全日本空輸の二代目社長だった岡崎嘉平太と中日友好協会の初代会長だった廖承志という日中両国の大物が、禹国剛という人材を生み出した。その禹さんは岡崎氏の念願だった日本留学を終え、深圳証券取引所の創設に向けた準備に着手した。
座談会でブルーブックを手にする禹国剛さん
(2015年1月)
1988年から禹さんらのチームは外国の会社法、証券法、投資者保護法、会計制度、会計基準などの資料を中国語に翻訳し、資料集を編纂。この資料集は1990年に完成し、表紙が青色だったので “ブルーブック”(藍皮書)と呼ばれ、証券取引所創設のバイブルとなった。
1989年11月に深圳市は正式に深圳証券取引所の創設チームを編成した。禹さんら創設チームはオフィスビル「深圳国際貿易中心大廈」(国貿ビル)の3階にあった倉庫跡に、拠点を構えた。さらに倉庫跡の近くにあったショッピングフロアを借り、ここを取引が行われる立会場に定めた。
下りない許可
深圳市が“株券狂想曲”にわいた1990年5月までに、深圳証券取引所の設立準備は完了した。禹さんらは中央政府に設立許可を求めたが、「深圳証券交易所」(中国語)という名称は政治的に刺激が強すぎるということで却下された。“資本主義の復活”が連想される名称だったからだ。株券市場の閉鎖を主張する意見が台頭するなかで、この名称は教条主義者や株式制反対派を刺激しかねなかった。
中央政府からは「深圳証券市場」(中国語)という名称を勧められたが、禹さんらは納得できなかった。「野菜市場や肉市場じゃあるまいし……」――。証券市場や取引所の概念を学んだ禹さんらの心は、「深圳証券市場」という響きに耐えられなかった。そこで「深圳証券交易中心」(中国語:“中心”とは“センター”の意味)という折衷案も考えたが、「深圳証券交易所」(中国語)という名称を捨てきれなかった。
許可は下りなかったが、創設準備は続いた。7月に深圳市の幹部が創設チームの様子を視察。「狭すぎる。さっさと引っ越せ!」――と、幹部は不満をあらわにした。さすがに元倉庫や元ショッピングフロアでは格好がつかないと判断したのだろう。創設チームは「深圳国際信託投資大廈」(国投ビル)の15階に移転。深圳証券取引所はここで開業することになった。
ショッキングな知らせ
禹さんらは中央政府の許可を待ち続けたが、良い知らせは一向に来なかった。オフィスの窓から外を見れば、深圳市の街は“株券狂想曲”で大混乱だ。これを理由に株式制の撤廃が決定的となれば、証券取引所の創設に向けた努力もムダになる。「証券取引所ができれば、こんな混乱はなくなるのに、なぜ許可されない……」と、禹さんは歯がゆい思いだった。
やきもきする日が続くなか、ショッキングな知らせが届いた。上海証券取引所が1990年末にも開業するというニュースだった。中央政府が証券取引所の設立が認めたことを禹さんらは喜んだが、それが上海市ということに愕然とした。
実は上海市の副市長らが金融当局の幹部を率いて深圳市を訪問した際、例のブルーブックを入手していた。禹さんらの努力の成果がやすやすと持ち去られたうえ、いまや初の証券取引所という栄誉も奪われようとしている。「なんとかしなければ……」と、禹さんらは深圳市の幹部に訴えた。
書記の決断
「今日は最終決定を下しに来た」――。深圳市の書記、市長、副市長、銀行関係者が、創設チームの会議室に顔をそろえ、話し合いが始まった。1990年11月下旬のことだった。話し合いのメンバーは、急進派と慎重派に割れた。急進派は深圳証券取引所の開業を強行すべきと主張。これに対して慎重派は中央政府の許可を待つべきと唱えた。
上海市に先を越されたくない禹さんは、もちろん急進派だった。「深圳証券取引所の開業が早ければ、現在の株券市場で起きている問題の8割以上は即座に解決できます。もし、ここで決断しなければ、店頭取引市場や闇市が残り続け、いつか取り返しのつかない事態に発展します。その時、中央政府はあなた方の責任を問うでしょう」と、禹さんは深圳市の幹部に訴えた。
禹さんの話を聞き終わった幹部らは、とりあえず証券取引所のイメージをつかもうと、立ち合いの様子やコンピューター操作を実演してほしいと要望した。これに応えて実演すると、難しい顔をしていた幹部ら全員が、満面の笑顔になった。特に電光スクリーンで株価が次々と変化する様子に興奮した。
「上海証券取引所の創設は正式に中央政府に許可されたそうだが、まだ開業していない。われわれは中央政府の許可を待たずに、“試験的”に開業すればよいのでは?経済特区の“試験権”は、中央政府がわれわれに与えた“伝家の宝刀”のようなもの。これを抜くべき時は、抜くべきだ」と、市長は“試験的”という名目で開業に踏み切る決意を固めた。
書記は「いま決めたら、いつ開業できる?」と尋ねた。
「いま決めれば、明日にも開業できます」と、禹さんは答えた。
「準備万端なのに開業しない理由はなかろう。深圳証券取引所は1990年12月1日に開業する。この件はこれで決まりだ。あと10日近くあるから、時間は十分だろう。この件について今後は話を蒸し返さないこと。みんな分かったな?」――と、書記は話し合いを締めくくった。話し合いの流れを見守っていた禹さんら創設チームからは、大きな拍手が起こった。
“老三家”の抵抗
深圳証券取引所の試験開業
(1990年12月1日)
こうした経緯を経て、深圳証券取引所は無許可のまま、ひっそりと開業した。深圳市で取引されている株券5銘柄のうち、初日に上場したのは蛇口安達運輸股份有限公司(安達運輸)だけだった。その他の4銘柄は、取引所集中義務を果たせる状態になかったからだ。
午前9時に天井に吊るされた小さな鐘が鳴らされ、初日の業務がスタート。だが、注文の電話は一向に来なかった。しばらくして、1人の男が深圳証券取引所に現れ、関係者の袖を引っ張り、ビルの片隅に連れて行った。男は市政府の関係者だった。
「深圳市の株券店頭取引を仕切っている“老三家”が、深圳証券取引所に商いを奪われないよう密謀しているらしい。つまり、深圳証券取引所に注文が来ないように、“老三家”が連携しているわけだ。開業初日の出来高がゼロになるよう仕組んでいる」と、男は小声で告げた。どうりで注文の電話が来ないわけだ。
“老三家”とは株券の店頭取引を仕切る3つの金融機関のことであり、この連載の第十一回でも紹介した中国人民銀行深圳市分行特区証券公司(深圳経済特区証券公司)、中国銀行深圳国際信託諮詢公司(中行証券)、深圳国際信託投資総公司(国投証券)を指す。
この話を聞いて、深圳証券取引所の関係者は心配になった。その表情を見て男は、安心するよう関係者に語りかけた。「心配するな!市政府を代表して注文を何件か出してやるから。なんとしても開業初日の出来高を作ってやる!」と胸を張った。
この日、市政府から5件の注文が出て、安達運輸の株式8,000株が約定。出来高ゼロは回避され、“老三家”の目論見は外れた。その後、“老三家”の店頭取引や闇市は姿を消し、深圳市に証券取引所の時代が到来した。
深圳証券取引所は2度開業
深圳証券取引所の開業式
(1991年7月3日)
波乱の連続だったが、深圳証券取引所は中央政府の許可がないまま1990年12月1日に試験開業。一方、上海証券取引所は中央政府の許可を得て、1990年12月19日に正式開業した。
それから7カ月ほどが過ぎ、深圳証券取引所は中央政府の許可を経て1991年7月3日に正式開業。この時は開業式典が晴れ晴れしく挙行された。深圳証券取引所は2度も開業したことになる。
「中華人民共和国で最初の証券取引所」――。その栄誉をめぐり、深圳証券取引所と上海証券取引所は、わだかまりを残すことになった。“実質”という点で見れば、深圳証券取引所が先だ。しかし、“正式”という点では、上海証券取引所が第一号となる。
深圳証券取引所では毎年12月1日を開業記念日としており、初の証券取引所と自負している。上海証券取引所も初の証券取引所としての栄誉を譲らない。それぞれの主張には、それなりの根拠がある。
板に注文を書き込むトレーダー
(1991年)
実のところ、中華人民共和国で最初の証券取引所は1950~1952年に存在した北京証券交易所なのだが、短命だったため、憶えている人はほとんどいない。歴史に埋もれた北京証券交易所を無視して、深圳証券取引所と上海証券取引所のわだかまりは、今日まで続いている。