国共内戦後の香港では、中国国民党(国民党)寄りの右派市民と中国共産党(共産党)寄りの左派市民との対立が激化し、1956年10月の“双十暴動”という流血の大惨事に至った。こうしたなか、成立から間もない中華人民共和国では、大躍進政策やプロレタリア文化大革命(文革)で、経済や社会が混乱。その影響を受け、1960年代の香港社会は動揺が続き、再び市民が血を流すことになった。
双百方針から反右派闘争へ
最高国務会議で“双百方針”を表明する毛沢東(1956年5月2日)
反右派運動で人々に批判される章伯鈞
中国農工民主党の主席、
中央政府の交通部長だった
議会の両院制を提案し
右派のレッテルを張られた
中国本土の政治情勢は、今も昔も香港社会の構造が変動する大きな要因だ。1956年に毛沢東は、「百花斉放・百家争鳴」をスローガンとする政治運動を展開(双百方針)。共産党への批判を含め、さまざまな主張を歓迎すると表明した。
最初は盛り上がらなかった「百花斉放・百家争鳴」だったが、知識人層などが徐々に口を開きだすと、予想以上の共産党批判に発展。毛沢東は危機感を露わにし、右派などへの批判も行うよう人々に求めた。
だが、批判の対象が、権力を持たない人々に向かうはずもない。批判の矛先は、当然のように強力な権力を保持する毛沢東と共産党に集中した。
批判にさらされた毛沢東と共産党は、1957年に入ると一転して、反体制狩りの反右派闘争を展開。双百方針の求めに応じて批判や主張の声をあげた約55万人が、右派分子の烙印を押された。後に国務院総理(首相)となる朱鎔基も、その中の一人であり、名誉回復に至るには、20年ほどの月日を要した。また、40万~70万人と推計される知識人などが、農村や工場での“労働改造”を受けた。
大躍進政策と大飢饉
反右派闘争で政治権力を固めた毛沢東は、1958年から農業と工業の大増産政策に乗り出す。いわゆる“大躍進政策”と呼ばれる社会主義建設運動であり、15年以内に米英を追い越すと宣言した。
その結果は惨憺たるものだった。現実を無視したノルマと管理体制の下で、農民たちは原始的な方法による鉄生産に追われた。原料もないことから、鉄製農具を溶かして、クズ鉄を生産するような有様だった。
また、スズメは穀物を食べる害鳥であるという毛沢東の言葉に従い、全国総動員で捕獲を開始。これによって生態系が崩れ、スズメが捕食していた害虫が増えた結果、全国的な凶作に至った。
鉄生産のために各地に作られた“土高炉”
粗末な鉄しか生産できなかった
(1958年10月)
“打麻雀運動”のポスター
パチンコでスズメを撃つ少年
朝鮮戦争休戦協定に署名する彭徳懐
文革でも壮絶な迫害に遭った彭徳懐
死後の1978年に名誉が回復された
当時の国防部長だった彭徳懐は、毛沢東と同じ湖南省出身で、朝鮮戦争では中国人民志願軍の司令官を務めた英雄。湖南省の故郷を視察した際、大躍進政策のせいで農村が疲弊している惨状を目の当たりにし、危機感を覚えた。こうして彭徳懐は毛沢東に私信を送り、大躍進政策の問題点を指摘し、方針転換を求めた。
だが、毛沢東は彭徳懐を国防部長から解任した。彭徳懐の諫言を毛沢東は自身の権力基盤に対する挑戦と受けとめたからだ。ブレーキを失った大躍進政策は、さらに膨大なノルマを課された。毛沢東の機嫌を損なわないため、幹部らは成果の水増しに追われた。
この大躍進政策の結果、中国本土の農村は極度に疲弊し、1958~1959年から3~4年にわたる大飢饉が発生。これによる死者はあまりにも多く、1,650万~4,300万人ほどと推計される。
新たな難民の流入
大躍進政策の果てに起きた大飢饉の結果、膨大な数の人々が、中国本土から香港に押し寄せるようになった。こうした難民の香港流入は、1962年にピークを迎え、1日平均5,000人、1カ月で15万人とも言われるペースだったという。
香港に入るルートは、さまざまだった。偽造の渡航許可証を使い、列車や自動車で潜入を図る者のほか、中国本土と香港の境界線に設置された鉄条網を乗り越える者もいた。水泳に自信のある者は、10キロメートルあまりも海を泳ぎ、香港に渡った。だが、多くの人が、サメに食い殺されたり、香港の警備兵に射殺されたりしたという。
あまりに膨大な難民流入を受け、香港政庁は従来の方針を転換。難民を中国本土に送還することを決めた。送還された者の末路は悲惨だ。“階級敵”とされ、壮絶なリンチに遭ったり、労働改造に送られたりという運命だった。
送還を待つ蠅だらけの少年難民
膝には香港政庁支給のパンが
中国本土への送還を恐れる難民は、境界線付近にある香港の山地に潜伏。その数は3万人に上った。こうした状況を受け、武侠小説で有名な作家の金庸は、彼が創刊したばかりの新聞「明報」に社説を掲載。難民支援を香港市民に呼び掛けた。
これに呼応した数千人に上る香港市民が、潜伏地に救援物資を届けたほか、難民の隠匿や逃亡支援などの活動を展開した。中国人の警察官はサボタージュし、「捕まえられませんでした」と、英国人の上司に報告したという。
この当時の香港市民は、半分が香港域外で生まれた人であり、中国本土の人々に対する同胞意識が強かった。
英軍に捕まった少年難民 トラックで送還される難民と救援に来た香港市民
香港社会の構造変化
難民が建てた粗末な木造家屋
こうした集落が香港各地にみられた
日中戦争や国共内戦で香港に流入した難民は、上海市、江蘇省、浙江省、山東省、河南省、天津市などの出身者が多く、そのルートは合法的だった。
一方、1950~1960年代の難民は、広東省からが圧倒的に多く、これに福建省、四川省の出身者が続いた。彼らは密航など違法なルートで香港にやって来た。1966年の言語調査によると、広東語と福佬語(福建語)の話者の割合が、1961年の調査に比べ拡大していることが分かる。
新しい難民の流入で、安価な労働力が香港に追加され、香港経済が高度成長するうえでの原動力となった。
その一方で人口の急激な増加により、香港ではバラック小屋が数十年も残り続け、香港政庁はニュータウン建設に追われた。一部の難民は経済的な自立ができず、犯罪に身を投じ、治安も悪化した。
1960年代の経済発展
香港の懐中電灯工場(1965年) 難民という安価な労働力を武器に、戦後の香港では繊維・服飾品製造業が急速に発展。だが、1959年に英国は香港製の綿製品に対する輸入割当制度を実施し、これに他の西側諸国も追随。香港の繊維・服飾品製造業は大きな打撃を受けた。
こうした苦境のなかで、香港のメーカー各社は不動産業、電子製造業、玩具製造業、金融業、サービス業などに業態を変化させ、産業の多様化が進んだ。さらに南米、アフリカ、東南アジアのマーケットを開拓。“メイド・イン・ホンコン”の品質も向上した。
このように1960年代の香港は製造業の発展が続いたものの、株式市場や銀行業界は動揺が続いた。
株式市場の活況と銀行危機
“双十暴動”の影響などで、1958年の香港株式市場は商いが低迷したが、1959年になると株価の上昇にともない、再び取引が活発化した。株式売買代金は前年比140.2%増の3億5,959万8,698香港ドルに上った。この勢いは1960年も続き、株式売買代金は前年比143.5%増の8億7,577万5,6613香港ドルに達した。
1961年は6月26日にアヘン商社だったジャーディン・マセソンが上場。1株16香港ドルで新株90万2,948株を募集し、約1億5,000万香港ドルを調達した。募集株数に対して56倍の申し込みがあり、上場初日の終値は31.25香港ドルに達した。
ジャーディン・マセソンの上場にみられるように、1961年は毎月の株式売買代金が1億香港ドルを超えるという空前の活況ぶり。年間の株式売買代金は前年比61.5%増の14億1,419万7,699香港ドルに達した。
だが、こうした株式市場の活況ぶりが、香港の銀行業界にダメージを与えた。株式投資に資金をまわそうと、多くの投資家が預金を引き落としたからだ。
廖創興銀行の発展と危機
勢いのあった当時の廖創興銀行 廖創興銀行は潮州人の廖宝珊が、1948年に香港島の永楽街で創業。香港や海外の潮州商人から預金を受け入れ、斬新な経営手法を積極的に採用し、急速に発展した。
ほかの銀行では、営業時間が午前10時~午後3時であり、さらに1時間の昼休みがあった。そうした時代に廖創興銀行は、午前8時~午後5時にわたり営業を続け、昼休みもなかった。この便利さが人気を博した。
また、受入額100~1,000香港ドルの小口預金という新商品を打ち出し、その月利は6%という高さ。これも大人気となり、受入預金額が急増した。
さらに創業者の廖宝珊は、香港島の倉庫などを買い漁り、不動産相場の値上がりで富を蓄積した。買付資金は自身が経営する廖創興銀行から調達した。このように、廖創興銀行は高金利で預金を集め、高リスクの不動産投資に融資しており、危険の高い経営戦略に手を染めていた。
廖創興銀行は1960年末の受入預金額は1億900万香港ドル。うち7,357香港ドルを融資に回し、852万香港ドルを不動産投資に充てていた。つまり、受入預金額の75%を投融資に回しており、すぐに預金者に返還できる資金は、わずかだった。
こうしたなか、株式市場が活況だったことから、預金を引き落として、株式投資に充てようとする預金者が続出。ジャーディン・マセソンの上場計画が伝わると、その流れは激しさを増した。
取り付け騒ぎの発生
廖創興銀行の取り付け騒ぎを伝える新聞 1961年6月13日付の新聞に、「香港の有名銀行家が警察の捜査対象となっており、すでに域外追放が命じられた」というニュースが掲載された。これはまったくの誤報であり、警察も否定したが、多くの香港市民が廖宝珊のことだと思い込み、その翌日に廖創興銀行で取り付け騒ぎが起きた。
1961年6月14日に大勢の預金者が廖創興銀行に殺到。この日だけで総額300万香港ドルを超える預金が引き落とされた。投融資に回していない返還可能な資金が3,000万香港ドルもないことから、たちまちピンチに陥った。取り付け騒ぎは15~16日も続き、2万人以上が総額3,000万香港ドル近くを引き落とした。
取り付け騒ぎの発生を受け、廖宝珊は英国資本の香港上海匯豊銀行(HSBC)と渣打銀行(チャータード銀行)に支援を求めた。これを受け、両行は不動産を担保に廖創興銀行への融資を取り決めた。
廖宝珊の命を奪った誤訳
廖創興銀行を創業した廖宝珊 HSBCとチャータード銀行は6月16日午後に、廖創興銀行への支援を発表。3,000万香港ドルを廖創興銀行に融資し、取り付け騒ぎに対応すると表明した。だが、ここで翻訳ミスが発生した。「廖創興銀行の事件は、完全にコントロール下にある」という意味の英語が、中国語では「廖創興銀行は両行のコントロール下にある」と翻訳された。
この中国語を見た廖宝珊は、自分の財産がHSBCとチャータード銀行に乗っ取られたと思い込み、卒倒した。6月17日に取り付け騒ぎは沈静化したが、廖宝珊は脳溢血を起こし、1961年7月23日に死亡した。
頻発する取り付け騒ぎとHSBC
破産した明徳銀号(1965年4月) ハンセン銀行の取り付け騒ぎ(1965年4月) 廖創興銀行の取り付け騒ぎを受け、香港市民は投資に慎重になった。1962年に入ると、米国が香港からの綿製品に対し、輸入制限措置を発表。さらに10月下旬には中印国境紛争が勃発し、投資家心理が極度に悪化。1962年の株式売買代金は、前年比50.4%減の7億138万6,919香港ドルに落ち込んだ。1963年も前年比25.8%減の5億2,072万7,896香港ドルにとどまった。
株式売買代金は1964年に入ると、前年比43.6%増の7億4,761万4,814香港ドルに回復。だが、その勢いは続かなかった。1965年1月に両替商の明徳銀号で取り付け騒ぎが発生。2月には広東信託商業銀行でも騒ぎが起きた。いずれの取り付け騒ぎも、経営不振をめぐる噂が発端であり、どちらも倒産という憂き目にあった。
さらに4月には恒生銀行(ハンセン銀行)でも取り付け騒ぎが発生。ハンセン銀行はHSBCの子会社になることで、生き延びることになった。HSBCはハンセン銀行を安価で吸収。ライバルの中国資本の金融機関も姿を消し、一連の取り付け騒ぎを経て、HSBCは香港金融界での地位を不動のものにした。
その後も1965年11月に遠東銀行でも取り付け騒ぎが起き、有余銀行の経営も悪化するなど、香港の銀行業界では動揺が続いた。
1965年はベトナムで米軍が北爆を開始するなど、香港周辺の国際情勢も緊迫化していた。香港域内外の不安定化を背景に、同年の株式売買代金は前年比47.9%減の3億8,945万7,744香港ドルに減少した。
スターフェリーの値上げ
香港島と九龍を結ぶスターフェリー
労働者の話を聞くエルシー・ヒューム(右前)
英国出身だが、中国語に堪能
(1970年10月20日)
1965年に起きた金融不安と株価低迷は、香港社会に不安をもたらした。こうしたなか、香港島のセントラル(中環)と九龍半島の尖沙咀を結ぶスターフェリー(天星小輪)の運営会社が、香港政庁に値上げを申請。上層の1等席を0.20香港ドルから0.05香港ドル引き上げ、0.25香港ドルとする案だった。なお、下層の2等席は0.10香港ドルで据え置かれた。
その当時の香港では、スターフェリーが香港島と九龍半島を結ぶ唯一の交通手段だったことから、この値上げ案に大勢の市民が反対した。反対派のエルシー・ヒューム議員が集めた署名は、11月だけで2万人分を超えた。
1966年3月に開かれた交通諮問委員会では、ヒューム議員1人を除き、そのほかの議員は値上げに賛成。ジャーディン・マセソンやスターフェリーの会長は、「1等席に乗りたくない連中は、2等席に乗ればいい」と発言し、大勢の市民から反感を買った。
ハンガーストライキと暴動
ハンガーストライキを決行した蘇守忠
シャツに“Hail Elsie”の文字
スターフェリーの値上げに抗議する若者たち
1966年4月4日に蘇守忠(ポール・スー)という25歳の青年が、“エルシー支持”(Hail Elsie)と書かれた服を着て、セントラルのエディンバラ広場でハンガーストライキを始めた。彼を見守る市民11人が応援に加わるなか、4月5日に蘇守忠は道路通行妨害と公務執行妨害の容疑で逮捕された。
すると、その日の夜に若者十数人が、スターフェリーの乗り場で抗議活動を開始。やがて多くの市民がこれに加わり、群衆となった。
4月6日に警察は抗議活動の参加者4人を逮捕。また、蘇守忠は裁判所で審問を受けることになった。その日の夜、ネイザンロード(彌敦道)でバスへの投石や放火が発生。さらに約300人の群衆が油麻地の警察署に集まり、投石を始めた。
警察隊が出動し、群衆を追い払ったが、これが暴徒化した。ネイザンロードで放火や略奪が始まり、暴徒の数も膨らんだ。消防署、公共施設も攻撃対象となり、警察隊は催涙弾などで応戦。4月7日午前1時に第二十四代香港総督のデビッド・クライブ・クロスビー・トレンチは、夜間外出禁止令を発動した。
4月7日夜も車両への放火や商店の略奪が続いた。暴徒は油麻地や旺角の警察署を放火しようと計画。これを受け、英軍も出動し、ヘリコプターで上空から催涙弾を発射した。
二晩にわたって起きた暴動で、1人が死亡、26人が負傷。逮捕者は1,500人近くに上った。4月8日も英軍の装甲車が警戒に当たり、ようやく暴動は沈静化した。4月9日に裁判所で審問を受けた逮捕者は300人を超え、大部分が15~25歳の若者だった。4月10日に夜間外出禁止令は解除され、暴動は収束した。
怒れる若者たち
暴徒化した若者たち(1966年4月7日) こうした暴動が起きたものの、スターフェリーの値上げは予定通り4月26日に承認された。香港政庁の調査報告によると、暴動の背景には生活、政治、経済などに対する“怒れる若者たち”の不満があった。経済的な失敗や貧富の格差が、暴動に加わった大きな要因という。
香港政庁の調査報告書では、香港政庁の権限が強く、それが市民との間に意識の差を作ったと指摘。香港政庁が市民の不満について理解に努めなければ、同じような暴動が再び起きると警告した。
なお、暴動の発端となった蘇守忠は、1996年に仏教の僧侶となった。彼が1997年に語ったところによると、ハンガーストライキの動機は “反植民地運動”だそうだ。蘇守忠が言うような反植民地運動は、英領香港の隣のポルトガル領マカオでも発生した。
ポルトガル領マカオ
マカオは明王朝中期の1553年から、ポルトガル人の居留地となっていた。1842年に終結したアヘン戦争に刺激され、ポルトガル政府はマカオの植民地化を計画。1887年にポルトガルと清王朝が交わした友好通商条約により、正式にポルトガル領マカオが発足した。
第二次世界大戦中はポルトガルが中立国だったため、その植民地であるマカオに戦火は及ばなかったが、日本軍による経済封鎖が続けられた。ポルトガルによるマカオ支配は、戦中戦後も続いた。
英領香港の誕生により、貿易拠点としてのマカオの地位は低下した。そこでマカオ政庁は税源の確保と産業の多様化を目的に、1847年にカジノを合法化。やがてマカオの中心産業として成長した。だが、カジノを除いて、マカオの発展は停滞。マカオ政庁は官僚主義や汚職にまみれ、その腐敗ぶりにポルトガル政府もあきれるばかりだったという。
このポルトガル領マカオにも、戦後は国共内戦の構図が持ち込まれ、共産党を支持する左派市民と国民党を支持する右派市民が対立していた。
マカイエンサ(土生葡人)の家庭 マカオにはエスニック集団の対立も存在した。本国生まれのポルトガル人は、混血を含むマカオ生まれのポルトガル人(マカイエンサ)を蔑視。そのうっぷんを晴らすかのように、マカイエンサは時に暴力をともなうような横暴さで、マカオに住む中国人を蔑んでいた。
マカオの一二・三事件
“一二・三事件”でセナド広場に集まった群衆
当時はヴィセンテ・ニコラ・デ・メスキータの
銅像があった
何賢(右)に接見する毛沢東(左)
こうしたなか、マカオのタイパ島で小学校建設をめぐり、1966年11月からマカオ政庁と左派市民が対立。これが警察と左派市民の衝突に発展した。1966年12月3日には総督府での衝突に発展。警察隊が催涙弾や実弾を発射し、夜間外出禁止令と戒厳令が発動された。この衝突は“一二・三事件”と呼ばれ、最終的に死者は8人に上り、200人以上が負傷する惨事となった。
この事件を受け、中国政府とポルトガル政府の談判が始まった。中国政府はマカオへの軍事侵攻や物資供給停止を示唆。こうした強硬姿勢で談判に臨んだ結果、ポルトガル政府は屈服した。マカオ総督は事件に対する遺憾の意を示し、死傷した市民への慰謝料の支払いも約束した。
さらに台湾の中華民国政府や国民党がマカオに設けた機関や支援団体は閉鎖し、青天白日滿地紅旗(中華民国の国旗)の掲揚を禁止。マカオの右派市民は一掃された。
その結果、マカオ政庁でポルトガル人の権威が失墜。左派市民の代表格である実業家の何賢が、マカオ政庁への影響力を強め、“影の総督”と呼ばれるようになった。その後のマカオ政庁も“親中的”であり、1999年12月20日にマカオ特別行政区が発足すると、何賢の七男であるエドムンド・ホーが、初代行政長官となった。
勢いづいた香港の左派
紅衛兵に囲まれる劉少奇
劉少奇夫人の王光美も紅衛兵に攻撃された
毛沢東夫人の江青は彼女が嫌いだった
中国本土では1966年5月に毛沢東が文革を発動。毛沢東を熱烈に支持する十代の若者は、極端な左派思想(極左)に染まった“紅衛兵”となり、“資本主義の道を歩む実権派”(走資派)とされた劉少奇・国家主席や鄧小平・副首相への攻撃を始めた。
こうしたなか、マカオでは一二・三事件を通じ、マカオ政庁が左派勢力の手中に落ちた。香港市民の目には、マカオが半ば共産化されたと映った。これで香港の左派市民が勢いづき、ストライキなどの労働争議が頻発するようになった。
その当時、香港マカオ事務を統括する中国本土側の責任者は、日中国交正常化に貢献した廖承志だった。彼は文革が香港に波及することを懸念。1966年8月に香港での文革を発動しないよう命じていた。
だが、廖承志も紅衛兵の攻撃対象となり、香港マカオ事務は極左集団が掌握。やがて香港の左派市民にも極左思想の影響が及んだ。1967年4月になると、多くのタクシー会社でサボタージュなどが発生するようになった。
造花工場の労働争議
タクシー会社でサボタージュが横行するなか、プラスチック造花の工場で労働争議が発生。過酷な就業規則に不満を訴えた従業員92人が、ビジネス縮小を口実に1967年4月28日に一斉解雇された。
これに左派の労働組合が介入し、労働争議はエスカレート。警察が警戒するなか、5月上旬に労使双方が衝突。従業員は工場の壁に「毛主席語録」を貼るなど、明らかに極左思想の影響を受けていた。
「毛主席語録」を手に香港警察と対峙する
左派市民
この問題を香港の左派系新聞「大公報」は社説で政治問題化。北京の新聞も非難の声をあげ、香港政庁による民族迫害であると主張し、香港市民に抵抗を呼びかけた。5月11日には約1,500人に上る労働者が造花工場で抗議活動を展開し、警察と衝突。数日にわたる衝突で、13歳の少年が死亡するに至った。混乱を収拾するため、英軍も出動。夜間外出禁止令も発動された。
この騒乱事件を受け、中国政府は5月15日に声明を発表。「香港政庁は造花工場の労働争議を利用し、中国人を迫害している」と非難。労働者と香港市民の正統な要求を受け容れるべきと主張した。
これに対して香港政庁のトレンチ総督は、「平和と秩序の維持こそ、大多数の香港市民が切望するところである」と強調。香港の社会秩序回復に全力を注ぐ姿勢を示した。また、英国政府は香港警察の行動が抑制されたものである評価し、香港政庁を支持するとの声明を発表した。
英中対立に発展
こうして造花工場の騒ぎは、中国と英国の外交問題に発展した。香港の左派系新聞は、中国政府の主張を大々的に報道。香港の左派系労働組合は、香港政庁をファシストとして批判した。北京では40万人の群衆が、英国代表事務所に押し寄せ、抗議活動を展開した。
香港では5月20日に「毛主席語録」を掲げながらスローガンを叫ぶ群衆が、総督府に押し寄せた。政治と経済の中心地である香港島に暴動が拡大。数日にわたる騒乱のなか、警察隊は催涙弾などで応戦。最終的に香港島で初の夜間外出禁止令が発動された。
香港総督府に押し寄せた左派市民の群衆 5月23日からは公共交通機関や公益事業会社でストライキが始まった。バス会社、鉄道会社、フェリー会社、ガス会社、電力会社などの従業員が加わった。ストに参加した従業員には、左派系労働組合から生活手当が支給された。さらに6月10日からは、政府機関の公務員や英系企業の従業員たちも、ストに加わった。この大規模ストは7月上旬まで続いた。
沙頭角の銃撃戦
造花工場の労働争議は、英中対立に発展し、香港での暴動とストに至った。こうしたなか7月8日午前10時ごろに、武装した中国本土の民兵300人が、東部の境界線である沙頭角の中英街から香港に侵入。香港側の警察署を包囲した。
銃撃戦翌日の沙頭角 やがて機関銃による銃撃戦に発展。応援要請を受け、英軍が出動した。午後4時ごろに民兵は撤退したが、この衝突で香港側では中国人の警察官3人、パキスタン人の警察官2人が死亡。侵入してきた中国本土の民兵も、1人が死亡した。香港政庁は沙頭角の夜間外出禁止令を発動。8月11日には中国本土との境界線を全面封鎖すると発表した。
エスカレートする暴力
こうしたなか、香港では左派の労働者が警察官を襲撃する事件が頻発。警察官の銃撃で、何人かの暴徒が射殺された。7月中旬に入ると、手製の爆弾やナパーム弾で警察署を襲撃する事件も発生。強酸性の液体を高所から落とし、警察車両などを攻撃する事件も起きた。この当時、左派系の学校では、実験室が手製爆弾の工場と化していたという。
8月には左派の拠点を制圧するため、英軍のヘリコプターも出動。香港政庁は緊急法に基づき、左派の学校や出版社を閉鎖。新華社や左派系新聞の記者5人を逮捕した。
警察にゴミ箱を投げつける左派市民 暴徒鎮圧に当たる重装備の警察隊
英国代表事務所の焼き討ち事件
焼き討ちされた英国代表事務所 これに対する報復として、中国政府はロイターの北京駐在記者を軟禁。8月20日に英国政府に対して、48時間以内に出版社の閉鎖解除と記者の釈放を実行するよう要求。22日には北京にある英国代表事務所が紅衛兵によって放火された。代表のパーシー・クラドック氏は紅衛兵に殴打され、毛沢東の像にひざまずくよう要求されたが、断固拒否した。
英国代表事務所の放火事件を「人民日報」は快挙として報道したが、周恩来首相は責任者を呼び寄せ、厳しく批判。1971年に着任した新たな英国代表に直接謝罪したという。
爆弾に怯える生活と林彬の死
7歳と2歳の姉弟の死を報じる新聞 放火された自動車(左)と生前の林彬(右) 一方、香港では左派の暴徒が警察をかく乱するため、本物や偽物の爆弾を街中や交通機関の随所に設置。香港市民は爆弾に怯える生活を強いられた。無辜の市民が爆殺される事件も発生。香港島のノースポイント(北角)では、プレゼント箱を装った爆弾で、7歳と2歳の姉弟が爆死するという痛ましい事件も起きた。
ラジオ局「香港商業電台」(CRHK)の番組司会者だった林彬は、左派のストライキや暴力行為を厳しく批判。それが原因で脅迫状を受け取ったが、強気な態度を崩さなかった。こうしたなか、8月24日に自家用車で職場に向かう途中、何者かに襲撃され、車両ごと放火された。同乗していた従弟とともに病院に運ばれたが、翌日に重度の火傷で死亡した。
左派系新聞の「大公報」は、林彬が襲撃された翌日も、彼を貶める社説を掲載。だが、多くの市民は林彬の死を悼み、左派の暴徒は大勢の怒りを買った。
なお、孤児だった林彬には、妻と3人の子どもがいたが、CRHKや市民からの支援を受け、9月17日に台湾に移住。左派と戦った林彬は、台湾の中華民国政府によって、“烈士”に封じられた。
しかし、爆弾騒動は一向に収まらず、やがて左派を標的とした爆弾も出現するようになった。12月中旬になって、周恩来首相は香港の左派に対し、暴力行為を止めるよう呼びかけ、こうして一連の暴動は収束に向かった。
六七暴動と株式市場
1967年に起きた左派による一連の暴動は“六七暴動”と呼ばれる。最終的に51人が死亡、823人が負傷。1,936人が起訴された。見つかった爆弾は8,074発で、うち1,167発が本物だった。
死者の数は1956年の“双十暴動”よりも少ない。だが、長期にわたり爆弾に怯える生活を強いられたことから、残された恐怖の印象は“六七暴動”の方が強い。当然のことながら、この暴動は投資家心理に悪影響を与えた。
爆破炎上する二階建てバス 爆発物処理の様子
暴動とストが広がると、香港証券交易所は1967年6月8日~6月20日に株式取引を停止すると発表した。6月21日に取引を再開したものの、株価は下げ続け、商いも低迷した。
香港を代表する株価指数のハンセン指数は、ハンセン銀行の経営者だった何善衡・董事長が、リサーチ部門の関士光(スタンレー・クワン)に作成を指示し、1969年11月24日に公表が始まった。ハンセン指数の基準日は1964年7月31日であり、この日の30銘柄の時価総額を100ポイントとしており、公表前から銀行内の参考資料として存在していた。
それによると、1967年のハンセン指数は下落を続け、8月末には58.61ポイントを付け、その後は回復に向かった。もっとも、1967年の株式売買代金は、前年比12.7%減の3億520万香港ドルにとどまった。
香港史のターニングポイント
土地競売に出席した李嘉誠(1987年)
徒手空拳から香港一の大富豪に上り詰めた
香港では“李超人”と呼ばれる
爆弾に怯える日々が続いたこともあり、香港の前途を悲観する人々は、海外移民を決めた。一部の富裕層は不動産などを安値で売り払い、新天地を求めて東南アジアなどへ移住。こうして売られた不動産は、李嘉誠、郭得勝、李兆基などの実業家が買い取り、彼らが今日まで続く巨大財閥を形成するうえで、大きな足掛かりとなった。“六七暴動”は香港経済界の勢力図を塗り替えた。
1966~1967年に2年連続で暴動が発生したことを受け、香港政庁はようやく民生の改善や格差の解消について検討を始めた。1970年代に入って香港の教育、医療などは改革が進むが、その背景には“六七暴動”からの反省があった。
香港のローカライズも進み、広東語が重視されるようになり、ほかの中国語の方言は影が薄くなった。こうした香港の“広東化”も、“六七暴動”がきっかけだった。
こうして香港政庁に対する香港市民の感情は改善が進むが、その一方で“六七暴動”の恐怖は残り続けた。極左と中国政府に対する反感は、香港返還後の軋轢へとつながり、今日にも少なからぬ影響を及ぼしている。
このように“六七暴動”は香港の歴史において、大きな転換点だった。