広東省深圳市が株券をめぐり大混乱となった1990年。その年の12月1日に深圳証券取引所は中央政府の許可がないまま、“試験開業”した。だが、その数カ月前から矢継ぎ早に繰り出していた株価抑制策が効果を発揮し、深圳証券取引所の開業直後から長期にわたって株価が下落。1991年4月22日には世界的にも稀な証券市場の出来高ゼロを記録した。
出来高ゼロが意味すること
出来高とは一定期間に成立した取引の合計株数を意味するデータだ。例えば、Aという銘柄について、100株の売り注文と100株の買い注文の価格が折り合い、取引が成立すれば、出来高は100株ということになる。こうした出来高を1日分合計すれば、「A銘柄の1日の出来高」というデータが完成する。
出来高というデータは、個別の銘柄について作ることもできるし、市場全体についても作成可能だ。また、期間もさまざまに設定できる。売買が活発であれば出来高は増加し、停滞すれば減少する。出来高とは売買の活発さを表すデータであり、取引のエネルギー量を示しているとも言える。
この出来高を比べることで、「この銘柄は昨日に比べ、今日は取引が活発」「この銘柄は、あの銘柄に比べて人気がある」「この市場は、あの市場よりも取引が低調」と言った判断が可能となる。
たいへん有名な銘柄は、出来高が非常に大きい。誰にも注目されない銘柄であれば、時には出来高がゼロになることもある。しかし、市場全体で考えると、たくさんの銘柄が上場し、大勢の投資家がいるので、出来高がゼロになるということは、一般的に起こらない。
※網易よりデータ取得。土曜日や一部のデータは、入手のため欠落。 ところが、1991年4月22日の深圳市場では、それが起きてしまった。“出来高ゼロ”とは「取引がまったく成立しなかった」ということだから、それは“取引所”としての機能が停止してしまったことを意味する。人間に例えるなら、心肺停止。誕生したばかりの深圳証券取引所は、まさに仮死状態に陥った。
1991年4月22日は売り注文こそあったものの、買い注文がまったく出なかった。つまり、深圳市場の株式を購入しようと思う投資家は、一人もいなかった。誰もが深圳市場の株式に投資価値を見いだせず、将来への自信を失っていた。
市場救済会議の失敗と市場介入計画
誕生したばかりの深圳証券取引所が仮死状態に陥ったことは、深圳市政府の関係者に大きなショックを与えた。出来高ゼロを記録した数日前に、やっと中央政府から正式な開業許可を得たばかりだったので、なおさらのことだった。
その後、二度目の出来高ゼロこそ記録しなかったが、相場は低迷を続けた。こうしたなかで、1991年7月3日に深圳証券取引所は正式に開業。それでも株価は下がり続け、投資家が保有している株式の資産価値は、毎日のように減少していった。それは、人々の保有資産が“蒸発”しているような状況だった。
「生まれたばかりの我が子が、危険な状態に陥っている。治療しなければ、助からない」――。深圳証券取引所の創設に携わった禹国剛・副総経理は、そうした危機感を抱き、市場救済に乗り出すことを考えた。この連載の第十二回と第十三回に登場した禹さんだ。
禹さんは王建・副総経理とともに1991年7月10日に市場救済会議を主催し、証券取引所や各界の意見をまとめ、市政府に報告書を提出。だが、この会議の最中に王建・副総経理が心臓発作に倒れ、その後は禹さんが一人で奮闘することになった。
禹さんらの報告を受け、市政府は8月下旬に銀行や国有企業の幹部を集め、市場救済会議を開催。「みんなで資金を出し合い、株価を買い支えよう!」と呼びかけた。だが、これに応える者はいなかった。
会議は連日のように開かれたが、実質的な成果は何も得られなかった。「市政府に乗せられて株を買って、下落でもしたら目も当てられない。上級機関から責任を問われるのは間違いない」と、誰もが考えていた。市長も自ら銀行関係者に語りかけたが、一人も動かなかった。
こうした状況に焦りを感じた禹さんは、“市場調節基金”を組成し、株式市場に介入する計画を深圳市政府に提出。8月26日のことだった。これは20日以内に市場介入する案で、副市長に承認された。
9月2日の市場救済会議も失敗に終わると、その日の夜に禹さんは深圳市の書記を訪れ、市場介入を強く訴えた。
右から深圳市の李灝・書記、鄭良玉・市長、禹さん
(1991年11月22日)
禹さんの話を聞いて、書記は「いったい、どれくらいの資金が必要かね?」と質問した。
「それほど多くは要りません。2億元で何とかなりそうです」と、禹さんは答えた。
禹さんに同行していた取引所の監査役が口をはさみ、「資金は私たちで工面します。あなたが首を縦に振ってくれれば、それで結構です」と強調した。
「いいだろう」と書記は二つ返事で応じ、市長と副市長の同意を得るよう指示した。禹さんらは、さっそく市長と副市長の同意を取り付け、最高機密の下で市場救済に乗り出した。
“一石三鳥”の計画
深圳市政府の幹部から同意を得たものの、資金はまったく集まっていない。「2億元で何とかなりそうです」とは言ったものの、その当時の深圳市の財政規模が年間30億~40億元だったことを考えると、決して小さな数字ではなかった。その2億元について、「資金は私たちで工面します」と言ったからには、自分たちで調達しなければならない。
仮に2億元が集まったとしても、それをどう使うかが問題だ。当時の深圳市場には6銘柄が上場していたが、すべての銘柄を買うと、2億元はあっという間に尽きてしまう。
「どこから資金を集め、どのように使う」――。この難題を一挙に解決するため、禹さんが訪ねたのは深圳発展銀行の謝強・副董事長だった。そこで禹さんは、深圳発展銀行の株式を買い支える“一石三鳥”の策を謝さんに提示した。
【1】深圳発展銀行が身銭を使って株式市場を救えば、その功績は高く評価されるでしょう。
【2】国家保有の深圳発展銀行の株式が大量に売却され、経済的な利益のために社会主義の公有制が損なわれたと非難されましたが、これを安く買い戻せば批判も収まるでしょう。
【3】現在の株価で株式を購入すれば、銀行の本業よりも利益が出る可能性もあります。
この提案を受けて謝さんは、禹さんに以下の点を問いただした。
【1】勝算はあるのか?
【2】自分の会社の株式を買い戻す行為は、法に触れないだろうか?
【3】もし合法であるならば、どれくらい買えばいいのか?
こうした質問を受け、禹さんは率直に答えた。
「わたしは神でも仏でもないし、占い師でもない。なので、“絶対にできる”とは、あえて言いません。ただ、50%の可能性はあると思います。つまり、成功するか、失敗するかは半々です。ただ、まったく自信がないわけではありません。可能性がゼロと思うなら、わたしも市場を救おうなどと皆さんに呼びかけません」
「確かに海外では自社株が規制されていますが、現在のところ中国本土にはこれに関する法律がありません。法律がないので、法に触れることはありません」
「とりあえず1億元を出してください。また、別ルートから1億元をお願いします。合計で2億元が必要です」
禹さんの率直な言葉を聞いて、謝さんは深圳発展銀行から1億元を市場調節基金に拠出することを決めた。また、深圳国際信託投資公司が1億元を動かし、追随することになった。失敗すれば、どんな責任を問われるか分からない。刑務所に入ることも覚悟のうえで、謝さんは禹さんの計画に賭けてみることにした。
介入開始
市場調節基金の名の下に、1億元の資金が集まり、9月7日から介入が始まった。この日は土曜日だったが、当時の深圳証券取引所では半日取引が実施されていた。
深圳発展銀行は13.70元で取引が始まった。この日の安値は13.40元。禹さんが率いる市場調節基金は5万株ずつのペースで、深圳発展銀行の株式を買っていった。
日曜日が明けると、9月9日は再び13.70元からスタート。この価格を割らずに、取引終了時点では13.90元まで株価を引き上げた。
9月10日は再び13.70元から始まったが、大口の売り注文を5万株ずつ買っていき、終値は13.95元をつけた。
9月11日はいきなり13.85元で寄り付いた。ここで禹さんらは決心を固め、大きく買い進め、終値は14.40元に達した。
9月12日は14.30元まで下げる場面もあったが、14.50元まで買い進め、14.45元で終了した。9月13日も14.30元まで下げたが、終値で14.50元をつけた。そのほかの銘柄の株価も、徐々に深圳発展銀行に追随するかたちで推移。9月末まで深圳市場は急騰急落もなく、株価の安定に成功した。
中華人民共和国の建国記念日である国慶節が明けると、投資家心理が大きく改善。10月3日は14.65元で始まり、一時は16.10元まで買われた。この日の終値は15.75元。10月4日は15.85元でスタートし、深圳発展銀行の株価は上昇局面に入った。
そのほかの銘柄も上昇トレンドに入り、深圳市場の出来高と売買代金も増加。株価は11月中旬まで大幅に上昇し、その後は半月ほど調整したものの、年末まで安定的に推移した。
投資家が市場に戻り、禹さんらは市場救済に成功した。謝さんは禹さんの手を握り、「ありがとう。おかげで儲けさせてもらったよ」と感謝の言葉を述べた。市場介入に追随した深圳国際信託投資公司も、多額の利益を得た。
市場介入の是非
こうして政府による初の株価の買い支えは成功した。株価の形成は市場原理に任せるのが基本だが、中国の株式市場は早くも1991年に初の介入が実施され、その後も危機が到来するたびに、同様の措置が取られるようになった。一方、相場が過熱すると、1990年の深圳市場で実施されたような株価抑制策が、最近でも使われている。
つまり、中国政府が株式市場を制御する手法は、すでに1990年代の初めに完成していたわけだ。こうした中国本土の株式市場の在り様は、常に西側諸国から異常だと指摘される。
禹さんは1991年の市場介入について、こう語っている。「当時の深圳市場は生後10カ月の“赤ん坊”だった。免疫力がなく、特効薬を必要としていた。市場を蘇生させることが何よりも重要だった」――。
では、その後の市場介入については、どうだろう。政府系シンクタンクの専門家は、こう説明している。
「資本主義社会の株式市場は私有制の上に成り立っている。このため、個人による投機行為や上場企業による経営活動は、政府とまったく無関係とされる。投資で損失を出そうが、会社が破産しようが、誰かがビルから飛び降り自殺しようが、政府は責任を負うことはない。
一方、われわれの経済は公有制を主体としており、株式制の導入であろうと、株式市場の発展であろうと、すべて社会主義という方向性を堅持しなければならない。つまり、公有制であるからこそ、私有制と違い、政府は企業、投資家、市場と密接にかかわる。
それゆえ、政府は株式市場の安定に力を入れ、大多数の個人投資家の利益を保護しなければならない。過剰な投機熱を煽り、一部の人に巨万の富を獲得させることもなければ、一部の人だけを貧困のままにしておくこともない。
会社の破産や市場の崩壊で、個人がビルから飛び降り自殺するような事態は、回避しなければならないのだ」
このように、中国の株式市場の根底には、公有制という思想がある。今日では私有制の領域が拡大し、混合所有制へ発展したが、それでも株式市場についての考え方は、西側諸国のものと異なる。それを異常だと指摘しても、根底が異なるのだから、議論は平行線をたどるだけだ。
もっとも、その西側諸国も最近では市場に介入するようになった。日本銀行による指数連動型上場投資信託(ETF)の買い入れ、米国の量的緩和策(QE)による米国債や住宅ローン担保証券(MBS)の大量購入などが挙げられる。
西側諸国から異常とみられるものが、悪とは限らない。それなりの良さや利点がある。そうしたところが、中国株の面白味につながっている。