香港の中国人 食糧の不足が深刻化し、1942年には米、油、小麦粉、塩、砂糖などの配給制が導入された。それでも飢餓が蔓延し、栄養不足による餓死者が多数発生。配給制が1944年に廃止されると、後述する日本軍の通貨政策によるハイパーインフレで、食糧価格が高騰。やはり餓死者を出す結果になった。栄養不足による死者は、5万人に達したという見方もあるという。
食糧不足が深刻化すると、日本軍は1942年1月から帰郷政策を実施。香港に住む中国人を半ば強制的に広東省に追い出すことで、人口の削減を図った。旅費は自己負担であり、これを賄えない人々は、徒歩で広東省に向かうほかなかった。
こうして1942年12月までに60万人が香港を離れたが、その多くが悲惨な目に遭った。栄養不足から、病死者や餓死者が続出。口減らしのため、子どもや老人を置き去りにするケースもあった。
この帰郷政策の影響で、1941年3月は約164万人だった香港の人口は、1945年8月には約60万人に落ち込んだ。占領時期の後期になると、憲兵が街角で見境なく人々を捕らえ、強制的に広東省に追いやったという。
木材や金属の不足も深刻化。冬場の暖房のために、建築物の木材が盗まれた。電力や水道水の供給も停滞した。物資不足を背景に、投機に走る商人も出現。突然の品不足や供給過剰に見舞われるなど、人々は生活物資の調達に悩まされた。
なかでも香港経済を混乱に陥れたのが、軍用手票(軍票)の発行だった。これにより香港の人々は財産を奪われた。硬貨は金属資源の不足を背景に、日本へ持ち出された。さらに軍票の乱発で、ハイパーインフレが発生。前述のような餓死者の発生につながった。
軍票の被害については、この連載の第三十回と第三十一回で詳しく紹介しているので、ここでの説明は省略する。また、日本軍は準備資産の裏付けのない香港ドル紙幣(デュレス・ノート)の発行をHSBCに強要し、これも戦後に大きな問題となった。
日本占領下の株式市場
日本軍の管理下にあった香港の銀行や銀号は、1942年に業務を再開したが、株式市場は閉鎖状態にあった。こうした状態は、日本占領期間を通じて変わらなかった。
この連載の第四回でも紹介したように、上海では戦時中の1943年9月29日に、上海華商証券交易所の業務が再開された。株式という資産保全の受け皿を用意することで、買い占めによる物資の高騰を抑制するのが、日本軍の狙いだった。
戦時中の株式市場に対する日本軍の対応は、香港と上海で大きく違った。その大きな原因は、香港が前述のような物資不足にあり、日本軍が心配するような物資の買い占めが起きなかったからだ。
また、株式市場の構造が、香港と上海で異なることも、日本軍の対応が違った原因の一つだ。香港の株式市場は香港股份総会が中心。その会員の多くは西洋人であり、そこに中国人が混じっている状況だった。
一方、上海の株式市場は、西洋人が中心の上海衆業公所(The Shanghai Stock Exchange)と中国人による上海華商証券交易所に、明確に分かれていた。
西洋人の上海衆業公所は、日本軍が上海租界を占領すると、二度と再開することはなかった。香港でも西洋人が中心の香港股份総会は、占領時期にわたり閉鎖が続いた。
再開されたのは、中国人による上海華商証券交易所だけ。こうした事実を見ると、取引所の主催者層の違いが、日本軍の対応の違いにつながったようだ。
上海衆業公所と香港股份総会は、いずれも英国人を中心とした西洋人の取引所だった。二つの取引所の関係は戦前から密接であり、香港上場の株式は、上海でも売買された。上海上場の株式も、香港で取引可能だった。
同じ会社の株式が、香港と上海の両方に上場しているような状況であり、これは今日の中国株にも通じるところがある。例えば、中国銀行は香港にH株、上海にA株をそれぞれ上場している。ただ、同じ会社の株式でも、H株とA株には価格差が存在する。戦前の上海と香港でも、同じ会社の株式なのに、両地で価格差が存在したという。
戦前の上海での株式取引 こうした状況だったことから、上海衆業公所と香港股份総会は、両方そろって閉鎖する必要があったとみられる。
なお、当時の取引規模は、香港よりも上海の方が大きかった。制度的にも、上海の方が進んでいた。上海では毎週金曜日に株式先物取引が行われていたが、こうした仕組みが香港にはなかった。
上海には集中決済制度があり、毎週1回のペースで実施されていたが、香港に同様の取り決めはなかった。注文の方法も違っていた。上海では取引所ホールの黒板に注文価格を書き込んでいたが、香港では株式仲介人が大声で叫ぶ方式だった。
日本の敗戦と英領香港の復活
降伏文書に調印する香港の日本軍 1945年8月15日に日本は無条件降伏し、3年8カ月に及んだ香港占領時期が終わった。これを機に、香港を中華民国に返還すべきという世論も持ち上がったが、英国は譲らなかった。戦後の国共内戦を意識した蒋介石は英国に譲歩。最終的に英国による香港接収を容認した。
英国海軍のセシル・ハリデー・ジェプソン・ハーコート少将が、1945年8月30日に香港に到着。正式に日本軍から香港を接収した。香港では暫定的に軍政が敷かれることになり、株式市場はすぐには再開されなかった。香港の株式市場が復活するには、さらに1年ほどの時間を要した。次回は戦後の香港株式市場に話を進める。
降伏文書
副総督だった藤田類太郎・中将が署名
スタンレー(赤柱)収容所に収監される日本人戦犯
(1945年9月)
香港解放を祝う英中両軍(1945年9月)