中国本土の株式市場は、1997年に本格的な変革期を迎えた。この年から中国政府は、投機の抑制、不正の摘発、秩序の確立、証券行政の中央集権化などを推進。そうした変革は株価の低迷をともない、株式市場は約2年に及ぶ“冬の時代”を迎えた。
十二道金牌
1996年は中国本土の株式相場が過熱。中国政府は投機熱の抑制に躍起となり、さまざまな政策を矢継ぎ早に打ち出した。それは南宋時代の岳飛将軍にまつわる故事にちなみ、“十二道金牌”と呼ばれた。これについては、この連載の第六十五回で詳しく紹介している。
1996年12月16日付「人民日報」 “十二道金牌”に例えられた12の政策のうち、11番目は中国共産党(共産党)の機関紙「人民日報」に1996年12月16日付で掲載された社説だった。その表題は「正確認識当前股票市場」(目下の株式市場を正確に認識しよう)。資本主義の象徴である株式市場をテーマとする社説が「人民日報」に掲載されたのは、これが初めてだった。
12番目は上記の社説掲載と同じ日に復活した制限値幅制度だった。その効果で1996年12月16日はほとんどの銘柄がストップ安となり、終値は9.9%安の1,000.02ポイント。取引時間中には1,000ポイントの大台を割る場面もあった。
「人民日報」の社説は、共産党と中央政府が証券市場の監督管理に本腰を入れるという宣言だった。これ以降の株式市場では、不正の摘発や秩序の確立などが進められた。
鄧小平の死去
“十二道金牌”から2カ月が過ぎた1997年2月18日、上海総合指数は前日比8.9%安を記録した。そのころ、最高指導者の鄧小平は危篤状態にあった。3日前の2月15日に鄧小平の家族は、遺嘱を江沢民・国家主席に伝えており、株価急落の背景には、そうした情報の流出があったのかもしれない。
鄧小平の訃報
1997年2月20日付「人民日報」
鄧小平は2月19日21時8分に死去し、その訃報は2月20日2時44分に公式発表された。2月20日の株式市場は、鄧小平死去のニュースを受け、前日比9.6%安で寄り付いた。改革開放政策に否定的な保守派が、鄧小平の死去を機に巻き返すことを投資家は何よりも恐れていた。
しかし、改革開放政策が続くことは、鄧小平が実行した1992年1~2月の“南巡講話”で明確となっていた。そもそも、鄧小平は1994年10月1日から公の場に姿を見せず、江沢民・国家主席への権力移譲は完了済み。急落で寄り付いた2月20日の株式市場だが、改革開放政策に後退はないという見方が優勢となり、前日比0.2%高で終了した。
株式市場の過熱抑制と秩序確立
“十二道金牌”や鄧小平の死去を乗り越え、株式相場は上昇が続いた。1996年末は917.02ポイントだった上海総合指数は、鄧小平の死去が報じられた翌日の1997年2月21日に、終値で1,000ポイントの大台を回復。メーデー(労働節)の連休が明けた5月5日には、節目の1,400ポイントを超えた。
株式相場の過熱を受け、5月9日に中国政府は株式売買の印紙税率を当初の0.3%から0.5%へ引き上げると発表した。しかし、新しい税率が適用される初日の5月12日は、上海総合指数が前日比2.3%高で終了し、終値を1,500ポイント台に乗せた。
しかし、節目の水準を超えたことで高値警戒感が強まり、5月13日は前日比2.4%安となり、1,500ポイントを維持できなかった。5月14日は前日比5.8%安となり、終値が1,400ポイントを割り込んだ。
過熱抑制の施策は、さらに続いた。5月16日に国務院証券委員会(国務院証券委)は1997年の株式発行枠を300億元に確定した。これは当初計画の3倍に相当。株式市場へ新株を大量に供給することで、需給バランスを崩し、株価を抑えることが狙いだった。これを嫌気し、この日の上海総合指数は急落し、前日比7.2%安で終了した。
5月22日には“三類企業”の株式取引が禁止となった。三類企業とは国有企業、国有持ち株会社、上場企業という3つのタイプの企業を意味する。大口投資家である三類企業が株式市場からいなくなれば、取引は低調となる。この情報を受け、この日の上海総合指数は前日比8.8%安となり、終値は節目の1,300ポイントを割り込んだ。
6月6日に中国人民銀行(中央銀行)は、銀行からの資金による株式売買を厳しく取り締まると通知した。この連載の第六十四回で紹介したように、1980年に中国政府は銀行による信託業務を試験的に導入。四大国有銀行、政策性銀行、地方政府などが競うように“信託投資公司”を設立した。巨額の資金が銀行から信託投資公司に移り、金融市場は“何でもあり”の無秩序状態に陥っていた。
1997年も本来は銀行にあった資金が、さまざまなルートで株式投資に充てられ、投機熱を煽っていた。こうした状況を問題視したのが、1997年6月6日の通知だった。この通知では銀行による信託投資業務と株式業務を厳しく禁止。証券を担保に資金を貸し付ける現先取引のほか、証券会社、投資信託公司などとの貸借取引も停止するよう指示した。
こうした措置を嫌気し、6月6日は上海総合指数が前日比6.2%安となった。
貢献者の失脚
証券市場の秩序確立に向けて当局が調査を進めると、数々の“大物”による不正があきらかとなり、1997年6月13日付「人民日報」に掲載された。
それによると、深圳証券取引所に上場する大型株の深圳発展銀行をめぐり、その行長(頭取)を務めていた賀雲が解任された。その処分は解任にとどまらず、金融業と証券業への就業を5年間禁止するという厳しさだった。
賀雲は1995年8月に深圳発展銀行の二代目行長に就任した。英領香港に隣接する深圳市の証券市場は、1997年7月1日の香港返還を控え、過熱感がひときわ鮮明だった。1995年7月末は9.14元だった深圳発展銀行の終値は、1996年1月23日に6元の大台を割り、5.91元を付けた。
しかし、この連載の第六十五回で紹介したように、1996年の春節(旧正月)が明けると、好相場が到来。深圳発展銀行は1996年末の終値が16.52元に達し、この年の年間上昇率は156.9%に達した。1997年に入ってからも株価は上昇が続き、6月12日の終値は1996年末に比べて86.9%高い30.87元だった。
「人民日報」によると、こうした深圳発展銀行の株価急騰の裏には、行長を務める賀雲による相場操縦があった。彼は1996年3月~1997年4月にわたり、総額3億1,100万元に上る深圳発展銀行の資金を動かし、自社株を売買していた。これにより9,034万元に上る不正な利益を得ていたという。
これは銀行による株式売買を禁じた「銀行法」に反するばかりでなく、上場企業は自社株を売買してはならないという当時のルールにも違反。特に1997年4月の売買は投資家を誤認誘導するための相場操縦であり、深刻な影響を及ぼしたと断じた。法人としての深圳発展銀行に対しても、500万元の罰金と不正な利益の没収が言い渡された。
深圳市場を代表する優良銘柄の深圳発展銀行でも、当事者による株価の吊り上げが行われていたことは、大きな衝撃だった。しかし、処分は上海証券市場の立役者にも及んだ。
「人民日報」によると、四大国有銀行の筆頭格である中国工商銀行の上海支店は、1996年9~12月にわたり証券会社に資金を融通していた。その金額は海通証券に9億1,000万元、申銀万国証券に63億1,000万元。このほかにも億単位の資金を毎月のように貸し越していた。こうした資金は株式の自己売買に充てられていた。
中国工商銀行から証券会社2社への資金の流れを調査した当局は、申銀万国証券の総裁だった闞治東を解任した。彼は上海市の金融街を開発する“上海陸家嘴金融貿易区開発”の株式を投機的に売買し、その相場操縦が認定された。
開業当初の申銀証券 闞治東は1979年に中国人民銀行の上海支店に入行した後、中国工商銀行の上海支店に異動。1987~1988年に政府派遣の留学生として日本に渡り、金融業と証券業を学んだ。帰国後は中国工商銀行上海信託投資公司の副総経理に就任。“世界一小さな取引所”と呼ばれた「静安証券営業部」の責任者などを務めたという。
上海証券取引所の開業式
中央の人物が闞治東、右から2番目が管金生
1990年に申銀証券を創設した闞治東は、万国証券の管金生・総裁、上海証券取引所の尉文淵・総経理とともに、“上海金融界の三大猛者”と呼ばれた。1995年2月23日の“327国債先物事件”を機に管金生と尉文淵が失脚した一方、闞治東は出張中だったことで難を逃れていた。さらに1996年7月16日には管金生の万国証券を吸収し、“申銀万国証券”の総裁に就任していた。
上海証券市場の誕生に大きな貢献を果たした闞治東だが、そうした彼でも処分されることになり、金融業界は騒然となった。
証券行政の中央集権化
中国証券監督管理委員会(CSRC)の第二代主席だった周道炯は、証券市場の過熱抑制と秩序確立に力を注いだ後、1997年6月ごろに周正慶へバトンタッチした。CSRCの第三代主席に就任した周正慶の下で、証券行政の中央集権化が進むことになった。
深圳証券取引所を視察するCSRCの周正慶・主席(左二)
(1998年8月3日)
1997年8月15日に国務院は上海市と深圳市の証券取引所について、CSRCの直接管理下に置くと決定。これにより証券取引所の総経理と副総経理は、CSRCが任命するようになった。証券取引所の理事長と副理事長は、CSRCが指名したうえで、理事会選挙で決定。地方政府の主導で発展してきた中国本土の証券市場だったが、正式に中央政府による監督管理の時代を迎えた。
ただし、証券取引所はCSRCの直接管理下に置かれたが、各地に残る店頭市場は引き続き地方政府による管理が続いた。
国有企業の株式会社化が盛んだった山東省では、青島証券交易中心、済南産権交易所などの店頭市場が設けられ、1997年には50銘柄ほどの株式が取引されていた。そこで取引されていたのは、発行会社の従業員が保有する“内部従業員株”。ほかの地域でも、企業が保有する“法人株”や内部従業員株の取引市場が、数多く存在していた。
山東省政府は1997年8~9月ごろ、省内や他地域の取引システムを統合し、統一された“山東店頭市場”を創設することを計画したが、最終的に頓挫した。CSRCは証券行政の中央集権化と取引所の集約化を進めるため、地方政府が管理する店頭市場を閉鎖する方針だった。
その第一弾として、1998年3~4月に国務院は店頭株式の出口戦略を示す内部文書を発送。上海市と深圳市の証券取引所に上場する企業に、良質な店頭株式を買収させる構想を明らかにした。その効果もあり、山東省内の各店頭市場は活況を呈した。また、各地の店頭株式が証券取引所の上場株式に昇格するという見方が流布。店頭市場の取引は一段と活発化した。
中央政府でも証券行政の集約化が進んだ。1998年4月にCSRCと国務院証券委が合併。証券行政がCSRCの下で一元化された。
“瓊民源”事件と特別処理制度
CSRCは1998年3月16日、財務状況が異常な上場企業の株式について、特別処理を実施するよう証券取引所に指示した。これは銘柄の略称にST(Special Treatment)という文字を明記し、投資家にリスクに注意するよう喚起する制度。特別処理が実施されるST銘柄の制限値幅は、通常の半分に縮小された。通常銘柄の制限値幅は前日終値の上下10%だが、ST銘柄では上下5%となる。
こうした特別処理制度が導入された背景には、上場企業による不正があった。
1993年4月30日に上場した海南民源現代農業発展は、“瓊民源”という略称で取引されていた。“瓊”(けい)とは海南省の略称。海南省の地理的母体である海南島が、古代より瓊州島と呼ばれていたことに由来する。
この瓊民源は上場すると、すぐに経営不振に陥り、株式の売買も低迷した。上場初日の終値は25.8元だったが、1995年末の終値は2.21元だった。
瓊民源の1995年12月本決算によると、売上高は前年比85.8%減の363万7,800元、純利益は99.48%減の37万5,704元。純利益を期中平均の発行済み株式総数で割ったEPS(1株あたり純利益)は、わずか0.0009元であり、人民元の最低補助単位である分(0.01元)にも満たないレベルだった。
瓊民源の株価は、1996年2月には2元割れ寸前まで落ちこんでいたが、折からの好相場を背景に、回復基調に入った。大幅減益の1995年12月本決算を発表した1996年4月30日には、終値を3.65元にまで戻していた。株価はその後も上昇を続け、1996年末の終値は17.95元。年間上昇率は712.2%に達した。
瓊民源の業績も一変した。1996年12月本決算は売上高が前年比361.3%増の1,677万9,885元、税引き前利益が8万4,841.3%増の5億7,093万1,352元、純利益が12万9,068.3%増の4億8,529万1,650元、EPSが962.33%増の0.867元だった。この決算を発表した日は異常に早く、1996年が明けたばかりの1997年1月22日だった。
同時に発表した株主還元策も魅力的な内容だった。株主の保有株10株につき9.8株を交付する株式分割を実施するからだ。これが実行されると、発行済み株式総数と各株主の保有株数が1.98倍に増え、株価は1.98で割った金額まで切り下げられる。
つまり、株主の保有株数は約2倍に増える一方、株価はほぼ半値に切り下がる。ただし、株価を保有株数で乗じた時価総額は変わらない。これが実施されると、株価が半値になり、新たな買いが入りやすくなることから、既存の株主にとっては、保有株の時価総額の増加が見込めることになる。しかも、株数が約2倍になっているので、株価が1元上昇した際の含み益も、以前の約2倍となるというメリットがある。
この好決算と株主還元策を好感し、1997年1月22日の終値は24.31元を付けた。“ゴミ株”と呼ばれた瓊民源だったが、株式市場の“ダークホース”(穴馬)として注目された。
瓊民源の株主総会(1997年2月28日) 株主還元策などを採択する瓊民源の定時株主総会は、1997年2月28日に開かれた。だが、この席で董事会(取締役会)が一斉に辞職。この日を最後に瓊民源の株式は売買停止となり、取締役がいないことから、取引再開の目途も立たない状況に陥った。2月28日の終値は23.5元だった。
瓊民源の株主は、1996年末で法人を含め4万9,968人。その後に瓊民源の株式を購入した投資家もいることから、定時株主総会の当日時点で、株主数はさらに膨らんでいたとみられる。一説には10万人を超えていたという。彼らは突然の悪夢に襲われた。
この事件を受けてCSRCが調査した結果、1996年12月本決算に明記した約5億7,100万元の税引き前利益のうち、約5億6,600万元が虚偽だった。実際には存在しない不動産販売の契約書を偽造し、利益を水増ししていた。
瓊民源の筆頭株主と経営陣は、業績が好調と見せかけ、株価が上昇したところで、保有株を売却していた。決算に対する監査も“ザル”であり、会計事務所の責任も問われることになった。
1998年11月に開かれた裁判で、瓊民源の董事長(会長)だった馬玉和に懲役3年の実刑判決が言い渡された。会計事務所の責任者は懲役2年。こうしたなか、株主救済に向けた作業が進められ、最終的に瓊民源の株主は、保有株を新規上場株式と交換することになった。この株式交換で瓊民源の株主が入手したのは、1999年7月12日に上場した北京中関村科技発展だった。
リスク注意を喚起する特別処理制度は、“瓊民源”事件のような上場企業の不正から投資家を守ることが目的だった。特別処理制度の導入から約1カ月後の1998年4月22日、深圳証券取引所に上場する瀋陽物資開発が、初めてのST銘柄に指定された。理由は2年連続の赤字計上だった。
三大教父の最後
君安証券の張国慶
“三大教父”の最後の一人
申銀証券の闞治東、万国証券の管金生と並んで、“中国株式市場の三大教父”の一人に数えられた人物が、君安証券の総裁だった張国慶だ。「証券法」が存在してなかった1990年代の前半、“三大教父”は株式市場の“ゲームメーカー”であり、相場操縦などやりたい放題だった。
管金生は“327国債先物事件”で失脚し、闞治東も相場操縦の罪で解任され、1998年時点で証券業界に残っているのは張国慶だけだった。
君安証券は深圳市場を牛耳る証券会社であり、その背後には中国人民解放軍(解放軍)があった。解放軍の広州軍区司令部情報処に属する深圳市合能房地産開発(合能房地産)という不動産会社が、君安証券の筆頭株主だった。“君”と“軍”は中国語で同じ発音であり、“君安”とは“軍の安泰”を意味していた。
張国慶は元軍人であり、退役後は中国人民銀行の深圳支店で証券管理の仕事に就いていた。1992年8月に君安証券の総裁に就任。君安証券の資本金は5,000万元であり、同時期に誕生した上海市の国泰証券の9億1,800万元などに比べると、かなり小さい会社だったが、張国慶のリーダーシップの下で、深圳最大の証券会社に成長した。1997年末までに君安証券の総資産は中国最大となった。
自信をつけた張国慶は、君安証券の“完全支配”を目論んだ。1997年のことだった。しかし、辞職した職員の告発で、その計画は1998年に当局の知るところとなった。さらに君安証券の財務部門は、10億元に上る会社の資金が行方不明になっていることを発見。当局が調査に乗り出した。
1998年9月に明らかとなった調査結果によると、張国慶は約12億3,000万元に上る君安証券の簿外所得を海外にある自己の会社に移転していた。そのうち約5億2,000万元を密かに1997年に実施された君安証券の増資に使い、株式の77%を実質保有した。
この増資で筆頭株主になったのは、一見すると君安証券の従業員持ち株会であり、経営陣や従業員が自社を買収するマネジメント・バイアウト(MBO)だった。しかし、従業員持ち株会の株主は、張国慶と君安証券の楊駿・総経理の支配会社だった。当初の筆頭株主だった合能房地産の持ち株比率は7.7%に希薄化。こうして張国慶と楊駿は、従業員持ち株会を通じ、君安証券の完全支配に成功した。
張国慶は国有財産の私物化、仮装出資、資本逃避などの罪で、2年間の懲役刑が言い渡された。こうして“三大教父”の最後の一人も証券業界を去った。
ガバナンスの確立へ
中国本土の株式市場は改革開放政策とともに誕生し、その合法性も定まらないまま、燎原の火のごとく全土に広がった。株式市場の拡大を牽引したのは、“上海金融界の三大猛者”や“中国株式市場の三大教父”などの個性的な面々だった。
新株の購入をめぐる1992年8月の“810事件”
深圳市に百万人以上が殺到
深圳市政府の腐敗が原因で死傷者を出す大暴動に発展
しかし、一部の人物や地方政府に依存した野放図のごとき成長は、1992年の“8.10事件”や1995年の“327国債先物事件”など問題を引き起こした。この連載の第六十四回で紹介したように、1997~1998年はアジア通貨危機をきっかけに、広東国際信託投資公司(GITIC=ジティック)など地方政府の窓口会社で債務問題が頻発。その背景にはガバナンス(統治、支配、管理)の欠如があった。
改革開放後の中国本土で“株券”という名称の証券が発行されたのは、1980年1月の“紅磚股票”(赤レンガ株券)が初めてだった。“世界一小さな取引所”と呼ばれた上海市の“静安証券営業部”が開業したのは1986年9月。上海市と深圳市に証券取引所が開業したのは1990年12月だった。
上海市の“静安証券営業部”
当時は“世界一小さな取引所”と呼ばれた。
しかし、その間も中国本土には「証券法」が存在しなかった。最高行政機関の国務院などが行政立法権を行使して“法規命令”や“行政規則”を制定していたが、最高立法機関の全国人民代表大会(全人代)で可決された証券関連の“法律”はなかった。
つまり、赤レンガ株券の誕生から二十年近くにわたり、中国本土では法律がないまま、株式市場が発展してきたことになる。
もちろん、こうした問題を中国政府も認識していた。証券市場の発展と拡大に比べ、法律制定の遅れが深刻化していることから、1990年代の初めにはさまざまな弊害が現れていたからだ。そこで、全人代の財政経済委員会(財経委員会)は、1992年8月に「証券法」の起草チームを設置。中国本土や香港の証券市場を視察し、各方面の意見を取り入れ、「証券法」の草案を作り上げた。
“難産”だった「証券法」
柳随年
1993年の財経委員会主任
「証券法」の草案は、1993年8月18日に開かれた財経委員会の会議で承認され、8月25日の常務委員会の審議に回された。常務委員会の会議で「証券法」の草案を説明した財経委員会の柳随年・主任は、当時の管理体制の問題を以下のように指摘した。
証券行政をめぐっては、1992年10月に発足した国務院証券委が主管部門であり、その監督管理機関としてCSRCが設けられている。このほかに中国人民銀行、国家経済体制改革委員会、国家計画委員会、地方政府も一定の権限を有している。
国務院証券委は名目上の主管部門だが、国務院の正式な部や委員会(日本の省庁に相当)ではないため、各方面の調整機関としての役割しか果たせない。そのため、国務院証券委の実働機関であるCSRCは、監督管理の権限を十分に発揮できない。組織的な位置づけから、さまざまな障害に直面するうえ、その権限行使が現行法に合致するとも言い切れないからだ。
「憲法」に基づけば、国務院の各部と各委員会は、その管轄範囲内で行政立法権を行使し、法規命令や行政規則を定めることが可能だ。しかし、正式な部や委員会ではない組織による行政立法権の行使を「憲法」は認めていない。
1993年7月15日の青島ビール香港上場祝賀会
「証券法」の草案が未確定の段階で、本土企業が海外上場
現実の動きに法整備が追い付かなかった。
さらに言えば、国務院証券委とCSRCの並存は、権限や職責を不明確にしているうえ、国務院の各部や各委員会のほか、地方政府も証券市場の一部を管理している。こうした現状にあることから、統一的で効果的な証券市場の監督管理を果たせない。
それゆえ、「証券法」の草案では、国務院に“国家証券管理委員会”を設け、証券市場の監督管理を一元化するよう規定。中国の国情に基づき、国家証券管理委員会の出先機関を地方に設け、中央と地方の連携を図ることを目指す。
以上が当時の証券行政の問題点だが、「証券法」の草案は1993年8月に全人代の常務委員会で審議されたものの、一向に採択されなかった。その間も証券市場は目まぐるしいスピードで発展し、草案の内容はたちまち時代遅れになってしまい、スピーディーな行政立法権の行使で対処するほかなかった。
だが、アジア通貨危機を機に金融をめぐる諸問題が一段と鮮明になり、ガバナンスの確立は“待ったなし”の状況となった。1998年4月に国務院証券委とCSRCが合併されたのは、「証券法」の採択に向けた前触れだった。
「証券法」採決の様子(1998年12月29日) 1998年12月29日に開かれた全人代常務委員会の会議で、ついに「証券法」が可決。1999年7月1日に施行されることが決まった。最初の審議から5年以上を要した“難産”だった。このニュースを新華社は“証券市場の健全な発展にとって重大な措置”と伝えた。
証券市場の整理
証券行政の一元化に向け、各地に乱立していた店頭市場や取引システムの整理が始まった。1998年11月25日にCSRCは内部従業員株の発行を一律に停止すると通知。各地の店頭市場や取引システムは、内部従業員株や法人株の売買が過熱していたが、それが沈静化した。内部従業員株や法人株が証券取引所の上場株式に昇格するという思惑が、取引過熱の背景にあったのだが、それは完全に外れた。
1999年2月には法人株が取り引きされているSTAQシステムやNETシステムを閉鎖する方針も明らかとなった。これらの取引システムについては、この連載の第二十三回で詳しく紹介している。
STAQシステムを視察する政府要人
(1992年3月)
1997年5月に始まった株式市場の過熱抑制と秩序確立に向けた各種政策を受け、株式相場は調整が続いた。1997年5月12日に終値で1,500.40ポイントを付けた上海総合指数だが、1998年末には1,140.36ポイントとなり、この間の下落率は24.0%に達した。1999年に入ってからも、株式市場に対する中央政府の各種施策を受け、相場は低迷が続いた。
中国大使館誤爆事件
株式相場の低迷が続くなか、NATO(北大西洋条約機構)が空爆を続けていたユーゴスラビアで悲劇が起きた。1999年5月8日に米軍のステルス戦略爆撃機が精密誘導爆弾で駐ユーゴスラビア中国大使館を攻撃。30人近くの死傷者を出した。
爆撃された駐ユーゴスラビア中国大使館
中国全土で反米ナショナリズムが高揚した。
駐ユーゴスラビア中国大使館の爆撃をめぐっては、米国の謀略説もあったが、攻撃を誘導したCIA(米国中央情報局)の職員が、古い地図を使ったことで起きた誤爆だったようだ。
余談だが、このCIA職員は2009年3月に他殺体で見つかった。この殺人事件を中国メディアは“CIAによる口封じ”と報道。謀略説は10年間も健在だった。しかし、真相は集団強盗殺人事件だったようで、逮捕された犯人グループは有罪判決を受けている。
この誤爆事件が起きた当時、筆者は上海市の復旦大学に留学中だった。ちなみに、そのころの中国では“還珠格格”(邦題:還珠姫〜プリンセスのつくりかた〜)というテレビドラマが爆発的な人気だった。
これは清王朝の乾隆年間を舞台とした宮廷ドラマで、タイトルの“格格”とは満州語でプリンセスの意味。1998年4月に台湾で最初の放送が始まり、平均視聴率は12.1%と好調だった。さらに中国本土での放送が始まると、平均視聴率は45%に達し、最高で58%を記録した。
中華圏で爆発的人気だった「還珠格格」のヒロイン
左から林心如、趙薇、范冰冰
“還珠格格”は東南アジアの中華圏でも大人気となり、主演女優の趙薇(ヴィッキー・チャオ)は、この作品で一気にスターダムにのし上がった。この作品はトリプル・ヒロインで、メイン・ヒロインの趙薇のほか、セカンド・ヒロインの林心如(ルビー・リン)、サード・ヒロインの范冰冰(ファン・ビンビン)も一躍有名になったことで知られる。
筆者の同級生だったT君も“還珠格格”にかなりハマっており、留学生寮の共用テレビの前で放送が始まるのを待っていた。しかし、予告なく“中国人民志願軍戦歌”が流れ始め、楽しみにしていた“還珠格格”は突然中止になったという。
“還珠格格”の代わりに放送された“中国人民志願軍戦歌”は、朝鮮戦争の時に作られた歌。その歌詞には「打敗美帝野心狼」(米帝国主義の野心的な狼を打ち負かそう)という一節がある。これを見たT君は、すぐに米中関係に何かあったと察した。
中朝国境の鴨緑江を渡る中国人民志願軍
(1950年10月19日)
中国人民志願軍戦歌の歌詞に採用された有名な光景
この事件を受け、中国各地の大学は反米感情に包まれた。主要都市の米国大使館や米国領事館では、投石などの破壊的な抗議活動が繰り広げられ、それを海外のメディアも大きく報道。街中の米国系ファストフード店なども、店舗が壊されるなどの被害を受けた。各地の大学では、大規模な抗議活動が挙行され、1989年の天安門事件以来の学生運動に発展した。
広東省広州市で起きた反米デモ行進
地元紙「羊城晩報」の号外を手にする抗議者
(1999年5月)
他の留学生に聞いた話だが、復旦大学でも義憤に駆られた学生たちが盛り上がり、米国領事館に抗議するになった。それを聞きつけた大学当局は、彼らの愛国心を称賛したうえで、「大学のバスで米国領事館まで送迎する」と提案した。
これに喜んだ学生たちは、バスに乗り込んだが、米国領事館には向かわず、深夜になるまで大学の敷地を何時間も周回し続けた。バスに閉じ込められた学生たちはしだいに頭を冷やし、当局の意図を感じ取り、抗議活動には行かなかったという。
米国領事館を見学した留学生によると、群衆は最初の方こそ米国に対する抗議の声をあげていたが、しだいに“失業問題を何とかしろ!”、“株価をどうにかしろ!”など中国政府への不満を叫びながら、米国領事館に投石するようになった。
怒りの形相で米国大使館に物を投げ込む学生 “これはまずい!”と思った警察は、米国領事館に抗議したい人々を並ばせ、順番に物を投げるよう指示した。警察が“ピッ”と笛を吹くと、人々が米国領事館の前に並び、一斉に物を投げる。それが終わると、次の人たちの番となり、抗議が終わった者は現場にとどまらないよう指示されたそうだ。
武装警察は腕を組んで“人間の壁”を構築
群衆を刺激せずに、最低限の秩序維持を粛々と実行
米国領事館への投石を強硬に取り締まれば、群衆が暴発し、警察や政府に怒りの矛先が向かう危険性もあった。警察は投石を黙認しながらも、群衆が一線を越えないよう米国領事館にも配慮しつつ、暴徒化を抑えるのに必死だった。
ウィリアム・ジェファーソン・クリントン大統領は5月10日に公の場で中国政府への謝罪を表明したが、江沢民・国家主席は何の反応も示さなかった。中国のメディアも米国の謝罪を放送しなかった。この日は米中関係悪化への不安感が広がり。上海総合指数は前日比4.4%安で終了した。
クリントン大統領からの謝罪電話を江沢民・国家主席が受け容れたのは5月14日になってから。これを機に大統領の謝罪がテレビでも映し出され、抗議活動は沈静化に向かった。一連の出来事をめぐり、米国政府は中国政府と事件の被害者や遺族に賠償。賠償金は被害者や遺族に450万米ドル、中国政府に2,800万米ドルだった。
一方、米国大使館や総領事館が受けた被害に対し、中国政府は300万米ドル近くを米国政府に支払ったという。
紅客に乗っ取られた米国のウェブサイト
2001年4月1日に起きた海南島事件への抗議
米中の軍用機が空中衝突し、王偉・少佐が行方不明に
この誤爆事件で中国に巻き起こった反米ナショナリズムは根強く残り、広まり始めたばかりのインターネットでは、“紅客”と呼ばれる中国人ハッカー集団が出現した。“ハッカー”のことを中国語で“黒客”(ヘイクー)というのだが、“紅客”とは共産主義や中国のシンボルカラーである赤色のハッカーという意味。この事件はナショナリズムを煽る紅客が誕生するきっかけとなった。
不穏な空気
駐ユーゴスラビア中国大使館の誤爆事件の少し前、首都の北京市では不穏な空気が広がっていた。1999年4月25日に法輪功と呼ばれる気功の学習者1万人あまりが、共産党と中央政府の中枢である“中南海”を包囲。この事件を海外メディアは大きく伝えた。
この“中南海包囲事件”のきっかけは、3日前の4月22日に天津市で起きた事件。天津師範大学の雑誌に法輪功を批判する記事が掲載され、その撤回を求めて約5,000人が抗議活動を展開。警察が出動し、うち45人を逮捕した。その逮捕者の釈放を求める抗議活動が、4月25日の“中南海包囲事件”だった。
中南海を包囲した法輪功の学習者たち
(1999年4月25日)
法輪功の取り締まりが始まったのは1999年7月20日。それまでの3カ月近くにわたり、中国の首都は不穏な空気に包まれていた。駐ユーゴスラビア中国大使館の誤爆事件は、そうした最中で起きた悲劇だった。
1999年10月1日に建国50周年を控えていた中国本土だが、株式市場は2年以上にわたる監督管理体制の変革を受け、“ぼんやりとした不安”に包まれており、明るい材料が必要だった。
519相場の始まり
1999年5月19日の株式市場はネット関連株を中心に幅広い銘柄が買われ、上海総合指数は前日比4.6%高の1,109.09ポイントで終了。これが後に“五一九行情”(519相場)と呼ばれる大相場の始まりだった。
この突然の株価上昇について、ほとんどの人は理由が分からなかったが、当時の証券当局者によると、実は中国政府の内部文書が流出し、それをロイター社が報道したことが原因だったらしい。その内容は中国政府が資本市場の発展を支持しているというもので、これで投資家心理が好転したという。
上海総合指数は5月19日から5月24日まで大幅に4日続伸。この間の上昇率は14.5%に達した。その後は高値警戒感から売られる場面もあったが、上昇基調が持続。6月4日から6月14日まで7日続伸し、投資家は沸きに沸いた
このうち6月14日は“株式相場の上昇は回復的なものだ”というCSRC関係者の発言が材料視され、上海総合指数は前日比4.2%高の1,427.71ポイントで終了。約1年ぶりに終値で1,400ポイント台を回復した。
大相場到来の宣言
株価の上昇が続くなか、1999年6月15日付「人民日報」の一面に、「堅定信心、規範発展」(確固たる自信、秩序ある発展)という社説が掲載された。株式市場をテーマとする「人民日報」の社説は、1996年12月16日付の「正確認識当前股票市場」(目下の株式市場を正確に認識しよう)を発表して以来であり、これで2回目だった。
この社説では、足元の株価上昇について、短期的な反発ではなく、長期的な発展の始まりであると分析。中国経済の実情とマーケットの動きから、投機ではなく、“正常”な回復的株価上昇であると強調した。
それによると、過去の投機的な過熱相場と異なり、足元ではハイテク株や好業績株などに資金が流入。一方でST銘柄の株価は伸び悩んでおり、投資家の動きは“理性的”。どんな銘柄でも買われた過去の投機的な相場とは、明確な違いがあるという。
また、この社説は証券市場が国家にとって重要な存在であることを強調し、政治リスクがないことを示すことで、投資家に安心感を与えた。
それによると、社会主義市場経済システムにおいて、すでに証券市場は必要不可欠かつ重要な構成要素であることが、これまでの実践によって証明された。その根拠として、国有企業改革において、証券市場が果たした役割を列記。国有企業の資金調達チャネルが拡充され、財務状況が改善されたほか、株式会社化による経営メカニズムの転換やコーポレートガバナンス(企業統治)の確立を実現したと強調。社会資源の配分を効率化し、経済構造の変革をもたらしたと称賛した。
そのうえで1996年以来の監督管理強化の成果に言及。証券市場が長期的かつ安定的に発展する基礎が整い、大幅に健全化されたと強調した。
この社説は上記のように論じたうえで、最後に“証券市場の良好な局面はめったに来ない。この機会をいっそう大切にすべき”、“めったにない発展のチャンスが中国の証券市場に到来している”などの言葉で、投資家を大いに煽った。
1999年6月15日付「人民日報」 株式市場をテーマとした2回目の「人民日報」の社説は、1回目とは真逆の内容だった。1回目は共産党と中央政府による監督管理が本格化することへの宣言であり、株式市場の“冬の時代”を予告した。一方、2回目は大相場到来の宣言であり、投資家に株式投資を推奨。例えれば“冬の終わりと春の到来”の告知だった。
この社説が発表された6月15日の上海総合指数は、7日続伸の反動から売られ、前日比2.8%安で終了。しかし、6月16日は前日比5.2%高と、大幅に反発。6月17日も前日比2.8%高の続伸となり、終値は1,501.01ポイントに到達。終値が1,500ポイント台をつけたのは、過熱抑制策が始まる直前の1997年5月12日以来だった。
この519相場は上海総合指数が2,200ポイント台に乗る2001年6月まで持続した。株式市場の“冬の時代”は約2年という長さだった。一方、519相場という“春”も同じく約2年続き、中国本土の株式市場は大相場のまま21世紀を迎えた。
中国株の底流
この連載の第九回で紹介した“楊百万”こと、楊懐定さんが2021年6月13日に亡くなった。星の数ほどいる中国本土の個人投資家のなかで、その名を初めて中国全土に鳴り響かせたのが“楊百万”だった。ちなみに、中国本土の個人投資家は、2022年3月末に2億人を突破した。
“楊百万”のサクセスストーリーと投資理念は、多くの個人投資家に影響を与えた。楊さんによると、中国の株式市場とは、言ってしまえば“政府主導の政策マーケット”。「中国株に投資するには、必ず党と政府の話を聞き、党と政府とともに歩む必要がある」という。
「人民日報」の社説で裏付けられた519相場を受け、無数の個人投資家たちが動き出した。彼らの相場観は楊さんと同じだ。中国本土の株式市場は、その底流に日本や欧米にはない社会主義国ならではのメカニズムが存在する。
山東省煙台市のスタジアムで講演する楊懐定さん
観客席は個人投資家で満席に
(2007年8月)
株式市場の草創期に活躍した“上海金融界の三大猛者”や“中国株式市場の三大教父”は、21世紀を迎える前に証券業界から姿を消した。
しかし、個人投資家の代表格である楊さんは、21世紀に入ってからも活躍し、その投資活動は生涯現役に近かったという。中国本土の株式市場では、その底流で蠢動する個人投資家たちこそ、真の主役であり、隠れた強者であり、最大のマーケットメーカーなのだ。