香港島の高層ビル群と昔ながらのジャンク船
背景の最も高いビルは、IFC(国際金融センター)
中華文明と西洋文明が混沌とする香港は、人々に独特の魅力を感じさせる個性的な大都市だ。英領香港は1840年のアヘン戦争で起きたウエスタン・インパクト(西洋の衝撃)によって誕生。一世紀以上の時間をかけ、複雑な香港社会が形成された。香港は英国による統治の下、中国本土とは違うかたちで、独自の発展を遂げた。しかし、1970年代の終わりごろには、そうした歴史の終焉が意識されるようになった。
香港の歴史教育問題
新聞の取材に応じた教師
父兄からの苦情で問題が発覚
“イメージに基づいて教えた”と説明
処分は重すぎるとして、訴える方針
2020年11月12日付の香港各紙によると、香港教育局が一人の小学校教師に対し、教職員としての登録抹消処分を下した。厳しい処分の理由は、児童に教えた歴史の知識に、問題があったためだ。
こうした文章を書くと、反中国的な教育内容が問題視されたと思う読者が多い昨今だが、処分された教師が教えた歴史知識は、あまりにも事実からかけ離れていた。1840年に勃発したアヘン戦争の原因について、この教師は以下のように教えていたという。
「アヘンを吸う習慣が中国にあることを知った英国は、この麻薬を撲滅するために、戦争を起こした」
もちろん、これは完全に誤った知識だ。なぜ、こんな知識を教えようとする教師が現れるのか?その背景には、若い世代の香港人に広がっている意識があるようだ。
香港人のアイデンティティと“負の側面”
「逃亡犯条例」の改正に反対する市民デモ
(2019年6月9日)
2015年2月に起きた本土からの観光客に対する抗議活動
若者の集団が沙田のショッピングモールに押し寄せた
手を挙げる男性と怯える女性は本土からの旅行客
右側の男性は、罵声を浴びせる香港の若者
日本でも大きく報道されたように、香港では2019年6月に広がった「逃亡犯条例改正案」に反対するデモをきっかけに、学生運動が再燃した。学生の意識の根底には、“香港人としてのアイデンティティ”があるのだが、その裏返しとして反中央政府という政治的意識よりも先に、中国本土住民そのものに対する強い“侮蔑意識や差別意識”がある。
“黄金の十年”と呼ばれた1970年代のマクレホース時代を通じ、香港市民は経済的にも文化的にも豊かになった。香港人としてのアイデンティティが形成された一方で、本土住民に対する同胞意識が希薄化。香港人に優越意識が芽生え、本土住民を“文化的に遅れた人たち”“貧しい人たち”と嫌悪するようになり、あからさまな侮蔑発言や差別行為が、香港社会の随所で見られるようになった。
近年は本土住民の方が豊かになった。これにより、従来からの香港人の優越意識が歪み始め、本土住民に対する侮蔑意識や差別意識は、若い世代を中心に嫌悪感や憎悪感に昇華している。
日本人はちょっと困惑するかも知れないが、若い世代の香港人は、本土住民を“支那”や“支那猪”と侮蔑する。もちろん、これは日本人から学んだ言葉だ。香港立法会での就任宣誓でも、初当選した若い女性議員がこの言葉を口にし、最終的に失職した。このニュースは日本でも一部で報道されたのだが、具体的な原因については、言葉が言葉なだけに、メディアもあえて伝えなかったようだ。
中央の男女は本土からの観光客
マスクをした香港の若者が取り囲み、罵声を浴びせる
(2015年2月)
英領香港の旗を振る若者たち
(2015年2月)
こうした香港人のアイデンティティの“負の側面”は、香港駐在経験者の間では割と有名なのだが、日本ではほとんど知られていない。2019年11月に学生の抗議活動の様子を撮影した日本人観光客が、デモ隊から暴行を受け、負傷する事件が発生した。暴行の原因について香港メディアは、“日本人を本土住民と間違えたようだ”と報じている。香港の若者が暴行を働いた大きな理由は、“彼が本土住民に見えたから”だった。香港の若者の“負の側面”が起こした事件と言えるだろう。
香港の若者には、このような中国本土に対する嫌悪感や憎悪感に加え、アイデンティティの原点となった英国への親近感もある。こうした意識を背景に、先ほど紹介したような誤った歴史知識を教える教師も現れるし、子どもにも受け容れる素地が形成されている。
香港の若者の間では、みずからの歴史に対する認識が揺らぎ始めている。そこで、英領香港の誕生から返還に至るまでの道程について、あらためて振り返ってみよう。アヘン戦争に至るまでの過程を見ると、国際社会のパワーゲームが数百年たっても本質的に変わっていないことに気づくだろう。
王朝時代の対外貿易体制
1368年に成立した明王朝は、「海禁」と呼ばれる鎖国政策を敷いた。これは倭寇と呼ばれる海賊組織や密貿易を取り締まることが目的だった。1644年に中国支配を始めた満州民族の清王朝は、明王朝の海禁を継承していた。国内が安定すると、1684年に第四代皇帝の康熙帝が海禁を解除。海関(税関)を広東省、福建省、浙江省、上海などに設置し、外国との貿易を公認した。
各地の税関は外国との貿易をめぐって競い合い、その争いは朝廷の官僚集団を巻き込んだ。1757年に第六代皇帝の乾隆帝は、外国との貿易を広東省の広州に限定。広東十三行と呼ばれる特権商人ギルドが、外国との貿易を独占することになった。こうして「広東システム」と呼ばれる貿易体制が整備された。
広東十三行を描いた風景画
(1850年頃の作品)
広東システムの下で欧州商人は、ポルトガル人の居留地であるマカオに滞在。貿易シーズンの10月から1月にかけてのみ、広州に設置された夷館区域の範囲内に限り、商業活動することが許された。欧州商人は広東十三行から一つのギルドを指名し、唯一の取引相手とする必要があった。
指名されたギルドは、徴税や港湾施設の準備など、幅広い業務を請け負った。欧州商人に提示される商品価格は、関税や諸経費などを含んでいたが、その内訳は公開されなかった。これに欧州商人は不満だった。
英中貿易摩擦とアヘン貿易
ジョージ・マカートニー伯爵
(1737~1806年)
英国は広東システムの下で、英国東インド会社を通じて広東十三行と貿易していた。だが、この広東システムは英国人の目には、“ギルドによる独占”や“保護貿易政策”と映った。
広東システムの打破を目指し、英国王のジョージ三世は1792年にジョージ・マカートニー伯爵を全権大使として中国に派遣。1793年にマカートニー伯爵は乾隆帝に謁見することに成功したが、貿易交渉は失敗に終わった。
1816年にはウィリアム・アマースト伯爵が全権大使として中国を訪問。第七代皇帝の嘉慶帝への謁見を求めたが、実現しなかった。原因は「三跪九叩頭の礼」。これは三回ひざまずき、九回地面に頭をこすりつけるという作法。皇帝に拝謁するには、これが必須だったが、英国人には屈辱的な作法だった。
乾隆帝の肖像画
ジュゼッペ・カスティリオーネ作
ウィリアム・アマースト伯爵
(1773~1857年)
これをアマースト伯爵が拒否したため、謁見は叶わなかった。ちなみに、マカートニー伯爵は乾隆帝が大目に見たおかげで、三跪九叩頭の礼を免除されていた。
英国は広東システムに不満があったものの、清王朝との貿易を拡大。その結果、深刻な輸入超過に陥った。英国に大量輸出が可能な商品がなかった一方、清王朝から茶、陶磁器、シルクなどを大規模に輸入していたからだ。
後にアフタヌーン・ティーの習慣が英国に根付くほど、茶は人気の商品であり、輸入量も急増した。その結果、支払いに使われる大量の銀貨が、英国から清王朝に流出した。
英国は貿易赤字にともなう銀貨の流出を防ぐため、中国に売り込む新たな商品を考える必要があった。そこで目を付けたのが、英領インドで栽培される麻薬のアヘンだった。アヘンは清王朝も禁止していたので、英国は密かに広東に持ち込み、それを販売することで銀貨を回収した。つまり、貿易赤字を解消するために、麻薬の密売に手を染めた。
中国のアヘン中毒者は増加の一途となり、清王朝も新たな禁止令を出したが、アヘン貿易は一向に収まらなかった。1834年に英国東インド会社が清王朝との貿易から撤退すると、ジャーディン・マセソン商会などの新興貿易商社がアヘン貿易を継承。アヘン貿易や広東システムをめぐる英中両国の摩擦は高まり、1840年にアヘン戦争が勃発した。
英領香港の誕生
アヘンを吸引する中毒者
アロー戦争で破壊された天津の大沽砲台
(1860年8月)
香港の衛星写真地図
1840年に勃発したアヘン戦争は、英国が勝利した。1842年に締結した南京条約の結果、広東システムは崩壊。広州のほか、福建省の福州とアモイ、浙江省の寧波、上海の計5港が新たに開港し、貿易の自由化が決まった。
この南京条約で、清王朝は香港島を英国に割譲。こうして英領香港が誕生した。さらに1856~1860年のアロー戦争(第二次アヘン戦争)でも英国が勝利。戦中の1858年に締結した天津条約で、10の港の追加開港が決まった。
さらに1860年の北京条約では、天津の開港が追加された。この北京条約には、九龍半島南部を英国に割譲することが盛り込まれ、英領香港の領域が拡大した。
さらに1898年に英国と清王朝は「展拓香港界址専条」を締結。九龍半島のバウンダリー・ストリート(界限街)の北から深圳河の南までの土地や離島を租借することに成功した。この租借地は新界(ニューテリトリー)と呼ばれ、租借期間は1997年6月30日までの99年間。その租借期限の到来が、香港返還のきっかけとなった。
英領香港の崩壊危機
深圳河を越えて香港に侵攻する日本軍
(1941年12月8日)
1911年の辛亥革命で清王朝が崩壊し、1912年に中華民国が成立した後も、英領香港は存続した。英領香港に危機が訪れたのは、太平洋戦争が始まった1941年12月。英国に宣戦した日本軍が、英領香港に侵攻。同月25日に英軍が降伏し、香港は3年8カ月に及ぶ日本占領時期を迎えた。
戦時中の1943年11月に、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領、英国のウィンストン・チャーチル首相、中華民国の蒋介石・主席の三人は、エジプトのカイロで会談。このカイロ会談で、ルーズベルトは香港問題に言及。これを受けて蒋介石は、戦後の香港返還を主張した。
カイロ会談に参加した英米中のトップ
蒋介石(左)、ルーズベルト(中央)、チャーチル(右)
英領香港について蒋介石は、英国が武力で中国を侵略し、清王朝と不平等条約を締結した結果であると指摘。中華民国はこれを承認せず、終戦後は直ちに返還すべきと訴えた。ルーズベルトも英国は香港統治を放棄すべきと考えていたという。
1945年8月15日に日本が無条件降伏すると、香港の帰属がクローズアップされた。もちろん、蒋介石は中国への返還を望んだが、英国は極東での植民地保持を強く希望。蒋介石は戦勝国間の利害調整や中国共産党との内戦準備を背景に、香港問題を棚上げにした。
戦後の香港の位置づけ
戦後の国際社会では、脱植民地化の機運が高まった。1946年に国際連合(国連)は脱植民地化を目指す地域のリストとして、「国際連合非自治地域リスト」を作成。これには英領香港やポルトガル領マカオも含まれていた。つまり、このリストが作られた時点では、将来的な香港やマカオに“独立”の可能性もあった。
国連に初参加した中華人民共和国の代表団
記者やカメラマンに囲まれた
(1971年11月15日)
1971年10月25日に国連で採択された「アルバニア決議」により、中華人民共和国の国連代表権が認められた。これを機に中華人民共和国は、香港とマカオの独立を封じるために動き出した。
1972年3月に中国の国連代表は、国連の非植民地化特別委員会に書簡を提出。その中で以下のように訴えた。
「英領香港とポルトガル領マカオの存在は、帝国主義を背景に中国が不平等条約の締結を強いられた結果である。
香港とマカオは英国とポルトガルに占領された中国領の一部である。両地域の問題は、完全に中国の主権の範囲内の問題であり、通常の植民地には根本的に当てはまらない。
このため、“国際連合非自治地域リスト”から両地域を除外すべきである。環境が整えば、中国は適切かつ平和的な手段で両地域の問題を解決する方針であり、未解決の段階では現状維持を望む」
この中国の主張は1972年11月8日に非植民地化特別委員会で可決し、香港とマカオは「国際連合非自治地域リスト」から除外された。これにより、香港とマカオが分離独立することは不可能となった。
香港とマカオの問題は、中国の主権の問題と位置づけられ、国連や他国が干渉する権利はなくなった。両地域の問題は、当事者の国同士が、交渉によって解決することになった。このように中国は早くから香港返還をめぐる英中交渉を意識し、構想を練っていた。一方、香港で返還が意識されたのは1970年代の中ごろであり、交渉の準備段階で英国は出遅れたと言えるだろう。
香港とマカオは1972年に植民地ではないということになったのだが、そうした事情を知っている中国本土の住民は少なかった。日本でも知っている人は、ほとんどいない。このため、香港返還間近の1997年3月17日に「人民日報」は、わざわざ「なぜ香港は植民地ではないのか」という文章を掲載し、過去の経緯をあらためて説明した。
マクレホース総督の北京訪問
鄧小平(右)と会談するマクレホース総督(左)
1979年3月29日
1978年12月に香港を訪問した対外貿易部の李強・部長の招きを受け、第二十五代香港総督のクロフォード・マレー・マクレホースは、1979年3月24日に広東省広州の土を踏んだ。香港総督が中華人民共和国を“公式訪問”するのは、これが初めてだった
広州では香港への直通列車再開について、地元政府の関係者と話し合った。3月26日に飛行機で広州から北京に向かい、3月29日に鄧小平と会見した。
マクレホース総督は香港問題への言及に慎重だったが、「香港は中国の一部であり、その主権は中国にある。この問題について話し合いの余地はない」と、鄧小平の方から切り出し、“香港を回収”する姿勢を鮮明にした。そのうえで、香港の特殊な立場にも理解を示し、香港に投資する人々の利益を損なうようなことはしないと強調した。
開発中の沙田ニュータウン(1983年) 意表を突かれたマクレホース総督は、香港返還問題に踏み込むことを避けるため、新界の租借期限に話題を絞った。香港では新界の土地開発がブームだが、土地契約には1997年6月30日まで有効と明記しなければならず、投資家を不安にさせていると説明。そこで、土地契約から“1997年6月30日”の日付を削除し、「新界が英国の統治下にある限り、契約は有効」と、表現を改めることを鄧小平に提案した。
英国は新界の租借期限が到来する1997年6月30日以降も香港を統治する意欲があり、それに“含み”を持たせるのが狙いだった。
だが、鄧小平はまったく躊躇することなく、「土地契約の問題では、どんなに言葉を使おうとも、“英国の統治”は絶対にダメだ」と返答。中国側の考えを変えようなどと、おかしな幻想を抱かないようにと、厳しい言葉を返した。
これに対してマクレホース総督は、新界問題は喫緊の課題であり、すぐにでも投資家を安心させなければならないと訴えた。
マクレホースの話を聞いた鄧小平は、一歩踏み込んだ話をした。「中国側が投資家の利益を損なうようなことはしない。もう少しはっきり言えば、今世紀と次の世紀の長期にわたり、香港は資本主義を継続できる」と語った。
そのうえで鄧小平は、香港企業による深圳経済特区への投資を奨励するように求めた。「深圳との交流が活発になると、香港との境界線はやがて消失するのでしょうか?」と、マクレホース総督は尋ねたが、鄧小平は「そんなことはない。深圳と資本主義の間には境界線が必要だ。香港の資本主義と中国本土の社会主義は、次の世紀まで並存可能だ」と答えたという。
香港に帰るマクレホース総督
乗車するのは広州からの直通列車
(1979年4月4日)
会談も終わりに差し掛かった時、「香港に帰ったら、市民に何と説明すれば良いのでしょう」と、マクレホース総督は尋ねた。「“安心してください”と言えばいい」と、鄧小平は答えた。
鄧小平との会談を終えたマクレホース総督は、陝西省西安などを観光した後、4月4日に再開したばかりの直通列車で、広州から香港に戻った。4月6日に開いた記者会見では、中国側に香港を回収する意図があることは伏せ、「“香港の投資家は安心して良い”と、鄧小平は語った」とだけコメントした。
サッチャー政権の誕生と交渉準備
香港島と九龍地区は英国に割譲された土地であり、期限があるのは新界の租借だけだ。しかし、新界は香港の陸地面積の9割を占めている。新界だけを返還しても、香港島と九龍地区だけで英領香港を存続させるのは事実上不可能。そのうえ、香港の水や食料は、中国本土に頼らざるを得ない。英国は香港の将来について、中国と交渉するほかなかった。
香港に戻ったマクレホース総督は、市民を安心させた一方で、香港政庁では極秘裏に返還問題についての協議を重ねた。また、鄧小平の言葉だけでは安心できないと感じた香港経済界の人々は、1981年にマクレホース総督に書簡を送り、年内にも香港の将来について英中両国で協議するよう求めた。だが、マクレホース総督は経済界からの求めを退け、中国側との協議は見送られた。背景には英国の政治情勢があったとみられる。
わずか1票差で政権を失ったキャラハン首相
英国初の女性首相となったマーガレット・サッチャー
毛沢東と会談するヒース元首相
退任直後に中国を訪問した
(1974年5月25日)
英国では1979年3月28日に、政局が大きく動いた。ちょうどマクレホース総督が訪中していたタイミングだ。この日に労働党のジェームズ・キャラハン首相に対する不信任案を保守党が提出。これが311対310という僅差で可決してしまった。
これを受け、デイヴィッド・オーウェン外務大臣は、1979年4月に予定していた訪中を急遽キャンセルすることになった。交渉に向けた英国の動きは、さらに鈍った。
1979年5月の英国総選挙では、“鉄の女”と呼ばれたマーガレット・サッチャーが率いる保守党が勝利。英国に初の女性首相が誕生した。1980年に入ってからようやく、サッチャー内閣のフランシス・ピム国防大臣、ピーター・キャリントン外務英連邦大臣、ハンフリー・アトキンズ玉璽尚書などが、次々と中国を訪問。香港問題をめぐる中国側の真意を探ろうとした。
1982年4月には保守党のエドワード・ヒース元首相が、中国を訪問。彼は毛沢東と会談したことがある人物だ。ヒース元首相と会談した鄧小平は、初めて香港特別行政区を創設する構想を明らかにし、香港市民の生活様式を変えることはないと明言したという。
英国籍法の改正と香港の混乱
保守党のサッチャー内閣が誕生すると、英国籍法の改正を推進した。1981年に制定された新しい英国籍法では、市民権と在住権が整理された。英国籍を英国市民、英国属領市民、英国海外市民の3種類に区分。このうち英国属領市民、英国海外市民には、英国在住権が自動的に付与されず、移民法に基づいて取得しなければならない。
この英国籍法の改正は、香港に混乱を引き起こした。英国が中国との交渉を前に、香港からの移民流入を防ぐ“安全弁”を設けるため、英国籍法を改正したという見方が広まったからだ。実際のところ、香港市民の英国在住権は、1962年の英国連邦移民法で自動取得できないようになっていた。しかし、香港では英国への批判が巻き起こった。
こうした混乱を受け、マクレホース総督は訪中したキャリントン外務英連邦大臣に、早急に中国との交渉を始めるよう求めたという。
つまずいた鉄の女
香港問題をめぐり、サッチャー内閣は主権と統治権を分離する考えを打ち出した。主権は中国に返還するが、統治権は英国が保持し続けるという構想だ。
この構想を念頭に、サッチャー首相は1982年9月22日に中国を訪問した。英国首相の訪中は史上初。英国は同年3~6月のフォークランド紛争でアルゼンチンに勝利したばかりであり、サッチャー首相は自信に満ちていた。
鄧小平と会談するサッチャー首相 世界中に放送された転倒しかけるサッチャー首相 9月24日に北京の人民大会堂で鄧小平と会談したサッチャー首相は、「南京条約」「北京条約」「展拓香港界址専条」が、いずれも有効であると主張。英国が香港島と九龍半島の主権を保有していると強調した。そのうえで、今日の香港の繁栄は、英国による統治の成果であるとアピール。1997年以降も英国が香港を統治することに中国が同意すれば、主権の返還を検討すると語った。
これを聞いた鄧小平は、外交ルートを通じて香港問題を話し合いで解決することには同意するが、主権をめぐる問題に妥協の余地はないと強調。会談は物別れに終わった。
会談が終わり、サッチャー首相は人民大会堂の階段を下っていたが、ここでつまずき、転倒しそうになった。その映像は大々的に放送され、鄧小平との会談でサッチャー首相が大きな衝撃を受けたとの見方が広がり、世界に動揺が走った。
会談の後に開かれた記者会見で、サッチャー首相は英領香港の法的根拠である三つの不平等条約の合法性を主張。英国が香港の主権を保持していると強調したうえで、国際条約が尊重されなければ、交渉の席に着くことは不可能だと訴えた。
英中交渉スタート
サッチャー首相の訪中後も、英国の主張は変わらず、半年ほどは何の進展もなかった。その間に香港経済の中核を握る香港上海匯豊銀行(HSBC)やジャーディン・マセソンなどの関係者が北京を訪問し、さまざまなプランを提案したが、いずれも中国側に退けられた。
こうしたなか、1983年3月にサッチャー首相は趙紫陽首相に書簡を送った。そこには、中国が香港の主権を保持しているという主張に反対せずに、交渉を始める用意があると書かれていた。また、香港の主権を中国に返還する議案を英国議会に提出する考えも記されていた。
英中交渉の様子 これを受けて、同年4月に趙紫陽首相は早急に正式な交渉を始めることに同意。同年6月の英国総選挙でも保守党が勝利し、サッチャー首相の二期目が始まると、同年7月12~13日に第1回目の英中交渉が開かれることになった。すでにサッチャー首相の訪中から、約10カ月が経過していた。
高まる危機感
英国は統治権保持の主張を譲らなかった。実際は何の進展もなかったが、第1回交渉は「双方は香港問題の解決について、“有益で建設的”な話し合いを行った」という和やかな表現で声明を発表した。
しかし、双方の激しい対立が続き、声明の表現も変化した。1983年7月25~26日の第2回交渉では、声明から“建設的な”という文字が削除された。同年8月2~3日の第3回交渉に至っては、“有益で”という文字すら消え、「話し合いを行った」という表現だけになった。
声明文の変化は、交渉決裂を予感させ、香港市民の間に不安が広がった。多くの香港市民が財産を海外に持ち出そうとし、香港ドルを売って、米ドルを買う動きが広がった。外国為替市場では香港ドルが米ドルに対して急落した。
こうした香港の混乱を中国側は、“交渉を有利に進めるために、英国側が裏で糸を引いている”と解釈。香港ドルの急落は、英国の責任であると非難した。
こうした事態を受け、香港政庁は9月25日に秘密会議を開催。1973年11月25日から続いていた香港ドルの変動相場制を取り止め、固定相場制を復活させる方針が固まった。こうして1983年10月17日から米ドル本位カレンシーボード制を採用することが決まった。これについては、この連載の第三十一回で詳しく紹介している。
タクシーのストライキと暴動
米ドル本位カレンシーボード制の採用で、外国為替市場の混乱は終息に向かったが、香港社会は動揺が続いた。香港政庁は1984年1月11日にタクシーのライセンス費用などを17%引き上げると発表。すると、新界で翌1月12日からタクシー運転手によるストライキが始まった。
暴動に発展したタクシーストライキ 13日には市街地にも飛び火。3,000台を超えるタクシーが抗議活動を展開し、各地の主要道路が塞がり、交通がマヒ状態に陥った。香港政庁はタクシー業界に譲歩せず、混乱が拡大。13日の夜になると、抗議活動は暴動に発展し、バスや自動車への放火や商店の略奪なども起きた。
暴徒鎮圧に出動した香港警察は、催涙弾を発射。一連の衝突で、警察官を含む32人が負傷し、170人以上が逮捕された。催涙弾が発射されたのは、1967年の六七暴動以来。最終的にタクシー業界の要求を呑むかたちで、14日の未明に暴動は終息した。18日の立法局特別会議で、値上げ案は否決された。
香港警察は約17年ぶりに催涙弾を使用した
(1984年1月)
この暴動は英中交渉の最中に発生した。このため、英国側が交渉を有利に進めるために暴動を画策したのではないかと、中国側は疑った。これに対して英国側は、調査の結果、事件の背景に政治的動機はなかったと説明し、関与を否定した。
もっとも、2014年1月6日付香港紙「明報」によると、英国側が調査した結果、ストライキが暴動に発展した背後に、実は台湾の中国国民党による策謀があったもよう。交渉が複雑化することを避けるため、英国側はあえて伏せていたとみられる。
英中共同声明への署名
鄧小平と会談するヒース元首相 鄧小平は1983年9月にエドワード・ヒース元首相と再び会見。この席で鄧小平は、英国の統治権という考え方は通用しないとして、方針を改めるよう促した。そうしなければ、中国が一方的に香港問題の解決案を発表することになると警告した。
それが影響したのか、サッチャー首相は1983年10月に、中国側の提案を基礎に交渉を進める方針を示した。第5~6回目の交渉で、英国は統治権の保持という方針を持ち出さなかった。1997年7月1日に香港の主権と統治権が、いずれも中国に返還されるという前提で話し合いを進め、交渉は前進した。
1984年4月以降は返還までの過渡期と政権の移譲に話が進んだ。その後も紆余曲折があったが、ジェフリー・ハウ外務・英連邦大臣は1984年4月20日に、英国は1997年7月1日以降の香港について、主権と統治権を保持しないと発表した。同年6月に鄧小平は「一国二制度」の考えを表明。香港に対する政策を50年間は変えない方針を明らかにした。
英中共同声明の署名式
握手するサッチャー首相と趙紫陽首相
計22回の交渉を経て、英中共同声明と3つの付属書が完成。同年9月26日に北京で草案への署名が行われた。正式に署名されたのは、1984年12月19日。北京の人民大会堂に百人を超える記者が集まり、鄧小平などが見守るなか、趙紫陽首相とサッチャー首相が署名。二人は握手を交わし、声明文を交換し、再び握手した。こうして香港返還というゴールとロードマップが整った。
台湾の立場
英中交渉が繰り広げられるなか、これに不満を持っていたのが、台湾の中華民国だった。香港は清王朝が英国に割譲した土地。その清王朝を倒したのは、中華民国であると強調。英国との交渉相手は、清王朝の継承国である中華民国と主張した。
中華民国が所有する南京条約の正本 この考えに基づき、台湾の中華民国政府は、英中交渉を認めなかった。1984年1月に起きたタクシーストライキと暴動の背後に、台湾の中国国民党による策謀があったという英国の調査結果は、一定の信憑性を有していると言えるだろう。
香港返還が迫った1997年6月27日、台湾で記者会見が開かれた。この席で中華民国の外交部は、「南京条約」「北京条約」「展拓香港界址専条」の正本が、すべて台北にあると強調。北京が所持するのは副本であり、中華民国こそが香港の主権を保有すると主張した。
当時の李登輝・総統も同じ見解を示したが、そうした中華民国の声は、国際社会に響かなかった。それは中華民国政府も最初から分かっていたが、矜持を保つには声を上げるほかなかったのだろう。
香港の主権を保有すると主張した中華民国政府だが、その一方で以下のような声明を発表した。
「英国は租借地の新界とともに、不平等条約によって割譲された香港島と九龍を“中華民族”に返還した。この結果に中華民国政府は安堵した」
香港返還は台湾でも屈辱の歴史の一部が幕を下ろしたことを意味した。台湾海峡を挟んで対立する中華人民共和国と中華民国だが、香港返還は双方にとって、喜ばしいニュースだったようだ。
返還への過渡期へ
英中共同声明への正式署名により、1997年7月1日に香港の主権は中華人民共和国に返還され、高度な自治権を有する香港特別行政区として出発することが決まった。香港の資本主義制度と生活様式は、50年間にわたり変わらないことも盛り込まれた。香港経済界が懸念していた1997年6月30日を超える期限の土地契約も、有効であることが確認された。
ただ、いくつかの違いはある。英軍に代わり、中国人民解放軍が香港に進駐することになる。外交も北京の中央政府が管轄する。また、法律では最上級裁判所として、香港終審法院が設けられることになった。英領香港の時代は、英国の枢密院司法委員会に上訴することができたが、その役割を香港終審法院が担うことになった。
英聯合聯絡小組の会議 香港返還に向けた準備グループとして、中英聯合聯絡小組が設けられることも決まった。このグループは1985年5月27日に成立。香港返還をめぐる英中両国の協議機構として活動した。また、1985年4月に第六期全国人民代表大会(全人代)の第三回会議で、香港の憲法に相当する「香港特別行政区基本法」の起草委員会を創設することが決まり、1985年7月1日から活動を始めた。こうして香港は、返還への過渡期に入った。
英国資本の逃避
ジャーディン・マセソンの記者会見
バミューダへの移転を発表
(1984年3月28日)
英中交渉をめぐる不安が広がっていた1984年3月28日、香港の政財界に大きな影響力を持っていたジャーディン・マセソンが、登記上の本社をバミューダ諸島に移転すると発表した。突然の発表であり、株式市場も動揺した。3月29日にハンセン指数は前日比5.5%安となり、翌30日も4.0%安と、大幅に続落した。
ジャーディン・マセソンは中華人民共和国の成立後、中国本土の資産が没収され、国有財産にされたという歴史がある。中華人民共和国と香港返還に対する警戒感が根強く、将来を悲観しての行動とみられる。
また、香港市民の間では、外国への移民が増加した。香港には中国本土の政治的動乱から逃げ延びた人が多いうえ、1967年の六七暴動で中国共産党に反感を持った人も少なくなかったからだ。移民先はカナダやオーストラリアが多かった。
もっとも、1980年代に移民した香港市民の多くが、1996年ごろから続々と香港に帰り始めた。海外の経済環境や政治風土に慣れず、言語や生活様式にも馴染めなかったことが主な原因だった。戦後の香港では何度か海外移民ラッシュが起きたが、結局は戻ってしまうという結末が多い。どんなに社会情勢が変化しようと、香港はそこで生まれ育った人々にとって、ほかに変えようのない大事な場所なのだ。
英中交渉と株式市場
英中交渉は香港株式市場にも影響を及ぼした。ここでハンセン指数の動きを振り返ってみよう。
マクレホース総督が中国訪問を終えた1979年4月以降も、香港株式市場は華人企業の台頭を背景に、上昇を続けた。この連載の第四十四回でも紹介ように、長江実業のハチソン買収、包玉剛と香港置地(ホンコン・ランド)のワーフ争奪戦で、株式市場は活況だった。中国本土の改革開放政策も、追い風となった。
ハンセン指数は1979年に年間で77.5%上昇。1980年も年間の上昇率が67.6%に達した。
株式市場は過熱感が増し、これに危機感を感じた四つの証券取引所が、1980年11月17日から前場だけの半日取引を導入するほどだった。しかし、1981年7月17日に香港の銀行が利上げに踏み切ると、株式市場の過熱感も沈静化。1981年はハンセン指数が年間で4.6%下落した。
1982年は3月に英国とアルゼンチンとの間で、フォークランド紛争が勃発。6月にはイスラエルがレバノンに侵攻するなど、国際情勢が緊迫化した。こうしたなか、9月22日にサッチャー首相が中国を訪問。9月24日にサッチャー首相が人民大会堂で転ぶと、世界に不安が拡大。翌営業日の9月27日は、ハンセン指数が前日比で7.6%も下落した。そこから6日続落し、累計の下落率は25.6%に達した。1982年はハンセン指数が年間で44.2%下落した。
1983年に入ると、ハンセン指数は反発に転じ、1,000ポイントを回復してからは、大台を挟んで一進一退となった。英中交渉が始まると、物別れへの懸念が強まり、ハンセン指数は調整局面に入る。
第1回目交渉の声明が発表された7月14日こそ、ハンセン指数は前日比で3.7%上昇。しかし、その後は声明文の変化に反応し、下落が続いた。第2回目交渉の声明が発表された7月27日は、“建設的な”という文字が消えたことを受け、ハンセン指数は前日比で0.7%下落した。
第3回目交渉の声明が発表された8月4日は、“有益で”という文字すら消えたことを嫌気し、ハンセン指数は前日比で3.4%下落した。鄧小平がエドワード・ヒース元首相との会談で強硬な姿勢を示したことが伝わると、ハンセン指数の下げが加速。9月19日に前日比8.1%安を記録した。第4回目交渉が行われた9月23日は香港ドル安が進み、香港各地で混乱が発生したこともあり、ハンセン指数は前日比7.5%安となった。
こうした混乱もあったが、英国が香港の統治権保持という主張を取り下げたことで、交渉が進展。香港ドル相場も安定したことで、1983年はハンセン指数が年間で11.6%上昇した。
1984年に入ると、英中関係の改善、中国資本の投資活発化、金利の低下などを背景に、1月にハンセン指数は1,000ポイントを回復した。その後は調整が続いたが、9月26日に英中両国が英中共同声明の草案に署名すると、株式市場は上昇基調となる。1984年はハンセン指数が年間で37.2%上昇。香港返還をめぐる不透明感が払拭されたことで、1985年はハンセン指数の年間上昇率が46.0%に達した。
1997年7月1日の返還が決まり、香港は過渡期に突入。不安を抱えつつも、将来への不透明感が払しょくされたことで、物事が前向きに動き始めた。こうして香港は、新たな時代を迎えることになった。