15世紀に始まった“ポルトガル海上帝国”は、20世紀に入ると崩壊に向かった。ポルトガル共和国(ポルトガル)が次々に海外領土を失うなか、最後まで残ったのが中国のマカオだった。だが、4世紀以上にわたりポルトガル人が統治したマカオも、ついに1999年12月20日に中国に返還されることが決まる。
このマカオ返還とは、ポルトガル海上帝国の実質的な終焉であると同時に、1840年のアヘン戦争勃発に始まった中国の“半封建・半植民地”に、完全な終止符が打たれることを意味する。ギャンブル、売春、麻薬、黄金密貿易などで栄えた“ヴァイス・シティ”(悪徳の都)のマカオも、返還に向けた最後の激動を迎えることになった。
歴史的なマカオ返還からほどなく、世界は“20世紀最後の年”、“2000年代最初の年”を迎えた。それは中国にとって、新しい時代の幕開けとなった。
ポルトガルの海外領土
第二次世界大戦の終結直後、ポルトガルは多くの海外領土を抱えていた。15世紀に始まった“ポルトガル海上帝国”は、富の源泉だった広大なブラジルを失ったものの、健在だった。
インドの西岸には、ゴア、ダマン、ディーウ、ダードラー、ナガルハヴェーリーなど、都市サイズの海外領土が点在した。
アフリカの南部と西岸では、ポルトガル領東アフリカ(モザンビーク)、ポルトガル領西アフリカ(アンゴラ)、ポルトガル領ギニア(ギニアビサウ)という大きな海外領土も領有していた。
アフリカに近い大西洋地域では、カーボベルデ、サントメ・プリンシペを領有し、アジアでは中国のマカオとインドネシアのティモールを統治していた。
1933年に始まった“新しい国家”(エスタド・ノヴォ)と呼ばれるポルトガルのファシズム体制は、戦後も安泰だった。戦後の国際社会では、欧州諸国の植民地で独立運動が盛んとなり、“脱植民地化”が主流となったが、ポルトガルは1951年から海外領土を“海外州”と呼ぶようになる。これは海外領土の独立を認めないという意思の表れであり、世界の流れに逆行した方針だった。
崩壊に向かうポルトガル海上帝国
インド連邦の独立(1947年8月15日)
初代首相はジャワハルラール・ネルー
インドでは1947年8月15日に英国王ジョージ6世を元首とする立憲君主国家の“インド連邦”が独立した。1950年1月26日には共和制に移行し、“インド共和国”が誕生。インド共和国によるポルトガル領の回収に向けた機運が高まった。
インド政府は1952年にポルトガルの統治下にあったダードラーとナガルハヴェーリーを封鎖し、1954年8月に併合した。インド軍は1961年12月にゴア、ダマン、ディーウに軍事侵攻。ポルトガル軍は降伏し、これらの地域はインド共和国に併合され、ポルトガル領インドは終焉を迎えた。
アンゴラで戦うポルトガル軍 アフリカ南西部のアンゴラでは、1961年2月に独立戦争が勃発。アフリカ西岸のギニアビサウでも、1963年1月に独立戦争が始まった。ギニアビサウの独立戦争には、大西洋の島国であるカーボベルデも深くかかわっていた。
また、ギニア湾に浮かぶ島国のサントメ・プリンシペでも、1960年ごろから独立運動が本格化していた。こうしたアフリカでの独立戦争は、1964年9月にアフリカ南東部のモザンビークにも飛び火した。
アフリカ各地で連鎖的に勃発した独立戦争は、ポルトガルにとっては“植民地戦争”だった。当時の東西冷戦を背景に、独立戦争はソビエト連邦(ソ連)など社会主義陣営の支援を受け、10年以上も持続。ポルトガルは財政が軍事費に圧迫され、“西欧最貧国”と呼ばれるまでに疲弊した。
権力の座から落ちたサラザール
植民地戦争で疲弊したポルトガルでは、エスタド・ノヴォ体制に対する人々の不満が高まっていた。こうしたなか、独裁者のアントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール首相を“権力の座”から引きずり降ろしたのは、文字通り“椅子”だった。
サラザール首相には愛用していた椅子があったのだが、それが壊れ、彼は頭を強打した。1968年8月3日の出来事だった。なお、頭部を強打した原因については、椅子が壊れたせいではなく、浴室で転倒したためという異なる証言もある。
原因はともかく、サラザール首相が頭部を強打したのは確かであり、やがて脳出血の症状が現れるようになると、9月16日には昏睡状態に陥った。
退院3カ月後のサラザール元首相と学生たち
(1969年)
ポルトガル政府の要人たちは、すでに79歳だったサラザール首相が、すぐに死去すると考えた。そこで、アメリコ・デ・デウス・ロドリゲス・トマス大統領は9月17日に閣議を招集。9月27日にマルセロ・ジョゼ・ダス・ネヴェス・アルヴェス・カエターノが、第百一代首相に就任した。
サラザール元首相の墓 だが、みんなの予想に反して、サラザール元首相は1カ月あまりで昏睡状態から脱した。そこで、政府の要人らはサラザール元首相にショックを与えないように配慮。首相が交代した事実などを知られないように、政府はニセの新聞などを彼に与え続け、“いつも通り”の日々を過ごさせた。
サラザール元首相が死去したのは1970年7月27日。自分は首相であると信じたまま亡くなったと言われるが、死去する直前には、自身が置かれた状況に薄々気づいていたという見方もある。
カーネーション革命
カエターノ首相 サラザールの後継者となったカエターノ首相は、秘密警察の国防国際警察(PIDE)を組織改変したり、野党の存在を許したりするなど、いくつかの改革を実行した。しかし、エスタド・ノヴォ体制を存続させ、植民地戦争も継続した。
泥沼化した植民地戦争の継続に危機感を抱いたポルトガルの軍人たちは、1974年3月に“武装軍ムーブメント”(MFA)を組織。MFAが主導する反乱軍が、1974年4月25日に首都リスボンで決起し、カエターノ首相とトマス大統領の身柄を拘束した。
革命を喜び、戦車に群がる人々
(1974年4月25日)
クーデターに喜んだ女性が、反乱軍に赤いカーネーションを配り、それを兵士たちが身につけた。この赤いカーネーションが政変のシンボルとなったことから、このクーデターは“カーネーション革命”と呼ばれる。“欧州で最長の独裁体制”と呼ばれたエスタド・ノヴォ体制は、ついに終焉を迎えた。
第三共和政
カーネーション革命が成功したことで、ポルトガルは第三共和政に移行することになった。クーデターを主導したMFAは、植民地戦争に反対していたアントニオ・セバスティアン・リベイロ・デ・スピノラ大将に全権を委任。1974年5月15日に第三共和政の臨時政府が発足し、スピノラ大将が臨時大統領に就任した。
スピノラ大将 だが、スピノラ大将はMFAと対立するようになり、早くも9月30日に辞任。野に下ったスピノラ大将は権力奪回を目論み、1975年3月11日にクーデターを起こしたが、これに失敗し、海外に亡命した。
その後の臨時政府は、MFAを中心に、社会主義政党や共産主義政党などを加え、社会主義的な政策を導入した。こうしたなか臨時政府は権力闘争や派閥争いが絶えず、発足したばかりの第三共和政は混乱が続いた。
エアネス大統領(左一)とレーガン大統領(左二)
(1983年)
1976年6月に大統領選挙が実施され、軍人出身のアントニオ・ドス・サントス・ラマーリョ・エアネスが当選。こうして第三共和政は民主化を果たし、今日に至る。
植民地戦争の終結
臨時政府が発足すると、植民地戦争は一気に終結に向かった。1973年9月にギニアビサウが独立を宣言。1974年4月のカーネーション革命で誕生した臨時政府は、この年の9月にギニアビサウの独立を承認した。
1975年6月にモザンビークは独立し、“モザンビーク人民共和国”が成立。この年の7月には“サントメ・プリンシペ民主共和国”と“カーボベルデ共和国”も独立を果たした。11月にはアンゴラが独立し、“アンゴラ人民共和国”が誕生した。
東ティモールを占領したインドネシア軍
(1975年11月)
アフリカでの植民地戦争が次々と終結するなか、インドネシアのティモールでも独立機運が高まった。1975年11月に“東ティモール独立革命戦線”(フレティリン)は“東ティモール民主共和国”の独立を宣言したが、これをポルトガルは認めなかった。フレティリンはマルクス主義に傾倒していたことから、反共産主義のインドネシアはティモールに軍事侵攻した。
1975年12月に国連安全保障理事会はインドネシア軍の即時撤退を決議した。だが、インドネシアは1976年7月にティモールの併合を宣言。資本主義陣営の西側諸国は、このティモール併合を黙認した。インドネシアが反共産主義の立場を取っていたことから、この国と良好な関係を維持したいという思惑が西側諸国にあった。
ポルトガルと中国の外交樹立
ポルトガルは1975~1976年に海外領土を相次いで失い、残すはマカオだけとなった。ポルトガルの海外領土は、軍事侵攻や独立戦争で荒廃したが、マカオは1966年12月の“一二・三事件”を契機に、中国と良好な関係を維持するようになり、平和を保つことができた。その一方でポルトガルのエスタド・ノヴォ体制は、反共産主義を標榜していたことから、台湾の中華民国との国交を維持していた。
ポルトガルが1974年4月のカーネーション革命で第三共和政に移行すると、臨時政府は植民地戦争の終結を図ると同時に、中国との国交樹立を模索。1975年1月にポルトガルは“中華人民共和国が中国を代表する唯一の合法政府であり、台湾は不可分な中国の領土”と発表した。
マカオ駐留ポルトガル軍(1950年5月28日)
ポルトガル軍は1975年末にマカオから撤退
ほどなくポルトガルは中国を承認し、台湾の中華民国と断交した。マカオではポルトガル軍が1975年末までに撤退を完了。ポルトガルと中国は、国交樹立に向けた話し合いを始めた。
こうしたなかで、1978年にポルトガルはマカオ返還を中国に打診したという。だが、早急なマカオ返還は、英領香港との関係にも影響を及ぼすことから、中国はポルトガルからの提案を拒否したと言われる。ポルトガルと中国は、1979年2月8日に国交を樹立。マカオの主権が中国にあることを確認した。
「英中共同声明」の草案に署名する両国代表
(1984年9月26日)
1984年9月に英領香港の返還をめぐる「英中共同声明」の草案が署名されると、その年の10月に鄧小平は初めて「マカオの問題も香港返還と同じ時期に同じ方式で解決する」と公式に発言した。
その直後の1984年11月に、李先念・国家主席が中国の元首として初めてポルトガルを訪問し、エアネス大統領と会談。マカオの前途について意見交換した。翌1985年5月にはポルトガルのエアネス大統領が中国を訪問し、李先念・国家主席や最高実力者の鄧小平などと会談。こうして元首の相互訪問を終え、1986年6月30日に中国とポルトガルのマカオ返還交渉が始まった。
中葡交渉
マカオ返還をめぐる中国とポルトガルの交渉は、「英中共同声明」という見本があるため、1986年10月の第三回交渉までスムーズに進んだ。だが、その後は返還日をめぐり、中葡両国の意見が衝突した。
ポルトガルはマカオ開港450周年にあたる2007年など、21世紀に入ってから返還することを提案。これに対して中国は、2000年までにマカオを回収することが中国国民の悲願として拒絶した。
こうした中国の反応を受け、ポルトガルは1999年の返還に同意すると回答。具体的な日付について、ポルトガルは12月31日を提案したが、中国はクリスマスや新年を避けたいと要求した。こうして返還日は1999年12月20日ということで合意に至った。
鄧小平(左)と握手するシルヴァ首相(右)
「中葡共同声明」の署名式典
(1987年4月13日)
返還日をめぐる合意が成立したことを受け、1987年3月に第四回交渉が開かれ、「中葡共同声明」の草案に署名。この年の4月13日に中国の趙紫陽・首相とポルトガルのアニーバル・アントニオ・カヴァコ・シルヴァ首相が、北京市の人民大会堂で「中葡共同声明」に正式に署名した。
この「中葡共同声明」の正式承認により、マカオは返還までの過渡期に入った。なお、「中葡共同声明」は1987年内に両国で批准され、1988年1月に批准書を交換している。
マカオと香港の違い
マカオ返還が確定したことを受け、1988年4月に「マカオ基本法」の制定に向けた“澳門特別行政区基本法起草委員会”が発足。マカオ基本法は1993年3月31日に全国人民代表大会(全人代)で可決し、その日のうちに江沢民・国家主席が公布した。「香港基本法」が公布された1990年4月4日から数え、約3年後のことだった。
香港とマカオの基本法は、多くの点で同じだが、異なる部分もある。例えば、英領香港は租借地の新界(ニュー・テリトリー)を除き、ほかはすべて“王領植民地”(クラウン・コロニー)だった。つまり、香港島と九龍地区は、すべて英王室の所有地。ここでの土地所有形態は、英国と同じく“フリー・ホールド”と“リース・ホールド”に大別された。
フリー・ホールドは日本での土地所有とほぼ同じだが、リース・ホールドは日本の定期借地権に相当する。英領香港では聖ヨハネ座堂が例外的なフリー・ホールドの土地だが、そのほかはリース・ホールドだった。
新界では香港政庁が1905年に住民と集団借地権契約(ブロック・クラウン・リース)を締結。新界の住民は香港政庁から1997年6月27日まで土地を借りるという形態となっていた。
香港島の中区にある聖ヨハネ座堂
1847年に認められた香港で唯一のフリー・ホールドの土地
ただし、教会用地として使用することが条件
教会用地ではなくなった場合、香港政府の公有地となる。
このように英領香港では、例外的な私有地である聖ヨハネ座堂を除き、すべて香港政庁が所有する公有地だった。この歴史を引き継ぐかたちで、香港基本法の第七条には「香港特別行政区の域内の土地と自然資源は、すべて国家所有に属す」とある。皮肉なことに、国王が統治する英国の土地制度は、共産主義の公有財産制度と相性が良かった。
一方、マカオでは土地の私有権が認められていた。このためマカオ基本法の第七条は「マカオ特別行政区の域内の土地と自然資源は、“マカオ特別行政区が成立する前に法的に私有が確認された土地を除き”、国家所有に属す」となっている。つまり、マカオには一定規模の私有地が存在する。
清王朝との契約の合法性と土地私有を主張する人々
コロアネ島東部の黒沙村と九澳村の住民800人
2019年6月の集会
タイパ島やコロアネ島には、住民が清王朝の時代から土地を私有しているが、これらの多くはマカオ政庁で登記されていない。だが、マカオ基本法で私有が認められているのは“法的に確認された土地”だ。
法的に確認されていないマカオの私有地は、タイパ島やコロアネ島を中心に約40万平方メートルに上ると言われ、その所有権をめぐる問題は、今日に至るまで解決していない。
そもそも、英領香港の法体系は慣習に基づく“英米法”(コモン・ロー)だが、マカオは成文法を中心とする“大陸法”(シビル・ロー)だ。返還前から存在した香港とマカオの法体系の違いは、返還後にも影響を及ぼしている。
二つの基本法の違い
特別行政区としての在り方についても、二つの基本法には違いがある。行政長官に付与された職権は、マカオの方が強い。マカオ基本法の第五十条に列記された行政長官の職権は18項目。一方、香港基本法の第四十八条にある行政長官の職権は13項目しかない。
マカオ行政長官の就任宣誓をする賀一誠
第五期の選挙で当選した3人目のマカオ行政長官
(2019年12月20日)
特にマカオの行政長官は、一部の立法会議員を直接任命したり、裁判官を選任したりする権限を有しており、立法府や司法府への影響力を有している。一方、香港の立法会では、すべての議員を選挙で選ぶことが香港基本法の第六十八条で定められており、マカオのように行政長官による直接任命がない。また、香港でも裁判官を任命するのは行政長官だが、立法会の同意が必要となっている。
二つの基本法の最も重要な違いは“普通選挙”に関する規定だ。香港基本法の第四十五条には、“行政長官を普通選挙で選ぶ”という民主化の最終目標が記載されている。また、第六十八条にも“立法会の全議員を普通選挙で選ぶ”という一文が盛り込まれている。
真の普通選挙”(真普選)を要求する立法会の民主派議員
(2017年3月)
このような普通選挙を民主化の最終目標とする条文は、マカオ基本法にはない。この違いは、返還までの経緯や中国本土との関係が大きく影響している。香港については民主化というゴールが定められており、これは北京の中央政府による大きな譲歩だったと言えるだろう。
ギャンブル産業の独占経営権
返還後もマカオのギャンブル産業が存続することは確定事項だった。“カジノ王”のスタンレー・ホーが率いる澳門旅遊娯楽(STDM)の“ギャンブル独占経営権”が2002年まで残っていたからだ。
この連載の第七十二回でマカオのギャンブル合法化を紹介したが、その後の歴史を紹介する。
新中央酒店(ホテル・セントラル)
2階と7階に泰興娯楽総公司の賭場があった。
19世紀の中ごろにマカオでギャンブルが合法化されると、“番攤”(ファンタン賭博)を合法的に経営する賭館(ゲーミングハウス)が乱立した。こうした状況を背景に、マカオ政庁はゲーミングハウスの経営権を一つの会社に集約させることを決定。1937年に競馬とドッグレースを除くギャンブル独占経営権の入札を実施した。
ギャンブル独占経営権を落札したのは、傅老榕などが出資する“泰興娯楽総公司”。この会社が1961年までの24年間にわたり、ギャンブル産業を独占することになった。
泰興娯楽総公司は「カジノゲームの王様」と呼ばれる“バカラ”(中国語:百家楽)など、マカオでは新しいゲームを採用。経営者の傅老榕は、“賭王”(キング・オブ・ギャンブリング)と呼ばれた。
“賭王”なった若き日のスタンレー・ホー 泰興娯楽総公司のギャンブル独占経営権が1961年末で切れることから、再び入札が実施された。これを落札したのがSTDMだった。この会社の出資者は何東(ロバート・ホートン)の一族であるスタンレー・ホーや中国本土への物資密輸を手がけた霍英東(ヘンリー・フォック)など。STDMは2002年まで40年間にわたりマカオのカジノ産業を独占することが許され、スタンレー・ホーが新しい“賭王”となった。
この連載の第七十四回で紹介したように、戦後は1970年代まで黄金の密輸がマカオ政庁の大きな財源だった。その後はギャンブル産業が最大の財源となり、今日まで続いている。
マカオのジャンケット
STDMは1962年に同社で最初のカジノ“新花園娯楽場”をオープンした。“ルーレット”(中国語:輪盤)など西洋式のゲームを導入し、好評を博した。1970年にはマカオのカジノ産業を象徴する“澳門葡京酒店”(ホテル・リスボア・マカオ)と“葡京娯楽場”(カジノ・リスボア)をオープンした。STDMは“スロットマシーン”(中国語:角子機、老虎機)など、新しいゲームを次々と導入した。
マカオのカジノ産業を象徴する “葡京娯楽場”(カジノ・リスボア) マカオのカジノは、1980年代後半からVIPルーム(中国語:貴賓庁)で遊ぶ大口客(VIP)からの収入に依存するようになった。大口客の誘致や接待は、“ジャンケット”(中国語:畳碼仔)と呼ばれる“カジノ仲介人”が請け負った。
ジャンケット会社“太陽城集団”のVIPルーム入口
メンバー以外は入れない
“ジャンケット”という英語名は、中国語の“進客”(意味:客を入れる)に由来すると言われる。“進客”は中国の標準語(普通話)で“ジンクー”、広東語で“ジョンハック”という発音になる。
ジャンケットたちはカジノ好きな富裕層を把握しており、さまざまな勧誘活動で大口客をVIPルームに呼び込む。ジャンケットが大口客に販売するチップは、“ローリング・チップ”(中国語:泥碼、死碼)と呼ばれる。
“太陽城集団”のVIPルーム内部 ローリング・チップは現金に戻すことができない。つまり、ローリング・チップは一度買ってしまうと、すべて賭けに使い切るしかない。ローリング・チップで賭け、ゲームに勝つと、現金に交換可能な通常のチップを獲得できる。負けた場合、ローリング・チップは没収される。
ジャンケットはカジノから額面よりも1%前後低い価格で、ローリング・チップを仕入れる。それを大口客に額面価格で販売し、差額を収入とする。この収入を中国語で“碼傭”という。
星際娯楽場のローリング・チップ(泥碼
“NON NGOTIABLE CHIP”ともいう。
このチップは換金できない。
このローリング・チップを大量に買うのが大口客だ。マカオで大口客の接待を受けるには、最低でも数百万円のローリング・チップを買う必要がある。大物の大口客になると、ジャンケットはプライベートジェット機で出迎えに来る。ホテルやショーなども無料となる。
“バカラ”は“カジノゲームの王様”
大口客が遊ぶのも、このバカラが中心
どこのカジノでもバカラテーブルに人が集まる。
ジャンケットは大口客の金銭的面倒も見る。VIPルームに多額の現金が持ち込まれることはないが、もし大口客が賭金を増やそうとした場合、一般的にジャンケットが貸し付けることになる。
大口客の負けがかさみ、通常のチップを獲得できずに、ローリング・チップを使い果たすと、ジャンケットは賭金の貸し付けを申し出て、新たなローリング・チップを買わせようとする。
日本人女性のショー“京の舞嬢”(Tokyo Nights)
新葡京(グランド・リスボア)で開催
マカオに来る日本人はギャンブラーだけではない。
2007年6月の現地視察時に筆者が撮影
一方、大口客が大勝ちし、ローリング・チップを使い果たしたうえ、通常のチップを大量に獲得した場合、ジャンケットはそれを使って、もう一度ローリング・チップを買うよう勧誘。客室のランクアップから、時には高級娼婦の紹介に至るまで、色々な追加サービスを提示する。
こうしてジャンケットは、さらにローリング・チップを販売することで、収入を得ようとする。何度もローリング・チップを買う大口客は“ハイローラー”と呼ばれ、ジャンケットにとっては大事な“カネヅル”だ。
ジャンケットは巧みな言葉で大口客を調子に乗せ、有り金を使わせたうえ、借金までさせる。もちろん、大口客が借金を作れば、親切だったジャンケットは、恐ろしい“取立人”に変貌する。
2011年9月に大王製紙の井川意高・代表取締役会長による不正流用事件が発覚した。井川氏は2010年から2011年に複数の子会社から総額106億円を不正に引き出し、私的に流用。その理由はマカオなどのカジノで遊び、巨額の借金を抱えていたからだ。こうした借金を抱えた背景に、ジャンケットの活動があった。
井川氏は2011年11月に特別背任容疑で逮捕され、最終的に懲役4年の実刑判決を受けた。このようにジャンケットの甘い言葉は、しばしば大富豪を破滅させる。
ジャンケットと三合会
ジャンケットという仕組みを導入したのは、マカオのカジノ産業を独占していたスタンレー・ホーだった。ジャンケットの業務は上記の通りだが、夜遊びの案内を含む勧誘活動、賭金の貸し付け、借金取立などは、黒社会で暗躍する“三合会”(トライアド)と相性が良い。
和勝和の元老として有名な“上海仔”こと郭永鴻(白い服)
背後にいるのは和勝和の構成員たち
和勝和の歴史は長く、現在でも香港社会に影響力を有する。
ボスである“坐館”は2年ごとの選挙で選ばれる。
坐館を目指すには、投票権のある元老たちの支持が必要。
いわゆる“チャイニーズ・マフィア”である三合会については、この連載の第三十九回で紹介しているが、英領香港などに逃亡した中国国民党の一部がヤクザ化した“14K”や“新義安”などが有名。そのほかでは19世紀末に英領香港の華人労働者たちが結成した“和勝和”とその分派の勢力が強い。ジャンケットの背後には、こうした三合会の存在があった。
ギャンブルの賭金のうち、胴元の収入になる割合を“控除率”という。“ハウスエッジ”、“寺銭率”などの言い方もある。日本では日本の宝くじで50%以上、競馬や競輪などの公営ギャンブルで20~30%、パチンコで10%台などと言われる。控除率が高いほど、胴元に多くとられ、賭客には旨味がない。
マカオの大口客がVIPルームで遊ぶのは“バカラ”が中心。バカラの控除率は2~3%であることが多い。つまり胴元であるカジノの収入は賭金の2~3%であり、そのざっくりとした収入の分配は、マカオ政庁への納税に4割、ジャンケットに4割。残り2割がカジノの取り分だった。
言い換えれば、ジャンケットの収入は、“カジノ王”のスタンレー・ホーよりも多かった。このため、ジャンケットの利権をめぐる三合会の抗争が絶えなかった。
“街市偉”こと呉偉
現在は“呉文新”と名乗っている。
スタンレー・ホーは1988年にジャンケットを導入すると、この業務をフィリピンのカジノで働いていた香港人の呉偉に任せた。呉偉は英領香港の市場で豚肉を販売していたことから、その異名は“街市偉”(市場の偉)。街市偉は英領香港で傷害事件を起こし、フィリピンに逃亡。現地のカジノで商売に成功したことから、スタンレー・ホーに紹介された。
“崩牙駒”こと尹国駒 当時のマカオ14Kのボスは摩頂平という人物であり、彼には尹国駒という手下がいた。尹国駒は前歯がなかったことから、“崩牙駒”という異名を持っていた。街市偉は崩牙駒に摩頂平の打倒を依頼。成功すれば、街市偉が崩牙駒をマカオ14Kのボスにするという条件を提示した。
崩牙駒は1989年に摩頂平を何度も襲撃し、海外逃亡させるまでに追い詰めた。約束通りに街市偉は崩牙駒をマカオ14Kのボスに推し、さらにジャンケットの利権を二人で分け合った。
返還前の抗争
やがて崩牙駒の勢力は、街市偉を脅かすほどに強大化。そこで、街市偉は“カジノ王”のスタンレー・ホーに助けを求めた。だが、誰がジャンケットで儲けようが、スタンレー・ホーの収入に影響はない。スタンレー・ホーはヤクザ者の争いに興味がなかった。
新義安の構成員たち カジノ王の助けを得られない街市偉は、1995年に古巣の英領香港で新義安に援軍を求めた。一方、崩牙駒は“和安楽”(別名:水房)、“和勝義”、“大圏幇”などマカオの三合会を結集。こうして崩牙駒の連合軍と街市偉が手引きした新義安が、マカオで抗争を繰り広げた。この抗争は地の利を生かした崩牙駒に有利で、新義安は早々に撤退した。
人気芸能人の劉徳華(アンディー・ラウ)と崩牙駒
歌唱会を企画した崩牙駒が、劉徳華をマカオに“強制連行”
スタンレー・ホーなどの助力で事なきを得た。
劉徳華は崩牙駒の顔を立てるため、自ら歌うことを提案。
“渡世の義理”を理解した行動に、崩牙駒も満足した。
新義安を撤退させた崩牙駒は、ジャンケットの商売をさらに広げた。しかし、街市偉は崩牙駒の部下だった和安楽の頼東生(異名:水房頼)を裏切らせ、1997年5月に再び抗争を開始。英領香港の返還を控え、世界の目がマカオにも集まるなか、崩牙駒のマカオ14Kと水房頼の和安楽は、銃撃戦や爆弾テロなどをともなう激しい抗争を展開。多くの市民が死傷し、マカオの街は恐怖に包まれた。
崩牙駒は欧州からマカオの抗争を指揮していた。マカオ警察は崩牙駒を国際指名手配したが、早くも1997年10月にこれを解除。崩牙駒はマカオに戻り、黒社会の頂点に立った。街市偉や崩牙駒の勢力は、見る影もなくなった。
マカオの黒社会を制覇した崩牙駒は、1998年に自分の抗争を描いた映画「濠江風雲」(英題:カジノ)に出資。この映画は別名“駒哥伝”(駒アニキ伝)と呼ばれ、同年5月に中華圏で上映された。また、崩牙駒は米誌「タイムズ」や「ニューズウィーク」の取材を受け、自分がマカオ黒社会のボスであることも明らかにした。
だが、崩牙駒は調子に乗りすぎた。マカオ警察が崩牙駒の捜査に着手すると、銃撃戦や爆弾テロで対抗。1998年5月には警察幹部のアントニオ・マルティンス・バプティスタ(中国名:白徳安)を狙った爆弾事件を起こした。
崩牙駒(左)を逮捕したバプティスタ(右) これに激怒したバプティスタはただちに出動し、自ら崩牙駒を逮捕。崩牙駒は1999年に懲役15年の判決が下され、刑務所でマカオ返還を迎えた。皮肉なことに、崩牙駒の裁判では、彼自らが出資した映画「濠江風雲」が、証拠の一つとなった。崩牙駒の逮捕を機に、マカオ14Kは崩壊に向かった。
返還後のジャンケット
マカオ返還後はカジノ業界に競争原理を導入することになり、複数の会社に経営権を付与。STDMの独占体制は崩壊し、マカオのカジノ業界は最終的に6社体制に再編された。
マカオ半島のカジノ街 STDMの後継企業である澳門博彩控股(SJMホールディングス)は、香港資本の銀河娯楽(ギャラクシー・エンターテインメント)、米国資本の永利澳門(ウィン・マカオ)などと競い合い、かつて100%だった市場シェアは縮小の一途。今後はスタンレー・ホーのような“カジノ王”が出現することはないだろう。
ジャンケットという仕組みは返還後も残り、香港資本や米国資本のカジノも、これを大いに利用した。大王製紙の井川氏は、銀河娯楽や永利澳門のジャンケットなどから借金していた。
ジャンケットの多くは会社化した。マカオ政府は2008年に法律を整備し、ジャンケットを免許制とし、健全化を図った。だが、返還前の三合会との縁は、簡単に切れるものではない。一部のジャンケットは今日でもマネーロンダリング(資金洗浄)や違法な貸し付けを営んでいるという。
太陽城集団を率いた周焯華(アルビン・チャウ)
“洗米華”の異名を持つ崩牙駒の舎弟
“カジノルームの王”と呼ばれた凄腕ジャンケット
大口客への融資と回収が得意だった。
例えば、太陽城集団(サンシティ・グループ)は2007年2月に香港に上場したジャンケット会社(証券コード:01383)だが、その経営者の周焯華(アルビン・チャウ)は、崩牙駒の舎弟だったと言われ、“洗米華”(米洗いの華)という異名を持つ人物。2021年11月に洗米華はマネーロンダリングと違法なオンライン賭博の経営で逮捕された。太陽城集団はイメージ刷新を図り、2022年8月に社名を“LETグループ”に変更した。
世紀娯楽国際のトップを務める呉文新(街市偉)
グリーク・ミソロジー・カジノの開業で挨拶する様子
背後にはスタンレー・ホーの姿(向かって右後ろ)
なお、崩牙駒は後に刑期が13年10カ月に短縮され、2012年12月に出所。現在でも中華圏や東南アジアの黒社会で活動しており、2020年12月には「特別指定国民および資格停止者リスト」(SDNリスト)に掲載された。
また、街市偉は“呉文新”の名前でホテル業などのビジネスを展開し、現在では香港上場企業の世紀娯楽国際(証券コード:00959)で主席兼行政総裁を務めている。水房頼は2020年に中国本土での殺人容疑で、カンボジアで逮捕された。
中央が中国星集団の向華強(チャールズ・ヒョン)主席
右は周潤華(チョウ・ユンファ)
左は劉徳華(アンディー・ラウ)
3人は映画「賭神」(ゴッド・ギャンブラー)で共演
香港芸能界における新義安の影響力は大きい。
マカオの抗争に加わった香港の新義安も健在だ。その頭目とみられる向華強(チャールズ・ヒョン)は、中国星集団(チャイナ・スター・エンターテインメント)という香港上場企業(証券コード:00326)を支配下に置き、香港芸能界に影響力を有している。
マカオ返還
黒社会の抗争が終結し、マカオは返還に向けた準備を今日ピッチで進めた。マカオの実権は、何賢などの有力中国人が握っていたが、マカオ政庁の上級職公務員はポルトガル人で占められていた。
背景にはマカオの公用語が、返還が決まった後でもポルトガル語だけだったという事情がある。中国語が正式にマカオの公用語に加えられたのは1999年12月14日であり、返還の約1週間前だった。
初代マカオ行政長官に当選した何厚鏵(エドムンド・ホー)
“マカオ三大家族”の権威は返還後も続く。
上級職の公務員を務めているポルトガル人は、返還を機に多くが辞職する方針だった。そこで、下級職や中級職に甘んじていた中国人公務員の再教育と昇進が加速した。また、マカオの法律は、すべてポルトガル語であるうえ、植民地主義の色彩が強かった。そこで返還を前に法律の翻訳と整理にも着手。司法関連の人材育成も大急ぎで進められた。
1999年5月にマカオ特別行政区の行政長官選挙が実施され、何賢の息子である何厚鏵(エドムンド・ホー)が当選した。この連載の第七十四回で紹介した“マカオ三大家族”の権威は返還後も健在だ。
マカオ総督府でのポルトガル国旗降納式
(1999年12月19日)
1999年12月19日午後にマカオ総督府ではポルトガル国旗の降納式が開かれた。最後のマカオ総督は第百二十七代目のバスコ・ヨアキム・ロシャ・ビエイラだった。
この日の夜には中国の江沢民・国家主席とポルトガルのジョルジェ・フェルナンド・ブランコ・デ・サンパイオ大統領が出席する政権移譲式典が開かれた。
ポルトガル国旗を受け取るビエイラ総督 時計が1999年12月20日0時を示すと、中国人民解放軍の駐マカオ部隊が、関閘(ボーダーゲート)からマカオへの進駐を開始。こうしてマカオは4世紀を超えるポルトガル人統治から脱し、中国大陸における欧州人の支配地は一掃された。
ポルトガル海上帝国の終焉
1415年のセウタ占領に始まったポルトガル海上帝国は、1999年12月20日のマカオ返還により、“実質的”に終焉を迎えることになった。ただし、“名義的”にはインドネシアに占領されたティモールが残っていた。
なお、インドネシアに併合されたティモールでは住民に対する弾圧が続き、虐殺事件も発生。最終的にティモールは2002年5月20日に“東ティモール民主共和国”として独立を果たし、インドネシアによる占領から解放される。
これは国際法に基づけば、インドネシアからではなく、ポルトガルからの独立となる。東ティモールの独立により、ポルトガル海上帝国は“名義的”にも最期を迎え、約6世紀の歴史に幕を下ろした。
2016年11月にブラジルで開かれたCPLP第11回会議
加盟国の政府首脳が並ぶ。
ポルトガル海上帝国は瓦解したが、独立を果たした旧海外領土の国々は、ポルトガル語を絆として、相互に友情と協力を深めている。1996年7月に発足した“ポルトガル語諸国共同体”(CPLP)は、それを目的とした組織であり、宗主国ポルトガルと独立を果たした8カ国の合計9カ国が加盟している。
新しい時代の中国
マカオの主権は西暦2000年代を迎える直前の1999年に中国へ返還された。これは1840年のアヘン戦争勃発で始まった中国の“半封建・半植民地”に、完全な終止符が打たれたことを意味する。中国本土と台湾の分裂は続くが、これは中国人の問題。マカオ返還によって、中国の分裂をめぐる問題から外国人の支配地が一掃されたことは、歴史的快挙だった。
こうして中国は新しい時代を迎え、21世紀に入ると飛躍的に国力を増大させる。上海、深圳、香港の株式市場も急速に拡大し、中国を代表するIT企業やハイテク企業も上場するようになった。
2012年2月当時の習近平・副主席とバイデン副大統領
手にしているシャツには“米中友好を育む”の言葉
だが、2010年代に入ると、中国の国内総生産(GDP)は日本を抜いて世界2位となり、貿易の規模は世界1位となる。そうした規模だけではなく、先端技術でも中国の躍進が目立つようになり、米国はかつての日米摩擦のように、中国への圧力を加えるようになった。米国の対中圧力は、中国本土や香港の株式市場にも大きな影響を与え、株価低迷の一大要因となっている。
2022年11月14日にバリ島で再会した米中両国の元首 “中国はこれからどこに向かうのだろう?”この問いに答えるためのヒントは、歴史の中にある。この連載では、日本であまり紹介されない中国をめぐる数々の歴史とエピソードを紹介した。これらが読者の中国に対する理解や将来展望に資すれば幸甚である。
連載を終えて
2017年2月に始めた“中国株の底流”だが、今回をもって一旦終了する。かれこれ5年も続いた本連載では、中国株を話題の主軸にしながらも、中国本土、香港、マカオのほか、台湾、東南アジア、韓国などの歴史、文化、経済も紹介した。今回までに21世紀に入るまでの流れをほぼ紹介できたので、連載を終えるには、ちょうど良いタイミングだろう。
筆者は大学時代に東洋史学を専攻し、専門は中国戦国時代の秦の法律だった。大学院の修士論文を抜粋し、1997年に「秦上郡の性格と労役刑制度の発展」という拙稿を雑誌「東海史学」に残した後、上海市の復旦大学に留学。改革開放で活気あふれる上海市や深圳市の空気を肌で感じ、返還直後の香港を探訪する機会にも恵まれた。
大学時代に経済学への興味を覚えていた筆者にとって、留学中に見聞したことは大きな刺激となった。帰国後の2000年にアジア経済情報配信のNNAという会社で、北九州市駐在の台湾情報記者として働き始めると、中国経済への興味はさらに高まった。
NNAでは台湾半導体産業のニュースが自分の得意分野となった。2001年に広東省広州市に赴任すると、得意分野を中国本土の加工貿易などにも広げた。2002年にNNAを退職すると、創業間もない東京の中国株情報配信会社「トランスリンク」(現在のDZHフィナンシャルリサーチ)に転職。「中国株二季報」の立ち上げにも参加した。これを機に中国株にも詳しくなり、2004年に内藤証券に転職した。
このように仕事や興味の対象は少しずつ変わっていったが、“中国”というテーマはずっと変わらなかった。また、本質的に自分は“歴史研究者の端くれ”であるという自覚も変わっていない。
これは持論だが、歴史学は経済学や投資調査業務と相性が良い。筆者は高校三年生の時、大学の史学科に進学することを決めたのだが、周囲からは、“そんなことを学んで、何の意味があるのか?”“それを勉強して、食っていけるのか?”などと、散々言われた。
周囲の意見はもっともであり、歴史を学んでも、就職活動ではむしろ不利に働くかも知れない。歴史学で大儲けしたという話も聞かない。だんだんと歴史を学ぶことへの迷いが生じた。
歴史を学ぶのは面白い。ただ、歴史を学ぶ意義となると、自分でもよく分かっていなかった。となると、史学科に進学するのは、ただの“趣味”や“わがまま”なのかも知れず、学費の面倒を見てくれる両親に対し、申し訳なく感じた。
しかし、歴史学という学問は、それこそ人類の歴史と共にある。歴史を学ぶことに何の意義もなければ、歴史学は滅んでいたはずだ。だから、歴史学には何か大きな意義があり、ただ単に自分が分かっていないだけということは確信していた。そこで大学進学を前に、歴史を学ぶ意義について、自分なりの答えを出そうと考え始めた。
そんな時に国語の授業で三木清著「人生論ノート」の“旅について”を読んだ。その一節を紹介する。
“何処から何処へ、ということは、人生の根本問題である。我々は何処から来たのであるか、そして何処へ行くのであるか。これがつねに人生の根本的な謎である。そうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として変ることがないであろう。
いったい人生において、我々は何処へ行くのであるか。我々はそれを知らない。人生は未知のものへの漂泊である。我々の行き着く処は死であるといわれるであろう。それにしても死が何であるかは、誰も明瞭に答えることのできぬものである。
何処へ行くかという問は、飜って、何処から来たかと問わせるであろう。過去に対する配慮は未来に対する配慮から生じるのである。”
この最後にある「過去に対する配慮は未来に対する配慮から生じるのである」という言葉に、筆者は歴史を学ぶ意味を感じた。“人間は未来を知ろうとするからこそ、今日までの軌跡である過去の歴史に目を向ける。軌跡(歴史)が分かれば、これからの方向(未来)を知る手掛かりが得られる”というのが、この言葉に対する筆者の解釈だった。
思えば、予報や予想を出す際、人は過去に目を向ける。天気予報は過去の気象データのうえに成り立つし、競馬新聞は競走馬の過去のレース情報でいっぱいだ。保険や銀行も、過去のデータから、今後のリスクを想定する。
こうした事実から“自分は未来について考えるため、歴史を学ぶ”という答えにたどり着いた。「未来のため」という言葉には、大きな意義があると感じられた。だから筆者は、“歴史学は経済学や投資調査業務との相性が良い”と考える。経済学や投資調査業務も、基本的には未来について考察するのだから。
このような考えを持つ筆者だが、証券会社で働いているため、“歴史研究者の端くれ”としての知見を披露する機会は限られていた。だからこそ、“中国株の底流”を連載できたことは、非常にうれしかった。
そうした筆者に本連載の機会を与えてくれた株式会社リンクスタッフの杉多保昭・代表取締役には、深く御礼を申し上げたい。
なお、本連載で触れなかった二十一世紀になってからの物語は、別の機会があれば紹介したいと思う。
最後に、これまで本連載に付き合ってくれた読者諸氏に、心から御礼を申し上げたい。ありがとうございました。
令和五年正月吉日
内藤証券投資調査部チーフストラテジスト 千原靖弘