軍刀を差し出す香港防衛隊の岡田梅吉少将 日本の敗戦によって、英領香港が復活した。だが、日本占領時代の爪痕は深く、香港経済や香港株式市場が復活するには、時間を要した。こうしたなか、第二次世界大戦の終了後も、東アジアは各地で紛争が発生。香港の株式市場を揺るがした。
軍政時代の香港
日本の敗戦により、3年8カ月にわたった香港の日本占領時代は、終焉を迎えた。英国海軍のセシル・ハリデー・ジェプソン・ハーコート少将が1945年9月1日に香港を正式に接収。英国政府が授与した権限に基づき、香港軍事管理政府(香港軍政庁)を樹立した。
こうして香港は、戦後の軍政時代を迎えた。市民生活や経済建設に必要な重要物資は、例えば穀物、食用油、食塩、燃料、印刷資材などが、すべて統制下に置かれた。
英海軍の香港到着を発表するハーコート少将
(1945年8月29日)
英海軍に物売りに来た香港の水上商人
香港軍政庁は戦略的な過渡的措置を講じ、貿易業、商工業、住宅、賃金などに、さまざまな規制を設けた。
金融の再建をめぐっては、モラトリアム(支払猶予令)を改正。各銀行の戦前の資金を凍結する一方で、検査を通過した銀行に対しては、早期の業務再開を認めた。
証券取引は禁じられた。戦時中に実施された不公正な株式売買などが、株式制度の瓦解につながることを防止するための措置だった。改正モラトリアムによると、金融総監(ファイナンシャル・コントローラー)による事前の承認がなければ、いかなる証券の売却・譲渡も許されなかったという。
また、英軍が日本軍に降伏した1941年12月25日以降に、金融総監の許可なく実施された証券取引については、一律に登記しないことも定められた。つまり、日本占領時代のすべての取引について、香港軍政庁は合法性を承認しなかった。
さらに「敵国との取引に関する条例」に基づき、日本企業や日本人の手に落ちた資産や株式を接収。日本軍に差し押さえられていた企業を復活させた。
クイーンズロード(皇后大道)に
自然発生した市場(1945年)
ハーコート少将は香港の貿易と工業の復興を図り、香港ドルの為替相場をポンドと米ドルにペッグさせた。また、土地取引を一時停止することで、香港地場経済の安定に向けた底固めを図った。
こうした政策を背景に、香港社会は徐々に秩序を取り戻した。日本占領時代の帰郷政策によって香港を追い出された人々も、続々と帰還。1945年8月は約60万人だった香港の人口だが、約1年間で156万人に回復した。
ヤング総督の復帰
第二十一代香港総督のヤング氏(1947年5月) 日本軍の捕虜となっていた第二十一代香港総督マーク・エイチソン・ヤング氏が、1年間の療養を経て、1946年5月1日に復帰した。
“香港の戦い”で日本軍の捕虜となったヤング総督は、当初こそペニンシュラホテルでの軟禁という待遇を受けていたが、後に他の英国人捕虜と同じく、スタンレー(赤柱)の留置所に送られた。さらに上海や台湾の収容所に移送され、日本軍からの虐待も受けた。
ヤング総督は転々と移送されたため、終戦時も行方不明だったが、ソビエト軍によって発見された。ヤング総督が見つかったのは、満州国の奉天(現在の瀋陽市)にあった捕虜収容所だった。
虐待をともなう収容生活から、ヤング総督の健康状態は悪化しており、香港総督として復帰するまで時間を要した。なお、ヤング総督は日本軍に抵抗した功績が認められ、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)を叙勲している。
第二十二代香港総督のグランサム氏(1948年) ヤング総督の復帰で、香港の軍政時代は幕を下ろした。ただ、その後も軍政時代の多くの規制が続き、重要物資の輸出行為や価格は、厳格な統制下にあった。
1947年5月17日にヤング総督の任期が終了。同年の7月25日にアレクサンダー・ウィリアム・ジョージ・ヘルダー・グランサムが、第二十二代香港総督として着任した。こうして香港は、10年にわたる“グランサム時代”を迎えることになった。
株式市場の再開
香港街角の雑貨商たち(1946年) 1947年の香港の街角 香港の株式市場は、香港軍政庁の下で閉鎖が続いていた。ただ、株式取引が明確に禁止されても、闇市が存在していた。資金繰りの厳しい人が、手元の株式を換金したくなるのは当然のこと。どこの世界でも、株式の自由な売買に障害が発生すれば、闇市が生まれる。これは自然な流れと言えるだろう。
終戦直後の株式闇市は、細々としたものだったようだが、1946年に入ると、人目をはばかることもなく、株式が売買されるようになった。香港軍政庁もこうした状況に、緊張を隠せなかったという。
ヤング総督の復帰後も、株式市場の閉鎖は続いたが、原則的に早期の再開を目指すことになった。香港政庁の内部で意見調整が進み、1946年9月11日に香港股份総会と香港股票経紀協会の取引所が再開することが決まった。
だが、改正モラトリアムに基づき、いかなる株式売買も事前に金融総監に申請する必要があった。これは非常に面倒な手続きであったことから、香港政庁はこの規制を限定的に免除することになった。
株式市場の再開当初、自由に売買できる銘柄は、規制を免除されたものに限られた。規制免除の第一号は、香港を代表する銀行の香港上海匯豊銀行(HSBC)の株式だった。その後、香港置地(ホンコン・ランド)や東亜銀行などの優良銘柄も規制が免除され、自由に売買できる銘柄が増加した。
規制が完全撤廃されたのは1948年11月30日。こうした戦前に上場していた株式は、すべて自由に売買できるようになった。
株式取引再開の試行錯誤
中国人が開いた証券会社(1948年5月) 株式市場は再開されたものの、その株価が問題となった。大部分の株価は、ノミナル・プライスで取引するように決められたからだ。これは日本占領時代が始まる直前の株価を基準としたものであり、疲弊した香港経済の現状を反映した価格ではなかった。つまり、非常に割高な水準であり、取引に支障が生じた。
株式仲介人(証券会社)は、これを何とかするよう香港政庁に求めたが、聞き入れられなかった。株価の大幅変動が、投資家心理に影響を与えることを危惧したためだ。
だが、株式仲介人や投資家はしたたかだった。密かに定めた株価で売買した後、香港政庁にはノミナル・プライスで取引したと登記した。つまり、表面上は香港政庁が指定したノミナル・プライスだが、実際には実勢価格が適用された。株価の形成は自然のものであり、為政者によって固定できるものではない。
こうした状況を香港政庁や銀行は認識していたものの、自然に生まれた投資家心理や市場の秩序を壊すわけにもいかず、見て見ぬふりに徹したという。
株式市場が秩序を取り戻すなか、一部の企業の株主が、会社登記をめぐって香港政庁に訴えた。それによると、日本占領時代に売却を強要された保有株について、本来の権利を取り戻したいという。だが、証拠集めは極めて困難だった。
永昌銀行の外貨両替所(1948年) 実際のところ、香港の会社登記所は戦時中に大きな被害を受け、1941年以前の株式名簿や株式売買契約書などの多くが失われていた。香港政庁は調査を続けたものの、その作業は不可能に近い。記録を収拾できないのは、株式仲介人も同じだった。このため一部の企業はさっさと解散を決め、あらためて出資者構成を再確定したという。
こうした状況にあったことから、株式市場の再開当初は、誰もが慎重だった。株式仲介人は必ず会社登記所で売買記録を確認し、株式の当初の保有者を確定しなければならなかったからだ。
もし売買記録が見つからないまま取引を実行する場合、それによって刑事責任を負うことも辞さないと、香港政庁に宣誓する必要があった。こうして株式の所有権が確定して初めて、株式仲介人は顧客と取引について話し合うことができるのだった。
売買契約が成立すると、現金で決済し、株券の受け渡しも即座に実行された。最高速度で取引を完了させることで、詐欺や投機を防いだ。
取引所の合併
香港証券交易所の初代総裁となった
クラウチャー氏
株式取引は再開したものの、当初の経営環境は劣悪だった。商いは乏しく、二つの取引所を養える規模ではなかった。多くの株式仲介人が他界したことも、商いが薄い原因だった。日本占領時代の直前、香港股份総会には29人の株式仲介人が所属していたが、9人が戦時中に亡くなったり、行方不明になっていたりした。
こうした状況にあったことから、香港政庁は二つの取引所に合併を要請。非常に厳しい状況にあったことから、政府の要請に反対する者はいなかった。
合併に際して、香港股份総会と香港股票経紀協会は一旦解散。新しい一つの取引所を設立し、二つの取引所の会員が出資するかたちとなった。
二つの取引所の解散では、全権を裁判所に委ね、争いが起きないよう努めた。二つの取引所の財産は均等に会員に分配され、香港股份総会では会員1人あたり6万6,935香港ドルを受け取った。現在ではささやかな金額だが、当時は巨額の数字だった。
二つの取引所は性質、制度、歴史、基盤のいずれも似通っていたうえ、会員同士もプライベートでのつながりがあり、合併作業はすこぶる順調だった。
こうして1947年3月に合併が成立し、香港証券交易所有限公司(The Hong Kong Stock Exchange Limited)が誕生した。略称は香港証券交易所(The Hong Kong Stock Exchange)。会員の定員は60人で、開業当初の会員数は54人。二つの取引所からそれぞれ27人が、新しい証券取引所の会員となった。
会員数は均等に配分されたが、旧・香港股份総会の会員が、香港証券交易所を主導することになった。歴史と権威の違いが、その背景にあった。香港証券交易所の初代総裁には、香港股份総会の総裁だったノエル・ビクター・アモー・クラウチャー(中国名:球槎)が就任した。
1947~1948年になると、香港経済も回復が進み、株式の売買が可能な有限責任公開会社(公開会社)の業績も向上。株価の割安感が鮮明となり、株式取引も活発化した。1947年の株式売買代金は1億香港ドルほどだったが、1948年には1億5,896万3,298香港ドルに増加した。
国共内戦と香港経済
“遼瀋戦役”で遼寧省瀋陽を攻める中国人民解放軍
“淮海戦役”に加わった中国人民解放軍の戦車部隊
“平津戦役”に勝利した中国人民解放軍が
北京に入城
英領香港が戦後復興の歩みを進めるなか、中国本土は再び戦乱の渦に巻き込まれていた。中国人にとって新たな悲劇の始まりだったが、皮肉なことに、それは香港経済の基盤を固めるきっかけとなった。
日中戦争のために協力していた中国国民党と中国共産党だが、戦後に再び対立した。1946年6月26日に蒋介石は中国国民党の正規軍に命令を発し、中国共産党に対する全面侵攻を開始。こうして国共内戦が本格化した。
当初の軍事衝突は華北地域に集中し、香港への影響は限定的だった。1948年9~11月に遼寧省で展開された“遼瀋戦役”で、中国共産党の中国人民解放軍(解放軍)が大勝し、中国国民党の中華民国国軍(国軍)47万人を殲滅。旧満州の東北地方を支配下に置いた。旧満州の重工業地帯を手に入れ、その後の内戦は解放軍に優位な展開となった。
これに続く1948年11月~1949年1月に江蘇省で展開された“淮海戦役”でも、国軍は56万人の兵力を喪失。これにより長江以北が、中国共産党の支配下に入った。さらに同じ時期に河北省で展開された“平津戦役”でも、国軍は52万人を失った。
これら“遼瀋戦役”、“淮海戦役”、“平津戦役”は、国共内戦の三大戦役と呼ばれる。三大戦役の結果、国軍は大敗し、蒋介石は責任を取って、総統職を辞した。代理総統に就任した李宗仁は、1949年4月1日に北京に交渉団を派遣し、和平に向けて動いた。
船で上海から脱出する外国人(1949年)
1949年5月のフランス租界
犬を散歩させる外国人女性
だが、交渉は決裂した。1949年4月21日に解放軍は長江を渡り、同月23日には中華民国の首都である南京を攻略。解放軍は金融都市の上海に迫った。
上海の資本家たちは、共産化による私有財産の国有化を恐れ、英領香港を目指した。1949年4月25~26日の2日間だけで、3,000人を超える上海の資産家などが、飛行機で上海に脱出した。こうして上海の人材、資金、技術などが、香港に流入。これは疲弊していた香港経済にとって、強力なカンフル剤となった。
中国人民解放軍の上海入城儀式
(1949年7月6日)
1949年5月27日に解放軍が上海を占領。さらに南進を続けた。1949年10月1日に毛沢東は北京で中華人民共和国の建国を宣言。この時点で、まだ中国国民党の支配下にあった華南地域の人々は、急いで香港に駆け込んだ。
広東省広州に進駐する中国人民解放軍
(1949年10月)
列車で上海から南に逃れようとする人々
(1949年)
ボーダーラインを越えて香港に逃れる難民
(1949年11月)
中華人民共和国の建国を宣言する毛沢東
香港政庁は無数の難民が香港に流入する状況を恐れていたが、彼らが資本、設備、労働者、企業家を引き連れていると知り、態度が一変。難民の流入を放置した。その結果、繊維業、縫製業、玩具製造業、プラスチック製造業、精密機械業、印刷業など、香港の工業化の“タネ”が撒かれることになった。
中国本土からの難民が建てた小屋(1948年) 香港の難民臨時収容所(1949年11月)
中国本土からの難民が建てた小屋
(1948年)
上海の証券取引所が閉鎖されると、香港への資金流入が加速。株式仲介人も香港に逃れた。さらに外国に住む華僑からの資金も、香港に流入。このように国共内戦と中華人民共和国の成立は、戦後の香港に繁栄をもたらすきっかけとなった。
なお、国共内戦は国軍が最後まで巻き返すことができず、中国国民党は1949年12月7日に中央機構を台湾の台北に移し、ここを臨時首都とした。いまだに国軍の残存戦力は、雲南省の辺境などで抗戦を続けていたとは言え、台湾海峡を挟んで両陣営が対峙する構図が、ほぼ固まった。
東西対立と香港株式市場
投降するフランス兵
(第一次インドシナ戦争)
仁川に上陸した国連軍(1950年9月15日)
休戦会談の様子(1951年10月11日)
戦後の東アジアでは、資本主義の西側陣営と社会主義の東側陣営が各地で衝突。こうした国際情勢が、香港の株式市場を翻弄した。
1946年にベトナムで第一次インドシナ戦争が勃発。この戦争はやがて、米国が支援するフランス軍と中華人民共和国・ソ連が支援するベトナム民主共和国との代理戦争に発展した。香港はベトナムに近く、地政学リスクが香港株式市場の重荷となった。
1949年10月1日に社会主義の中華人民共和国が建国されると、香港の前途に不安を感じた投資家たちは、株式の売却に走った。香港株式市場の株価は急落し、1949年の株式売買代金は前年比44.5%減の8,819万8,190香港ドルに落ち込んだ。
さらに1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、東西両陣営の本格的な戦争に拡大する懸念から、香港株式市場の投資家心理も極度に悪化。1950年の株式売買代金は前年比31.8%減の6,010万8,912香港ドルに落ち込んだ。これは1948年の37.8%にすぎない水準だった。
もっとも、1951年に朝鮮戦争が膠着状態に陥り、停戦に向けて動き出すと、投資家心理も好転。この年の香港株式市場は、売買代金が前年比134.0%増の1億4,067万1,899香港ドルに回復。1952年も安定し、前年比1.2%増の1億4,230万9,007香港ドルだった。
1953年7月27日に朝鮮戦争休戦協定が発効。この年の香港株式市場の売買代金は、前年比5.9%増の1億5,076万6,890香港ドルに上った。1954年8月1日には第一次インドシナ戦争が休戦となり、この年の売買代金は前年比67.1%増の2億5,197万6,029香港ドルに達した。
1955年の香港株式市場は、売買代金が前年比32.2%増の3億3,318万9,500香港ドルを記録。もっとも、この年の8月以降はHSBCが株式担保ローンの金利を引き上げたことをきっかけに、株価は下落に向かうことになった。
外的要因と香港株式市場
戦後に復活した香港株式市場は、主に香港域外からの外的要因に翻弄された。ここで言う外的要因とは、国共内戦と中華人民共和国の建国のほか、東西対立を背景とした国際情勢を指す。香港は地場経済の規模が小さく、外国との取引といった開放経済が中心であることから、株式市場は今日でも外的要因に左右されやすい。
特に“中国本土と香港の関係”や“中台関係”という外的要因は、株式市場にとどまらず、香港社会にも大きな影響を与える。香港社会がさまざまなルーツを持つ人々によって構成されるからだ。それゆえ、香港社会を分断するような事件に発展することもある。
1956年には香港で多数の死傷者を出す騒乱事件が発生。1967年には大規模な暴動が起きた。2019年には大規模なデモが発生した。これらは“中国本土と香港の関係”や“中台関係”がもたらした香港社会の分断が原因だった。こうした分断が起きると、さらに株価が下落することになる。次回は香港社会を分断した騒乱を紹介する。