香港は個人投資家が多い。どれくらい多いかというと、2006年に中国銀行が上場した際は、新株の申込者が100万人近くに上った。当時の香港の人口が686万人だったことを考えると、実に7人に1人がIPO(新規公開)に応募したことになる。2014年の調査では成人の3人に1人が個人投資家だった。
株式相場を見守る香港の人々(2016年) 株式投資は香港市民の生活に染み付いており、株式相場が大きく動けば、香港社会も揺れる。こうした社会の在り様は、1969~1973年に生まれた。それは香港中が株式相場に翻弄される“大時代”の到来だった。
四会時代の到来と香港会の没落
遠東証券交易所(遠東会)が1969年12月17日に開業し、香港証券交易所(香港会)による証券取引所の独占が打ち破られた。1971年3月15日には金銀証券交易所(金銀会)、1972年1月5日には九龍証券交易所(九龍会)が、それぞれ開業。こうして香港の証券取引所は4つとなり、いわゆる“四会時代”を迎えた。
当時の第二十四代香港総督
デビッド・クライブ・クロスビー・トレンチ
香港島の消防隊を視察した際の写真(1964年)
西洋人や中国人エリートが牛耳っていた香港会は、独占が崩れた後も、しばらくは高圧的・排他的な体質が残っていた。香港会に持ち込まれた株券に、他の取引所での売買履歴があれば、その取り扱いを拒絶した。また、会員証券会社に対しても、他の取引所に入会しないように呼びかけ、違反者を処罰した。
香港会は既存顧客が多く、このような対応を取れば、他の取引所は自然消滅すると考えていた。だが、こうした方針は香港会の自滅を招くだけであり、やがて高圧的・排他的な体質を見直したが、すでに手遅れだった。
一方の遠東会は香港会の旧弊を次々と打ち破り、香港株式市場を再構築した。上場基準の緩和、中国語(広東語)の採用、女性会員の入会、株式投資の大衆化、香港株式市場の国際化など、今日に至るまで続く基礎を作った。これにより遠東会の売買代金は香港会を超え、香港最大の証券取引所に成長。香港会の商いは、やがて金銀会にも追い抜かれ、規模で香港3位に甘んじることになった。
株価指数の公表
ハンセン指数の父として知られる関士光さん
ハンセン銀行のリサーチ部門で作成を担当
2012年に86歳で亡くなった
ハンセン銀行(恒生銀行)の内部資料として使われていたハンセン指数も、1969年11月24日から正式に公表されるようになった。ハンセン指数は1964年7月31日を基準日とし、この日の構成銘柄30銘柄の時価総額を100ポイントとした時価総額加重平均型の株価指数。後にハンセン銀行の創設日の1933年3月3日にちなみ、構成銘柄を33とした。
なお、遠東会は1971年4月1日を1,000ポイントとする遠東指数(Far East Index)を自ら編成。金銀会も1973年1月2日を100ポイントとする金銀指数(Kam Ngan Index)を発表した。
ただ、1986年4月に4つの取引所が統合され、四会時代が終焉を迎えたことから、これらの指数も消滅。ハンセン指数だけは取引所が作成したものではなく、ハンセン銀行の手によるものだったことから、今日も香港を代表する株価指数として生き残っている。
1970年の香港株式市場
1968年後半からの株価回復は、遠東会の誕生後も続いた。1969年末は155.47ポイントだったハンセン指数は、1970年3月10日までに24%値上がりし、終値で193.39ポイントを付けた。その後は利食い売りに押されたうえ、米軍のカンボジア侵攻が始まると、ハンセン指数は5月26日に終値で162.64ポイントまで売られた。3月30日から16%の値下がりだった。
だが、6月に入ると、再び株式市場が過熱。8月の中旬から下旬にかけて、ハンセン指数は200ポイント台で推移した。その後は11月中旬まで売られたが、再び買いが優勢となり、1970年は211.64ポイントで終了。年間上昇率は36%に達した。
香港会と遠東会の合計売買代金は59億8,864万香港ドルに上り、前年比で135.2%増加。このうち48.9%が誕生したばかりの遠東会での売買だった。
1971年の香港株式市場
1971年に入ると、利食い売りが優勢となり、株式市場は総じて低調な展開となった。一部の証券会社は過度な投機により、多額の債務を抱えた。こうしたなか3つ目の取引所となる金銀会が開業。4月ごろから株式市場は堅調さを取り戻した。
7月2日にハンセン指数は終値で300ポイントの大台を突破。9月20日には終値で406.32ポイントを付け、その時点で前年末比92%高に達した。400ポイントの大台を超えると、利益確定売りが広がり、ハンセン指数は11月にかけて大きく下げ、同月末には300ポイントを割り込んだ。
12月に入って反発し、1971年は341.36ポイントで終了。年間上昇率は61%に達した。香港会、遠東会、金銀会の合計売買代金は147億9,339万香港ドルに上り、前年比で147.0%増加。このうち遠東会が53.0%を占め、香港最大の証券取引所となった。この年に開業した金銀会の売買代金は全体の15.0%であり、香港会の半分弱だった。
1972年の香港株式市場
1972年は1月5日に4つ目の取引所となる九龍会が開業。2月21日には米国のニクソン大統領が北京を訪問。2月28日の米中共同コミュニケ(上海コミュニケ)で、米中関係が対立から和解へと転換し、香港を取り巻く環境も好転した。
ハンセン指数は5月5日に終値を400ポイントに乗せた。だが、6月23日に英国の通貨であるポンドが、変動相場制に移行。その当時の香港ドルはポンドとの固定相場制を採用していたことから、香港の金融市場が混乱。九龍会も一時休場に追い込まれた。
香港政庁は7月6日にポンドとの固定相場制を解消すると発表。ペッグ先を米ドルに変更し、短期間内に香港金融市場の混乱を収拾した。これを受け、ハンセン指数は上昇トレンドに回帰した。
その後も最高値更新が続き、1972年は843.40ポイントで終了。年間上昇率は147%を記録した。四会の合計売買代金は437億5,762万香港ドルに達し、前年比で195.8%増加。遠東会の売買代金は全体の41.4%を占め、香港会と金銀会の合計に匹敵した。
好材料続出の1972年
上場を祝う李嘉誠(右)と夫人の荘月明(中央)
上場時の時価総額は、
わずか1.26億香港ドルだった
1972年の香港株式市場は、好材料が相次いだ。6月20日にはハンセン銀行が上場。戦後初の銀行の上場だった。1億香港ドルを調達するため、1株あたり100香港ドルで新株100万株の購入を募集したが、これに応募するために振り込まれた資金は、28億香港ドルに達した。ちなみに28億香港ドルという金額は、1971年度の香港政庁の歳入の9割弱に匹敵する。それほどの人気ぶりだった。
11月1日には李嘉誠が率いる長江実業が香港会、遠東会、金銀会に上場。このほかにも新鴻基地産や新世界発展など、今日の香港財閥企業の多くが1972年に上場した。
香港史上最大の買収合戦
デイリー・ファームの経営者だった周錫年
香港政財界で活躍した有力者だった
10月30日には乳業大手のデイリー・ファームをめぐる買収合戦が勃発した。デイリー・ファームは香港島南部で牧場を経営していたほか、香港島北部や九龍半島東部に製氷工場を保有していた。この広大な土地資産に、ジャーディン・マセソン傘下の香港置地(ホンコン・ランド)が目を付けた。
香港置地はデイリー・ファームの経営トップだった周錫年に、買収の話を持ち掛けたが、拒否された。そこで香港置地は敵対的買収を仕掛けた。10月30日の新聞に広告を掲載し、デイリー・ファームの株式1株を香港置地の株式2株と交換するよう呼びかけた。株式交換の期限は、11月29日に設定された。
10月27日の終値に基づくと、香港置地の株価は94香港ドルで、2株だと188香港ドル。これに対してデイリー・ファームの株価は135香港ドルだった。つまり、デイリー・ファームの株主にとっては、135香港ドルの保有を手放す代わりに、合計188香港ドルの香港置地の株式をもらえるわけであり、非常にオイシイ話だった。
この情報を受け、10月30日はデイリー・ファームの株式が188香港ドルで寄り付いた。これは交換対象である香港置地の株式2株と同価格。その後もデイリー・ファームの株式は買われ、この日の終値は196香港ドル。10月27日の終値に比べ45.2%高となった。
一方の香港置地の株式も10月30日は値上がりし、104香港ドルで取引を終了。香港置地の株式2株の価値は208香港ドルであり、デイリー・ファームの株価196香港ドルを引き続き上回った。
デイリー・ファームの新聞広告
自社株の1株あたり資産は80香港ドルとアピール
香港置地の2株(28+28=56香港ドル)よりも
高いと強調
これを機に香港置地とデイリー・ファームは、できるだけ多くの株主や投資家を味方につけるため、配当金の増額計画や株式分割の発表を繰り返し、それに応じて両社の株価も値上がりを続けた。さらに両社は世論を味方につけようと、新聞広告欄を舞台に舌戦を交わした。この買収合戦は香港中の注目を集め、数多くの話題を提供した。
デイリー・ファームは必死の抵抗を続けたが、英国資本の大企業である香港置地には到底かなわなかった。11月28日に香港置地はデイリー・ファームの株式51%を掌握したと発表。11月30日にはデイリー・ファームの株式80%を取得したことを明らかにした。
こうして史上最大の買収合戦は、香港置地の完勝に終わった。この激しい買収合戦で、両社の株式は急騰。相場はさらに過熱し、多くの個人投資家が“濡れ手に粟”の株式投資に酔い痴れた。なお、周錫年はデイリー・ファームの経営トップを退き、その後は寂しい晩年を過ごすことになった。
浮かれる投資家と香港政庁の危機感
第二十五代香港総督のマクレホース
任期は歴代最長
市民に親しく、人気が高かった
自由経済を重視する積極不介入主義を推進
マクレホース時代に香港は飛躍的に発展した
1972年の株式市場の活況は、1973年にも引き継がれた。最初の取引日(大発会)は前日比3.1%高で終了し、好スタートを切った。香港では遠東会の貢献で株式投資の大衆化が始まったばかりであり、生まれたばかりの個人投資家は、大いに浮かれた。多くの香港市民が、本業をそっちのけで、株式売買に狂奔。こうした香港社会の状況に、香港政庁は危機感を募らせていた。
第二十五代香港総督のクロフォード・マレー・マクレホースは、新年早々の1月11日に過度な投機を控えるよう香港市民に呼び掛けた。しかし、株式投資に熱中する人々の耳に、この忠告は届かなかった。
そうした状況だったことから、銀行監督当局も動いた。株式を担保とする融資を控えるよう銀行に呼び掛け、投機的な資金の動きを根元から断つことにした。
消防署の出動
株式市場はひどい過熱状態にあった。そこで香港政庁は株式市場の火を消すため、文字通り消防署を動かすという奇想天外な手段に打って出た。遠東会と九龍会に対し、1月11日に火災予防の警告書を出し、建物内への立入人数を削減するよう命じた。また、香港会と金銀会についても、消防幹部が視察することも明らかにした。
遠東証券交易所の正門 確かに遠東会の取引所があるチャイナ・ビルディング(華人行)は、旧式の建物であり、消火設備は不十分だった。香港政庁はそうした不備を口実に、取引所の立入人数を削減することで、株式市場を沈静化させようとしたわけだ。
実際に消防署から人員が派遣され、取引所への入場が厳しく制限された。自由主義経済を信奉する香港政庁は、株式市場に直接介入しない。それゆえ、こうした苦肉の策を取るほかなかった。
この消防署の出動は効果てきめんだった。1月12日はハンセン指数が前日比で7.2%も下落。この急落を受け、各方面から批判の声があがった。まず怒ったのが遠東会の李福兆・主席。マクレホース総督に対し、取引所が危険なのか実際に見に来て確かめて欲しいと訴えた。また、多くの投資家が、売買を邪魔されたと不満を露わにした。
続いて、香港政庁は1月14日に公務員への通知を発表。勤務時間中に事務所の電話で売買注文を出すことや取引所に行くことを禁止した。つまり、この通知が出るまで、かなりの公務員が業務そっちのけで株式売買に没頭していたわけで、香港政庁が危機感を募らせるのも当然だった。
取引時間の短縮
また、証券監督当局は4つの取引所と折衝を重ね、1月22日から毎週月曜日、水曜日、金曜日の後場取引を中止することで合意した。午後の時間を証券事務処理に充てさせる名目だが、実際は取引時間の短縮で投機熱を冷ますのが狙いだった。
遠東会の売買立会場 このように香港政庁はさまざまな策を講じたが、株式市場の過熱感はなかなか収まらなかった。多くの市民は香港の前途洋々を信じており、株式投資にも過剰なまでの自信を持っていた。海外からも多額の資金が香港に流入しており、少し株価が下落しても、すぐに反発した。
1月29日には米国のニクソン大統領が「ベトナム戦争の終結」を宣言。香港株式市場をめぐる環境は、引き続き良好だった。
縁起の良い旧正月
1973年の旧正月(春節)は2月3日。この年はちょうどウシ年だった。強気相場を英語でブル・マーケットというが、雄牛を意味する“ブル”にちなんで、中国語では「牛市」という。旧正月を迎え、これからブル・マーケットという縁起の良さが加わり、香港株式市場の投機熱は一段と高まった。
白飯のフカヒレかけ
中国語では魚翅撈飯
贅沢・浪費の代名詞
香港全体が株式投資で盛り上がり、人々は熱狂した。株式投資は主婦層も含めた香港社会の各階層に広がり、誰かに会えば、話題は株式投資しかない状態。社会の上流層も、オフィスの電話で話すのは、「買い」や「売り」といった注文ばかり。学校の教師は、こっそりとラジオの相場中継を聞きながら、うわの空で教壇に立っていた。
株式投資で面白いように儲かるため、仕事を辞める市民も出現した。ある大手銀行では1カ月で約100人が辞職し、株式投資に没頭したという。
大儲けした人は常軌を逸した浪費に走り、白飯を食べるにも贅沢なフカヒレをかけたり、おかゆを食べるにも高級なアワビを入れたりした。なかには高級な観賞魚で、魚団子を作ったり、500香港ドル札を燃やしてタバコに火をつけたりするような成金趣味も広がった。
さらに旧正月明けの2月9日には、銀行最大手の香港上海匯豊銀行(HSBC)が、株式市場に油を注いだ。1株につき3.75香港ドルの現金配当に加え、5株につき新株1株を交付すると発表。さらに既存株1株を新株10株に分割する株式分割も明らかにした。
株式分割で株価が下がると、高嶺の花だったHSBCも買いやすくなる。こうして株式売買はさらに盛り上がり、熱狂ぶりに拍車をかけた。ハンセン指数は2月9日の終値が、前日比14.4%高の1,449.91ポイントを記録。2月12日には節目の1,500ポイントを突破した。
止まらない熱狂
香港政庁は株式市場の過熱抑制に躍起となった。2月16日には新規上場を申請する会社に対し、目論見書の届け出を義務づけ、さらに記載事項を細かく指示した。この措置は3月1日から適用。上場の手間を増やすことで、投機熱を抑制する策だった。
5つめの証券取引所を目指していた亜洲証券交易所(The Asia Stock Exchange)の創設を防ぐため、「証券交易所管制条例」を施行。3月2日から香港総督の許可なく、取引所を創設することを禁じた。
さらに2月26日には、銀行協会が3月1日付で金利を引き上げると発表。預金の魅力を高めることで、株式投資に回る資金を抑えるのが狙いだった。
こうした施策にもかかわらず、投機熱は一向に収まらなかった。ハンセン指数の終値は2月27日に1,600ポイントを突破。3月2日には1,700ポイント台に乗せた。「欲しいのは、現金ではなく、株券だ!」という意識が市民に広がった。寺院の和尚や尼僧も、煩悩にまみれ、株式投資に狂奔した。
人々が株式市場に群がった結果、月間の株式売買代金は1月に94億4,900万香港ドル、2月は95億4,300万香港ドルを記録した。これら2カ月の売買代金は合計で189億9,200万香港ドルに達し、1971年の年間記録である147億9,339万香港ドルを上回った。
3月の悪夢
ハンセン指数は3月9日に前日比2.5%高となり、終値は1,774.96ポイントを付けた。だが、週明けの3月12日は3営業日ぶりに反落し、終値は2.3%安の1,734.90ポイント。ハンセン指数の上昇にも、ついに転機が訪れた。
偽造株券の発見を知らせる合和実業の公告 転機のきっかけは、当時の五大不動産会社の一つだった合和実業の偽造株券だった。3枚の偽造株券が見つかり、合和実業の株式は売買一時停止となった。手持ちの株券がニセ物かも知れないという不安が投資家の間に拡大。さらに株価の下落を狙う投資家が風説を流布し、その不安を煽った。
3月13日も下落し、終値は3.5%安の1,674.65ポイント。この2日間で約100ポイント下落し、心理的な節目の1,700ポイントを割ったことで、投資家心理が一段と悪化した。 3月15日は0.5%安の1,595.50ポイントで終了し、ついに節目の1,600ポイントを割った。
3月16日は下げが一服し、ちょっとした安心感も出たが、ここからが下げ相場の本番だった。3月20日は6.5%安の1,514.73ポイントとなり、1,600ポイントを大きく割り込んだ。3月21日は8.4%安となり、終値は1,386.82ポイント。一気に1,500ポイントと1,400ポイントという“二枚建ての節目”を割った。
悪夢はここで終わらなかった。3月26日は13.3%安の1,229.28ポイントで終了。下落率は2ケタに乗った。3月27日も下げ止まらず、終値は3.0%安の1,192.8ポイントとなり、ついに1,200ポイントの節目も割り込んだ。
その後はやや戻したものの、3月は1,301.13ポイントで終了し、月間下落率は20.0%に達した。この時点でも一部の投資家は、やがて相場は上昇基調に戻ると信じ、安くなったところで買い戻すよう勧めていた。だが、こうした楽観的な見通しは、非常に甘いものだった。
醒めない悪夢
ハンセン指数は4月に入ってからも下落基調が続いていた。こうしたなか、4月4日という何とも縁起が悪い日に、税務局が新聞各紙に広告を掲載した。その内容は「株式売買で得たキャピタルゲイン(売買差益)については、納税しなければならない」というものだった。
これで投資家は戦々恐々となり、ハンセン指数の下げが加速。4月9日の終値はついに1,000ポイントの節目を割り込み、7.7%安の924.50ポイントを付けた。大台を割り込んだことで、投資家心理はさらに悪化し、翌4月10日は11.5%安の818.39ポイントを付け、900ポイントの節目も割り込んだ。
こうした状況を受け、銀行や取引所の関係者は、香港政庁に救いの手を求めた。だが、自由主義経済を信奉する香港政庁は、株式市場に介入することはないとして、こうした声を一蹴した。
ただ、銀行や取引所が自発的な措置を打ち出すことには、香港政庁も支持を表明。株式を担保とする融資を緩めたり、株式の新規上場の数を抑制したりといった株価救済策が打ち出された。
それでもハンセン指数は下げ止まらず、4月は734.83ポイントで終了。月間下落率は3月を抜き、43.5%に達した。
止まらない悪材料
4つの取引所は株式相場を支えるため、5月7日から終日取引を復活させると発表した。さらに株式市場の先行きについて、明るい見通しの発言が、証券当局の関係者やマクレホース総督から飛び出し、徐々に落ち着きが戻ってきた。5月21日にはハンセン指数が861.54ポイントまで回復した。
しかし、株価が戻ってきたところを見計らって、再び株式を手放す動きが拡大。ハンセン指数は5月下旬から再び下落局面に入った。
1973年7月20日にはブルース・リーが死去
香港中が悲しみに包まれた
株券偽造グループ摘発を伝える当時の新聞
1973年8月10日付「華僑日報」
6月27日には株価の下落で破綻した会社が現れた。株式の委託売買を専門に手掛けていた華利来財務投資公司という会社だ。この会社は株価が下落しているなか、自社の負債を返済するため、顧客の株券を勝手に担保に入れ、資金を借り入れていた。顧客からの通報で警察が家宅捜索に乗り出したが、もぬけの殻だった。
こうした事件を恐れ、投資家心理はさらに悪化し、ハンセン指数は7月11日に494.45ポイントを付けた。
悪材料はその後も続いた。ジャーディン・マセソンやハチソンなど大企業の偽造株券が見つかり、警察が捜査に乗り出した。9日に株券偽造グループのアジトを捜索し、印刷機などを押収した。
捜査で見つかったジャーディン・マセソンの偽造株券は200枚ほどで、当時の価格で300万香港ドル相当。これを受けて証券取引所は、8月21日から48時間にわたり同銘柄の売買を一時停止すると発表した。
だが、9月に入っても、偽造株券が相次いで見つかり、摘発された株券偽造グループが氷山の一角にすぎないことが分かると、投資家心理が一段と悪化した。
株価の下落が続くなか、銀行が金利を引き上げたことも、株式相場の重荷となった。8~9月に発表された金利の引き上げは計5回に上り、預金金利は当初の1%から4%に跳ね上がった。これも満身創痍の株式市場に、追い打ちをかける格好となった。
とどめの石油危機
10月6日に第四次中東戦争が勃発すると、香港も第一次オイルショックに見舞われた。11月10日に香港政庁は石油政策委員会を設置し、対策に乗り出した。中国本土の中華人民共和国は、11月19日から英領香港への石油供給を追加すると表明。香港のエネルギー問題の緩和に一役買ったが、急騰する石油価格の問題を根本的に解決するには至らなかった。
省エネ政策を強化した香港政庁は、12月10日から灯火管制を実施。サマータイムの導入も発表した。こうした“お先真っ暗”な状況で、香港は1973年を締めくくった。
この年のハンセン指数は、433.68ポイントで終了した。年間下落率は48.6%。3月9日に付けた最高値の1,774.96ポイントからは、75.6%も下落した。株価急落を受け、ろうばい売りが広がったことで、四会の合計売買代金は前年比10.2%増の482億1,738万香港ドルを記録した。
手痛い教訓
ハンセン指数が1973年3月9日に付けた1,774.96ポイントを回復したのは、1981年6月12日。株式市場の停滞は、約8年にわたり続いた。
四会時代の到来とともに株式投資の大衆化が進み、何の知識も持たない新米投資家が急増。それとともに訪れた空前の大相場に、多くの人々が酔い痴れ、これが終わることはないと信じ込んでいた。
1973年4月30日付「星島日報」は、当時の様子のことを以下のように描いている。「新米の個人投資家は、株式投資の知識も少なく、相場に対して非常に無邪気だった。賭博のように株式投資に興じ、株式市場を“永遠に底尽きない金鉱”とみなしていた。」
投資家が浮かれていた時期に流行った「魚翅撈飯」(白飯にフカヒレ)は、当時の世相を代表する言葉だ。同時に、苦い思い出と教訓を意味する言葉として、多くの香港市民の心に、深く刻まれている。
“大時代”の到来
ドラマ「大時代」
名場面や名セリフは今でも頻繁に引用される
香港の人々は1973年の大暴落で手痛い教訓を受けたが、株式市場から離れたわけではない。その後も多くの香港市民が株式投資に関心を持ち続けた。ほとんどの日本人が毎日の天気予報をチェックするように、今日でも多くの香港市民が株式相場を気にしている。
ドラマでも投資を題材とした作品が人気を集めた。1992年に香港のTVBで放送されたドラマ「大時代」(The Greed of Man)は、株式市場を舞台に、反目し合う二つの家族の抗争を描いた傑作だ。初回放送の終盤では、視聴率が88%に達したという。何とも縁起の良い数字だ。この作品が“港劇之王”(香港ドラマの王様)と呼ばれるゆえんだ。
この「大時代」というドラマは、英国人が経営する“香江交易所”の独占が崩れ、“華人証券交易会”が創設された時期から始まる。現実の世界では、香港会の独占が崩れ、遠東会が発足した1969年に相当する。そして、ドラマでは1973年の株式大暴落で起きた事件が、長期にわたる両家の確執の原点として描かれている。
現実の世界でも、1969~1973年は多くの香港市民にとって、株式投資の原点だった。株式投資の大衆化が進み、香港社会が株式の暴騰暴落に巻き込まれる“大時代”の到来だった。