コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

韓国の通貨危機と苦難の歴史

2022.2.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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1997年7月2日にタイ王国で起きた通貨危機は、周辺の東南アジア諸国に広がり、あたかも台風のように北上した。10月には台湾や香港にも通貨危機が波及。大韓民国(韓国)もかつてない危機に直面した。韓国の人々は未曽有の“国難”を乗り越えようと、強固に結束。その時の話は、今でも語り草になっている。今回は韓国の通貨危機と金融市場の概要を紹介したうえで、民族的紐帯や結束力の強さが生まれた背景を探る。

香港の通貨防衛

台湾が1997年10月17日に通貨防衛を放棄すると、ヘッジファンドは香港への通貨攻撃を本格化させた。ヘッジファンドによる猛烈な売りを受け、1997年10月23日に香港ドルの先物為替相場(フォワードレート)が急落。前日は1米ドル=11.49750香港ドルだったが、それが1米ドル=13.69000香港ドルまで値下がりした。

大規模な香港ドル売りに対して、これを香港金融管理局(HKMA)が買い受けた。ヘッジファンドは香港ドルを手放し、香港金融管理局から米ドルを受け取る。同時に、香港金融管理局は準備資産の米ドルを手放したため、受け取った香港ドルを消却する。これが繰り返された。

香港ドルは大規模に消却され、そのマネタリーベースが減少。日本の日本銀行当座預金(日銀当預)残高に相当する香港のアグリゲート・バランスが枯渇した。その結果、香港銀行間市場では翌日物金利が年利で300%近くに上昇。金利の急騰を嫌気し、香港株式市場ではハンセン指数が急落。終値は前日比10.4%安を記録した。

空売りに使う香港ドルの金利が急騰したことは、ヘッジファンドの資金調達コストが急増したことを意味する。これでは利益をあげるどころか、損失を出す可能性もある。そこで、ヘッジファンドは香港ドルへの攻勢を緩めた。

こうして香港は通貨攻撃の第一波を撃退。しかし、それは金利の急騰と株価の急落という“痛み”をともなう勝利だった。

韓国金融市場の動揺

香港の金融市場が動揺した翌日の1997年10月24日、韓国が金融危機に揺れた。ウォンの対米ドル相場は、前日の1米ドル=913.4ウォンから、1米ドル=938.3ウォンに下落。下落率は1.3%に達した。韓国証券取引所(KSE)の総合株価指数は、終値が前日比5.5%安の570.91ポイントをつけた。

総合株価指数は週明けの10月27日に前日比7.1%安となり、その翌日も6.6%安。ウォンの下落も続き、11月17日には初めて1米ドル=1,000ウォンを突破した。ウォンの取引は中断され、主要銀行は外貨決済不能に陥った。

韓国はそもそも財閥の過剰投資で資金繰りが悪化していた。1997年1月に韓宝鉄鋼(ハンボチョルガン)が不渡りを出した。3月には特殊鋼製造の三美(サムミ)も倒産した。こうしたなかでアジア通貨危機が波及し、10月は自動車メーカーの起亜(キア)も経営破綻し、韓国の国家信用格付も引き下げられた。

第二の“国恥”

11月になると、韓国が国際通貨基金(IMF)に救済を要請するという情報が流れ始め、ウォンや総合株価指数の下落が加速。12月3日に韓国政府はIMF、アジア開発銀行(ADB)、世界銀行(WB)、日本、米国から総額550億米ドルの融資を受けることで合意し、その条件を受け容れた。こうして韓国は5年近くにわたる“IMF時代”を迎えることになった。

韓国政府が呑んだIMFの融資条件に反対する人々 融資条件を受け容れたことで、韓国はIMFによる構造改革を迫られた。韓国の人々は“経済の国家主権を失った”と嘆き、これを日本統治時代に続く“第二の国恥”と呼んだ。その直後に実施された大統領選挙では、野党の新政治国民会議(セジョンチグンミヌェイ)から立候補した金大中(キムデジュン)が当選した。

“金集め運動”に応じて金製品を拠出する人々 韓国放送公社(KBS)は1998年1月に“金集め運動”(クムモウギウンドン)を始め、債務返済のために黄金を拠出するよう国民に呼びかけた。“第二の国恥”から韓国を救おうと、約350万人に上る人々がこれに応じ、結婚指輪、金メダル、十字架など大事な金製品を手放した。4月までに200トンを超える黄金が集まり、債務返済の大きな助けとなった。韓国の人々の結束力には、すごいものがある。


復旦大学の日本人と韓国人

筆者は1997年9月から2年間にわたり、上海市の復旦大学に留学した。留学生は国際文化交流学院という区画で生活する。ここには世界各地から700人ほどの留学生が集まっていたが、なかでも多いのが日本人と韓国人だった。

ここでは無試験でも本科生の留学生として入学でき、卒業すれば学士の学位を得られる。そのうえ当時は中国での留学費用も安かった。つまり、日本での学費と大差ない金額を出せば、受験しなくても、中国で大卒になれた。復旦大学は中国の名門であり、人気も高かった。

こうした事情を背景に、復旦大学には日本から若者が数多く集まり、まったく受験勉強しないまま、大学生として在学していた。しかし、親の目が届かないので、学業はそっちのけで遊び回り、いつまで経っても中国語を満足に話せない日本の若者も多かった。

この本科生ルートとは別に、日本の大学に籍を置く交換留学生や企業などの海外駐在員も、復旦大学で中国語などを学んでいた。日本人同士とはいえども、交換留学生や海外駐在員は、遊び回る本科生の若者とは距離を置いた。交換留学生や海外駐在人も、いくつかのグループに分かれ、日本人全員が結束することはなかった。

政通路にあった国際文化交流学院の留学生宿舎
撮影時の2007年は移転済みで、すでに無人
一方、韓国人留学生が多い理由は、徴兵制度だった。大部分の韓国の若者にとって、兵役は恐怖そのものらしい。一緒に酒を飲むと、兵役の辛さと恐さに関する話題が付き物だった。韓国の若者は兵役の猶予を目当てに、中国の大学に留学するケースが多かった。

韓国人留学生は結束力があり、親睦的なイベントなどをよく自主的に開催し、かなりの人が参加していた。韓国人留学生の結束力の強さやアイデンティティへの誇りは、日本人を超える。韓国で“金集め運動”が成功したのは、当然の結果と思う。

ほとんどの韓国人留学生は受験勉強を経験しており、成績良好の人が多く、遊んでばかりの日本の若者とは対照的だった。だが、1997年の終わりごろになると、復旦大学から韓国人留学生が激減。アジア通貨危機の影響で、留学資金が枯渇し、帰国を余儀なくされたからだ。

韓国の危機的状況を筆者は肌で感じた。また、遊んでばかりの人が居残り、まじめな人が去らねばならない状況に、やるせなさを覚えた。アジア通貨危機の影響で、1998年の韓国経済は5.1%のマイナス成長を記録。“漢江の奇跡”(ハンガゲギジョク)と呼ばれた急速な経済成長も終焉した。

戦前の韓国株式市場

大韓天一銀行の本店(1909年) アジア通貨危機で韓国の通貨や株価が急落したことを説明したが、この国の金融市場や株式市場については、日本でそれほど知られているわけではない。そこで、韓国の通貨や株式市場の成り立ちを紹介する。

韓国では1899年に民族資本の大韓天一銀行(テハンチョニルネン)が初めて株式を発行した。この大韓天一銀行は、今日のウリ銀行(ウリウネン)の前身。“ウリ”とは韓国語で「わたしたち」を意味する。

1910年8月29日に大日本帝国が大韓帝国を併合し、朝鮮半島は日本統治時代を迎えた。1911年に日本人による有価証券現物問屋組合が結成され、組織的な有価証券の売買が始まったが、組合員の決済不履行ですぐに解散した。

1920年に株式会社の“京城株式現物取引市場”が設立され、約30銘柄の株式が売買されるようになる。1931年に朝鮮取引所令が制定されると、京城株式現物取引市場は仁川米豆取引所と合併し、株式会社の“朝鮮取引所”となった。

朝鮮取引所の会員だった明治証券の広告 第二次世界大戦中の1943年に朝鮮取引所令が廃止され、朝鮮証券取引所令が制定されると、朝鮮取引所は特殊法人の“朝鮮証券取引所”に改組。証券取引は終戦間近の1945年8月13日まで続いた。大日本帝国が無条件降伏すると、1946年1月16日に米軍は朝鮮証券取引所の解散を命じた。



戦後の韓国株式市場

韓国証券取引所の正しい漢字表記は、“韓国証券去来所”(ハングク・ジュングォン・コレソ)だ。“去来”(コレ)とは取引を意味する。

大韓証券取引所(大韓証券去来所)の開業
建物は昔の京城株式現物取引市場
韓国証券取引所の前身は、営団制の“大韓証券取引所”(大韓証券去来所)で、1956年2月11日に設立された。韓国証券取引所は同年3月3日に首都ソウルで開業。当時の上場企業は12社だった。

余談だが、ソウルとは“首都”を意味する韓国語。この都市は李氏朝鮮時代に漢城府(ハンソンブ)という名称であり、中国でも長期にわたって漢城(ハンチョン)と呼ばれた。

2005年1月19日にソウル市長だった李明博(イミョンバク)が、公式の中国語名称を韓国語に近い“首爾”(ショウアル)にすると発表。これを受け、中国語での呼び名も変わった。なお、日本統治時代のソウルは、京城府(キョンソンブ)と呼ばれた。

1962年4月1日に大韓証券取引所は営団制から株式会社制に転換。1962年5月3日に公営制に移行し、韓国証券取引所に改称した。1988年3月1日には会員制となった。

1996年5月17日に株式会社コスダック証券市場(コスダック・ジュングォン・シジャン)が設立され、ベンチャー企業や中小企業の上場先であるKOSDAQ(コスダック)が同年7月1日にオープンした。

ソウル永登浦区(ヨンドゥンポグ)の韓国取引所 1999年2月6日には釜山(プサン)に韓国先物取引所(韓国先物去来所)が設立された。そして2005年1月27日に韓国証券取引所、コスダック証券市場、韓国先物取引所が合併。韓国取引所(KRX)が誕生し、今日に至る。韓国取引所の本社はプサンに置かれるが、ソウルにも多くの機能が残る。

韓国株式市場の国際化と株価指数

韓国の株式市場は、1980年代から国際化が進む。1984年に単位型投資信託のコリア・ファンドがニューヨーク市場に上場。1985年12月にはサムスン電子(三星電子:サムソンジョンジャ)が初めて海外で転換社債(CB)を発行した。

1992年1月3日には外国人投資家による韓国株式への直接投資も可能となった。1994年10月14日には浦項総合製鉄(ポハンジョンガプジェチョル)が韓国企業として初めてニューヨーク市場に上場。浦項総合製鉄は外国人から“ポスコ”と呼ばれ、それに合わせて2001年9月に改称した。

総合株価指数は韓国株式市場を代表する株価指数。2005年11月1日で韓国総合株価指数(KOSPI)に改称した。現在は構成銘柄の時価総額の変動を追う “時価総額加重平均型”で、東証株価指数(TOPIX)やハンセン指数と同じタイプの株価指数だ。基準日は1980年1月4日で、この日の時価総額を100ポイントとし、1983年1月4日から公表が始まった。

韓国総合株価指数(KOSPI)は韓国を代表する株価指数
(2022年1月24日)
それより昔の総合株価指数は、日経平均株価やダウ・ジョーンズ工業株価平均などと同じく“株価平均型”であり、1964年1月4日まで遡れる。



韓国のウォン

韓国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は、自国通貨を“ウォン”と呼ぶ。しかし、両国の通貨は別物であり、“韓国ウォン”(KRW)、“北朝鮮ウォン”(KPW)などと呼ばれる。ウォンは通貨名でもあり、通貨単位でもある。

ウォンとは“圓”という漢字の韓国語読みだ。圓という呼称は、19世紀のアジアに流入したメキシコ・ドル(メキシコ銀)やスペイン・ドル(ピラー・ドル)などの“洋銀”に由来する。

中国の銀錠(馬蹄銀) 中国の銀貨は“銀錠”、“馬蹄銀”と呼ばれる銀塊だった。一方、洋銀は円形のコインであり、その形状から“銀圓”と呼ばれた。圓の字は画数が多いため、中国では同音である“元”の字が表記に使われるようになる。一方、日本では圓の略字として“円”が使われるようになった。

香港の新聞挿絵
“10蚊15隻蛋”(卵15個で10香港ドル)と表記
つまり、中国本土、香港、マカオ、台湾、韓国、北朝鮮、日本の通貨は、いずれも“圓”に由来する。これらの地域では“圓”が広まる前は、“文”が通貨の単位として使われていた。“文”は日本語で“モン”、標準中国語で“ウェン”、韓国語で“ムン”と発音する。なお、香港では広東語に“文”の単位が現在も残り、“蚊”(マン)の漢字を当てる。



ウォン以前の貨幣

高麗の乾元重宝 朝鮮半島では996年に“乾元重宝”(コヌォンジュンボ)という鉄銭が鋳造された。これが朝鮮半島で最初の独自貨幣とみられる。このほかにも、さまざまな鉄銭、銀銭、銅銭が発行されたが、あまり普及しなかったようだ。





李氏朝鮮の常平通宝 1423年に“朝鮮通宝”(チョソントンボ)という銅銭が鋳造されたが、これも一般には広まらなかった。本格的に流通したのは1678年に鋳造が始まった黄銅貨の“常平通宝”(サンピョントンボ)だった。この黄銅貨は葉銭(ヨプジョン)と呼ばれ、その単位は前述のように“文”(ムン)だった。





 1883年に造幣機関の“典圜局”(チョヌァングク)が創設されると “圜”(ファン)を単位とする銀貨のほか、白銅貨、黄銅貨などを発行した。昔からの1,000文が1圜とされた。“圜”の字義は基本的に“圓”と同じく丸を意味する。貨幣の呼び名についての基本的な考え方は、“圜”も“圓”も同じと言えよう。





大韓帝国光武九年(1905年)の半圜銀貨
漢字は圜(ファン)だが、英字はウォンと表記
だが、民間人でも王室に納付金を差し出せば、白銅貨の鋳造が可能だったようで、典圜局の“公鋳貨幣”と民間人の“私鋳貨幣”が入り混じる状況となった。さらに低品質の白銅貨が日本で偽造され、朝鮮半島に密輸されることも多かった。こうした私鋳貨幣の乱造、偽造貨幣の密輸や流通が原因で、朝鮮半島はインフレーション(物価高騰)に陥った。





目賀田種太郎 1904年に日本から目賀田種太郎(めがたたねたろう)が財務顧問として朝鮮半島に渡り、貨幣整理事業を断行。典圜局は閉鎖され、1905年から日本の第一銀行が朝鮮半島の中央銀行業務を担うことになった。こうして朝鮮半島の通貨発行権は日本が掌握し、通貨の表示も“圜”から“圓”へ変わっていった。



中国と日本の狭間にある朝鮮半島

朝鮮半島は大陸と日本列島の中間に位置し、古来より中国王朝の影響が及んだ一方、日本の勢力からも圧迫を受けた。韓国語の語彙には、そうした歴史の痕跡がみられる。

例えば、日本統治時代の影響で、現代でも韓国では日本の和製漢語を韓国語読みにした用語が残っている。日本語と中国語の間には同じ事物を漢字で表すにしても、“株式”と“股份”、“会社”と“公司”のような根本的な違いがある。日本語の漢字表現は中国語と違うので、これらは日本独自の“和製漢語”ということになる。

日本語の看板が目立つ1930年代のソウル 一方、韓国語では“株式”を“チュシク”、“会社”を“フェサ”という。これらは和製漢語の韓国語読みであり、ハングルではなく漢字で表記すると、日本語と同じになる。韓国語の “売上高”は“メサンゴ”と言い、これも和製漢語の韓国読みだ。中国語では“売上高”を“営業収入”などと表記する。

1940年代末のソウルは漢字の看板が多かった。
真鍮製品販売店の看板は“安城鍮器工業社工場直売所”
ハングルは安城鍮器を意味する“アンソンニュギ”
和製漢語の韓国語読みの例を挙げると、“株価”(チュガ)、先物(ソンムル)“暴落”(ポンラク)、“暴騰”(ポクドゥン)などがある。これらの中国語は、“股価”、“期貨”“暴跌”“暴漲”であり、日本語や韓国語とは漢字表記が根本から異なる。

その一方で先ほどの例のように、“取引”を意味する韓国語の“コレ”は、“去来”という漢字に由来し、日本の和製漢語と異なるうえ、中国語の“交易”とも違う。つまり韓国独特の“漢字語”(韓製漢語)も数多く存在する。

朴正煕(パクチョギ)大統領の死去を伝える新聞記事
現在とは違い、漢字を多く使用し、日本人にも読みやすい
「毎日経済新聞」(メイルキョンジェシンムン)
1979年10月27日付
中国の影響を受けた漢字語もある。例えば、「昼ご飯」を意味する韓国語は“点心”(チョムシム)という。ただし、中国語の点心は菓子や軽食を意味し、語義が異なっている。

留学中の筆者が修学旅行に参加した時の話だが、急に移動用の団体バスがやって来て、慌てた韓国人留学生たちが、自分の荷物を探しながら、“カバン!カバン!”と一斉に声を上げたことを覚えている。その瞬間、韓国人留学生が日本人に見えた。“カバン”のように、漢字とは無関係に韓国語に残った日本語もある。

韓国語の漢字語や日本語の影響を知ると、朝鮮半島の複雑な歴史が浮かんでくる。そうした歴史のなかで、韓国人の結束力や民族アイデンティティが育まれた。そこで今回は、中国と日本の影響という視点から、朝鮮半島の歴史を振り返ってみよう。

半島の民族地理学特徴

大陸から突き出た大きな半島は、多民族・多言語地域となる傾向が強い。三方を大海に囲まれた半島は、民族移動の終着点となるからだ。大陸から半島への民族移動が成功すると、古参の定住民は僻地に追いやられるか、征服されるかという道をたどる。一方、勢いのある新参の移住民は領域を拡張する。そうした民族移動が何度も続くことで、多民族・多言語地域が形成される。

欧州の言語分布図 例えば、ユーラシア大陸の西の果てである欧州は、巨大な半島のようなものだ。ここには東方から様々な民族が何度も押し寄せ、欧州を多民族・多言語地域とした。欧州の東南に位置するバルカン半島に至っては、さらに複雑な民族構成となり、何度も争いが起きた。インド亜大陸やインドシナ半島では、北方から南方への民族移動が何度も起き、やはり複雑な多民族・多言語地域を形成した。

紀元前2世紀ごろの朝鮮半島勢力図 古代の朝鮮半島も、やはり多民族・多言語地域だったようだ。ここには北方の中国東北地方から多様な民族が移り住み、紀元前2世紀ごろの朝鮮半島の北部には、扶余(ふよ)系の言語を話す濊(わい)、貊(はく)、沃沮(よくそ)などの諸民族が進出していた。

「三国志」の記録によると、これらの諸民族は言語や習俗が似通っていた。この民族グループの名称となった扶余は、紀元前2世紀に中国東北地域に国家を形成。後の高句麗(こうくり)や百済(くだら)も扶余系の民族だった。

この扶余系の諸民族は記録が乏しく、言語についても同系であると推測される以外は、不明な点が多い。なお、扶余系言語の一つである高句麗語は、わずかに残る断片的な記録から数詞や基礎語彙がいくつか再現され、日本語との近縁関係が指摘されている。

一方、紀元前2世紀ごろの朝鮮半島の南部には、“韓人”(かんじん)の部族集団が割拠していた。韓人は大きく分けて、“馬韓”(ばかん)、“弁韓”(べんかん)、“辰韓”(しんかん)という三つの部族集団があり、合わせて“三韓”(さんかん)と呼ばれた。三韓の言語は“韓系諸語”(かんけいしょご)と呼ばれ、詳しいことは不明だが、扶余系の言語とはかなり違っていたようだ。このほか、日本列島を本拠とする倭人(日本人)も、三韓の地に雑居していたようだ。

中華文明と朝鮮半島

古代の中国人が新天地を求めて海外に出る場合、進む方向は基本的に東と南しかなかった。北や西は遊牧民やオアシス都市国家の世界であり、風土や文化があまりにも中華文明の中心地である中原(ちゅうげん)と異なっていたからだ。

緻密な饕餮紋(とうてつもん)が特徴的な殷王朝の青銅器
箕子は名を胥余と言い、殷王朝最北の箕国を治めていた
この連載の第五十六回では、中華文明が南方に拡大した歴史を紹介した。今回の主題は東方への拡大ということになる。司馬遷の「史記」などによると、紀元前12世紀に殷王朝(商王朝)の有力者だった箕子(きし)が、滅亡した王朝の遺民を率いて朝鮮半島に渡り、“箕子朝鮮”(きしちょうせん)を建国したという。

箕子朝鮮をめぐっては、その実在を疑問視する意見もある。しかし、少なくとも古代中国の人々が、かなり古い時代から朝鮮半島の存在を認識していたのは確実なようだ。

「三国志」魏書辰韓伝によると、秦王朝の末期に苦役から逃亡した人々が、朝鮮半島に移住。朝鮮半島の南西部にあった“馬韓”の人々は、秦王朝からの逃亡者を朝鮮半島の南東部に住まわせ、その地は“辰韓”と呼ばれるようになった。

辰韓の言葉には中国語が混じっていたという。それゆえ、人々は辰韓ではなく、“秦韓”(しんかん)とも呼んだ。振と秦の発音が同じだからだ。しかし、辰韓を難民の国とする考え方には異論もあり、真相は不明だ。

中国王朝による朝鮮半島の植民地化

紀元前2世紀の漢王朝(前漢)と匈奴 紀元前206年に漢王朝が樹立されると、朝鮮半島にも影響が及んだ。初代皇帝の劉邦(高祖)には、盧綰(ろわん)という幼馴染がおり、彼は王朝樹立の功臣だった。盧綰は渤海湾北部を支配する“燕国”(えんこく)の王に封ぜられたが、謀反の疑いをかけられ、紀元前197年にモンゴル高原の騎馬民族である匈奴(きょうど)に亡命した。

盧綰の部下だった衛満(えいまん)は、朝鮮半島に逃亡。箕子朝鮮に中国からの亡命者の根拠地を築いた。朝鮮半島に逃れた中国からの亡命者は膨れ上がり、その指導者となった衛満は、紀元前195年に“衛氏朝鮮”(えいしちょうせん)を建国した。衛氏朝鮮は箕子朝鮮と違い、その実在性をめぐる論争のない王朝だ。

その衛氏朝鮮も紀元前108年に漢の武帝によって滅ぼされる。こうして朝鮮半島の北部に、漢四郡(かんのしぐん)が置かれた。漢四郡は楽浪郡(らくろうぐん)、真番郡(しんばんぐん)、臨屯郡(りんとんぐん)、玄菟郡(げんとぐん)で構成される漢王朝の植民地だった。

紀元前1世紀の漢四郡 朝鮮半島では中国王朝の植民地が数百年続き、後漢王朝の末期には朝鮮半島の西北部に位置する楽浪郡とその南の帯方郡(たいほうぐん)という構成になっていた。この楽浪郡と帯方郡は、313年に中国東北地方から進出してきた扶余系民族の高句麗に滅ぼされる。楽浪郡と帯方郡の中国人は、一説には渡来人として、日本に逃れたとも言われる。




奈良県明日香村の於美阿志神社(おみあしじんじゃ)
主祭神は渡来人の阿知使主(あちのおみ)は 、
東漢氏の氏神
日本に渡った中国人は、秦氏(はたうじ)、東漢氏(やまとのあやうじ)、西文氏(かわちのふみうじ)などを名乗る渡来人として、ヤマト王権に仕えたという。

このように古代の中国人は、母国を離れて朝鮮半島や日本に進出。しかし、彼らはやがて現地に同化した。中国の南方と違い、朝鮮半島や日本では古くから中国の王朝に対抗できる国家が誕生しており、その影響が大きいとみられる。




韓国伝統衣装を着たノムヒョン夫婦 朝鮮半島や日本列島に渡った中国人は、独自の共同体や祖国との紐帯が絶え、海外華人として今日まで存続するには至らなかった。例えば、第十六代韓国大統領の盧武鉉(ノムヒョン)は“光州盧氏”(こうしゅうろし)の出身。その始祖は755年に唐王朝から朝鮮半島へ移住した盧垓(ろがい)という人物であり、先祖の戸籍は中国の浙江省にあった。

しかし、ノムヒョン大統領に見られるように、そのアイデンティティは韓国人であり、民族意識は朝鮮民族にある。韓国には中国起源の氏族が多いものの、東南アジア諸国に見られるような海外華人としてのアイデンティティを保つまでには至っていない。


チュモンの高句麗建国神話

朝鮮半島では楽浪郡と帯方郡が滅亡すると、その地は高句麗の支配地となった。「三国史記」などによると、高句麗は扶余人の朱蒙(チュモン)が建国したと伝えられる。チュモンは扶余語で“弓の達人”の意味。チュモンの母は河柳花(ハユファ)という名で、黄河の神である河伯(かはく)の娘とされる。一方、父は東扶余国の金蛙王(クムァワン)という。

金蛙王に幽閉された河柳花を日光が照らすと、彼女は受胎。大きな卵を産み落とし、チュモンが生まれた。偉大な人物が卵から生まれたとする“卵生神話”は、中国北方の諸民族や朝鮮半島で多くみられるほか、類似の話が世界各地で散見される。

扶余の建国神話でも、天から鶏卵のような霊気が降りてきて、侍女が身籠ったという話がある。その侍女が産んだ子が、扶余国の初代王である“東明王”(とうめいおう)になったという。中国では殷王朝の始祖である契(せつ)について、玄鳥(つばめ)の卵を飲み込んで受胎した女性から生まれたという神話が残っている。

チュモンは中国の伝説にある高陽氏(こうようし)と高辛氏(こうしんし)の子孫であり、姓は高(コ)であるとされる。つまり、本名は高朱蒙(コジュモン)ということになる。高陽氏は中国で最初の帝王とされる“黄帝”の孫であり、高辛氏はひ孫とされる。中国の帝王の血筋や母が河伯の娘という伝説は、扶余人に中華文明の影響が強く及んでいることを示唆する。

チュモンは金蛙王の王子たちと一緒に育てられた。チュモンの才能は王子たちの嫉妬や反感を買う。罠にはまったチュモンは、仲間を連れて逃亡することになり、追っ手に命を狙われた。しかし、鴨緑江(おうりょくこう)の東北で、チュモンの一行は川の流れに行く手を阻まれた。

チュモンは自分が天帝の子であり、河伯の孫であると川に告げ、渡河する方法を尋ねる。すると、魚やスッポンが浮かんで橋を作り、チュモンは渡河に成功。追っ手が迫ると、魚やスッポンの橋は消え、チュモンは追跡から逃れることができた。

魚やスッポンの橋で川を渡るチュモンの一行を描いた作品
幕末明治の浮世絵師である歌川貞秀の「絵本朝鮮征伐記 」
このように水棲生物が橋を作る話は、日本でも「因幡の白兎」(いなばのしろうさぎ)で知られる。アムール川下流域に暮らすツングース系民族の間では、キツネがアザラシを騙して並ばせ、そうしてできた橋を渡る昔話があるという。また、不思議な力で水を渡り、追っ手から逃れるという点に注目すると、ファラオに追われたモーセが神の力で海を割ったという「旧約聖書」出エジプト記にも類似する。

追っ手から逃れたチュモンは、紀元前37年に卒本川(そつほんせん)の地に至り、高句麗を建国した。卒本川は現在の遼寧省本渓市恒仁満族自治県の五女山城とみられる。チュモンは紀元前19年に崩御し、“東明聖王”(とうめいせいおう)の諡号(おくりな)が奉られた。

こうしたチュモンの伝説は、前述の扶余国の東明王の建国神話に酷似している。東明王も国を追われ、逃亡先で扶余国を建国した。弓の達人であることや魚やスッポンが橋を作ったというエピソードも、チュモンの伝説と同じだ。

高句麗で最初の根拠地となった五女山 大きく違う点は、チュモンのルーツに中華文明があること。これは高句麗の支配下に多くの亡命中国人がいたことが原因かも知れない。中華文明の威光を利用することで、亡命中国人の間に高句麗王の権威を広めることができるからだ。

同じ扶余系の高句麗と百済

「三国史記」によると、高句麗を建国したチュモンは新たな妻を娶り、沸流(ピリュ)と温祚(オンジョ)という二人の息子が生まれた。しかし、チュモンは類利(ユリ)という息子を東扶余国に残していた。

チュモンが高句麗を建国すると、母のハユファや息子のユリがやって来た。チュモンはユリを太子としたが、これを受け容れられないピリュとオンジョは十人の家臣と多くの民衆を率い、朝鮮半島の南方に新天地を求めた。

ピリュは家臣の忠告を聞かず、海辺に国を建てた。その国がどこかは不明だが、インチョン市(仁川市)あるいは忠清南道(チュンチョンナムド)のアサン市(牙山市)という説がある。一方のオンジョは紀元前18年に京畿道(キョンギド)のホナム市(河南市)に建国した。オンジョの国は十人の家臣が補佐してくれたことにちなみ、国号を“十済”とした。

ピリュが海辺に建てた国は、海水や湿地の害に遭い、人々が苦しんだ。一方、山が多いオンジョの国は繁栄した。ピリュは家臣の忠告を聞かなかったことを恥じ、自害を遂げる。ピリュの国の人々はオンジョの国に移り住んだ。このピリュとオンジョの説話は、日本の“山幸彦と海幸彦”の神話を彷彿させる。

4世紀ごろの朝鮮半島
領域は諸説あり、目安にすぎない。
オンジョは“百姓”(人民の意味)を受け容れたことから、国号を“百済”に改めた。オンジョは自らの起源を扶余に求め、百済の王族は扶余を姓とした。一方、高句麗では紀元前19年にチュモンが崩御すると、太子のユリが即位し、二代目の“瑠璃明王”(るりめいおう)となった。このように高句麗と百済の王家は、いずれも扶余を起源とする。

百済は馬韓の土地を征服して建国した。百済では支配層が扶余語を話し、民衆は馬韓語を話していたとみられる。「周書」によると、百済王は自らを“於羅瑕”と称した一方、民衆は王を“鞬吉支”と呼んだ。それはどちらも王の意味という。

日本と高句麗の覇権争い

辰韓の地では、現在のキョンジュ市(慶州市)付近を中心とする斯蘆(しろ)という部族が台頭。それがやがて新羅(しらぎ)という国となり、その王統は朴氏、昔氏、金氏と受け継がれた。このうち朴氏と昔氏の始祖については、卵生神話がある。また、その神話には王統が中国や日本と関わる部分もあり、朝鮮半島の複雑な民族情勢を反映している。

当初の新羅は弱小国であり、その支配権をめぐり、高句麗と倭(日本)が争っていた。同じ扶余系民族の百済と高句麗も抗争を続けていた。

神功皇后の新羅遠征を描いた「 大日本史略図会 」
幕末明治の浮世絵師である月岡芳年の作品
「古事記」や「日本書紀」には、神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅征伐の伝説が収録されている。神功皇后は仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后であり、応神天皇(おうじんてんのう)の母。仲哀天皇の崩御から応神天皇の即位まで70年間にわたり摂政として君臨したとされる。神功皇后の諱(いみな)は、“気長足姫”(おきながたらしひめ)であり、父は“息長宿禰王”(おきながのすくねのみこ)という。

伝説によると、神功皇后は朝鮮半島へ親征し、新羅を攻めた。新羅は戦わずして降伏し、日本への朝貢(ちょうこう)を誓ったという。これを見た百済と高句麗も、日本への朝貢を約束したという。奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)に伝来する国宝の“七支刀”は、日本に朝貢した百済が献上したものとされる。

広開土王碑(好太王碑) 高句麗の第二十代王である長寿王(ちょうじゅおう)は、父である第十九代王の広開土王(こうかいどおう)の業績を称え、現在の中国吉林省通化市に石碑を建てた。これを“広開土王碑”(こうかいどおうひ)という。その碑文の解釈をめぐっては論争が絶えないが、百済と新羅の帰属をめぐり、日本と高句麗が抗争していたようだ。

神功皇后の新羅征伐、七支刀、広開土王碑などは、日本が朝鮮半島をめぐる覇権争いに加わっていたことを示している。このように朝鮮半島は古来より、大陸と日本という二大勢力の係争地だった。





北部九州に残る神功皇后伝説

北九州市の皿倉山(標高622m) 神功皇后御腰掛石
田川市の風治八幡宮
(ふうじはちまんぐう)
手前の山頂が水平な山が香春岳の一ノ岳
その後ろが二ノ岳と三ノ岳
石灰岩採掘が始まる前の香春岳
右から順に一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳
田川郡香春町の香春神社
主祭神は正一位の辛国息長大姫大目命
2013年に創建一千三百年祭が開かれた。

“北部九州”(ほくぶきゅうしゅう)とは、九州の北部一帯を示す言葉だ。1963年に北九州市が発足し、混同を避けるために使われるようになった。北部九州には神功皇后にちなんだ伝承が多い。

例えば、北九州市の皿倉山(さらくらやま)は、この山に登った神功皇后が、日が暮れて下山する際に「さらに暮れたり」と言ったことから、この名がついたと言われる。“ザラにある伝承”としては、神功皇后が座ったという“腰掛石”(こしかけいし)がある。筆者の故郷である福岡県の筑豊地方でも、腰掛石が飯塚市や田川市に存在する。

筑豊地方を舞台とした五木寛之の小説「青春の門」は、「香春岳は異様な山である。決して高い山ではないが、その与える印象が異様なのだ」という一節から始まる。

香春岳(かわらだけ)は田川郡香春町(たがわぐんかわらまち)にそびえる山で、“一ノ岳”(いちのたけ)、“二ノ岳”(にのたけ)、“三ノ岳”(さんのたけ)という三つの峰で構成される。その姿が異様である理由は、セメント工場へ供給する石灰岩を採掘するため、一ノ岳が山頂から大きくえぐられているからだ。

また、三ノ岳には銅鉱脈があり、奈良時代から採掘されていた。現在も“採銅所”(さいどうしょ)という地名が残っている。ここで採掘された銅は、東大寺の大仏や宇佐神宮の神鏡に使われたという。

香春岳のふもとにある香春神社(かわらじんじゃ)は、「延喜式神名帳」(えんぎしきじんみょうちょう)に収録された式内神社(しきないじんじゃ)だ。豊前国の式内神社は六座あり、宇佐神宮と香春神社で三座ずつとなっている。

香春神社の三座は、香春岳の一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳の各山頂にあったが、709年に現在の場所に移設された。これらの神階はいずれも最高位の“正一位”(しょういちい)。主祭神は“辛国息長大姫大目命”(からくにおきながおおひめおおまのみこと)という。

“辛国”(からくに)とは朝鮮半島を示し、“息長”(おきなが)という名前は、神功皇后を指すとみられる。その一方で「豊前国風土記」には、むかし新羅の神が川原(香春)に来て“鹿春神”(かはらのかみ)になったという記述もある。

いずれにしても、香春神社は新羅と関わりが深い。その周辺には神功皇后の夫である仲哀天皇が越えたという“仲哀峠”があるほか、採銅所には神功皇后と応神天皇を主祭神とする“古宮八幡宮”(こみやはちまんぐう)が現存する。

三国時代から統一新羅へ

6世紀後半の朝鮮半島 高句麗と日本という二大勢力の脅威にさらされていた新羅だが、国内改革を推進することで、6世紀になると急速に勢力を拡大した。

中国王朝の植民地である楽浪郡と帯方郡が滅びた後の朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅が鼎立。これを朝鮮の“三国時代”という。そこに中国の唐王朝のほか、日本の大和朝廷も軍事介入し、朝鮮半島の情勢は複雑化した。

唐王朝は高句麗と対立し、新羅と同盟。660年に唐王朝は高句麗の同盟国だった百済に軍事侵攻し、これを滅ぼした。

福岡市の南にある一直線の細い森
664年に構築された水城(みずき)の跡
唐と新羅の侵攻に備えた防御施設
日本の大和朝廷では友好国だった百済の復興運動が盛り上がった。背景には百済の王子である扶余豊璋(ふよほうしょう)が、日本に滞在していたことがある。

663年に日本と百済遺民の連合軍が朝鮮半島に侵攻。朝鮮半島西部の白村江(はくすきのえ)で、唐王朝と新羅の連合軍と戦った。これを“白村江の戦い”(はくすきのえのたたかい)という。日本と百済の連合軍は敗北。こうして百済復興は完全に途絶えた。

唐王朝は668年に高句麗を滅ぼした。そのうえで、旧高句麗領と旧百済領に都護府(とごふ)を置き、これらを唐王朝による異民族支配地域である“羈縻州”(きびしゅう)とした。しかし、新羅は旧百済領を併呑し、旧高句麗領にも侵攻。こうして朝鮮半島は、676年に新羅によって統一された。

統一新羅と日本

白村江の戦いで日本と新羅は直接戦闘する機会がなったことから、両国は互いに使者を派遣し、交流を重ねた。唐王朝に対抗する新羅にとって、日本との交流は重要だった。これを受けて天武天皇や持統天皇も友好的な外交方針を採ったが、古くからの価値観を背景に、日本は新羅を従属国として扱った。

岐阜県多治見市の新羅神社 持統天皇の時代には、日本に帰化した新羅人が東国開発に充てられ、武蔵野国、下毛野国、美濃国などに移住した。その痕跡は今日も残っており、美濃国だった岐阜県多治見市には“新羅神社”(しんらじんじゃ)がある。奈良時代から新羅人が住んでおり、その祖先神を祀ったのが、この神社の始まりとされる。

新羅神社や“韓神新羅神社”(からかみしらぎじんじゃ)は、今日でも日本各地にあり、日本と新羅の関係の深さがうかがえる。

朝鮮半島を統一した新羅は、対等な関係を日本に求めていたが、それが両国の関係悪化につながった。735年に日本を訪問した新羅の使者は、国号を“王城国”に改めたと告知。日本は従属国である新羅が無断で国号を変更したことに怒り、使者を追い返した。

中国南北朝時代の梁王朝に朝貢する各国使者
左の人物が倭国の使者
6世紀に作成された「蕭繹職貢図」
翌736年に日本の阿倍継麻呂(あべのつぐまろ)が新羅を訪問したが、外交使節としての礼遇を受けられなかった。阿倍継麻呂は病を患い、帰国途中に対馬で客死。残った使者が平城京に到着した後、天然痘が流行した。日本では天然痘が新羅から持ち込まれたと信じられ、両国の関係はさらに悪化。新羅の無礼を調伏するため、朝廷は伊勢神宮などに奉幣したという。

「続日本紀」によると、753年には唐王朝で日本と新羅の争いが起きた。玄宗皇帝が臨御する朝賀の場で、日本の席次が新羅の下位に置かれたことに、遣唐使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)が抗議。新羅は日本に朝貢する従属国であると訴え、席次を変えさせた。これが原因で同年に新羅を訪問した日本の小野田守(おののたもり)は、王に謁見することができなかった。

この事件に関しては、中国に記録が残っていないため、その真偽をめぐる論争がある。ただ、少なくとも当時の日本が新羅を従属国として見ていたのは確かだろう。

新羅では765年に幼少の恵恭王が第三十六代国王に即位すると、太后が摂政となり、貴族の反乱が頻発した。こうした情勢を背景に、新羅は国力が衰退に向かい、日本に対して再び従属姿勢を示すようになる。新羅から日本や中国への亡命者も増加した。780年に恵恭王は殺害され、その後は王位簒奪が繰り返されるようになる。日本から新羅への使者派遣も、780年で停止した。

全羅南道のチャンボゴ

780年に日本と新羅は国家レベルでの交流が停止した。しかし、民間レベルでは日本、新羅、唐王朝の貿易が続いた。この連載の第五十六回では、リアス海岸やフィヨルドなどの複雑な海岸地形が、“航海の民”を生み出したことを紹介した。それは朝鮮半島でも例外ではなかった。

韓国の南東部に位置する全羅南道(チュルラナムド)は、沿海部のほぼ全域がリアス海岸だ。また、中西部の忠清南道(チュンチョンナムド)、南東部の慶尚南道(キョンサンナムド)なども、海岸地形が複雑だ。こうした地形が、航海の民を生み出した。

海上交易で三国に名を馳せた張保皐(チャンボゴ)という人物は、新羅が衰退期を迎えた8世紀末に、リアス海岸が特に多い全羅南道で生まれた。チャンボゴは810年に中国の山東省に渡り、軍人として活躍。828年に新羅に帰国した。

故郷に戻ったチャンボゴは、多くの新羅人が海賊に捕まり、奴隷として売買されている実情を新羅王に報告した。新羅王はチャンボゴに1万人の兵を授け、清海鎮大使に任命。チャンボゴは全羅南道のウァンド郡(莞島郡)を拠点に、奴隷貿易を取り締まった。

チャンボゴは海の英雄
写真は韓国海軍のチャンボゴ級潜水艦
山東省栄成市の赤山法華院

海賊を平定したチャンボゴは、唐王朝、日本、イスラムとの交易を推進。莞島郡は貿易拠点として発展し、チャンボゴの名は日本でも知られるようになった。

当時は中国の山東省に新羅商人の港町が数多くあった。チャンボゴは824年に現在の山東省栄成市に天台宗の寺を寄進。この寺は“赤山法華院”(せきざんほっけいん)と名づけられ、日本、中国、韓国の友好を伝える仏教の聖地となり、“一寺連三国”(一つの寺が三つの国に連なる)と呼ばれた。

チャンボゴは新羅の王位継承争いに巻き込まれ、反乱を起こすことになり、846年に暗殺された。




新羅商人と天台宗

円仁(慈覚大師)の肖像画 チョンボゴは遣唐使の円仁(えんにん)を支援したことでも知られる。比叡山延暦寺で最澄に師事した円仁は遣唐使となり、838年に三度目で渡海に成功。しかし、唐王朝は短期滞在しか許さず、師の最澄が学んだ天台山を訪れることさえ難しくなった。そこで円仁は不法滞在を決意し、遣唐使の一行を抜け出した。

遣唐使の一行から逃亡した円仁は新羅の僧を名乗ったが、彼は新羅語や中国語を満足に話せなかった。これを怪しんだ地元民が役人に通報すると、円仁はすぐに捕まり、遣唐使の一行に連れ戻された。

そこで円仁はチャンボゴが寄進した赤山法華院に身を寄せた。新羅商人の支援を受け、円仁は山西省の五台山を巡礼したほか、都の長安を訪問することができた。赤山法華院に戻った円仁は、新羅商人の援助で847年に帰国。円仁が残した「入唐求法巡礼行記」は、当時の中国情勢を伝える貴重な旅行記として高く評価されている。

赤山大明神を祀る赤山禅院 円珍(智証大師)の肖像画 園城寺(三井寺)の新羅善神堂

京都市左京区にある赤山禅院(せきざんぜんいん)は、円仁が世話になった赤山法華院にちなむ。本殿には道教の神である“泰山府君”(たいざんふくん)が祀られ、“赤山大明神”(せきざんだいみょうじん)として親しまれている。

円仁と同じく比叡山延暦寺で学んだ円珍(えんちん)は、853年に新羅商人に船で唐王朝に渡った。円珍が乗った新羅船は暴風雨に遭い、台湾に漂着。その後、円珍は対岸の福建省に渡り、浙江省の天台山を目指した。858年に円珍は唐商人の船で帰国。その際、新羅明神(しんらみょうじん)が船首に顕現し、円珍が学んだ経法を永遠に守護すると誓ったという。

帰国した円珍は、859年に滋賀県大津市にある園城寺(おんじょうじ)の長吏に就任。この寺の再興に力を入れた。園城寺には“新羅善神堂”(しんらぜんしんどう)があり、守護神の新羅明神が祀られている。

このように新羅商人は海上交易だけではなく、日本への仏教伝来にも足跡を残した。しかし、日本と新羅の交流は、平和なものばかりではなかった。9世紀から10世紀にかけて、新羅人の海賊が日本各地を繰り返し襲撃。こうした新羅人による日本襲撃は“新羅の入寇”(しらぎのにゅうこう)と呼ばれた。その背景には新羅の混乱と衰退があった。

14世紀に日本が南北朝政治の動乱期に入ると、今度は日本人海賊集団の倭寇(わこう)が朝鮮半島を荒らすようになる。海賊集団が生まれる背景には、複雑な海岸地形のほかに、国内の混乱という要素もあった。

再分裂から再統一へ

新羅の衰退を背景に、892年に農民出身の軍人である甄萱(キョヌォン)が反乱を起こした。全羅南道と全羅北道を占領したキョヌォンは百済復興を唱え、900年に王を称した。このキョヌォンの王朝を“後百済”という。

朝鮮半島の中部では、890年代から王の血を引く弓裔(クゲ)が勢力を拡大。901年に高句麗の復興を唱え、王を称した。クゲは当初の国号を“高麗”と定めたが、904年には“摩震”に改め、911年には“泰封”とした。このクゲの王朝は後高句麗と呼ばれ、朝鮮半島の北半分を支配した。

王建の姿を模したとされる青銅座像 一方、新羅は南東の慶尚道(キョンサンド)にわずかな勢力を残すのみ。朝鮮半島は再び三国鼎立の時代を迎えた。この時代を“後三国時代”という。

後高句麗のクゲは、王の血を引くものの、王室に見捨てられ、一時は僧侶になったこともあった。隻眼であったことから、“一目大王”(イルモクデウァン)と呼ばれた。建国から十年ほどが経つと、クゲは自らを弥勒菩薩と称し、暴君になり果てた。

918年にクゲの部下たちは水軍の統率者である王建(ウァンゴン)を王に推戴。クゲは逃亡した後、殺害された。ウァンゴンは国号を“高麗”(こうらい)に改めた。この高麗は韓国語で“コリョ”と読み、英語の“コリア”の語源となった。935年に新羅は高麗に帰順。936年に高麗は後百済を滅ぼし、朝鮮半島は再び統一された。



高麗時代の民族混合

統一新羅の時代は2世紀半あまりに及んだが、後三国時代を迎えたように、朝鮮半島の民族的なまとまりは、あまり進んでいなかったようだ。高麗の建国で、朝鮮半島は再び統一時代を迎えたが、北方から異民族の流入が続き、民族的なまとまりができるまでには、さらなる時間を要した。

8世紀の極東地域 10世紀の契丹の領域(青色) 乗馬する契丹人たち
頭頂部を剃る髪形が特徴
宋王朝の時代に描かれた作品
清王朝初代皇帝のヌルハチ
女真を統一し、1616年に後金を建国
後金は清王朝に発展し、漢民族を支配
女真は民族名を“満洲”に改めた。

新羅による朝鮮半島の統一後も、中国東北地方には高句麗の遺民が残っていた。ツングース系民族とされる靺鞨(まっかつ)の大祚栄(だいそえい)は、高句麗の遺民とともに698年に“震国”(しんこく)を建国した。この大祚栄をめぐっては、高句麗人であるという説もある。

大祚栄は713年に唐王朝に入朝し、“渤海郡王”(ぼっかいぐんおう)に冊封された。こうして震国は“渤海国”(ぼっかいこく)となった。渤海国は中国東北地方やロシア沿海州に領土を拡張。やがて渤海国は唐王朝と対立した。

すると、唐王朝は新羅との連携を求め、両国の関係は改善した。これに対抗するため、渤海国は日本との関係を強化。こうして渤海国は新羅と対立することになった。

唐王朝から“海東の盛国”と呼ばれるほどの繁栄を誇った渤海国だが、そこに西方のモンゴル高原から遼王朝が侵攻。926年に渤海国は滅亡した。数多くの渤海人が、後三国時代を迎えていた朝鮮半島の高麗に亡命。高麗も遼王朝の侵攻を受け、独立は維持したものの、従属を強いられた。

渤海国を滅ぼした遼王朝は、モンゴル系民族とみられる契丹(きったん)が建てた遊牧国家。契丹人は中期モンゴル語の単数形で“キタン”といい、複数形では“キタイ”という。ロシア語で中国を意味する“キタイ”は、契丹に由来する。また、英語でも古くは中国のことを“キャセイ”と呼んだが、これも契丹にちなむ。

この遼王朝が支配する中国東北地方では、ツングース系民族の“女真”(じょしん)が独立し、1115年に金王朝を建国。金王朝は中国の宋王朝と連合し、1125年に遼王朝を滅ぼした。

すると、今度は数多くの契丹人が、朝鮮半島の高麗に逃れた。遼王朝が滅ぶと、高麗は金王朝に服属。金王朝を建国した女真人のなかには、国境を越えて高麗に定住する者も現れた。高麗時代の朝鮮半島には、中国から帰化した人も多かったという。

女真は古くから渤海国を通じて、皮革製品などを宋王朝に輸出していた。渤海国は良港にめぐまれたロシア沿海州の南部を拠点に、日本とも海上交易していた。しかし、渤海国が滅亡すると、女真の貿易ルートが縮小。さらに遼王朝は女真と宋王朝の交易ルートを閉鎖した。

すると、女真の一部が海賊化し、11世紀に入ると高麗の沿岸を襲撃するようになる。女真の海賊は規模を拡大し、1019年には日本の対馬、壱岐、北部九州などを襲撃した。こうした女真による襲撃を“刀伊の入寇”(といのにゅうこう)という。

高麗は女真を東の蛮族である“東夷”(トイ)と呼び、それを聞いた日本人が“刀伊”という漢字を当てたとみられる。

モンゴル帝国の侵攻と失地回復

金王朝は1234年にモンゴル帝国によって滅ぼされる。モンゴル帝国は1231年に高麗へ侵攻。高麗の朝廷は、1232年に京畿道の沖合にある江華島(カグァド)に避難し、ここに籠城した。モンゴル帝国は江華島の制圧に苦慮したが、そのほかの地域へ何度も侵攻した。

高麗の朝廷は江華島を拠点に抵抗を続けたが、1258年に全面降伏。しかし、その後も高麗人は各地でモンゴル帝国に抵抗し、それは1273年まで続いた。

高麗を完全征服したモンゴル帝国は、モンゴル人、中国人、高麗人、女真人などで構成される大軍をもって日本に侵攻。1274年の侵攻を“文永の役”、1281年の侵攻を“弘安の役”という。この二度にわたるモンゴル帝国の日本侵攻は、“元寇”(げんこう)という名で知られる。いずれも“神風”と呼ばれる暴風雨により、モンゴル帝国の日本侵攻は頓挫した。

福岡市の筥崎宮(はこざきぐう)
扁額の文字は敵国降伏
元寇の際に亀山上皇が掲げた。
モンゴル人が中国に建てた元王朝は、1351年に起きた“紅巾の乱”(こうきんのらん)に動揺する。高麗王は女真人の戦力と連携し、1356年に失地回復を目指して中国東北地方に侵攻した。時期を同じくして、中国から紅巾軍が朝鮮半島に進入。さらに倭寇が沿海地域を荒らした。

高麗は李成桂(イソンゲ)をはじめとする軍人の活躍によって、紅巾軍や倭寇を撃退。政治の実権を掌握した李成桂は、1392年に高麗王を廃し、王の代理である“権知高麗国事”を称した。こうして高麗は474年の歴史に幕を下ろし、朝鮮半島は“李氏朝鮮”の時代を迎えた。

朝鮮民族のアイデンティティ

李氏朝鮮を建国した李成桂の肖像画 中国では紅巾軍の指導者の一人だった朱元璋(しゅげんしょう)が、1368年に明王朝を建国した。朱元璋は後に“洪武帝”(こうぶてい)と呼ばれ、農民から皇帝となった数少ない人物の一人として知られる。明王朝はモンゴル人の元王朝を北方に駆逐し、中華統一を達成した。

1392年に高麗王を廃した李成桂は、直ちに明王朝に使者を派遣。洪武帝は李成桂の地位を承認したうえで、国号の変更を命じた。そこで李成桂は“朝鮮”と“和寧”(わねい)という二つの国号候補を用意し、決定を洪武帝に委ねた。洪武帝は古くから知られる“朝鮮”を選択。こうして国号は朝鮮となり、あらためて李成桂を“権知朝鮮国事”に封じた。

李成桂は生涯にわたって“朝鮮国王”と称することができなかった。五男の李芳遠(イバグォン)が三代目の権知朝鮮国事に即位し、その翌年に初めて“朝鮮国王”の称号が認められた。李成桂は死後に初代朝鮮国王の称号が与えられた。

李氏朝鮮は5世紀にわたって朝鮮半島を支配する。1590年代の“文禄の役”と“慶長の役”では、豊臣秀吉による侵攻を受けたが、大規模な朝鮮半島への民族移動は起きなかった。北部には女真が定住していたものの、これも大きな民族問題には発展しなかった。

こうした情勢を背景に、朝鮮半島は国民の均質化が進み、“朝鮮民族”としてのアイデンティティが形成され、単一民族国家の意識さえ生まれた。

世宗が制定した訓民正音
朝鮮民族は固有の文字を獲得した。
高麗時代は仏教や道教が盛んだったが、李氏朝鮮は儒教を重視。仏教を廃して儒教を尊ぶ“廃仏崇儒”の政策が進められた。儒教的な道徳や価値観は国民の間にも浸透し、今日に至る朝鮮民族の文化的特色も生まれた。

1418年に第四代国王に即位した世宗の時代には、「訓民正音」(くんみんせいおん)が編纂され、自らの言語を表記する表音文字(ハングル)が生まれた。正式な文書は引き続き漢語だったが、ハングルの誕生は民族アイデンティティの形成に寄与した。

19世紀になると、李氏朝鮮の人々は中国東北地方やロシアに移民するようになるが、外国でも朝鮮民族であり続けられるほど、民族アイデンティティは強固となった。

民族アイデンティティの危機と克服

前述のように、大陸から突き出た半島地域は、多民族・多言語地域となる傾向が強く、実際に朝鮮半島もそのような時期が長かった。しかし、李氏朝鮮の下で朝鮮半島への民族流入が止まり、朝鮮民族としてのアイデンティティが育まれた。この民族創出により、朝鮮半島は事実上の単一民族地域と化す。こうした状況は、ほかの半島地域に比べ、異色と言えるだろう。

朝鮮半島情勢の風刺画(1887年)
李氏朝鮮(魚)を日本と清王朝が釣ろうとしている。
橋の上からはロシア帝国が機会をうかがっている。
ジョルジュ・ビゴー作
だが、1868年に日本が明治維新を達成すると、その安定も揺らぐ。征韓論が台頭した日本は、朝鮮半島の征服を目指し、さらに李氏朝鮮の宗主国である清王朝と対立。ロシア帝国も南下の機会をうかがい、朝鮮半島を狙っていた。

こうした国際情勢の下で、李氏朝鮮の独立維持は風前の灯火だった。宗主国の清王朝、近代国家を目指す日本、西洋列強のロシア帝国のうち、いずれかと手を結ぶ必要があった。この問題をめぐり、李氏朝鮮の内部は意見が対立。最終的に何の主導権を得られないまま、1910年に日本に併合された。

朝鮮半島は日本の領土となり、長い歴史を経て完成した朝鮮民族のアイデンティティは、かつてない試練を迎えた。日本統治時代は35年に及び、朝鮮半島の人々は“皇民化”というアイデンティティ崩壊の危機に直面した。

創氏の期限を伝える大邱地方法院の公告
カタカナと漢字の日本語にハングルを振っている。
創氏届出は1940年2月11日~8月10日
だが、この危機を克服し、朝鮮民族のアイデンティティはさらに強固となり、今日に至る。歴史的に朝鮮半島は侵略の苦難を何度も味わい、そこに住む人々はたくましく耐え続けた。地理的には多民族・多言語地域になりがちな半島地域だが、その運命を乗り越え、朝鮮民族が創出された。

こうした歴史的・地理的な背景が、韓国の人々の民族的紐帯や結束力の強さを生み出した。アジア通貨危機での“金集め運動”は、そうした強さが発揮された一例と言えるだろう。

 

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は3/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに