1990年に広東省深圳市で起きた株券をめぐる混乱を受け、中央政府では市場を閉鎖すべきという論調が強まっていたが、中国人民銀行(中央銀行)の劉鴻儒・副総裁が江沢民・総書記に熱弁をふるい、かろうじて株式制の存続を許された。
鐘を鳴らす王健さん(左)と禹国剛さん(右)
(1990年12月1日)
それから数日を経たばかりの1990年12月1日、深圳証券取引所がひっそりと開業した。深圳市の幹部も出席せず、爆竹も鳴らされず、見物客もいない。開業式典も挙行されない寂しい船出だった。
午前9時に天井に吊るされた小さな鐘のヒモを深圳証券取引所の王健・副総経理が引っ張り、そのささやかなセレモニーで経て、初日の業務が始まった。王氏のかたわらには、眼鏡をかけた男性が満面の笑みを浮かべている。この人物こそ、取引所設立の立役者だった禹国剛・副総経理。日本で証券に関する知識を学んだ元留学生だった。
岡崎嘉平太と廖承志
禹国剛という人材が生み出された背景には、全日本空輸の二代目社長だった岡崎嘉平太と中日友好協会の初代会長だった廖承志という日中両国の大物がいた。
岡崎氏は1897年に岡山県の賀陽町(現・吉備中央町)で生まれた。1922年に東京帝国大学の法学部を卒業し、日本銀行に入行。1939年に華興商業銀行の理事に就任し、上海に渡った。戦後は日本人の引き揚げ交渉に携わり、帰国後は日本と中国の経済交流促進に尽力。1954年に日本国際貿易促進協会の常任委員、1961年には全日本空輸の社長に就任した。
1962年には国交のなかった中華人民共和国との貿易を可能とした「日中長期総合貿易に関する覚書」(LT協定)の締結に貢献した。この「LT協定」の「L」は、廖承志のイニシャルだった。ちなみに「T」は通商産業大臣だった高碕達之助に由来する。
LT協定を交わして握手する廖承志(右)と高碕達之助(左)。背景には周恩来と岡崎嘉平太の姿も
(1962年11月)
東京の田中邸で開かれた「帝政取消一笑会」の記念写真。孫文(前列右4)に抱かれた廖承志
(1916年4月)
廖氏は1908年に東京府(現・東京都)の大久保(現・新宿区)で生まれた。両親はいずれも中国国民党の重要人物だった。廖氏は両親の政治活動にともない、日本と中国を行き来する幼少期を過ごした。もちろん、日本語は達者で、流ちょうな江戸弁も話せた。
1925年に両親と同じく中国国民党に入党。しかし、1927年に蒋介石が中国共産党を排除するため、上海クーデターを決行したことをきっかけに、中国国民党を離れた。日本に戻り、早稲田大学に入学。中国共産党の東京特別支部が組織する社会科学研究社に加わった。
だが、政治活動を理由に、早稲田大学から退学処分にあう。1928年に日本軍と蒋介石が率いる国民革命軍が武力衝突した済南事件の知らせを受けると、日本で反日大同盟を結成し、中国の対日闘争に協力。これを理由に投獄された後、国外退去となった。
上海にわたった廖氏は中国共産党に入党し、宣伝部で活躍。欧州に渡り、党員勧誘活動を展開したほか、モスクワ中山大学にも留学した。1932年に帰国してからは、中国各地で活動。1942年に中国国民党に逮捕され、1946年まで牢獄で過ごした。
出獄後は宣伝部に復帰。さまざまな政治活動に参加するなか、1950年代ごろから日本との民間交流に重点を置いた対日活動を始めた。訪日を重ねることで日本とのパイプを築き、LT協定の締結に至った。1963年に中日友好協会が設立されると、初代会長に就任。対日交渉の最高責任者となった。
岡崎氏のしつこい勧誘
岡崎嘉平太(左)を宴席に招いた廖承志(中央)。北京で暮らしていた西園寺公一(右)も加わった。
(1965年1月)
岡崎氏と廖氏は1972年に実現した日中国交正常化の立役者であり、交流を深めていった。1978年に中国が改革開放路線に舵を切ると、岡崎氏は3年連続で中国を訪問し、中国政府の重要人物との会談を重ねた。
岡崎氏は廖氏に会うたびに「日本に人を派遣し、証券について学ばせるべきです」と提案した。その誘いに対し廖氏は、「わが国は社会主義国家ですので、株券という資本主義の道具は必要ありません」と断った。
しかし、岡崎氏はしつこかった。訪中するたびに同じ提案を廖氏に語り、いつも断られた。こうした状況に岡崎氏はいらだったのか、廖氏に向かって「あなたって人はまったく……。いいですか、費用は私が出しますから、あなたは人を選んでください。学ばせた後、その人を使うか否かの選択権は、あなたにあるのですから、無下に断る必要もないでしょう?」と言った。
このように言われると、悪くない提案だと廖氏も思うようになった。「人を使うか否かは後回しにして、そもそも人に何かを学ばせるのは、決して悪いことではない。学んでムダになることはないだろう。派遣される当人にとっても、日本語の能力が向上するというメリットがあり、めったにないチャンスだ」と考え、さっそく日本に派遣するのにふさわしい人物を探すよう命じた。
難航する人選
日本に派遣する人物の選考が始まったが、北京、天津、上海といった大都市でも適任者は見つからなかった。中央政府が求める人物像は、“日本語が分かり、証券についての基本知識のある若者”。そんな人物、そうそういるはずもなかった。日本とは長期にわたり国交がなかったうえ、証券の知識は敵視すべき資本主義の象徴なのだから。しかし、日本到着の翌日から証券について学んでもらうには、その条件を満たしてもらう必要があった。
ふさわしい人物が見つからないという報告を受け、廖氏は広東省を探すように指示した。そこは多様な人材が集まる地域だからだ。そこで広東省広州市で選考会を開いた。
広州市の迎賓館で開かれた選考会では、日本語能力の試験が実施された。問題文はすべて日本語で、問われる内容は「株価収益率(PER)とは何か?」とか、「株式とは何か?」といったものだった。日本語に自信のある受験生にとっても、初めて聞く言葉ばかりだった。この試験の問題と正解は、すべて日本で準備されたものだった。
「こんなの分かるわけがない……」と、多くの受験生が意気消沈するなか、一人の青年が手を挙げた。
「解答用紙をもう一枚ください」
「どうしたのですか?」と試験官が尋ねると、彼は「もう解答してしまったのですが、きれいに清書したいのです」と答えた。
試験官は驚いた。ほとんどの受験生が解答できずに悩んでいるのに、この青年は全問解答したうえに、余った時間で全部清書するというのだ。彼の清書が終ると、試験官はすぐに採点に着手。「日本に行くのは、彼で決まりだ」と確信した。
試験が終了し、受験生が会場を後にするなか、あの解答用紙を清書した青年だけが、その場に残るよう指示された。彼はそのまま会場の2階に連れて行かれ、口述試験を実施することになった。彼の日本語は留学先の授業に対応できるレベルであり、銀行や証券の基本的な知識も備わっていた。
「ありがとう。本当に助かったよ」と、人選に苦労していた試験官たちは、思わず感謝の言葉を口にしたが、この青年には何のことやらさっぱりだった。
この青年こそが、深圳証券取引所の立役者となる禹国剛だった。
好学の士
禹さんは1944年に陝西省で生まれた。家には8人も兄弟がいたため、非常に貧しかった。成績は優秀だったが、高校への進学をあきらめていた。それを惜しんだ人が彼の両親を説得し、勉強を続けることができた。
1964年に成績トップで西安外国語学院に入学。当初はロシア語を学んでいたが、途中で日本語に切り換えた。プロレタリア文化革命の影響を受け、卒業したのは1970年。陝西省の国営炭鉱で働き始めた。その後は兵器、機械、製薬などの国営機関で働いたが、せっかく学んだ日本語の出る幕はなかった。
30歳のころには月収が58.5元となった。陝西省では高給取りと言える水準で、生活にも満足していた。こうしたなか、深圳市に来るよう勧める手紙を親戚から受け取った。その手紙には「いまの深圳市には何もないが、将来は“中国のカリフォルニア”になるぞ」と書かれていた。
この手紙に興味を持った禹さんは、とりあえず深圳市の様子を見てみようと決意。テレビとラジカセを売り払って旅費を稼ぎ、妻と2人の子どもを連れ、深圳市へ旅立った。1981年のことだった。
深圳市に近づくにつれ、家族の服装は軽くなっていった。旧正月の深圳市では、子どもたちがTシャツで遊べるほどだった。陝西省の厳しい寒さのなかで苦学した禹さんは、ここで子どもたちを育てたいと思い、深圳市に引っ越すことを決断した。
深圳市に来た禹さんは、ついに日本語を使う仕事に就いた。愛華電子公司という国営機関で、秘書兼日本語通訳となったからだ。日本語を使う仕事は初めてだったが、すぐに対応できた。
禹さんは“好学の士”だった。陝西省にいた時も、日本語のラジオ放送を聞いて、学習を怠らなかった。深圳市に引っ越してからは香港から日本語の本を取り寄せ、乱読した。そうしたなかで、“資本主義の象徴”だった金融関連の本にも触れ、証券についての知識をたくわえた。その当時は、そうした知識が役立つ日が来るとは。夢にも思わなかった。
暗い気持ちで日本留学
中国の各産業界から選ばれた44人の精鋭が、日本の地を踏んだ。1983年のことだった。禹さんはこの留学グループの副班長に選ばれたが、気持ちは沈んでいた。他の留学生が学ぶのは、鉄鋼、造船、紡績などで、帰国後もすぐに役立ちそうだった。しかし、禹さんが学ぶのは資本主義の象徴である証券であり、その当時の中国の国情を考えると、帰国しても何の役にも立ちそうになかったからだ。
こうしたなか、中国人留学生が日本に来るという情報を嗅ぎつけ、日本の新聞社が取材を申し込み、禹さんが応対することになった。いまとは違い、その当時は中国人留学生が非常に珍しかったからだ。ましてや、証券について学ぶというのは異例中の異例だった。
禹さんは東京証券取引所に連れて来られ、写真を撮られた。「中国は社会主義国なのに、あなたたちに株式について学ばせようとしていますが、何の役に立つのでしょうか?」という鋭い質問が記者の口から飛び出した。禹さんは返答に窮した。
日本の雑誌に掲載された禹国剛さん(左)
(1984年)
「役立ちます」とは言えなかった。中国政府が株式制について態度を明確にしていなかったので、そのように発言すれば政治的リスクを負うことになるからだ。
「役立ちません」とも言えなかった。そう言ってしまえば、はるばる東京まで来て時間とカネをムダ遣いしていると認めることになるからだ。
「中国には学んでムダになることはないという言葉がありまして……」と答えるしかなかった。記者からはそれ以上の追及はなかった。
写真週刊誌も禹さんを取材した。その見出しは“資本主義の中枢・兜町で株を勉強する中国留学生。理論は抜群ながら実技にとまどう。”だった。その写真の表情からは、どことなく不安と緊張が感じられる。
禹さんは日本で証券理論などについて学んだほか、丸荘証券(1997年に自己破産)での実習も経験し、1984年に帰国した。
学んでムダになることはない
帰国した禹さんは、愛華電子公司に復帰したが、学んだ知識や理論は予想通り、まったく仕事に役立つことがなかった。ただ、日本語は飛躍的に進歩した。大学では中国に残留した日本人などから日本語を学んでいたが、それは“やや硬い言い回し”だった。一方、日本では現代的で実用的な日本語をたくさん吸収できた。禹さんは日本語の進歩がささやかな留学の成果と思っていた。
だが、何が幸いするか分からない。日本で取材を受けた時の新聞記事が香港や中国本土でも報道され、それを目にした深圳市長などによって、禹さんは中国銀行深圳支店の傘下にある国際信託公司の金融調査部門に抜擢された。
その当時の深圳市はサムライ債(海外の発行体が日本で発行する円建て債券)の発行を計画しており、禹さんのような人材を欲しがっていた。日本で学んだ知識と理論を発揮する時代が到来し、禹さんは金融畑を歩むことになった。
1988年に深圳市では資本市場育成チームが組織され、やがて資本市場リーダーグループに発展した。禹さんはその下部組織に当たる専門家グループのチーフに就任。深圳市に証券取引所を創設するという任務が下され、禹さんは深圳証券取引所の創設をめぐる中心人物となった。留学中の取材でとっさに口にした「学んでムダになることはない」という言葉だが、まさにその通りだった。