1840年にアヘン戦争が勃発すると、英軍が香港島を占領。人影もまばらな中国南部の島が、英国の支配下に入った。今日の香港は東西文明が交わり、ユニークな文化が築かれ、経済的にも繁栄しているが、開港したばかりのころは、英国人による強権的な支配とちっぽけな経済基盤しかなかった。そうした厳しい環境のなかで、欧州から持ち込まれた会社制度や株式制度が本格的に萌芽するには、四半世紀ほどの時間を要した。
クビになった英国特命全権大使
チャールズ・エリオット大佐
博爾済吉特・琦善
(ボルジギン・キシャン)
アヘン戦争最中の道光二十一年(1841年)の1月26日、英国艦隊が香港島を占領した。英国特命全権大使を兼ねる英軍総司令官のチャールズ・エリオット大佐は同年2月1日に島内で公示し、「穿鼻草約」に基づき、香港島は英国に割譲されたと宣言。香港政庁の創設に着手した。これが英領香港の事実上の始まりだった。
「穿鼻草約」はエリオット大佐が同年1月に清王朝の両広総督である博爾済吉特・琦善(ボルジギン・キシャン)と交わした条約案。清王朝が銀600万元を賠償し、香港島を割譲するという内容で、両国の元首が知らないうちに交わされた。
清王朝の道光帝はその内容を知ると激怒し、ボルジギン・キシャンを罷免。一方のエリオット大佐も、同年4月に英国内閣によって解任された。「穿鼻草約」の内容が、英国の求める利益を満足させるには不十分だったことが原因だった。ビクトリア女王はエリオット大佐を評して、「最低限の条件しか勝ち取らない人物」と語ったという。
しかし、ユーラシア大陸の西の果てで決まった解任が、東の果てに入るエリオット大佐に伝わるには3カ月を要した。エリオット大佐は自分がクビになったことを知らないまま、清王朝との戦闘を一旦停止し、香港政庁の創設に向けた努力を続けていた。
最初の土地競売
清王朝第八代皇帝の道光帝 ビクトリア女王(1882年) 香港政庁の初代行政官となったエリオット大佐は歳入を得るため、同年5月に英国の“公有地”となった香港島で、土地賃借権の競売を実施すると発表。ランド・レジストリー(田土庁)を創設し、同年6月に香港史上初の土地競売をマカオで実施した。さらに香港は自由港(フリー・トレード・ポート)であると宣言し、商船の自由な出入りを認めた。
競売の結果は目標からほど遠かった。クイーンズ・ロード(皇后大道)の100区画のうち、売れたのは50区画のみ。地代は4分の1エーカー(約1,011平方メートル)あたり年間20ポンドにすぎなかった。
競売が不調に終わるなか、ついにエリオット大佐の解任を伝える書簡が香港に到着。香港政庁の創設者は、こうして失意のうちに去った。同年8月にヘンリー・ポッティンジャー準男爵(バロネット)が着任し、エリオット大佐の役職を引き継いだ。
なお、エリオット大佐が実施した土地競売は、第二代行政官となったポッティンジャー準男爵によって無効を宣言された。エリオット大佐の職権が臨時のものに過ぎなかったというのが、その理由だった。
南京条約と初代香港総督
「穿鼻草約」には英国と清王朝の双方が不満を抱き、エリオット大佐とボルジギン・キシャンは解任され、これが正式に署名されることはなかった。
初代香港総督のポッティンジャー卿 ポッティンジャー総司令官はアヘン戦争による経済的利益を最大化するため、同年9月に艦隊を率いて北上を開始。ノド元に刃を突き付けられた清王朝は、1842年8月29日に中国の歴史上初の不平等条約である「南京条約」に署名した。この不平等条約が、英領香港が存在する法的根拠となった。
ポッティンジャー総司令官は1843年6月26日に初代香港総督に就任。同年12月2日にはアヘン戦争の戦功が賞され、バス勲章のナイト・グランド・クロス(GCB)が贈られた。
香港クラブと資金調達活動
時間を少し前に戻そう。1941年6月にエリオット大佐が自由港を宣言すると、各地から次々とアヘン商社などが集まった。英系のジャーディン・マセソン商会をはじめ、米系のラッセル商会、ユダヤ系のサッスーン商会、パールシー系のパランジー商会など、多彩な顔ぶれだった。
初代の香港クラブビル
ウィンダム・ストリート(雲咸街)
1943年に香港に進出した英系企業は22社で、このほかにインド系が6社。香港での権益を守るため、1844年4月に香港クラブ(香港会所)という社交組織を創設した。香港クラブの会合には政財界の大物が集まり、さまざまな情報が交換された。
1846年5月26日に香港クラブの建物が完成すると、会員の活動が活発化。会社の新設や譲渡なども話も密かに行われ、後の株式売買の基礎が築かれた。
香港史上初の株式発行による資金調達が、いつ行われたかは不明。ただし、1845年創刊の英字新聞「ザ・チャイナ・メール」の1854年2月2日付によると、少なくとも1852年には香港で資金調達を行った会社があった。つまり、香港の開港から10年内に、こうした活動はすでに存在した。
その当時の資金調達は単純な仕組みだった。当局の許認可等は不要であり、多くの出資者からの同意を得て、必要な時期に実行するだけだ。ただし、その当時の会社はすべて無限責任会社であり、出資者は会社の損失を無限に負う必要がある。そのため、資金調達に応じて出資するということは、単なる株主になるというよりも、ビジネスパートナーになるといった感覚であり、相当な覚悟を必要とした。
現在の香港クラブビル
ジャクソン・ロード(昃臣道)
開港当初の香港では、海上輸送や貿易にかかわる保険会社、銀行、港湾会社などの資金調達が盛んだったようだ。当時の新聞の1面には目論見書のような広告が毎日のように掲載され、資金需要が旺盛だったことがうかがえる。
ただし、この種の広告は1~2年にわたって同じものが掲載されており、資金調達は不調だったようだ。開港してから10年ほどは貿易の規模が小さく、香港に根を張った企業活動は希薄であり、出資に前向きな投資家は少なかった。
また、香港の治安も、資金調達に不利だった。肉体労働者や海賊が跋扈し、中国本土の有力な資産家も近寄らなかった。
「ザ・チャイナ・メール」と中国人
1854年2月2日付「ザ・チャイナ・メール」
出資募集の日付は1852年2月27日
募集は長期にわたったようだ。
この後もたびたび登場する「ザ・チャイナ・メール」という英字新聞だが、1974年に廃刊となるまで129年の歴史を誇った。中国語の新聞名は「徳臣西報」、あるいは「徳臣報」「中国郵報」と呼ばれた。
“徳臣”とは二代目編集長のアンドリュー・ディクソン氏の中国語名。ディクソン氏は香港に住む中国人の権益保護を主張し、マカオで行われていた苦力(クーリー)の人身売買に反対。このため中国人に人気があり、この新聞は「徳臣西報」と呼ばれるようになった。
苦力とは安価な労働力として海外に送られる中国人。ディクソン氏が反対するように、苦力のようだ貧しい中国人の境遇は悲惨だった。広東人は苦力を“猪仔”(ブタ)と呼んだ。英国人の記録によると、マカオを拠点とするポルトガル人は、16世紀から浙江省や福建省などの沿海地域で児童を誘拐し、奴隷としてインドなどに“出荷”していた。
英国王のジョージ3世は1808年に英領での奴隷販売を禁止すると宣言し、1833年には法的にも禁じた。だが、安価な労働力の需要は根強かった。
船に詰め込まれ、“出荷”を待つ苦力たち これを背景に19世紀に入ると、マカオでは苦力売買が活発化。ポルトガル政府の記録によると、1865~1873年にマカオから“出荷”した苦力は18万2,000人あまり。大部分がキューバとペルーに送られた。米国西海岸で1849年にゴールド・ラッシュが起きると、黒人奴隷に代わる安価な労働力として、多くの苦力が調達された。
このように19世紀の世界では、苦力の境遇ほど悲惨なものはなかった。中国人の地位も押し並べて低かった。ディクソン氏のように彼らを守ろうとする西洋人がいる一方で、彼らを“モノ”として扱う人々も多かった。
香港政庁と商社の対立
太平天国軍の兵士たち
太平天国は南京を拠点に華中地域を支配した。
香港の経済基盤が貧弱だったことから、誕生したばかりの香港政庁の財政は火の車だった。インフラ建設の資金が必要だったことから、地代や租税の引き上げを図ったが、かえって商社の不満となり、ビジネス活動は停滞した。英系の商社は香港総督や本国にビジネス環境への不満を訴え、改善がなければ香港から撤退すると脅しをかけた。
香港のビジネス環境が改善したきっかけは、1851年に勃発した太平天国の乱だった。広東省や福建省の資産家が一族を率いて香港に逃げ込むなど、移民が急増。中国人のコミュニティが香港に形成され、経済基盤が徐々に築かれた。
さらに1856年にアロー戦争(第二次アヘン戦争)が勃発すると、香港は英軍の戦略拠点となり、戦争景気に湧いた。開戦当初は中国本土との貿易が激減したものの、多数の英兵が集結したことで、香港の域内需要が増大。食料や日用品が大いに売れ、こうした状況が終戦まで続いた。
香港政庁と中国人の対立
太平天国の乱を機に香港では中国人が急増したが、発足したばかりの香港政庁は彼らの反乱を恐れ、強硬で差別的な政策を施行した。中国人の住民登録を厳しくし、夜間の外出を禁じた。法に触れた者には、ムチ打ちなどの厳しい刑罰が待っていた。香港政庁の統治は、中国人の生活のすみずみに及んでいた。
こうした状況であったことから、香港政庁が中国人職員を採用することなどあり得なかった。経済面でも中国人はさまざまな差別待遇を受け、肉体労働などに従事するほかなかった。株式の売買といった高度な経済活動に参加することも不可能だった。
アロー戦争による好景気で儲けたのは、欧州系の商会ばかりであり、中国人に恩恵は及ばなかった。その当時の香港経済は中国人社会の参加がなかったことから、アロー戦争の終結で英軍が去ると、すぐに不況が訪れた。
会社条例の制定
アロー戦争直後の紫禁城午門(1860年10月) 約4年にわたったアロー戦争が終結し、1860年10月24日に英国と清王朝の間で北京条約が交わされた。これにより英国は巨額の賠償金のほか、バウンダリー・ストリート(界限街)以南の九龍半島を獲得した。戦後の不況に見舞われたものの、土地資源を獲得したことで、香港の経済環境は改善に向かった。
中国人を中心に人口も増大した。1841年の中国人はわずか6,000人ほどだったが、1861年には10万人を突破。域内需要が一定の規模を備えるようになった。一か八かの山師ばかりだった小粒の企業も、二十年の歳月で優勝劣敗が進み、強固な経営基盤を持つまでに成長した。
1861年5月29日に欧州系の企業60社ほどが香港クラブに集まり、香港商会(後の香港総商会=HKGCC)の設立を決定。設立の目的は、商業利益の保護、ビジネス情報の収集、ビジネス障壁の排除、企業間紛争の仲裁など。ジャーディン・マセソン商会のアレクサンダー・パーシバル氏が会長に選ばれた。
香港総商会(HKGCC)のロゴ
活動は香港返還後も続いている。
初代のHSBCビル(1869年)
香港総商会は香港政庁との交渉を通じ、政策決定に大きな影響を及ぼすことになる。香港総商会の会長は、香港政庁の立法局や行政局の議員に選ばれることが普通となり、1865年1月の「会社条例」制定を実現。この条例は香港経済や株式市場が発展するうえでの重要な基盤となった。
「会社条例」の制定で、有限責任会社の設立が可能となった。資金を出資する株主が責任を負うのは、払い込んだ資本金だけ。つまり株券が紙くずになるだけであり、それ以上の損失に責任を負う必要はない。無限責任会社に比べ、株主にとっては大きな負担軽減となった。
この「会社条例」の制定を機に、香港では有限責任会社が急増。有限責任会社の第一号は、1865年3月3日に設立された香港上海匯理銀行(HSBC)だった。無限責任会社から有限責任会社への改組も増えた。
「会社条例」では、会社が黒字でなければ、配当を出す必要はないことが明記された。配当を出す場合でも、その金額が利益を超えることは禁じられた。こうした今日では当たり前のルールも、香港ではこの時に設けられた。
さらに「会社条例」の制定で重要なのは、代理行為者などを通じて株式を自由市場で他人に譲渡できると定めたことだ。これは株式市場の誕生にとって、重要な法的根拠となった。
株式売買の活発化
「会社条例」の制定によって、株式の売買が盛んになると、以下のような新聞に頻繁に登場するようになった。
「ホンコン・ガスの株式が1株12ポンドで売りに出されたが、買い手がつかなかった」
「ホンコン・カントン&マカオ・スチームボートの株式は、10%の値引き価格では取引成立が難航。買い手は12%の値引きを要求」
これらは1866年9月6日付「ザ・チャイナ・メール」の記事。目立つ場所に掲載されており、当時の人々が株式売買に高い関心を示していたことがうかがえる。
欧米系の商会などは、香港の株式のほかにも、外国の株式にも関心があったようだ。1866年6月28日付「ザ・チャイナ・メール」には、ボンベイ(現在のムンバイ)で売買されている株式の株価や配当が一覧表になって掲載されていた。
なお、当時の株価情報は、株式の額面に対する変動率だけが記されていた。例えば、以下のような具合だ(1866年11月15日付「ザ・チャイナ・メール」)。
- HSBC:旧株3%の値引き、新株は1.5%の値引き
- ホンコン&ワンポア・ドッグ:旧株20%の値上がり、新株15%の値上がり
- ユニオン・ドッグ:17%の値引き
このように取引価格が直接書かれることはなく、株式の額面を知らなければ分からないようになっている。こうした方式の株価情報が、当時は普通だった。
株式が自由に売買できるのは、有限責任会社の中でも、有限責任公開会社(パブリック・リミテッド・カンパニー)と呼ばれる会社に限られた。なお、有限責任私会社(プライベート・リミテッド・カンパニー)の株式は、自由に売買できない。
有限責任公開会社の数は、「会社条例」が制定された1865年の年末は5社にすぎなかったが、旺盛な資金需要を背景に1871年末には18社に達した。
株式仲介人の誕生
株式の売買が活発になった背景には、仲介人(ブローカー)の存在があった。株式売買の仲介人は、今日の証券会社のようなものであり、少なくとも1866年には活躍していた。1872年にはホンコン・ブローカーズ・アソシエーション(香港経紀会)を創設しようとする動きもあったが、どういう理由からか実現しなかった。
1870年代のペダー・ストリート(畢打街)時計台
1863年の元旦に初めて打鐘
介人たちはここを集合場所にして、株式を取引した。
仲介人の組織は誕生しなかったが、さまざまな取引の手数料率は、香港総商会が定めていた。それによると、貴金属売買の手数料率は0.125%、株式売買では0.25%だった。
1870年代の香港には、証券取引所がなかった。仲介人たちが集まる固定の場所はなく、香港クラブやホテルなどの屋内のほか、時計台の傍など屋外でも取引が行われた。アタッシュケース、ペン、それに株券の3つがあれば、どこでも取引していた。仲介人の国籍もさまざまだった。
このころになると、株価の表示も多様化した。従来のようなパーセンテージのほかに、変動金額や取引価格で表す方式も採用された。ただし、会社の資本金となる通貨は、ポンド、フラン、香港ドル、銀元など多種多様であり、一覧表にすると非常に見づらいものだった。
香港株式市場の萌芽
1865年の「会社条例」制定で有限責任会社が誕生し、企業活動が活発化。それにともない株式売買の仲介人も出現し、株式市場が萌芽した。
こうしたなか、人口の多くを占める中国人に対しては差別的な政策が続き、彼らは経済活動の枠外に追いやられていた。そのため、香港経済は一握りの英系の大企業に依存。株式市場が発展するのに必要な活力を欠いていた。
1870年代のビクトリア湾 このような状況に転機が訪れたのは、第八代総督のジョン・ポープ・ヘネシー卿の時代。中国人の地位が向上し、香港の経済が活性化するきっかけとなったが、不動産や株式のバブルも発生するようになる。次回は香港で力をつけ始めた中国人の活躍などを中心に、話を進めよう。
1870年代のリンドハースト・テラス(擺花街)
花街として知られた。
1870年代のコクラン・ストリート(閣麟街)
現在は長いエスカレーターで有名