株券発行の口火を切ったのは遼寧省撫順市。1980年の赤レンガ株券が、股票(株券)と名のつくものの第一号だった。証券市場の第一号も遼寧省で生まれた。撫順市に隣接した省都の瀋陽市。そこに“瀋陽証券交易市場”が誕生した。1986年8月5日の出来事だった。赤レンガ株券の発行のように、中央政府の目を盗んでの開業だった。
日本人が建設した遼寧省本渓市の製鉄所 遼寧省を含む東北地方は、かつて満州と呼ばれていた。日本人が去った後、その資産は中国政府が接収。中華人民共和国の早期から工業地帯を形成していたが、終戦から40年以上が経過し、設備の老朽化が鮮明だった。設備改造の資金が必要だった。
危険な任務
こうした状況を受け瀋陽市政府は、1985年に企業債券を発行。さらに国営企業、集団所有制企業、さらに雇用創出のために設立された街道企業などが、多くの“疑似株券”を発行していた。その銘柄数は4,000近くに上り、総額4億元に達する資金を調達していた。
企業債券や“疑似株券”の購入者は、これらを発行した企業の従業員だけだった。彼らの預貯金の多くが有価証券に変わり、困った問題が生じた。急な出費が必要な時に、有価証券を現金化する手段がないからだ。その一方で有価証券を保有していない人々は、購入するチャンスをうかがっていた。
この問題を解決すべく、瀋陽市政府は証券取引市場の開設に乗り出した。市の幹部は規模の大きな信託投資会社を訪ね、証券取引市場の開設について打診したが、さまざまな理由をつけて断られた。“証券”や“市場”は政治的に危険なキーワードだったからだ。結局、この危険な任務は最も非力と言われていた地元の瀋陽市信託投資公司が引き受けることになった。
サクラ作戦
1986年8月5日に瀋陽市信託投資公司は市の中心部にある40平米の店舗で、有価証券の売買注文の受付を始めた。いわゆる店頭取引だ。これが中華人民共和国で最初の証券市場であり、“瀋陽証券交易市場”と呼ばれた。
開業初日に取り扱ったのは社債2銘柄。株券の売買はなかった。「盛り上がりに欠けるのでは?」と心配した瀋陽市政府の幹部は、社債を発行している企業の従業員100人近くを2台のトラックに乗せ、瀋陽市信託投資公司に運んだ。取引が閑散だった場合、彼らに売買させ、出来高を増すつもりだった。いわゆる偽客(サクラ)だ。
瀋陽証券交易市場の様子 トラックが到着すると、そこには予想していなかった光景があった。すでに数百人に上る市民が集まっていた。“サクラ作戦”はまったく必要なかった。
現地時間の9時40分に開業式典が行われた。出席した市の幹部と来賓は200人あまり。取引開始に付きものの打鐘はなかったが、爆竹や拍手の音が響き、たいへん盛り上がったそうだ。初日の売買代金は2万2,600元。まずまずの出来だった。
日本人記者の賭け
「初の証券取引市場が瀋陽で開業」という記事が、1986年8月6日付の「人民日報海外版」に掲載された。取引所ではなく、取引市場という言葉が使われたのは、資本主義との区別を明確にする狙いがあったらしい。今日から見れば、“自己欺瞞の言葉遊び”だが、当時は必要な措置だった。
開業2日目、在瀋陽米国総領事館から中国語に精通した女性領事がやって来た。社会主義国家に誕生した証券市場に興味を感じたそうだ。
「これまでの中国のやり方ですと、大きな改革には中央政府の幹部による現場指示がありました。中央政府の方がここにいらしているのですか?」と、彼女は質問。これに対する答えは当然、「いません」だった。実際のところ、瀋陽市政府は証券取引市場のことを中央政府に知られたくなかった。
事情を知った日本人の記者は、「この市場は2週間もせずに閉鎖されるだろう。賭けてもいい!」と言い放った。中央政府の後ろ盾がないことが、その根拠だった。
しかし、この賭けは日本人記者の負けだった。やがて取扱銘柄は55に増え、取引はますます活性化。40平米の店舗では狭く、1987年には200平米あまりの取引フロアを建てた。
瀋陽証券交易市場が歴史的使命を終えたのは1997年。上海と深圳に証券取引所が開業してから、すでに約7年が経過したころだった。2週間どころか、12年も続いた。
中国人に言わせると、日本人記者が賭けに負けたのは、中国の国情を理解していなかったからだ。改革開放が始まったばかりのころは、「ものは試し」という方針が一般的。「成功すれば、その経験を総括したうえで普及させる。失敗すれば、すぐに取り止め、他の方法を探る」――。こうした実情を知らず、厳格な統制とルールが社会のすみずみに及ぶ国と思い込んでいたことが、日本人記者の失敗だった。
ただ、瀋陽市政府の幹部自身も、この小さな冒険が12年も続くとは思っていなかったそうだ。