1978年に鄧小平が最高指導者となり、「イデオロギーの束縛から自由になれ!頭を働かせろ!何が正しいのかは、事実から導き出せ!」と号令をかけた。だが、一言で10億人の心が瞬間的に変わるはずもない。株式について語ることは、まだまだ危険な行為だった。
空前の就業問題と“悪魔との契約”
都市への帰還を求める青年たちのデモ 人々の心はなかなか変化しないが、現実は大きく動き出した。プロレタリア文化大革命(文革)が終結し、農村での労働に従事させられていた青年たちが、都市に帰り始めたのだ。その数は1979年で約1,700万人。このほか都市部では320万人が就職待ちの状態。つまり2,000万人以上の青年に職を与える必要があった。その数は都市人口の1割に相当した。
厲以寧・教授(2016) こうした空前の就業問題を解決するため、1980年の4~5月に中央政府主催の座談会が開かれ、北京大学の厲以寧・教授が株式制の構想を持ち出した。株式制を導入することで大衆から資金を集め、企業を創設。既存の企業も株式を発行することで経営を拡大する。こうすることで、就業問題を解決しようというのだ。
厲教授は慎重に話したつもりだったが、文革を経験した多くの人々の目には“悪魔との契約”を薦めているように映った。しかし、これを契機に株式という言葉を人々が口にすることが可能となった。そして、株式は本当に“悪魔”なのか、それとも“救いの神”なのかをめぐる論争が起きた。
株式制が世論を二分
1980年9月25日の新聞「工人日報」の同一紙面に、2つの相反する主張が掲載された。一つは株式制に賛同する論文。それによると、「社会主義の株式会社とは、マルクスが論述した“労働者の協同組合工場”と同じであり、社会主義建設のための資金調達、就業問題の解決に有益だ」という。マルクス云々というのは批判をかわすための予防線であり、株式制への賛同は十分な注意を要した。
もう一つは株式制を否定する論文。「株式会社は私有制であり、その分配の原則は社会主義が目指す“労働に応じた分配”ではなく、“出資に応じた分配”である。この種の私有制に基づく株式会社は、我が国が進める“4つの現代化”(工業、農業、国防、科学技術の近代化)にとって有害無益だ」という。株式制に対する批判は、何の心配もなく展開された。
国の中央では、こうした論争が繰り広げられていた。「イデオロギーの束縛から自由になれ!何が正しいのかは、事実から導き出せ!」と鄧小平は号令したものの、人々を呪縛から解き放つのには時間を要した。
出口の見えないイデオロギー論争が中央で続くなか、それを突破したのは現実に直面している地方政府だった。
それは赤レンガ工場から始まった
1980年代に入り、中国では各地で建設事業が進み、赤レンガが不足していた。遼寧省撫順市の赤レンガ工場は、年間生産量が約800万個だったものの、需要は約2300万個という状況だった。工場の前には毎日のように人や車の長い列ができ、われ先にと赤レンガを買い求めていた。
赤レンガの生産能力は明らかに不足している。しかし、生産能力の拡大には巨額の資金が必要だった。
中国人民銀行(中央銀行)の撫順支店に勤めていた胡頌華さんは、担当先の赤レンガ工場の状況に心を痛めていた。だが、胡さんの勤める銀行は短期の運転資金を貸し出せるが、固定資産投資のような長期貸付を実行することは許されていなかった。
「巨額の資金をどうすれば集めることができるのか?」――。胡さんは悩んだものの、良い考えは見当たらない。そこで解決策を見つけようと図書館を訪れ、一冊の本に出会った。それは外国の“株式というもの”を紹介した本だった。「ちょっと試してみるか……」と胡さんは思い、さっそく実行に移した。
胡さんは撫順市政府と中国人民銀行に報告書を提出し、180万元相当の“股票”(株券)を発行することで、赤レンガ工場の問題を解決するよう求めた。報告書の内容は、当時としてはかなり“大胆”だった。案の定、「でしゃばるな!」「資本主義の手先だ!」といった批判を受けることになった。
だが、「イデオロギーの束縛から自由になれ!頭を働かせろ!何が正しいのかは、事実から導き出せ!」という鄧小平の言葉が届いたのだろうか、意外にも撫順市政府は株券の発行に前向きな反応を示した。そこで、1979年の年末に撫順市政府は会議を開催し、1980年1月1日から260万元分の株券を発行すると決定した。
赤レンガ株券は株式なのか?
赤レンガ株券 年末の会議で決まった新年の株券発行。時間がないことから、株券は新聞社で印刷された。安っぽい株券の券面には “中国人民銀行撫順支店”の名義と“紅磚股票”(赤レンガ株券)の名称が記された。
この株券は一般の人々には販売されず、買ったのは地元のアルミ工場、製鉄所、石油工場などだった。1980年1月1日に正式に発行し、売れに売れた。最終的に200社あまりが280万元分を購入し、赤レンガ株券の発行は大成功だった。
成功の理由は、株券の裏面にあった。そこには株券の保有者に対する赤レンガの優遇販売が明記されていた。「これを購入すれば、行列に並ばずに赤レンガを買える」――。これこそが赤レンガ株券の最大の魅力だった。
では、中国株の第1号は、この赤レンガ株券だったのだろうか?答えは、イエスでもあるし、ノーでもある。はっきりとしないのだ。
股票(株券)という名のついたものとしては、赤レンガ株券が中国株の第1号だろう。しかし、この株券の裏面にはこう書かれている。「新しい生産ラインが完成してから、2年以内に償還する。1982年7月1日までに50%を返済し、1983年7月1日までに完済する」とある。償還とは株券の保有者に投資元金を返還することを意味する。同時に株券は保有者から回収することになる。
これを見れば、赤レンガ株券は名称こそ株券だが、償還期限があるという点で債券に近いと言える。株券で調達した資金は、返済不要の資本金ではなく、債務ということになる。ただ、債券に近いと言っても、利子は付かない。総合して考えると、赤レンガを優先購入できる“疑似株券”と言ったところだろう。
債券ではなく、償還条項のついた株式(償還株式)という見方もある。だが、赤レンガ株券の発行体は株式会社ではなく、中国人民銀行撫順支店であり、この点でも株券としての要件は満たしていない。こうした実質的な性質に基づくと、赤レンガ株券は中国株の第1号とは言えないだろう。
混沌から生まれた中国株
赤レンガ株券で集めた資金を使い、工場の生産能力は1年も経たずして倍になった。株券を発行した中国人民銀行撫順支店は、上級機関からの処罰を恐れ、ただちに株券の償還に動いた。株券の購入者に投資元金を返還。中国人民銀行撫順支店に回収した株券が集められた。
その当時の関係者によると、そもそも株券というものが何なのかよく分からないまま、赤レンガ株券を発行したそうだ。何にせよ、資金が集まったことを素直に喜んだという。イデオロギー論争が渦巻く中央から離れた地方だからこそ、現実に向き合い、株券発行という大胆な選択ができたのだろう。
中国人民銀行撫順支店で保管されていた赤レンガ株券だが、1996年に銀行が引っ越した際、ほとんどを古紙回収業者に売ってしまったそうだ。売ったのは“うっかり”が原因で、関係者は悔やんでも悔やみきれないという。
取材を受ける胡頌華さん(2001) 現在も残っている赤レンガ株券は極少数で、1枚の価値は数十万元に上るそうだ。そのうち1枚を赤レンガ株券の発案者である胡さんが持っている。
ちっぽけな紙切れの赤レンガ株券だが、これが口火となった。これ以降、各地で償還期限のある“疑似株券”が発行され、試行錯誤を重ねながら、やがて本当の意味での株券にたどり着くことになる。
このように中国株とは、国家の大号令で作られたものではなく、資金調達に苦心する地方の人々が、混沌の中から生み出したものだった。