コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

大富豪と悪人のブルース

2021.8.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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戦後の香港では、上海出身者を筆頭に、新たな香港望族が台頭。歴史の転換点や高度経済成長の追い風を背景に、新興の香港望族はかつてないほどの富を築き、人々が憧れる対象となった。だが、貧富の格差がすさまじい香港華人社会には、香港望族の財産を狙う悪人も多く、無縁に見えた両者の人生も、時に交錯した。香港望族のような大富豪が、貧乏人の不幸や苦労を味わうことはない。しかし、大富豪には貧乏人が味わうことのない特別な不幸と悲劇が待ち受けていた。歌に例えれば、ブルースのような人生を歩んだ香港望族もいた。

温州出身の王廷歆

1937年の上海外灘(バンド) 第二次世界大戦と国共内戦にともない、戦火や中国の共産化を避けようと、“寧波商幇”をはじめとする上海の資産家が、英領香港に移住した。戦前の上海経済は、ざっくりと言えば香港の4倍ほどの規模。上海からの人材と資産の流入は、香港の戦後復興にとって、大きな追い風だった。

そうした上海から香港に逃れた資産家のなかに、王廷歆と王徳輝の親子がいた。父の王廷歆は、1911年に浙江省温州に生まれた。実家は染料会社で、20歳前に父の跡を継ぎ、経営者となった。

王廷歆は21歳となった1932年に任玉珍という名の女性と結婚。長男の王徳輝が生まれた。1937年になると、以前から仕事で頻繁に訪れていた上海に移転。二つの会社を設立した。一つは染料を扱う栄華公司で、もう一つは西洋薬や工業原料を輸入販売する華懋公司。日中戦争の戦火が迫るなか、ビジネスは拡大の一途をたどった。

王廷歆は上海で英インペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)の塗料工場で働く龔雲竜と知り合った。彼は王廷歆と同じ温州人。王家と龔家は徐々に親交を深めた。

温州人の独自性

浙江省博物館所蔵の越人像
文献の記録通り断髪文身の姿
王廷歆や龔雲竜が生まれた温州は、独自性の強い地域として知られる。浙江省の南端に位置する温州は、古代から越人たちの住処だった。越人は髪を結わず、身体に刺青を入れていた。こうした風俗は“断髪文身”と呼ばれる。それゆえ中華文明の中心地である中原地域の人々は、越人を南方の蛮族と見なした。現在の温州に住んでいた越人は、“甌越”と呼ばれていた。

中国初の統一王朝である秦の始皇帝が紀元前210年に崩御すると、その翌年に陳勝・呉広の乱が勃発。中国各地で、秦王朝への反乱が起きた。“甌越”の有力者であり、越王勾践の末裔として名高い騶揺も、秦王朝への反旗を翻した。

秦王朝が滅亡し、楚漢戦争が勃発すると、騶揺は越人を率い、漢の劉邦を助け、項羽と戦う。その功績を称えられ、漢王朝が樹立されると、現在の温州一帯を治める東海王(東甌王)に封ぜられた。騶揺が治める地は、東甌国と呼ばれた。

温州は三方を山に囲まれ、主な出入口は海という“陸の孤島”。こうした地勢と東甌国の成り立ちが、温州の独自性を生み出した。

その最も特徴的なのが、彼らが話す甌語(温州語)だ。温州語は学術的に上海語や寧波語と同じ江浙語(呉語)の一種とされる。しかし、実際は上海語や寧波語との違いが大きすぎ、コミュニケーションは難しい。温州語は発音、語彙、文法なども標準中国語と異なる特徴があり、別言語に近いと言われる。一説には、古代越語の影響が今日に至るまで残っているためという。

温州語は他地域の中国人にとって非常に難解であることから、「天も恐れず、地も怖くないが、温州人が温州語を話すのだけは恐ろしい」(天不怕、地不怕、就怕温州人説温州話)という俗話もある。また、その難解さゆえに、「悪魔の言語」とも呼ばれる。そのため、戦時中の暗号に温州語が使われたという俗説もある。ちょうど日本の薩摩弁のような扱いだ。

ちなみに、温州と薩摩には、方言のほかにも不思議な縁がある。みかんは日本では“温州みかん”(ウンシュウミカン)と呼ばれる。おそらく江戸時代の類書「和漢三才図会」などで、浙江温州が柑橘類の名産地と紹介されていることから、この呼び名が浸透したとみられる。

温州市大同巷の老香山堂
1868年に寧波市寧海県香山の薬商である李蔚が開業
大同巷は徐々に漢方薬の街となった。
温州では三十三万人が家庭工業に従事!
1985年5月12日付「解放日報」の一面
こうした経済発展は「温州モデル」と呼ばれた。
一方、みかんは英語で「サツマ」(Satsuma)と呼ばれる。明治時代の初期に、薩摩地方から米国に伝わったことに由来する。中国の温州と日本の薩摩は、どちらも方言が難解であり、みかんの呼び名として使われるという不思議な共通点がある。

話を本題に戻そう。温州は耕地が少なく、その影響で古くから商工業に携わる者が多かった。民間の金銭貸借も、昔から盛んだった。上海などの外地では、温州人同士で結束し、独自のネットワークを構築した。

こうした商業活動から、温州人には“中国のユダヤ人”という異名もある。中国では2000年ごろから各地で住宅価格が高騰したが、その背景には温州人グループの投機活動があったと言われる。

戦前も温州人のネットワークがあり、同郷者の王廷歆と龔雲竜が上海で親交を深めたのは、当然の成り行きだった。

王徳輝と龔如心

子ども時代の王徳輝と龔如心
赤い丸で囲まれた人物
多くの乗客と一緒に沈没した太平輪
“中国版のタイタニック号沈没事故“と呼ばれる。
太平輪の沈没事故は2014年に映画化された。
若いころの王徳輝と龔如心 おしどり夫婦だった華懋集団の王徳輝と龔如心 左派市民による六七暴動 本土視察ツアーに選ばれた香港屈指の大富豪
右から順に、
新鴻基地産の郭炳湘
華懋集団の王徳輝
愛国商人の霍英東
長江集団の李嘉誠
新鴻基集団の馮景禧
卓能集団の趙世曽
王徳輝は誰もが認める香港望族だった。
犯人から送られた王徳輝の写真 王廷歆の長男である王徳輝は、1934年に上海で生まれた。一方、龔雲竜には1937年に上海で生まれた長女がいた。名前を龔如心という。王家と龔家が親交を深めるなか、子どもだった王徳輝と龔如心も、すぐに仲良くなった。

王廷歆の家族は、終戦直後に英領香港へ移住したが、その後も上海の龔家とは連絡を保ち続けていた。そうしたなか、1949年1月27日の深夜、龔家は突然の不幸に見舞われる。龔雲竜を乗せた豪華客船「太平輪」が、台湾の基隆に向かう途中で貨物船と衝突。1,004人が死亡する大惨事となった。この事故で龔雲竜も亡くなった。

父親を失った龔如心を心配し、王徳輝は1955年に自分の家に引っ越すよう提案。幼馴染だった王徳輝と龔如心は、21歳と18歳という年ごろであり、すぐに恋仲となった。

だが、父の王廷歆と母の任玉珍は、二人の交際に反対。理由は王家と龔家の家柄が釣り合わないこと。龔如心は育ちが悪いと、任玉珍は彼女を嫌った。そうした反対の声にもかかわらず、王徳輝と龔如心はいつもべったりで、周囲の目もはばからないほどだった。王徳輝は龔如心を心底愛しており、1955年9月に二人は結婚した。

龔如心は会計事務所で秘書の仕事をしていたが、よく英語のスペルを間違い、上司に叱られていた。その話を聞いた王徳輝は、「次に叱られたら、上司に書類を投げつけろ!そんな仕事は、辞めてしまえ!」と、怒りを露わにしたという。

王徳輝は朝から晩まで龔如心と一緒にいたいと思い、彼女を自分の会社に誘った。飼い犬を連れて出勤しても良いという特別待遇だった。

香港屈指の華人企業に成長

王廷歆と王徳輝は、1960年に香港で華懋集団(チャイナケム・グループ)を創業。王廷歆は徐々に仕事から退き、王徳輝と龔如心のおしどり夫婦が経営するようになった。事業も医薬品と化学原料の輸入から、石油製品、農産品、飼料の販売に広げた。

1967年の“六七暴動”で香港の地価が暴落すると、新界(ニューテリトリー)を中心に多くの土地を購入。華懋集団は不動産業に転身した。1970~1980年代に香港が高度成長期に入ると、今度は地価が高騰。華懋集団は香港屈指の不動産デベロッパーに成長した。

1972年に乳業大手のデイリー・ファームが、ジャーディン・マセソン傘下の香港置地(ホンコン・ランド)に敵対的買収を仕掛けられた。この買収合戦については、この連載の第四十二回で詳しく紹介している。窮地に陥ったデイリー・ファームの周錫年は、華懋集団の王徳輝と龔如心に助けを求めた。このエピソードから、すでに華懋集団が香港屈指の華人企業に成長していたことがうかがえる。王徳輝と龔如心は、まぎれもなく香港望族だった。

王徳輝誘拐事件

香港屈指の大富豪となった王徳輝は、1983年4月12日の早朝、突然拉致された。ビクトリア・ピークにある高級住宅から、夫婦そろってベンツで出勤する途中だった。銃で武装した集団に取り囲まれ、王徳輝だけが連れ去られた。龔如心は釈放され、身代金を支払うよう指示された。要求された身代金は、1,100万米ドル(7,500万香港ドル)。指定された振込先は、台湾の銀行口座だった。

夫の身を心配した龔如心は通報しなかったが、事件は香港警察に知られた。香港警察は身代金を振り込まないよう要請したが、「夫さえ無事に戻ってくれれば、それでいい」と、彼女は聞き入れなかった。身代金の入金を確認すると、犯人グループは王徳輝を釈放した。

王徳輝は監禁されている最中、目隠しをされていた。だが、そのすきまから、犯人グループの小型トラックに、特徴的なステッカーが張られているのを確認した。これを手掛かりに香港警察が捜査。小型トラックの所有者名義を洗い出し、犯人グループは一網打尽となった。4月26日に男3人女1人が逮捕された。

犯人逮捕の手掛かりとなったステッカー 王徳輝は無事に釈放され、犯人グループも逮捕され、この誘拐事件は無事に解決。しかし、王徳輝と龔如心は、これを機に世間の注目を浴びることになり、メディアの餌食となった。香港社会はこの事件に騒然となったが、最も注目を集めたのは身代金の金額。華懋集団の経営者夫婦に、1,100万米ドルという巨額の身代金をすぐに支払う能力があることは、周知の事実となった。

この事件を教訓に、王徳輝は複数の身辺警護員(ボディーガード)を雇い、安全に務めた。だが、その後は身の危険を感じることもなかったことから、倹約家で有名だった王徳輝は警護費用がもったいないと思い、ボディーガードの数を削減。誘拐されるという稀有な出来事は、もう二度とないと信じ込んでいた。

退職刑事の陰謀

香港警察の刑事だった鍾維政は、王徳輝の誘拐事件を捜査したメンバーの一人。彼は定年退職を控え、過去の事件記録を整理していた。そのなかで、1983年に起きた王徳輝の誘拐事件に目をとめた。あらためて誘拐事件の手口をみると、感心するほど完璧。ただ、ところどころにずさんな部分があり、それが失敗の原因だったと分析した。

自分が誘拐を指揮していれば、必ず成功したはずだ――。香港警察の退職金に不満を抱いていた鍾維政は、王徳輝の誘拐を計画。仲間を集め始めた。

鍾維政は退職後に自動車関連の仕事をしており、そこで同姓の鍾華という人物と意気投合。この鍾華のほか、香港の黒社会で活動していた中国本土出身の黄寿を仲間に入れた。

さらに強力な仲間となったのが、台湾法務部調査局の香港駐在員だった陳麒元。鍾華と陳麒元は、台湾で身代金を受け取るグループを組織。鍾維政の息子である鍾志能は、鍾華を“華叔”と呼んで慕っており、事情をよく知らないまま、犯行グループに加わった。

黄寿は誘拐実行グループを編成。見知らぬ者同士をかき集め、香港の山中で二週間も誘拐のリハーサルを行った。ターゲットが誰なのかは、直前までメンバーに明かさなかったという。

鍾維政が組織した誘拐犯グループ 王徳輝の監禁場所は、公海上の漁船とした。香港警察に公海上の船舶を捜査する権限がないからだ。このグループは水上生活民“蜑家”(蛋民)出身の麦亜友という男が率いることになった。こうして香港と台湾を舞台にした王徳輝の誘拐事件は、“第二幕”が始まることになった。

二度目の誘拐事件

計画が実行されたのは、1990年4月10日。その日、王徳輝はハッピーバレー競馬場で趣味のスカッシュに汗を流した後、一人で愛車を運転し、帰宅の途に就いた。その途中で銃や斧で武装したグループに襲撃され、拉致された。

海から引き上げられた王徳輝のベンツ 王徳輝の靴には発信機が仕込まれているという話が、以前から噂になっていた。そこで実行犯グループは王徳輝の靴を脱がし、これを放り投げたという。王徳輝は口をふさがれ、手足をしばられ、漁船に乗せられた。王徳輝の愛車は、海中に投棄された。

王徳輝が行方知れずとなり、龔如心は狼狽した。知人や友人に夫の行方を尋ねたが、何の手掛かりもつかめなかった。こうしたなか4月12日、犯人が華懋集団や王徳輝の実家に電話。身代金として6,000万米ドルを要求した。

龔如心は犯人の要求に従い、4月22日付の大手新聞に広告を掲載。それは龔如心の弟が経営する診療所が、運転手を募集しているという内容。その広告に掲載された電話番号に、犯人がコンタクトする手はずとなった。

犯人は3日以内に恒隆銀行の口座に6,000万米ドルを振り込むよう要求。一方、「王徳輝が生きているという証拠がなければ、身代金の支払いに応じるべきではない」と、香港警察は龔如心に要請した。しかし、彼女は最初の誘拐事件の経験から、身代金さえ支払えば、夫は無事に帰ってくると信じており、犯人の要求に応じる姿勢を崩さなかった。

そこで警察は捜査の時間を稼ぐため、半分の3,000万米ドルずつ支払うよう提案。最終的に龔如心は警察の指示に従った。龔如心は犯人が指定した恒隆銀行の口座に振り込みを実行。この身代金は複数の海外の銀行を経て、その多くが最終的に台湾の銀行口座にたどり着いた。

4月27日に犯人は再び龔如心に電話。再び身代金を要求した。龔如心は身代金を準備し、犯人の指示を待ったが、ここで連絡が途絶えてしまった。

台湾調査局の捜査

身代金の受け取りグループだった陳麒元は、台湾調査局の香港駐在員でありながら、台湾国家安全局の仕事も請け負っていた。香港の武器密輸グループが、台湾ヤクザと取引するという情報をつかんだ陳麒元は、これを台湾国家安全局に報告。この捜査を続けるうちに、鍾維政と仲良くなった陳麒元は、高額報酬で誘拐事件に加わるよう誘われた。陳麒元が誘拐犯グループに加わった背景には、こうした経緯があった。

香港の武器密輸グループの話は、台湾調査局にも伝わった。陳麒元の情報によると、取引相手は台湾ヤクザの杜史存。台湾調査局は杜史存に対する監視体制を強化した。

杜史存の資料写真 杜史存は1990年4月13日、台北市の中正空港を訪れ、香港から来た二人の人物を出迎えた。搭乗記録を調べたところ、一人は鍾華、もう一人は陳麒元だった。だが、陳麒元は極秘の香港駐在員であり、監視に当たっていた台湾調査局の捜査員も、彼が“身内”とは知らなかった。翌日には鍾志能、その翌日には黄寿が台湾に到着。台湾調査局はこれら香港の連中を追跡した。

香港の連中は一カ所のホテルに集まると、すぐに宿を移した。こうしたなか黄寿だけは、4月18日に香港へ戻った。台湾調査局はこれを阻止したかったが、監視の動きを察知されないため、手を出さなかった。

中央の人物が陳麒元、その右が鍾華
台湾調査局の資料写真
台湾調査局は4月26日に、香港の連中が膨大な数の紙箱を購入するのを目撃した。その後、彼らは小型トラックで複数の銀行を訪問。ホテルに戻ると、荷台から大量の紙箱を下ろし、一室に持ち込んだという。

台湾調査局の上層部は、武器の密売が実行されたと推測。検察の許可を受け、台湾調査局がホテルに踏み込んだ。ホテルでの銃撃戦に備え、地元警察も動員。部屋にいた陳麒元、鍾華、鍾志能を逮捕した。

懸念された武器は見つからなかった。しかし、部屋いっぱいに積まれた紙箱には、おびただしい量の現金が詰め込まれており、捜査員は一様に驚愕した。現金の総重量は540キログラム。銀行員を呼んで鑑定し、すべて本物であると確認した。金額は4億7,384万新台湾ドルだった。

陳麒元は自分が台湾調査局の香港駐在員であると自供。逮捕者に“身内”がいたことに、調査局は驚愕した。陳麒元は自分が台湾国家安全局に報告した情報が発端で、台湾調査局に逮捕された格好。まさに“オウンゴール”だった。

台湾調査局は杜史存の自宅を捜索したが、武器は見つからなかった。武器密輸グループの摘発が台湾調査局の当初目標だったが、これは完全に空振りとなった。そこで捜査の目標は、押収した現金の出所となった。

現金の謎

台湾調査局が押収した現金の山 調べによると、4月25日に台湾の第一銀行の口座に、香港の恒隆銀行から2億6,000万香港ドルが入金された。これは8億7,927万1,000新台湾ドルに相当。その日のうちに、杜史存や陳麒元が銀行を訪れ、全額の引き落としを要求した。しかし、この日に引き落としたのは、3億8,314万2,000新台湾ドルだけ。第一銀行の支店に保管している現金では、足りなかったからだ。

そこで、4月26日に陳麒元らは十分な現金がある台湾銀行を訪れ、4億7,384万新台湾ドルを引き落とし、ホテルの一室に運び込んだ。そこを調査局に踏み込まれた。4月29日には杜史存が隠し持っていた1億8,400万新台湾ドルも見つかった。

これだけ巨額の現金が、いったい何のために台湾に送金されたのか?台湾調査局の会議室に捜査員が集まり、意見を出し合った。武器取引にしては巨額すぎる。そこで、「薬物売買が目的では?」という線も浮上。しかし、台湾ヤクザ社会に、薬物をめぐる異変は起きていない。会議は沈黙に包まれた。

もしかして、身代金?――。誰が言い出したのか分からないが、全員がハッとした。「そうだ!生命は金に代えられない。もし大富豪が誘拐され、身代金を要求するなら、天文学的な金額になるはずだ」。そこで、ここ数日の香港の新聞を調べたが、そうした誘拐事件を伝える記事は一つもなかった。

そこで台湾警察の外事課に連絡し、香港警察からの通報がなかったかを確認させた。台湾調査局の捜査員が外事課に到着すると、偶然にも香港警察の捜査員に出くわした。香港警察の捜査員に訪台の目的を尋ねると、あの巨額の現金と王徳輝の誘拐が、一本の線でつながった。

この日のうちに、王徳輝の誘拐事件は、香港と台湾で大々的に報道された。台湾調査局が盗聴した鍾志能の電話から、誘拐事件の首謀者は香港警察の刑事だった鍾維政と判明した。

ジャッキー・チェンの映画に

香港警察は台湾調査局の情報を受け、誘拐犯グループの身元を特定。5月10日から一斉逮捕に乗り出した。多く実行犯が逮捕されたが、首謀者の鍾維政と黄寿は、身代金の一部を持ったまま中国本土に逃亡。今日に至るまで、捕まっていない。

存史存はマレーシアに逃亡したが、現地の警察が1992年に逮捕。身柄は台湾に送還され、懲役1年半の判決が下された。陳麒元と鍾華は無期懲役。鍾維政の息子である鍾志能は、懲役2年半だった。香港で捕まった犯人グループには重い判決が下され、麦亜友には懲役22年が言い渡された。

映画のポスター 逮捕された犯人の供述によると、王徳輝を乗せた漁船に、中国本土の巡視船が接近。慌てた犯人グループは証拠隠滅を図るため、身体を拘束された王徳輝を海中に突き落とした。1990年4月13日のことだった。

この誘拐事件は、1993年に公開されたジャッキー・チェンの主演映画「新ポリス・ストーリー」(原題:重案組)のモデルとなった。この映画では誘拐された大富豪の王一飛は、海中に突き落とされたものの、最後は中国本土の巡視艇に救助され、妻と再会できた。だが、実際の事件は、悲劇に終わった。王徳輝は行方不明となり、捜索も打ち切られた。

王徳輝の生存は絶望的だったが、龔如心はこれを受け容れず、夫は生きていると信じ続けた。王徳輝の生存説が流れると、龔如心はこれを信じ、どこにでも出向いた。何とか手がかりを得ようと、中国本土の要人にも接触。内モンゴル自治区の包頭市に王徳輝が監禁されているという情報をつかむと、自ら現地に赴き、夫を探した。だが、王徳輝が見つかることはなかった。

王徳輝との思い出を形に

奇抜なファッションの龔如心 荃湾の如心広場(ニーナ・タワー)
左がテディ―で右がニーナ
華懋集団の経営は、龔如心が引き継いだ。だが、龔如心が受けた精神的ダメージは大きかった。1992年に55歳となった龔如心だが、このころから髪型を少女のような“おさげ”にし、短いスカートをはくようになる。夫と過ごした若いころに戻りたかったのかも知れない。

夫との思い出をかたちに残そうと、華懋集団は1994年3月に100億香港ドルを投じて新界の荃湾に如心広場(ニーナ・タワー)を建設すると発表。ニーナとは龔如心の英語名。このビルは高層と低層のツインタワーで構成され、高層ビルの名は王徳輝の英語名であるテディー、低層ビルはニーナと名づけられた。二つのビルは41階の渡り廊下でつながっており、王徳輝と龔如心が手をつないでいる姿を表している。

おさげ姿から“キャンディー・キャンディー”(中国語:小甜甜)と呼ばれた龔如心は、いがらしゆみこに依頼し、「小甜甜 NINA NINA」という漫画を作成。2001年7月に香港で販売した。

2009年に華懋集団は「天長地久」(One Life One Love)という人形劇を製作。これは王徳輝と龔如心の物語だった。龔如心は夫との思い出を形に残すのに、お金を惜しまなかった。

義父との争い

龔如心が王徳輝の死を受け容れない一方で、義父の王廷歆は息子が法律上死亡したことを認めさせるため、失踪宣告するよう1997年に裁判所に申し立てた。また、王徳輝の遺産を龔如心に相続させないよう法的措置を講じ始めた。

1968年に王徳輝が残した遺言書には、大部分の財産を王廷歆が相続すると書かれていた。一方、1990年に作成された遺言書では、龔如心が全財産を相続すると明記されていた。王廷歆は1990年作成の遺書書は無効として、裁判所に訴えた。

王徳輝の遺産をめぐって龔如心と争った王廷歆 義父に勝訴した龔如心 龔如心の葬儀 王徳輝の失踪宣告は1999年に認められ、遺言書をめぐる裁判が始まった。2002年11月に下された判決は、王廷歆が勝訴。香港警察は同年12月に私文書偽造の容疑で龔如心を逮捕した。華懋集団の本社も家宅捜索を受けることになった。

500万香港ドルで保釈された龔如心は控訴。2004年に裁判所は控訴を棄却したが、龔如心が遺言書を偽造したという件については、証拠がなかったと認めた。

2004年11月に龔如心は最高裁に上告。すると、2005年1月に今度は私文書偽造や司法妨害などの罪で起訴された。龔如心は保釈金を支払ったが、その金額は5,500万香港ドル。女性容疑者をめぐる刑事事件の保釈金としては、過去最高記録を更新した。

2005年7月に裁判が始まったが、龔如心の周辺は不穏な空気に包まれた。同年9月には4人の暴漢が龔如心の弟を襲撃。彼の飼い犬は重傷を負いながらも、懸命に吠えた。その鳴き声を聞いた警備員が駆け付け、龔如心の弟は事なきを得た。同月に下された判決は、龔如心が勝訴。彼女が400億香港ドルを超える遺産を相続することが確定した。

最終的に勝訴した龔如心だったが、新たな不幸が彼女を襲った。2004年に見つかった卵巣がんが悪化。2006年10月にシンガポールで化学療法を受けることになった。同月に遺言書をしたためると、すぐに香港の病院に入院。2007年4月3日に69歳で亡くなった。

龔如心の遺産

2007年3月の米誌「フォーブス」によると、龔如心の保有資産は推定358億香港ドルで、世界204位。だが、華懋集団は非上場企業であり、その資産は低く見積もられているという指摘もある。一説には、1,000億香港ドルを超えるとも言われた。

龔如心の死は2007年4月7日に公表された。4月13日の朝刊各紙には、王徳輝の名義で訃報が掲載された。これを見た香港市民は、王徳輝が本当は生きているのではないかと疑った。ただ、この訃報を掲載したのは、龔如心の弟や妹だった。

こうしたなか、4月20日に陳振聡という人物が、自分こそが龔如心の遺産相続者であると名乗りを上げ、記者会見を開催。2006年に龔如心が作成した遺言書には、遺産のすべてを陳振聡に与えると明記していると主張した。

自称風水師の陳振聡
自分こそ龔如心の遺産相続者であると主張した。
この記者会見で陳振聡は、龔如心と一緒の写真を取り出し、二人の関係は親密だったとアピール。これを受け、すでに龔如心の遺産を受託していた華懋慈善基金は、陳振聡が所有する遺言書の無効を裁判所に訴えた。

陳振聡という人物

陳振聡は風水師を名乗る人物。1990年に風水学校を開設し、父が残したという秘伝の風水術を教えていた。生徒からは毎月200香港ドルの学費を徴収していた。しかし、風水の基本的な知識も持ち合わせておらず、その内容は口から出まかせばかりだった。

そもそも、陳振聡はニセ医者だった。1986年に医師を名乗り、4枚のクレジットカードを手に入れ、9万2,000万香港ドルを使い果たした。5枚目を申請した際、ニセ医者であることが発覚。詐欺などの罪で、有罪判決を受けていた。陳振聡は龔如心に紹介された時も、カナダ在住の医師を名乗っていたという。

このほかにも職業や学歴の詐称が多く、陳振聡は単なる詐欺師だった。虚言癖もあり、自分には中国中央政府と特別な関係があるとも吹聴していた。

陳振聡が龔如心との関係をアピールするために使った写真 龔如心は王徳輝が生存していると信じており、あらゆる手段で彼を探そうとしていた。風水占いに頼ったことも、容易に想像できる。おそらく陳振聡は、龔如心が頼った風水師の一人とみられる。

彼の説明によると、1992年に龔如心と知り合い、愛人関係になったという。なお、その説明が正しいとすれば、彼は新婚10日目にして、龔如心を愛人にしたことになる。

1994年9月29日に陳振聡の長女が生まれた。9月29日は龔如心の誕生日でもあり、彼女を喜ばせようと、陳振聡は意図的にこの日に産ませたと主張。このように陳振聡の説明や供述には、おかしな点や支離滅裂な点が多々ある。

1993~1997年に龔如心は50回以上も陳振聡に資金を供与しており、その総額は7億2,000万香港ドルに上った。2005~2006年には6億8,800万香港ドルが3回も陳振聡に支払われている。さらに合計5,000万ポンドが、龔如心から陳振聡の会社に投資されていた。

陳振聡は羽振りが良く、名だたる高級車やクルーザーを多数所有。2007年11月には個人名義でエアバス社からA350旅客機を購入した。

個人で旅客機を購入した陳振聡 逮捕された陳振聡
いつもの笑顔が消えた。
王徳輝の失踪宣告は1999年に認められ、遺言書をめぐる裁判が始まった。2002年11月に下された判決は、王廷歆が勝訴。香港警察は同年12月に私文書偽造の容疑で龔如心を逮捕した。華懋集団の本社も家宅捜索を受けることになった。

龔如心の生前に、陳振聡はかなりの資金を受け取っていたが、彼女が亡くなると、今度は遺産全額を手に入れようとした。

だが、そうした陳振聡の目論見は、完全に失敗した。2010年2月2日に下された判決は、陳振聡の敗訴。同時に裁判官は、彼が持っている2006年作成の遺言書は偽造されたものという判断を下した。陳振聡は即時抗告したが、判決の翌日に私文書偽造などの容疑で香港警察に逮捕された。

龔如心の遺産をめぐる裁判は、2011年10月に陳振聡が完全に敗訴。裁判官は陳振聡に対し、「無知で、邪悪で、極めて貪欲な行為であり、龔如心の孤独や悲しみを利用し、その信頼を裏切った」と非難の声を浴びせた。

なお、陳振聡の私文書偽造などをめぐる裁判は2013年7月4日に判決が下され、懲役12年の実刑が確定した。だが、模範囚ということで、2021年7月3日に出獄。今後の動向が注目される。

お金よりも大事なもの

巨万の富を築き、香港望族の一人となった龔如心だが、彼女は幸せだったのだろうか?実父は事故死し、最愛の夫は二度も誘拐され、行方不明となった。晩年は夫の遺産をめぐり、法廷で義父と争うことになった。あらゆる手段で夫を探し続け、詐欺師に数億香港ドルも騙し取られた。義父との法廷闘争に勝ったものの、彼女はがんを患い、余命いくばくもなかった。死後も詐欺師に遺産を狙われた。

龔如心は貧しさと無縁だったが、常人にはあり得ない不幸を何度も味わった。心が休まる暇もなかっただろう。こうした一連の事件だけを見ると、彼女は何とも不幸な人だった。

しかし、そうした人生のなかで、彼女にエネルギーを与えたのは、夫との幸せな日々だった。夫との思い出が、彼女に力を与えた。彼女は夫を捜索するかたわら、幸せな思い出をさまざまなかたちで残そうとした。彼女と夫が生きた証を永遠のものにしようとしたのかも知れない。

彼女はエネルギッシュな一面もあった。夫が行方知れずとなった後も、髪形をおさげにし、笑顔でマスコミの前に登場した。夫との幸せな思い出が、彼女を奮い立たせた。思い出から得たエネルギーが、いかに強大だったかうかがえる。

幸せだったころの家族写真
最も右側の男性が王徳輝
人間は死ぬ時、物質的なものは、あの世に持っていけない。死後の世界があれば、の話だが。もし、あの世に持っていけるものがあるとすれば、それは思い出くらいのものだろう。不幸続きの龔如心だったが、幸せな思い出をたくさん抱えていた。案外、人々が想像するほど、彼女は不幸ではなかったのかも知れない。

“賊王”と呼ばれた男たち

身代金誘拐という不幸に遭ったのは龔如心だけではなかった。香港経済の高度成長を遂げたが、香港華人社会の格差はすさまじいものがあった。新興の香港望族が数多く生まれると、彼らは犯罪組織にとって絶好のターゲットとなった。

“大富豪”の異名を持つ張子強
香港三大賊王の一人
“香港三大賊王”と呼ばれた男たちがいる。1955年生まれの張子強、1960年生まれの季炳雄、1961年生まれの葉継歓の三人だ。三人はいずれも幼少期や少年時代に英領香港へ逃げた中国本土出身者。強盗殺人や身代金誘拐など、数々の凶悪事件を働いた。

この“香港三大賊王”のうち、今回紹介するのは“大富豪”の異名を持つ張子強。彼は香港望族を狙い、巨額の身代金を奪い取った。

悪党夫婦

張子強は4歳で父親と一緒に英領香港に渡った。父親は九龍の油麻地で小さな茶店を開き、生計を立てた。張子強は小さなころから、手のつけようのない不良であり、勉強には興味を示さず、ケンカばかりしていた。

張子強と羅艶芳 そんな張子強には、羅艶芳という妻がいた。羅艶芳は香港社会の最下層出身。家は貧しいのに父親はまともに働かず、それに耐えられず、母親は羅艶芳を連れて家を飛び出した。羅艶芳は小学校を卒業すると、家計を支えるために働き始めた。そうした日々を過ごすうちに、張子強と知り合った。羅艶芳は張子強の悪事を意に介さず、二人は結婚。子どもにも恵まれた。

家庭を持った張子強は、貴金属店の商売を始めた。だが、商才はなく、店は傾いた。そこで仲間を集め、店を打ち壊し、保険金を騙し取ろうとした。しかし、保険会社に見抜かれ、保険金詐欺は失敗した。

そこで妻の羅艶芳は、一発逆転の犯罪計画を張子強に授けた。高級腕時計ロレックスを大量に積んだ貨物機が、1990年2月22日に香港啓徳国際空港(カイタック空港)に到着。張子強は仲間を率い、空港を出て来たロレックスの輸送車を襲撃。計40箱、総額3,000万香港ドルのロレックスを強奪した。

この強盗事件が成功したのは、羅艶芳の働きが大きかった。彼女は事前にロレックスの取扱会社に入社。在庫情報や入荷予定を確認できるようになり、情報を張子強に伝えていた。こうして羅艶芳は、張子強の知恵袋となった。

老舗のカジノ・リスボア(葡京娯楽場) ロレックスを換金して得た現金は、マカオでの豪遊で使い果たしてしまった。そこで1991年7月12日に張子強は仲間を率いて、カイタック空港で現金輸送車を襲撃。総額1億7,000万香港ドルを強奪した。この強盗事件を成功に導いたのも、警備会社に入社していた羅艶芳からの情報だった。巨額の現金を手に入れた張子強は、やはりマカオでギャンブルに興じた。

張子強の知恵袋だった羅艶芳だが、一つのミスを犯した。それは41万米ドルに上る現金を一つの口座に入金したこと。それはカイタック空港で強奪された現金の一部だった。これを手がかりに香港警察は羅艶芳を突き止め、張子強をあぶり出した。

張子強と羅艶芳は、夫婦そろって逮捕された。二人は取り調べに対し、口を割らなかった。1991年9月に開かれた裁判で、張子強には懲役18年の実刑が言い渡された。目撃証言が決め手だった。一方、羅艶芳は証拠不十分で無罪となり、即時釈放された。

自由の身となった羅艶芳は、すぐに夫のために動き出した。大金を払って敏腕弁護士を雇い、さらに記者会見を開催。張子強は無実とメディアに訴えた。有罪の決め手となった目撃証言は、警察の指示で言わされたと主張。スカートをめくって、太ももにある傷を見せ、涙を流しながら警察に拷問されたと訴えた。

無罪放免となり、ガッツポーズの張子強 この記者会見をメディアは同情的に報道。その当時、羅艶芳は妊娠しており、世間も彼女の訴えを信じ、香港警察を非難した。こうした世論の変化を受け、1995年6月22日に開かれた二審で、張子強は証拠不十分で無罪となり、即時釈放。さらに香港警察から800万香港ドルの賠償金を受け取った。

こうして再び一緒になった張子強と羅艶芳は、さらなる犯行を計画した。

手を組んだ賊王たち

張子強は服役中に、蔡志雄という男と知り合いになった。蔡志雄は“香港三大賊王”の一人である葉継歓の部下だった。張子強は蔡志雄と仲良くなり、出獄後の計画など、何でも話し合うようになった。

1995年6月に釈放された張子強は、かねてから考えていた一獲千金の犯罪計画を実行することにした。ターゲットは長江グループを率いる李嘉誠。徒手空拳から香港一の大富豪に上り詰め、“超人”と呼ばれる人物であり、現代の香港望族の筆頭格だ。誘拐事件を実行するには強力な銃火器が必要であり、脱獄逃亡中の葉継歓と手を組むことにした。

葉継歓は1989年8月に刑務所を脱獄すると、1991年6月と1993年1月に香港で宝飾品店を狙った連続強盗事件を起こしていた。それは自動小銃や拳銃で武装したグループによる犯行であり、妊娠中の看護婦一人が射殺されるという悲劇も起きた。強力な銃火器を持つ葉継歓は、張子強が出獄した当時、中国本土に潜伏していた。

中国本土にいる葉継歓を探し出した張子強は、李嘉誠の長男である李沢鉅(ビクター・リー)を誘拐する計画を持ち掛けた。張子強の大胆な計画に驚いた葉継歓だが、二人は意気投合。こうして李沢鉅を誘拐する計画が動き出した。

葉継歓の顔とカメラに映った犯行の様子 ちょうどそのころ、張子強の刑務所仲間だった蔡志雄は、中国本土の深圳にいた。張子強は葉継歓の部下でもある蔡志雄にも誘拐計画を持ち掛けた。だが、足を洗った蔡志雄は、これを拒否。そこで張子強と葉継歓は、口封じのため蔡志雄を殺害すると決定。蔡志雄は1995年11月に深圳の街角で射殺された。

張子強の計画に乗った葉継歓は、1996年5月13日に大量の銃火器と爆薬を持参し、香港島への密航を図った。だが、香港警察の巡視艇に遭遇し、銃撃戦に発展。葉継歓は下半身に銃弾を受け、半身不随となった。だが、彼の部下たちは、張子強と合流し、誘拐計画を続行した。

賊王と超人の会見

李沢鉅と王富信の結婚式(1993年)
左端は李嘉誠、右端は弟の李沢楷(リチャード・リー)
1996年5月23日の夕方、高級車で帰宅途中の李沢鉅は、自動小銃と拳銃で武装したグループに襲撃された。李沢鉅は拉致され、運転手は李嘉誠に息子が誘拐されたことを報告するよう指示された。息子が誘拐されたことを知った李嘉誠は、張子強の要求に従い、通報しなかった。

誘拐に成功した張子強は狂喜し、李沢鉅の額にキスをした。李沢鉅は新界東部にあった養鶏場の廃屋に、パンツ一枚で監禁された。張子強は身体に爆薬を巻き付け、李嘉誠の豪邸を自ら訪問。李嘉誠は張子強を自宅に招き入れ、賊王と超人が直接対面した。

張子強が要求した身代金は20億香港ドル。それを聞いた李嘉誠は、「そんなに多額の現金は引き落とせない。銀行に確認してみるが、可能なのはせいぜい10億香港ドルくらいだろう。必要なら銀行に用意させよう」と即答。「とりあえず、自宅にあった現金を用意したので、今日はこれを持って帰るといい。10億香港ドルは明日までに用意しよう」と続けた。

李嘉誠の冷静沈着な態度に、張子強は驚いた。そこで思わず「なぜ、そんなに落ち着いているんだ?」と尋ねた。すると李嘉誠は、「今回の件は、わたしの過ちだったからだ。香港での知名度が高いのに、何の警護も考えていなかった。今後はよく考えないといけないな」と、神妙に語ったという。

香港島南部の深水湾道にある李嘉誠の豪邸 話題は互いの身の上にも及び、李嘉誠と張子強の間に、身代金の支払いと人質の解放をめぐる不思議な信頼関係が築かれた。張子強はとりあえず、この日は李嘉誠の自宅にあった現金だけを持って帰ることにした。その額は4,000万香港ドル。金額を確認した張子強は「4は縁起が悪い」と言って、200万香港ドルを李嘉誠に返し、3,800万香港ドルを持って帰った。

その翌日、張子強は身代金を受け取るため、李嘉誠の豪邸を再訪問。10億香港ドルの準備はできていたが、札束の山の大きさと重量は、張子強の想像を超えていた。用意周到な李嘉誠は、張子強のために現金運搬用の大型車両を用意。10億香港ドルは一度に積み切れず、まずは5億香港ドルだけを持ち去り、その後に残りを受け取りに来た。

「そんなに現金があるなら、うちの会社の株券を買ったらどうだ?」と、李嘉誠は張子強に勧めた。「普通に生活すれば、来世も生きていける金額だ。預金するのも良いだろう。これを機に遠くへ高飛びし、善人になったらどうだ?この機を逃す手はない」と言い、堅実な人生を歩むよう諭した。

張子強は「ハハハ」と笑うと、「今後は李家に手出ししない」と李嘉誠に約束。李沢鉅は無傷で解放された。李嘉誠との交渉が円滑に進み、奇妙な信頼関係が築かれたおかげで、李沢鉅が虐待されるようなこともなかったという。

意気揚々とした表情の李嘉誠(中央)
背後のボディーガードは目つきで分かる。
この誘拐事件で張子強が受け取った身代金は、総額10億3,800万香港ドル。奇しくも李沢鉅が経営する長江基建の証券コード1038に符合する。李嘉誠は張子強との約束を守り、その後も警察に通報することはなかった。李沢鉅が誘拐されていた事実は、張子強が中国本土で逮捕されて、初めて明るみになった。この誘拐事件で支払った身代金の金額は、ギネス世界記録に認定された。

李嘉誠はこの事件を教訓に、警護体制を強化。最強の傭兵として名高いネパール出身のグルカ兵で、家族の身辺を固めた。メディアへの露出も慎重になった。

次のターゲットは郭三兄弟

李嘉誠の忠告にかかわらず、張子強は再びマカオで豪遊。あっという間に身代金を使い果たした。そこで張子強は李嘉誠に電話し、投資の教えを乞うた。李嘉誠は「君に教えることができるのは、良い人間になることだけだ。そのほかについては、何も教えられない。君にできることは、どこか遠くへ高飛びすることだ。さもなければ、最後は悲劇が待ち受けているだろう」と答えたという。

有り金を使い果たした張子強は、次に香港望族として名高い新鴻基地産の“郭三兄弟”を狙った。新鴻基地産は郭得勝が築いた不動産会社。郭得勝は李兆基、馮景禧とともに“三銃士”と呼ばれた人物で、その活躍はこの連載の第四十四回で紹介している。

郭得勝は1990年10月30日に死去。新鴻基地産の株式を含む莫大な遺産は、郭得勝の妻である鄺肖卿が相続した。鄺肖卿という筆頭株主の下で、長男の郭炳湘(ウォルター・コック)、次男の郭炳江(トーマス・コック)、三男の郭炳聯(レイモンド・コック)が、新鴻基地産を共同経営。彼らは郭三兄弟と呼ばれ、李嘉誠に次ぐ大富豪として知られていた。

郭得勝の像の前に並ぶ郭三兄弟
中央が長男の郭炳湘
右は次男の郭炳江、左は三男の郭炳聯
1997年9月29日に張子強の一味は、郭三兄弟の長男である郭炳湘の自家用車を襲撃。張子強は郭炳湘を新界のアジトに監禁し、身代金を支払うよう家族に電話するよう命じた。

ところが、郭炳湘は張子強の命令を拒否。苛立った張子強の一味は、郭炳湘への暴行を繰り返した。虐待に耐えられなくなった郭炳湘は、誘拐から4日後になって、妻の李天穎に電話。要求した身代金は20億香港ドルだった。郭炳湘に手を焼いた張子強は、その後も虐待を続けた。郭炳湘は裸で木箱に押し込められ、水も食料も十分に与えられなかった。

そのうえ、李天穎は身代金の満額回答を渋り、値下げを要求。交渉は長引いたが、最終的に6億香港ドルが張子強に支払われた。10月3日のことだった。李嘉誠との違いに苛立った張子強は、郭炳湘をすぐには解放せず、10月5日になってやっと釈放した。

賊王と賭王

若かりし日のスタンレー・ホー
カジノ王となったばかりのころ
この誘拐事件も通報されることはなく、張子強は再びマカオで豪遊。相変わらず博才はなく、すぐに大負けした。大金を何度も強奪しても、結局はカジノですってしまう。張子強はマカオのカジノのために犯罪を続けているようなものだった。

そこで張子強が思いついたのは、“マカオのカジノ王”(澳門賭王)と呼ばれるスタンレー・ホーの誘拐だった。スタンレー・ホーは欧亜混血(ユーラシアン)の香港望族として知られた何東の一族。何東の弟である何福の孫にあたり、1921年に英領香港で生まれた。

1961年に当時の香港一の大富豪として知られた霍英東(ヘンリー・フォック)などと手を組み、澳門旅遊娯楽有限公司(STDM)を創設。1962年にカジノの独占経営権を落札した。それから2001年まで、スタンレー・ホーが経営するSTDMがマカオのカジノ産業を独占しており、これがカジノ王と呼ばれる理由だ。ちなみに、スタンレー・ホーには4人の妻がおり、その生涯で生まれた子どもは17人に上った。

1997年10月に張子強は、部下にスタンレー・ホーの自宅を見てくるよう指示。だが、すぐにボディーガードに見つかり、偵察は失敗した。スタンレー・ホーはカジノという生業もあり、黒社会との距離も近かった。彼の安全は14K(洪門忠義会)の幹部である陳清華が支えているという噂もあった。なお、14Kなどの三合会組織については、この連載の第三十九回で概要を説明している。

江沢民・総書記と会談するスタンレー・ホー
(1990年4月10日)
張子強は自らスタンレー・ホーに近づこうと、修理工に変装。しかし、ボディーガードは一目で張子強を見抜き、追い払った。張子強は手も足も出せず、しぶしぶとカジノのVIPルームに戻った。そこに現れたのは14Kの構成員。スタンレー・ホーに二度と近づくなと警告した。香港最大の三合会組織に脅され、さすがの張子強もスタンレー・ホーの誘拐はあきらめるしかなかった。

爆薬密輸計画

スタンレー・ホーの誘拐に失敗した張子強は、1997年の年末に中国本土に渡り、800キログラムの爆薬と2,000本を超える雷管を密かに購入した。これだけの爆薬があれば、十数階建てのビルを吹き飛ばすことも可能。これを香港に密輸する計画を立てた。

だが、張子強は密輸品の引き渡し場所に向かうのに、派手なランボルギーニを運転し、香港警察のヘリコプターにマークされた。1998年1月8日のことだった。張子強は追跡されているとも知らず、引き渡し現場に現れると、荷物をアジトに搬入した。

監視を続けていた香港警察は、荷物を運ぶ張子強の姿を確認。薬物の密輸と見当をつけ、麻薬捜査犬を用意した。張子強がアジトを去った後、そこに踏み込んだが、麻薬捜査犬は何の反応もしなかった。そこで、押収した粉末を化学鑑定したところ、結果は爆薬。これを聞き、捜査員たちは肝を冷やした。

張子強と愛車のランボルギーニ・ディアブロ 張子強は大量の爆薬を使い、刑務所の外塀を破壊するつもりだった。大爆発の混乱に乗じ、捕まっていた葉継歓を救出するのが狙いだった。

香港警察は1月10日に張子強と葉継歓の犯罪集団が、中国本土と香港を跨ぐ犯罪を計画していると、中央政府の公安部に通報。広東省公安庁に指令が届き、張子強の捜査が始まった。

賊王の末路

1998年1月17日に香港警察は、爆薬を隠したアジトに踏み込み、張子強の部下を逮捕。ちょうどそのころ、張子強は広東省にいた。張子強は広東省に足を踏み入れた時から、公安に追跡されていた。1月25日の昼ごろ、江門市の外海大橋をタクシーで通りかかったところ、張子強は公安に逮捕された。

中国本土の銃殺刑
一昔前はこれが唯一の死刑執行方法
2人が身体を固定し、1人が撃つ。
1997年からは薬殺刑も可能になった。
香港警察や広東省公安庁の取り調べが始まると、張子強の部下たちは次々に自供し、それまで秘密だった数々の犯罪行為が明らかとなった。最初は強気だった張子強も、だんだん精神的に追い込まれていった。

香港では1966年から死刑の執行がなくなり、1993年には死刑制度そのものが正式に廃止された。しかし、中国本土には死刑制度がある。張子強の最大の失敗は、死刑がある中国本土に逃げたことだった。

そのうえ、その当時の中国本土の死刑執行は銃殺刑。その手法は至近距離から後頭部を狙い、頭を吹き飛ばすという恐ろしいものだった。そうした残酷な死に方から逃れようと、張子強は1998年6月30日の未明に自殺を図った。だが、看守に発見され、未遂に終わった。

張子強(一番手前の白いシャツ)の裁判
(1998年11月12日)
処刑された張子強一味(1998年12月5日) 張子強を首謀者とする36人の裁判が、広東省で開廷。1998年11月12日に下された判決は、死刑や6億元あまりの資産没収などだった。張子強は香港市民であることを理由に、香港での裁判を求めたが、香港政府に拒否された。そこで 減刑を求めて上訴したが、1998年12月5日の判決で死刑が確定。張子強は裁判所から処刑場に連行され、ただちに死刑が執行された。

香港警察は1998年8月26日に張子強の妻である羅艶芳の資産差押えを裁判所に請求し、これが認められた。だが、羅艶芳は差押えの解除を裁判所に申請し、同年11月4日に認められた。凶悪犯罪で築かれた巨額の遺産を手にした羅艶芳だが、幸せは訪れなかった。今度は巨額の資産を持つ羅艶芳が、悪人たちから狙われる番になったからだ。

羅艶芳を狙った襲撃事件や息子を誘拐する計画が明らかになると、彼女は家族を連れてタイに逃亡。その後はひっそりと生活しているという。

張子強が起こした郭家の悲劇

張子強が逮捕され、李沢鉅や郭炳湘の誘拐事件が明るみになると、その巨額の身代金に香港社会は驚愕した。誘拐事件をめぐる李家と郭家の対応の違いも話題になった。

郭炳湘は張子強から受けた虐待で、うつ病を発症。これが癒えるまでに1年以上を要した。郭炳湘と家族との関係は、誘拐事件をきっかけに大きく変化。妻の李天穎や弟たちが身代金の値下げを求めたことを知り、家族の絆に疑いを抱くようになった。

郭炳湘は妻や弟たちと距離を置くようになり、その一方で初恋の相手だった唐錦馨という女性と接近。唐錦馨は郭炳湘の歓心を買うのが上手く、誘拐事件の後遺症もあることから、郭家の人々も多少のことは目をつぶっていた。

新鴻基地産から事実上追放された郭炳湘 逮捕された郭炳江(後部座席手前)
前方座席は許仕仁
裁判を起こした唐錦馨 決算発表会で李沢鉅の話に耳を傾ける李嘉誠 決算発表会で引退を発表した李嘉誠(中央)
記者たちとの記念撮影に応じた(2018年3月16日)
しかし、二人の関係はますます親密になり、ついに郭炳湘は唐錦馨を新鴻基地産の重役として迎え入れようとした。これに弟たちは危機感を抱いた。また、郭炳湘は李天穎との離婚も考えていたようで、これに郭家の実質的な支配者である母の鄺肖卿が激怒。新鴻基地産は2008年2月18日に郭炳湘・主席が長期休暇に入り、一切の職務から離れると突然発表した。名門である郭家の“お家騒動”が明るみとなり、新鴻基地産の株価も下落した。

郭家から事実上追放された郭炳湘は、次弟の郭炳江、末弟の郭炳聯と対立。兄弟対立の火種がくすぶるなか、2012年3月29日に汚職取締機関の廉政公署(ICAC)が、次弟の郭炳江と末弟の郭炳聯を逮捕した。容疑は政務長官だった許仕仁(ラファエル・ホイ)への贈賄。誰もが長男の郭炳湘による密告を疑った。

2014年12月に下された判決で、末弟の郭炳聯は無罪となったが、次弟の郭炳江には懲役5年の実刑判決が下された。次弟が服役中の2018年8月27日、郭炳湘は自宅で脳卒中を起こし、昏睡状態となった。そのまま目覚めることなく、2018年10月20日に亡くなった。

郭炳湘の入院中、唐錦馨は病室を訪問したが、妻の李天穎に拒否され、面会はかなわなかった。なお、郭炳湘の遺産は540億香港ドルと言われる。唐錦馨は遺産の一部である高級住宅の権利は、自分への贈り物だったと主張し、2019年に裁判を起こした。かつて郭炳湘は唐錦馨について、名誉や利益を求めない人物と評価していたが、実際は違っていたようだ。

超人の判断力と李家の安泰

こうした郭家の分裂と悲劇は、そもそもは張子強による誘拐事件がきっかけだった。では、同じ目に遭った李嘉誠の家族はどうだったのかと言えば、こちらは安泰だった。気前よく身代金を払ったおかげで、李沢鉅は虐待されず、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などはなかった。

李沢鉅は李嘉誠の後継者としての道を順調に歩み、超人である父に次ぐ“小超人”と呼ばれるようになる。2018年5月10日の株主総会で、李嘉誠は長江グループのトップを引退。香港を代表する巨大コングロマリットは、正式に李沢鉅が引き継いだ。

張子強が要求した身代金は、一個人にとっては莫大な金額だが、長江グループや李家の資産に比べれば、はした金に過ぎない。新鴻基地産や郭家の資産に比べた場合でも同じだ。家族の生命がかかった身代金をケチったがどうかで、李家と郭家の明暗は分かれた。

香港一の大富豪である李嘉誠は、龔如心のように、お金より大事なものがこの世にあることを十分理解していた。だからこそ長男の誘拐に際しても、お金に固執することなく、冷静な判断を下した。

その結果、李沢鉅は無傷で救われ、後継者として成長。長江グループはファミリー企業にとっての危機である“お家騒動”もなく、最大の試練であるカリスマ経営者から後継者への世代交代を乗り越えた。

張子強による誘拐事件は、郭家にとっては家族分裂の元凶だったが、李家にとっては警備体制を見直すきっかけ程度に過ぎなかった。李嘉誠の冷静な判断力と凶悪犯に対面して臆さない胆力は、“超人”の名声をさらに高める結果となった。

 

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は9/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに