宝安企業による延中実業の買収事件から3カ月が経ち、1993年12月29日に全国人民代表大会(全人代)の常務委員会は「公司法」(会社法)を承認。中国の経済体制改革はさらに前進し、1994年を迎えた。中国の市場経済や証券市場は、まだまだ未熟な状態。日本人にとって5年前の天安門事件の印象が強く、今後の中国がどうなるかは未知数という見方が多かった。こうしたムードのなか、中国本土の株式市場に注目したのが、山一證券の傘下にあった大阪の内藤証券だった。
中国視察のインパクト
内藤証券の現会長である内藤誠二郎は、1989年に山一證券を退職し、内藤証券に入社。1992年に常務取締役に就任した。内藤氏は1993年の春に山一證券の系列証券会社でなど構成される「十三会」のアジア研修ツアーに参加し、中国を訪れた。その時のことを以下のように回顧している。
「上海の街は古いビルをすべて解体しているかのようで、ホコリだらけでした。証券取引所はホテルの宴会場内にあるような状況でしたし、わたしが訪れた現地の証券会社に至っては、中学校の裏門から入った校舎の片隅の2~3階に事務所がありました。
それでも成長の勢いは強く感じられ、事務所には彼らが計画している高層の新社屋ビルの完成模型が飾ってありました。
当時、わたしは新しいビジネスモデルを見つけようとの思いがあったわけではなかったのですが、上海や深圳の勢いを目の当たりにすると、中国株を取り扱う必要性を感じざるを得ませんでした」
上海市の街は喧騒とホコリにまみれていたが、東京よりもはるかに活気にあふれていた。明日への希望に満ちた人々の目の輝きを見て、内藤氏は中国の将来性を確信したという。
社長説得工作
その当時の日本では、英領植民地だった香港の株式は数社が取り扱っていたものの、中国本土の株式を本格的に扱う証券会社はなかった。帰国した内藤氏は役員会で中国株の将来性を語ったが、反応は冷めたものだった。
一人では分が悪い――。そう考えた内藤氏は一計を案じ、知人の業界紙記者を内藤証券に入社させた。彼も中国株の将来性を認識している人物だった。こうして内藤氏は二人で当時の社長だった瀬戸公介に中国株の取り扱いを進言。さらに「百聞は一見に如かず」ということで、上海視察も勧めた。
内藤氏の熱意に押され、瀬戸社長も中国を視察。その効果もあり、ついに中国株の取り扱いにゴーサインを出した。業務開始に向けた準備を進めるなか、内藤氏は山一證券時代の同僚に街で出くわした。「中国株なんか、止めておけ。いまにヤケドするぞ」と笑われたが、内藤氏の決意は揺るがなかった。
こうして、1994年9月に山一證券の香港支店を通じ、香港株と上海B株の取り扱いをスタート。これが内藤証券の柱の一つである中国株業務の始まりだった。
だが、中国はまだまだ“近くて遠い国”だった。そこで中国市場に対する見識を深めることを目的に、1995年3月に役職員16人による中国研修を敢行。中国本土の上海市や深圳市、それに香港を視察。こうした研修ツアーは毎年実施されることになった。
1995年12月には上海申銀証券と業務提携し、情報交換や人的交流にも乗り出す。1996年4月には深圳B株の取り扱いも始めた。こうして1998年3月期には中国株の売買代金は200億1700万円、預かり残高は58億4800万円に成長した。
租界時代の住宅地が更地に(93~94年頃) かくして、内藤氏の目論見は成功し、中国株業務は内藤証券を支える柱の一つとなった。役員会の冷ややかな反応を受けながらも、瀬戸社長を動かした熱意はどこから来たのだろう。内藤氏が目撃した1993~1994年の中国を振り返ってみよう。
1993~94年の上海市
内藤氏が目撃したように、1993年の上海市では租界時代からの住宅の解体が進展。建物と人が密集する街中をすり抜けると、急に視野が広がり、まるで空襲を受けたような破壊の跡に出くわす。それは再開発のための更地であり、上海市の色々な場所で見られた。
1991年12月に着工したテレビ塔「東方明珠塔」(オリエンタル・パール・タワー)は、1993年当時はまだ建設中。完成したのは1994年で、上海市の新たなシンボルとなった。
建設中の東方明珠塔
(93~94年頃)
左から上海中心大廈、上海環球金融中心、東方明珠塔
東京タワーより高い468メートルを誇った東方明珠塔だが、十数年で埋没する。2008年に超高層ビル「上海環球金融中心」(シャンハイ・ワールド・ファイナンシャル・センター)が近隣に完成。高さは492メートルで、東方明珠塔を見下ろした。
上海市最大の繁華街「南京路」(93~94年頃)
上海地下鉄1号線の開通式典
上海市最大の繁華街「南京路」
夕涼みする人々(93~94年頃)
オフィスの前に立つキャリアウーマン ファッショナブルな装いは、多くの女性の憧れだった(93~94年頃)
外灘(バンド)の広場でダンスに興じる高齢者たち 服装などもファッショナブルとなった(93~94年頃)
しかし、上海環球金融中心もすぐに抜かれる。2016年に完成した超高層ビル「上海中心大廈」(シャンハイ・タワー)は高さ632メートル。上海市の浦東新区に林立する超高層建築群は、このエネルギッシュな街のスピード感と競争の激しさを象徴している。
上海市は地下鉄の建設が遅れていた。かつて海の底だった上海市は、地盤が軟弱だからだ。このため上海市最大の繁華街「南京路」は、人と車で大混雑。慢性的な渋滞のせいで、バスに乗るよりも、歩く方が早く目的地に着く有り様だった。
そんな上海市に地下鉄1号線が開通したのは1993年5月28日。地下鉄の数は増え続け、いまでは総延長が600キロメートルを超え、東京の2倍以上に達している。
その南京路も夏の夜になると、近隣住民がサマーベッドなどを歩道に並べ、夕涼みに興じる。誰でもエアコンを所有する今日では、ほとんど見かけない光景だ。
人々の装いも変化した。外資企業が入居するオフィスビルなどでは、ファッショナブルなキャリアウーマンを目にする機会が増えた。才気に溢れ、仕事で成功した女性は “女強人”と呼ばれ、若い女性の羨望の的だった。
かつては人民服(中山装)ばかりだった高齢者もシャツに身を包み、広場などでダンスなどに興じた。改革開放から十数年が経過し、人々は“明日は今日よりも、来年は今年よりも良くなる”という明るい見通しを持っていた。
天安門事件の印象が強く残る日本人や欧米人は、中国の先行きに一抹の不安感を抱いていたが、上海市民をはじめとする多くの中国人は、プロレタリア文化大革命(文革)のような時代に戻ることはないと確信していた。
“大哥大”と呼ばれた携帯電話は、金持ちのシンボルだった。この時代はオートバイも、高級品の部類に入っていた。これらを所有する人は羨望の眼差しを受け、持っていない人々は、彼らを目標に成功を目指した。子どもたちは勉強に励み、多くの社会人が新たな知識を身に付けるため、夜間学校などで英語やコンピューターなどを学んだ。
体感でしか得られない認識
“大哥大”(携帯電話)を手にしたオートバイの男性 どちらも金持ちの象徴的アイテムだった(93~94年頃) 生徒には目の疲労回復マッサージが義務づけられた 社会人学校は受講者の肩がぶつかり合うほど盛況 1993~1994年の上海市は、このような活気と熱気に包まれていた。この当時の日本では、中国のニュースは今に比べ少なかった。情報の質もイマイチ。ましてや現地のムードなどは、活字や映像のメディアがいくら頑張っても、十分に日本へ伝わっていなかった。
“体感”でしか伝わらないものが、この世にはある。例えば、子育ての苦労。これは経験しないと分からないことが多い。言葉を尽くして訴えても、育児経験がない人にはなかなか伝わらない。子育て中の女性や泣き止まない幼児に対する意見が分かれる一因に、育児経験の有無があったりする。
外国に関する情報も、“体感”しなければ伝わらないことが多い。いくら国内で情報を集めても、いくら現地に行ったことがある人から話を聞いても、「実際に行ってみたら、それまでの印象とは全く違っていた」なんていうことは、よくある話だ。
インターネットが発達し、情報が氾濫する今日、人々は活字や映像を見ただけで、すべてが分かった気になれる。だが、そうして得られた認識は、“体感”が欠如している。“体感”に基づく認識とは異なるものだ。こうして人々の間に、“体感の有無”による認識のギャップが生じる。
中国に関しては、この種のギャップが特に大きい。メディアでしか中国を知らない人と現地を“体感”した人とでは、中国に対する認識に深い溝が生じている。異なる認識の人々の間で意見がぶつかり、日本人の“中国観”はますます混乱している。書店の中国関連書籍のコーナーで本のタイトルを見わたせば、それがよく分かるだろう。
内藤氏の熱意と他の役員たちの冷たい反応というギャップは、上海市での“体感”の有無が原因だった。こうした認識の溝を埋めるには、現地に行くしかない。つまり、“体感”の共有が必要であり、社長や役職員を動かすために現地視察を推進したのは、賢明な判断だったと言えるだろう。
波乱の1994年
内藤証券が中国株業務を始めた1994年、中国の株式市場は株価対策に揺れていた。1993年から続く下落相場を受け、2月に深圳証券取引所は株式新規公開(IPO)を停止すると発表したが、大した反応は得られなかった。
CSRCと国務院の株価対策を伝える「上海証券報」 3月には中国証券監督管理委員会(CSRC)の劉鴻儒・主席が株価対策を表明。株式売却にともなう所得税を年内は課税しないといった方針などを示し、上海総合指数は3月14日の上昇率が前日比で9.91%に達したが、効果は一時的なものにとどまった。
大きな転機が訪れたのは7月末。CSRCと国務院が株価対策に乗り出すことを「人民日報」が報道。年内のIPO停止、株式追加発行の抑制、投資家誘致の拡大などの方針を示したことで、8月1日の上海総合指数は上昇率が前日比33.46%を記録。8月の3日と5日も急騰し、上昇率はいずれも前日比で20%を超えた。
しかし、9月中旬に入ると、利益確定売りに押される。国務院が日計り商いを1995年1月1日から廃止すると発表すると、10月5日の上海総合指数は急落し、下落率は前日比10.71%に達した。日計り商いの廃止で、その日に買った銘柄が翌日になるまで売れなくなることを投資家は嫌気した。
その後の上海総合指数は緩やかな値動きとなったが、1994年末の終値は前年末に比べ22.30%安。年間を通じて下落したのは、これが初めてだった。
内藤証券が取り扱いを始めた上海B株は年間で39.12%下落。10~12月の下落率も22.95%という大きさであり、内藤証券の中国株業務は、決して順風満帆という船出ではなかった。
揺籃期の中国株市場に飛び込んだ内藤証券は、2019年で中国株業務の25周年を迎える。活況に沸くこともあれば、我慢を強いられることもあった四半世紀だったが、いまも“中国株のパイオニア”として前進を続けている。