輿に乗る英国人と担ぎ手の中国人 英国人の香港統治が始まったころ、そこに暮らす中国人は社会的地位が低く、経済的にも貧しかった。だが、弱者である中国人でも、才覚のある者は、のし上がることができた。東洋と西洋が交わる英領香港が、商売をするには絶好の場所だったからだ。成功を勝ち取った中国人の一族は、英国人からも一目置かれる存在となり、“香港望族”と呼ばれた。
香港望族とは
明王朝時代の望族
仇英「竹院品古図」
“望族”とは名声と人望を集める一族を表す言葉だ。その名の通り、香港望族は築き上げた経済基盤を背景に、世代を越えて優秀な人材を輩出。英領香港の中国人社会、すなわち香港華人社会を代表する新しい上流階級となった。香港政庁も香港望族の人材を活用。英領香港における中国人の地位は、徐々に向上した。
香港望族は支配者層の英国人と交わり、その暮らしぶりは香港に住む中国人の憧れとなった。“彼らのようになりたい”という気持ちは、人々の商魂を鍛え上げ、香港経済を発展させる原動力となった。香港望族は良きロールモデルだった。
この連載では2019年6月の第二十九回から、株式市場を中心に英領香港の歴史を幅広く紹介し、ついに2021年5月の第五十二回では、最後の総督を取り上げた。香港返還の直前になると、かつては弱者だった中国人が、香港経済の主役となっていた。
どのようにして、中国人が香港経済の主役になったのか?今回は戦前の英領香港における香港望族とその系譜をたどる。まずは、香港望族の誕生前夜を解説する。そこには英国人だけはなく、さまざまなルーツを持つ大商人たちの姿があった。
香港のセファルディム
英国の香港統治が1841年に始まると、アヘン戦争の前から英中貿易に携わっていた英国系のジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)やデント商会(宝順洋行)のほか、米国系のラッセル商会(旗昌洋行)などが、東アジアでの活動拠点を香港に移した。
椅子に座るデビッド・サッスーン
周囲に立つのは三人の息子たち
英国の植民地となった香港に集まったのは、白人だけではなかった。大英帝国の各地から、さまざまな民族の大商人たちが、新たな市場を求めて香港を目指した。例えば、バグダード出身のセファルディム(東方系ユダヤ人)では、デビッド・サッスーンが創業したサッスーン商会(沙遜洋行)が有名だ。
サッスーン商会はアヘン貿易で財を築き上げた。上海市バンド(外灘)エリアのランドマークとなっているピース・ホテル(和平飯店)の北楼は、本来はサッスーン・ハウス(沙遜大廈)という名称だった。
外灘(バンド)の和平飯店
旧サッスーン・ハウス
サッスーン商会は上海進出を機に、この三角屋根が印象的なビルディングを建設。その一部は当初からキャセイ・ホテル(花懋飯店)として知られていた。1949年に中華人民共和国が成立すると、サッスーン商会の債務と相殺するかたちで、上海市政府がサッスーン・ハウスを接収。キャセイ・ホテルはピース・ホテルとして復活した。
現在の香港で有名なセファルディムとしては、カドーリー家(嘉道理家族)が有名だ。香港を代表する高級ホテルのペニンシュラホテル(半島酒店)や電力会社の中電控股(CLPグループ)は、いずれもカドーリー家が経営している。
香港のパールシー
ジャムシェトジー・ヌッセルヴァーンジー・タタ インドに住むゾロアスター教信者であるパールシーも、アヘン貿易に従事していたことから、香港に進出した。パールシーはササン朝ペルシアの滅亡を機に、イランからインドに逃れた人々。インド人と混血していないことから、その容貌は古代アーリア人の面影を残し、欧州人に近かった。例えば、ロックバンド「クイーン」のボーカルで有名なフレディー・マーキュリーも、パールシーだ。
ホルムジー・ナオロジー・モディ 英国がインド支配を始めると、東インド会社は少数民族のパールシーを重用。英国人の命令はパールシーを通じて、インド人に伝えられた。こうして英領インドにおけるパールシーの地位が向上。彼らの大部分はムンバイに移住し、貿易を通じて財力を蓄えた。有名なムンバイのタタ・グループも、パールシーのジャムシェトジー・ヌッセルヴァーンジー・タタが、1868年にムンバイで始めた貿易会社が始まりだった。
19世紀の香港で活躍したホルムジー・ナオロジー・モディ(麼地)は、香港で活躍したムンバイ出身のパールシー。香港大学の創設では、巨額の資金を寄付した。香港のチムサーチョイ(尖沙咀)にある“麼地道”という道路は、彼を記念して命名された。
20世紀前半の香港政財界で活躍したロバート・ホルムズ・コートウォール(羅旭和)は、父がパールシーで、母が中国人だった。彼は1925年に発生した大規模ストライキ“省港大罷工”で、香港政庁と広州国民政府の調停に努めたことで知られる。
だが、戦時中は華民代表会の主席として、日本軍の香港統治に協力。これが英国と中華民国の双方に非難され、寂しい晩年を過ごした。
香港のアルメニア人
キャチック・ポール・チャター セファルディム、パールシーに並び、アルメニア人も大英帝国に商業ネットワークを張り巡らせていた民族だった。南コーカサスに位置するアルメニアは、紀元前190年に王国を形成。ローマ帝国とイランのパルティアやササン朝ペルシアに従属していた。世界で最初にキリスト教を国教とした国としても知られる。
11世紀にバグラトゥニ朝アルメニアが東ローマ帝国に滅ぼれると、アルメニア人のディアスポラ(民族離散)が起きた。これを機にアルメニア人はユダヤ人のように、地中海世界の各地に広がり、独自の商業ネットワークを築き上げた。現在もアルメニア人の過半数は、アルメニア国外で暮らしている。
アルメニア人はイスラム世界にも進出し、シルクロードやインド洋での交易活動に従事。大英帝国の版図が拡大すると、インドやマレーシアに拠点を築いた。彼らが英領香港に進出するのは、当然の成り行きだった。
ジャームズ・ジョンストン・ケズウィック 1846年に英領インドのコルカタで生まれたキャチック・ポール・チャター(遮打)は、1864年に香港に渡ったアルメニア人。彼の親交は幅広く、セファルディムのサッスーン家、パールシーのモディ氏などと手を組み、香港でビジネスを展開した。
チャターはジャーディン・マセソン商会のジェームズ・ジョンストン・ケズウィック(JJケズウィック)とも親しく、1886年には彼と共同で港湾荷役会社のワーフ(九龍倉)を創設。1889年には不動産開発会社のホンコン・ランド(香港置地)を共同設立した。
なお、サッスーン家、モディ氏、チャター氏については、この連載の第三十四~三十五回でも詳しく紹介している。
19世紀の香港経済勢力図
劉貫道の「元世祖出猟図」
元王朝のクビライ・ハーン(白衣の人物)
さまざまな民族の出身者を従えている
このように19世紀の香港には、さまざまな出自の大商人が集まったが、経済の中心にいたのは、やはり支配階級である英国人の大企業だった。その代表がジャーディン・マセソンと香港上海匯豊銀行(HSBC)。英国系の大企業に次いで勢力があったが、先ほど紹介したセファルディム、パールシー、アルメニア人などだった。19世紀の香港において、中国人は社会的にも、経済的にも弱者だった。
こうした状況は、モンゴル人が建てた元王朝に似ている。元王朝ではモンゴル人の下に、イスラム教徒や西洋人で構成される“色目人”と呼ばれる支配階級を設置。モンゴル人と色目人が、大多数の漢人(華北の中国人)や南人(華南の中国人)を支配するという社会構造が築かれた。
これを19世紀の香港に当てはめれば、英国人がモンゴル人、大英帝国の諸民族が色目人、被支配階級が中国人と言ったところだろう。
英領香港に住む中国人の境遇は悲惨であり、彼らはモノのように扱われた。その一方で中国人の地位向上を訴える英国人もいた。この連載の第三十三回で紹介したように、第八代香港総督のジョン・ポープ・ヘネシーは、同胞の英国人から反感を買いながらも、香港に住む中国人の地位向上に注力。このヘネシー総督を語るうえで欠かせない人物が、以前も少し紹介した伍廷芳だ。
四邑人の伍廷芳
伍廷芳は本籍が広東省新会の“四邑人”だった。四邑人については、この連載の第三十九回で紹介しているが、現在の広東省江門市にあった新会、台山、開平、恩平の四地域(四邑地域)の出身者を指す。
彼らの祖先は、南宋時代まで江西省に近い広東省北部に住んでいたが、モンゴル軍の侵攻から逃れ、四邑地域に移住。四邑語を話す彼らは、独自のアイデンティティを有している。昔から海外に移民する傾向が強く、英領香港の人口に占める四邑人の割合は、当初から高かった。現在の米国でも、四邑人をルーツとする中国系アメリカ人が多い。
香港では芸能界、経済界、政界に、四邑人をルーツに持つ人が多い。例えば、芸能界では劉徳華(アンディー・ラウ)や梁朝偉(トニー・レオン)が有名。経済界では調味料メーカーの李錦記を創業した李錦裳。彼はオイスターソースの発明者として知られる。政界では2017年1月まで財政長官を務めた曽俊華(ジョン・ツァン)が四邑人を出自とする。
伍廷芳は英国の香港統治が始まったばかりの1842年に、英国の海峡植民地マラッカで生まれた。またの名を伍才という。3歳の時に広東省広州に移り、ここで幼少期を過ごす。非常に聡明な子どもであり、13歳の時に誘拐されたが、犯人を説得して、難を逃れたという。
伍廷芳は14歳の時に香港に渡り、香港のセント・ポールズ・カレッジ(聖保羅書院)で学ぶことになった。
“タイトルホルダー”の伍廷芳
セント・ポールズ・カレッジの創設者は、イングランド国教会のビンセント・ジョン・スタントン牧師。1843年に香港の地を踏んだスタントン牧師は、布教の拠点となる香港聖公会を創設。さらに英国で集めた寄付金を元手に、香港に学校を設け、キリスト教の伝道を始めた。これがセント・ポールズ・カレッジの始まりだった。
一人の教師と九人の生徒で始まったセント・ポールズ・カレッジは、私立学校であることから、独自の教育理念を貫き、19世紀に活躍した知識人を輩出。現在でも香港屈指の名門校として知られる。
法衣をまとう伍廷芳
中国人初の法廷弁護士(バリスター)
伍廷芳は学校を卒業すると、1861年から香港の裁判所で通訳として働き始めた。1874年に妻をともない英国に自費留学。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で法律を専攻し、1877年1月に中国人初の法廷弁護士(バリスター)となった。
法廷弁護士となってから間もなく、身内の葬儀のため、帰国の途に就く。3月のことだった。弁護士として英国での経験を積む機会を失ったが、中国へ向かう船の中で、任地へ向かうヘネシー総督と運命的な出会いを果たす。
伍廷芳と懇意になったヘネシー総督は就任早々、彼を英領香港の弁護士に任命。伍廷芳の名は清王朝にも伝わり、北洋通商大臣だった李鴻章は、彼の出仕を希望した。だが、伍廷芳はこれを辞退し、弁護士の道を選んだ。
伍廷芳には“中国人初の”というタイトル(称号)が多い。中国人初の法廷弁護士であり、中国人初のジャスティス・オブ・ザ・ピース(太平紳士)であり、中国人初の立法局議員だった。ヘネシー総督の下で、伍廷芳は中国人に差別的な法律の撤廃に注力。非人道的な公開鞭打ち刑の廃止や人身売買の防止を求めた。
清王朝での外交活動
前途洋々に思えた伍廷芳だが、1880年ごろに起きた香港の住宅バブルで破産。妻と義兄による投資の失敗が原因だった。英国人からの風当たりも強くなり、伍廷芳は香港を去ることを決心。李鴻章を頼り、1882年から清王朝に仕えることになった。
李鴻章の幕僚となった伍廷芳は、法律顧問として活躍。1895年の下関条約の締結では、批准書交換の担当大臣を務めた。1897年からは清王朝の駐米公使に就任。在米中国人の権利向上に尽力し、中国排斥法に抗議した。
苦力の人身売買
駐米公使として米国に赴任した伍廷芳(1908年) その頃の米国西海岸は、中国人を排斥するイエロー・ぺリル(黄禍論)が巻き起こっていた。米国では1865年の合衆国憲法修正第十三条の成立で、黒人奴隷制度が公式に廃止された。しかし、西部開拓の加速にともない、安価な労働力の需要は大きく、そこで目をつけられたのが、アヘン戦争で疲弊した中国華南地域の貧民だった。
船に詰め込まれ、“出荷”を待つ苦力たち 安価な労働力である中国の貧民は、苦力(クーリー)と呼ばれ、その人身売買が盛んだったのがマカオだ。ポルトガル政府の記録によると、1865~1873年にマカオから“出荷”した苦力は18万2,000人あまりに上った。
苦力は建前こそ自由移民だが、奴隷に近いものだった。自由意思で外国に行くことを希望した者もいたが、その契約は詐欺と言えるようなものだった。また、苦力には拉致被害者や債務者なども含まれていた。しかし、自由移民という建前があったので、これが黒人奴隷問題と同等に扱われることはなかった。
在米中国人の苦難
米国西海岸に渡った苦力は、低賃金でも、懸命に働いた。これに不満を抱いたのが、アイルランド系移民を中心とした白人労働者。彼らにとって苦力は、白人労働者の雇用を奪い、賃金水準を引き下げる悪者だった。
中国人襲撃を描いた壁画(1948年作) ロサンゼルスには四邑人のチャイナタウンがあったが、その住民が白人暴徒に襲撃されるヘイトクライム(憎悪犯罪)が発生した。1871年のことだった。暴徒の数は500人を超え、十数人の中国人が殺害された。
この事件で起訴されたのは、たったの8人。全員が過失致死などの有罪判決を受けたが、裁判所が罪を取り消し、全員を釈放した。中国人を標的とした襲撃事件は、1870~1880年代にかけて、西海岸の主要都市で頻発。大勢の中国人が財産や生命を奪われた。
このような中国人排除の白人世論を背景に成立した法律が、1882年の中国人排斥法だった。特定民族の入国を禁止する米国の法律は、これが初めて。この法律は1943年に廃止されたが、現在でも「中国人の排除」という言葉は、合衆国法典の第八編「外国人および国籍」の第七章に、表題として残っている。
伍廷芳が公使として米国に赴いた背景には、こうした問題があった。彼は苦力が多かった米国、メキシコ、ペルー、キューバなどを歴訪。20世紀に入ると、パナマ、エクアドルなども訪問し、現地の華僑を慰問した。
中国人蔑視の人権問題
19世紀の中国人の人権状況は、現在からは想像もできないほど悲惨だった。黒人奴隷に代わる安価な労働力として酷使され、さらに異郷の地で差別と迫害に遭った。中国人蔑視は黒人差別と同じく、世界的な人権問題だ。その風潮は今日も残っており、中国批判の声の裏に、中国人そのものの民族性を蔑視する考えが見え隠れする。
新型コロナの世界的な感染拡大を受け、再び中国人差別の風潮が湧き起っている。差別やヘイトクライムの矛先は、中国人だけではなく、同じ東アジア系の日本人や韓国人にも向かっている。黄禍論のような思想は、まだ滅んでいない。
ヘイトクライムに抗議するアジア系アメリカ人の親子 「世界の民族の林に立つ」とは、中華民族の復興について、中国の歴代指導者が何度も口にする言葉だ。民族を樹木にたとえ、世界がその林であると表現しており、そこに中華民族も他の民族と肩を並べて立てるようになることが、偉大なる復興であるという意味だ。
なぜ、こうした言葉が生まれたのか?かつての中国人の境遇を見れば、よく理解できるだろう。
孫文を追って広州へ
1911年の辛亥革命で清王朝が崩壊すると、伍廷芳は1912年1月1日に中華民国の司法総長に就任。だが、その数カ月後に袁世凱が政権を掌握すると、すぐに辞任した。1916年に袁世凱が亡くなると、伍廷芳は外交総長として出仕。しかし、袁世凱の後継軍閥が支配する北京の北洋政府では、政争に巻き込まれ、苦々しい日々を過ごすことになった。
伍廷芳の墓(右)
中央は孫文による墓標、左は伍朝枢の墓
広東省広州市の越秀公園
こうしたなか、孫文が北京の北洋政府に対抗するため、1917年に広東省広州に中華民国軍政府(護法軍政府)を樹立すると、伍廷芳はこれに参加。孫文の下で、外交部長、広東省長、財政部長などの要職を務めた。伍廷芳は英領香港、清王朝、中華民国の各政府で、数々の要職を務めた稀有な人物だった。その波乱の生涯は、1922年6月22日に広州で最後を迎えた。
勉学に励めば、たとえ中国人であっても、英国の法廷弁護士になることができ、社会的地位も高まり、祖国や同胞のために貢献できることを伍廷芳は示した。こうした彼の人生は、地位が低かった中国人のロールモデルとなった。
経済史に残る伍廷芳の足跡
伍廷芳は政治だけではなく、経済分野でも活躍した。清王朝の時代は、唐胥鉄路を経営する開平鉄路公司で要職を務めた。開平鉄路公司は清王朝の鉄道会社“中国鉄路公司”の前身。この会社が経営する唐胥鉄路は、河北省唐山の開平炭鉱の石炭を運ぶ鉄道で、当初の全長は約9キロメートル。1881年に開通した。
唐胥鉄路を視察する李鴻章と幕僚 中国で最初の鉄道は、1876年に上海で開通した全長15キロメートルの呉淞鉄路。中国の鉄道開業は、日本に比べて4年近く遅れていた。呉淞鉄路は英国人が建設。一方、伍廷芳が関わった唐胥鉄路は、中国最初の鉄道ではなかったものの、中国人が建設した初めての鉄道として名を残した。
伍廷芳は鉄道だけではなく、海運分野にも足跡を残している。1873年創業の海運会社である輪船招商総局は、中華民国の時代になると、商弁招商局輪船公司に改称。伍廷芳はその経営トップに就任した。商弁招商局輪船公司は現在も招商局集団(チャイナ・マーチャンツ)として存続している。
名門の何福堂ファミリー
何福堂・牧師 伍廷芳の妻は、何妙齢という女性。彼女は何福堂・牧師の次女だった。福堂の家族は、優秀な人材を輩出しており、香港屈指の名門一族として知られていた。
何福堂は1817年に海峡植民地マラッカに生まれた。現地のアングロ・チャイニーズ・カレッジ(英華書院)で、神学、ヘブライ語、ギリシャ語などを習得。卒業した後は、この学校で教鞭を執った。
1843年にアングロ・チャイニーズ・カレッジが香港に移転すると、これに従い何福堂も移住。香港でも神学を学び続ける一方で、布教活動にも従事した。
伍廷芳に嫁いだ何妙齢 何福堂の次女である何妙齢は、伍廷芳に嫁いだ。不動産投資に失敗したことが原因で、伍廷芳とともに中国本土に移住。伍廷芳が亡くなった後、何妙齢は香港に戻り、夫の遺産や上海での不動産投資で蓄えた財力を生かし、幅広い慈善事業を展開した。
何福堂の五男である何啓は、医師であり、法廷弁護士であり、立法局の議員でもあった。香港で初めて、サーの称号を得た中国人でもあった。孫文の師であり、その革命事業を支持した。
何啓 また、何啓は事業家でもあり、親戚の区徳とともに、九龍湾の埋立てによる宅地造成事業を推進。これは伍廷芳の構想に基づく事業でもあった。1914年に設立された事業会社は、何啓と区徳から一文字ずつ取り、“啓徳営業有限公司”と名付けられた。
この事業は1925年に起きた“省港大罷工”の影響などで失敗し、埋立地は香港政庁が買い上げた。この埋立地はのちに、香港啓徳国際空港(カイタック空港)として活用された。
伍朝枢 なお、伍廷芳の息子である伍朝枢は、父が駐米公使に就任したことを受け、1897年に渡米。ワシントンで教育を受けた。1905年に帰国した後は、広東省で働いたが、1908年に英国に公費留学。ロンドン大学とケンブリッジ大学で法律を学び、弁護士資格を取得した。
1912年に帰国すると、父の伍廷芳とともに、中華民国政府や孫文の中華民国軍政府で活躍。伍廷芳や孫文の死後は、国民政府の政争に巻き込まれ、政界から退いた。1934年に46歳の若さで病没。香港で亡くなったが、広州にある父の墓の傍らに埋葬された。
アヘン大王と呼ばれた利希慎
アヘン販売をめぐる英中対立は、やがて戦争に発展し、英領香港が誕生するきっかけとなった。アヘン販売は1858年の天津条約で合法化され、長期にわたり中国社会を蝕んだ。
英国が中国へのアヘン販売禁止に動き出したのは、20世紀に入ってから。英領インドでの茶葉栽培に成功したことで、対中貿易赤字の懸念がなくなったうえ、中国産アヘンに押され、インド産アヘンが競争力を失ったことが、その背景にあった。
アヘンを吸引する中毒者 英国と清王朝は1907年にアヘン貿易禁止で合意。十年間かけてアヘン貿易をゼロにすることになったが、清王朝の崩壊で頓挫した。清朝王朝の末期から中華民国の初期にかけ、中国でアヘン栽培が復活し、再び流行。社会情勢が不安定ななか、一部の地域ではアヘンが通貨の代わりを果たしたという。
中華人民共和国が成立すると、アヘンは数年間で姿を消した。だが、1978年の改革開放によって、海外からヘロインなどが持ち込まれるようになると、中国政府は薬物犯罪に厳罰で臨んだ。そうした姿勢の背景には、アヘンに苦しんだ歴史がある。
このように中国社会を苦しめたアヘンだが、これによって財を築いた中国人もいた。それが利希慎の一族だ。この一族も四邑人であり、海外の出自だった。
利希慎の父親である利良奕は、1848年にカリフォルニアで起きたゴールドラッシュを目指し、香港経由で渡米。帰国した後、香港で商売を開始した。取り扱ったのは、男性下着とアヘンだった。
利良奕の息子である利希慎は、1879年にハワイで生まれた。米国式の教育を受け、17歳で帰国すると、クイーンズ・カレッジ(皇仁書院)に入学した。
彼が入学したクイーンズ・カレッジは、1862年に創設された香港初の公立中高等学校ガバメント・セントラル・スクール(中央書院)を前身とする名門校。数多くの著名人を輩出した。現在も成績優秀者が続出する名門校として知られる。
クイーンズ・カレッジを卒業した利希慎は、母校の教師、HSBCの職員、マレーシアでの通訳、ミャンマーでの会社経営などを経験。最終的に父のアヘン販売を継いだ。
1923年に利希慎は、ジャーディン・マセソン商会から、香港島イースト・ポイント(東角)一帯の土地を購入。ここにアヘン精製工場を建設する予定だったが、香港政庁がアヘン禁止を発表したことを受け、計画を利園山(リー・ガーデンズ・ヒル)の不動産開発に変更した。
利希慎(右)と息子の利銘沢(左) この土地はコーズウェイベイ(銅鑼湾)でも有数の商業地として発展。こうして利希慎ファミリーの不動産王国が誕生した。これを足掛かりに、金融や貿易に事業を拡げ、香港屈指の資産家となった。
利希慎はマカオでのアヘン専売権を有していた。その専売権をめぐるトラブルから、1928年4月30日に利希慎は香港のセントラル(中環)で暗殺された。銃弾を三発浴び、即死だった。暗殺犯は最後まで見つからなかった。
利希慎の家族写真 利希慎の一族は、英領香港時代の香港四大望族の一つに数えられた。ただ、アヘン販売に手を染めていたことから、市民から憎まれてもいた。不動産王国を築いた利希慎だったが、非業の死を遂げた。
なお、利希慎の名は、香港の地名や建物名に数多く残る。また、現在も香港に上場している希慎興業は、彼の不動産王国を継承する企業として知られる。
コンプラドールの何東
伍廷芳、何福堂、利希慎のように、英領香港の発足当初から活躍していた中国人は、すでに一定の財力を蓄え、西洋式教育を受けていた華僑が多かった。だが、19世紀の後半になると、海外の出自ではなく、英領香港で力を蓄えた中国人も出現した。
その代表的人物が、ジャーディン・マセソン商会のコンプラドール(中国語:買弁)だった何東だ。コンプラドールとはポルトガル語由来の言葉であり、西洋人の会社に雇われて、その経営活動を支援する中国商人を意味する。
チャールズ・ヘンリー・モーリス・ボスマン 何東は1862年にユダヤ系オランダ人男性チャールズ・ヘンリー・モーリス・ボスマンと中国人女性の間に生まれた。本名は何啓東。父のボスマンの中国名“何仕文”から、何姓を名乗った。幼少期から中国での教育を受け、“文史哲”(文学・史学・哲学の総称)を習得。彼の容貌は西洋人のようだが、そのアイデンティティは中国人だった。
何東 成長すると、西洋の教育も受け、クイーンズ・カレッジの前身であるガバメント・セントラル・スクールに進んだ。彼は英語も流暢であり、英語名はロバート・ホートンと名乗った。ホートンとは何東の広東語の発音を意味する。
なお、父親のボスマン氏は香港でのビジネスに行き詰まり、1873年に渡英。1888年に英国籍となり、1892年に亡くなった。
学校を卒業した何東は、中国の税関に就職。1881年にジャーディン・マセソン商会の通訳となり、やがてコンプラドールとして頭角を現した。ジャーディン・マセソン商会の保険会社を管理するまでに出世した何東は、従弟と共同で何東公司を設立。砂糖取引など独自のビジネスを展開した。
自分の会社を経営しながらも、何東はジャーディン・マセソン商会での仕事もこなし、1894年にはコンプラドールのトップとなった。
ジャーディン・マセソン商会のコンプラドールとして頂点を極めた何東は、1900年に辞職。その後は自分のビジネスに注力した。上海や青島などにも進出。大きな財力を蓄えた何東は、政治の世界にも足を踏み入れる。その関心はいつも祖国である中国にあった。
康有為 清王朝では1898年に、光緒帝が“戊戌の変法”と呼ばれる改革を断行。日本の明治維新と同じく、立憲君主制による中国の近代化を目指した。だが、改革に反対する西太后と袁世凱がクーデターを起こし、光緒帝を監禁。改革はわずか103日で終了した。
この“戊戌の変法”に、何東は関わることになる。光緒帝を監禁した西太后や袁世凱は、戊戌の変法を支持した官僚を次々と処刑。“戊戌の変法”の中心人物だった康有為は、上海の英国領事館に保護され、さらに香港へ渡った。香港で康有為をかくまったのが、何東だった。
康有為をかくまった何東の自宅は、ミッドレベルズ(半山区)に位置するアイドルワイルド(紅行)という豪邸。ミッドレベルズは香港島にそびえるヴィクトリアピーク(太平山)の北麓に位置する。
何東(右二)と自宅のアイドルワイルド ヴィクトリアピーク一帯は支配階級である英国人の居住地であり、中国人がここに住むことは1930年まで禁止されていた。ただし、香港総督の許可を得た中国人だけが、ここに住むことができた。何東は初めてミッドレベルズに住居を構えた中国人だった。
1920年代に入ると、何東は中国の内戦を回避するために奔走。各地の軍閥を遊説した。中国の政財界に大きな足跡を残した何東は、1956年に香港で死去。台湾に逃れた蒋介石も、哀悼の意を表した。何東の一族は、その後も多くの人材を輩出。英領香港時代の香港四大望族の一つに数えられる。
ユーラシアンの家系
英領香港の統治が始まると、さまざまな民族がこの地に集まり、何東のような欧州人と中国人の欧亜混血の人々(ユーラシアン)が生まれた。彼らはその容貌から、すぐに欧州人の血筋と分かる。欧州人と中国人の双方から差別され、当初の生活は決して豊かなものではなかった。
香港という特殊な社会環境下で、ユーラシアンたちは支配者階層の白人でなく、非支配者層の中国人であるというアイデンティティを有していた。厳しい環境下で人並み以上の努力を重ね、中国式と西洋式の教育を受け、卓越した語学力を生かし、香港政財界で勢力を拡大。欧州人と中国人の双方から差別されるため、同じ境遇のユーラシアン同士で婚姻関係を結び、強固に結束した。
羅長肇 何東のほかに有名なユーラシアンとしては、スコットランド商人のトーマス・ロズウェルと中国人女性の間に生まれた羅長肇がいた。羅長肇は1869年生まれ。何東の親友であり、彼の勧めでジャーディン・マセソン商会のコンプラドールとなる。
羅長肇の長男である羅文錦は1893年生まれ。カドーリー家の会社で重役を務めるなど、ビジネスマンとして成功。立法局の議員も務めた。彼は何東の長女と結婚した。
何東の義父である1850年生まれの張徳輝も、ユーラシアンの家系。百貨店レーン・クロフォードを創業したスコットランド商人のトーマス・アッシュ・レーンが、彼の祖先だった。
洗徳芬 何東の妹が嫁いだ1870年生まれの黄金福は、父がノルウェー出身の船乗りで、母が中国人。何東と同じく、ガバメント・セントラル・スクールで学び、卒業後はワーフに就職し、コンプラドールとして数百人の部下を抱えるまでに出世した。
洗徳芬は1856年生まれ。父は英国商人のスティーブン・プレンティス・ホール。ガバメント・セントラル・スクールで学び、弁護士として活躍。娘は何東の甥と結婚した。
何東(前列中央)とユーラシアンの友人たち
右後は羅長肇、左後は弟の何福
このようにユーラシアン家系の婚姻関係は複雑だが、その中心にあったのが、何東の一族だった。何東には多くの実兄弟と異父兄弟がいたうえ、彼自身も二人の妻と一人の妾、それに内縁の妻が一人いた。その子孫は非常に多い。
存続し続けた清王朝の法律
何東(前列中央)と二人の妻(前列左右)
前列左は張静蓉(張徳輝の娘)
前列右は麦秀英(張静蓉の従妹)
後列左は三男の何世礼で、張学良の参謀官だった人物
後列右は何世礼の妻の洪奇芬
英領香港には二つの法体系があり、中国人は一夫多妻が可能だった。1841年に香港島を占領したチャールズ・エリオット大佐は、中国人は引き続き現地の慣習によって治めると宣言した。こうして英領香港の欧州人は英国の慣習法であるコモン・ロー(英国法)に従うが、中国人は清王朝の法律「大清律例」に基づいて統治されることになった。
このため、欧州人が絞首刑となる犯罪でも、中国人は斬首刑に処せられた。「大清律例」には公開鞭打ち刑もあり、欧州人から見て非人道的な刑罰が、香港の中国人に施された。伍廷芳が廃止を求めたのは、こうした刑罰だった。
「大清律例」は一夫多妻制を認めていた。このため、英領香港の中国人は、「大清律例」を盾に、複数の女性を側室や妾として娶ることができた。清王朝は1911年に滅亡したが、その後も「大清律例」は香港華人社会で通用する法律として存続した。
「大清律例」に代わる成文法が編纂されたのは、1970年代に入ってから。つまり、清王朝の滅亡から約60年にわたり、香港では「大清律例」が生き残っていた。香港華人社会における一夫多妻制は、1971年に施行された「婚姻制度改革条例」によって、完全に撤廃された。
香港の子
ユーラシアンの墓地「昭遠墳場」 何東は1897年に香港島西部のマウント・デイビス(摩星嶺)の土地を墓地にする権利を取得。ここを昭遠墳場と名づけ、何東ファミリーだけではなく、ユーラシアンの専用墓地とした。
ここは人生を終えた彼らの“安息の地”となった。民族帰属意識に揺れたユーラシアンは、英領香港という特殊な環境が生んだ人々だった。文字通り香港に骨を埋めた彼らは、誰が何を言おうと“香港の子”だった。
香港社会に基盤を築いたユーラシアンだが、戦後は影が薄くなった。世界各地の人材と資本が香港に流入したからだ。ユーラシアンの一族は過去に築いた資産を継承し、それを生かしてビジネスを続けているが、独自の優位性は失われていった。ただ、その一方で彼らに対する偏見や差別もなくなり、いまではすっかり香港社会に溶け込んでいる。
周永泰ファミリー
海外とのつながりを有した四邑人とユーラシアンは、英領香港の早期に台頭した中国人だった。一方、海外とのつながりがない中国人が英領香港で力をつけたのは、その多くが20世紀に入ってからだった。彼らは英領香港の周辺地域から、新天地を求めて香港にやって来た人々だった。
周少岐 周永泰は1830年に広東省東莞に生まれた。1862年に香港に移住。冠婚葬祭用品の仕事を始め、後に貴金属・宝飾品事業を手がけ、財産を築いた。非常に先見の明があった人物であり、ビジネスのグローバル化を察知すると、子どもに英語学習を命じた。
息子の周少岐は1863年に香港で生まれた。クイーンズ・カレッジを卒業した秀才で、父の事業を継承。1903年に立法局の議員に任命された。だが、突然の不幸が、周少岐を襲った。1925年7月の台風で、住宅が倒壊。彼と妻子を含む11人が亡くなり、息子の周埃年だけが生き残った。
周埃年 周埃年は1893年生まれで、当時31歳。オックスフォード大学で法律を専攻し、法廷弁護士の資格を取得した逸材だった。1914年に香港に帰ると、弁護士を辞め、金融事業や保険事業を展開。瞬く間に、香港華人社会を率いる若きリーダーとなっていた。
1925年の台風で両親と兄弟姉妹を失った周埃年は、父の周少岐と同じく、立法局の議員となる。父子二代で立法局の議員となるのは、香港史上初だった。
周卓凡 周少岐の弟だった周卓凡は、兄とは違い、中国文化を学ぶよう父に命じられた。その成果もあり、清王朝の科挙に挑み、“秀才”の資格を得た。清王朝の税関に勤務した後、香港に戻り、兄の周少岐をサポート。株式投資に長け、有名になった。
この周卓凡の三男が、1903年生まれの周錫年。香港大学の医学部を卒業すると、ロンドン大学などに留学。1927年に香港に戻り、耳鼻咽頭科の病院を開業した。英領香港で中国人が耳鼻咽頭科の医師となるのは、これが初めてだった。
周錫年 周錫年は医師を務める一方で、不動産投資などの事業も手掛けた。戦後も政財界で活躍したが、1972年に起きた乳業大手のデイリー・ファームの株式買収合戦に敗れ、権勢を失った。
この周永泰ファミリーも、英領香港時代の香港四大望族の一つに数えられていた。
李石朋ファミリー
李石朋は出生年は不明だが、広東省鶴山で生まれたとみられる。またの名を李佩材という。若いころから広東省広州で果物やシルクの商売を手がけていたが、うまくいかなかった。そこで再起を図り、香港に渡る。神父の助けを受け、無料で学問を身に付け、船会社の事務員となった。非常に才覚があり、その数年後には船会社を買い上げ、自ら経営するようになった。
第一次世界大戦で英国政府は香港の船舶を次々と徴発したが、李石朋の船はどれも老朽化が進んでおり、これを免れることができた。香港の船舶が希少となるなか、彼の商売は急拡大。ベトナムと香港を結ぶ食糧輸送で大儲けした。
李子方 1891年に香港で生まれた息子の李子方は、クイーンズ・カレッジを優秀な成績で卒業。1912年に香港大学が開校すると、すぐに入学し、第一期の卒業生となった。大学を卒業した後は、英国留学する計画だったが、1916年に父の李石朋が死去。留学をあきらめ、二人の兄と一緒に家業を継ぐことにした。
父の李石朋は、華人資本の銀行を創設する構想を描いていた。李子方は香港華人社会のリーダーだった周寿臣を引き込み、1918年に東亜銀行を創設。西洋式の経営スタイルで、香港の華人企業を金融面から支援した。
周寿臣 周寿臣は1861年に香港で生まれ、清王朝の高級官僚となった人物。彼もクイーンズ・カレッジに学んだ秀才だった。清王朝が滅亡すると、香港に戻り、華人社会のリーダーとして迎えられた。1921年に立法局の議員となり、1925年の“省港大罷工”では調停役を務めた。
1926年にはサーの称号が認められ、中国人として初めて香港政庁行政局の議員も務めるようになる。1936年には中華民国からも叙勲された。その名声は高く、香港を占領した日本軍も、周寿臣には敬礼を欠かすことができなかった。
周寿臣は1925年に東亜銀行の主席に就任し、1959年に亡くなるまで、その地位にあった。東亜銀行は周寿臣の幅広い人脈を生かし、海外支店を設けるまでに成長。香港でも指折りの華人資本銀行として知られるようになった。
1920年代から1930年代にかけて、多くの華人資本銀行が倒産するなか、預金者に銀貨や金の延べ棒を見せつけることで、取り付け騒ぎを防止。今日でも香港最大の華人資本銀行として存続しており、その株式はハンセン指数の構成銘柄でもある。
李福兆 李石朋ファミリーは東亜銀行を中心に繁栄。政財界や法曹界などに多くの人材を輩出し、英領香港時代の香港四大望族の一つとなる。1969年に遠東証券交易所(遠東会)を創設し、英国人による証券市場の独占を打ち破った李福兆(ロナルド・リー)は、李石朋の孫。李福兆の活躍と悲劇は、この連載の第四十一回や第四十八回などで、詳しく紹介している。
望族の興亡
英領香港時代の四大望族として、何東一族、利希慎一族、周永泰一族、李石朋一族を紹介した。ただ、この四大望族の数え方は諸説ある。“船王”と呼ばれた許愛周の一族、何東の娘婿である羅文錦の一族、“質屋王”と呼ばれた高可寧の一族などを四大望族の一つとする見方もある。望族とはいかないまでも、それに近い中国人は多かった。
第二次世界大戦と戦後の国際情勢は、香港華人社会を大きく変えた。新興勢力に押され、衰退した望族もあれば、環境と時代の変化を捉え、ますます繁栄した望族もあった。しかし、そうした香港望族も英国人を圧倒するまでは、さらに長い年月を要した。