「あいつが盗んだんじゃあないのか?」
「きっと、あいつだろう!」
こんな言葉を同僚たちから耳にし、合金工場の倉庫番を務めていた楊懐定さんは、自尊心を深く傷つけられた。1988年の旧正月前に起きた窃盗事件。1トンあまりの銅地金が倉庫から消えてしまい、その犯人と疑われたのだ。この小さな事件が、しがない倉庫番の楊さんに巨額の富をもたらすきっかけとなった。
疑われた原因は、楊さんの妻が電線工場を経営していたかららしい。原料の銅を欲しがっていると思われたからだ。また、ちょっとした副業のおかげで、楊さんの羽振りが良かったことも理由の一つと言われている。だが、楊さんは潔白であり、事件から6日後に犯人が捕まった。
楊さんの無実は証明されたが、傷ついた心は修復できない。工場に辞表を提出し、無職となった。
新聞に一攫千金のネタ
仕事を辞めてヒマをもてあました楊さんは、図書館に通い始めた。辞職前の楊さんの月給は68元。年収は800元ほどだった。預金は妻の工場が稼いだ5万元があり、その当時の預金金利は7.6%。年間4,000元近くの利子収入を得られるので、当面の生活には困りそうになかった。
しかし、いつまでも無職でいられない。1988年は空前の物価高騰期であり、全国都市部の消費者物価指数(CPI)は前年に比べ20.7%も上昇。物価は預金金利を超えるペースで上昇しており、現金の購買力がみるみる減少していたからだ。なお、この物価高は計画経済から市場経済への移行期に採用した二重価格制がもたらしたものであり、政府に対する人々の不満を高め、1989年に起きた天安門事件の遠因となった。
国庫券の購入を呼びかける広告 こうした社会情勢だったことから、楊さんは図書館で全国各地の新聞を読みあさり、なんとか稼ぎの手がかりを得ようとしていた。そんな彼の眼に止まったのは、1988年4月21日から上海市の国庫券市場が開放されるという記事だった。国庫券とは国債の古い呼び名だ。その記事には「1985年国庫券の利回りは15%」と書かれていた。
国庫券市場の開放とは、どういう意味か?国庫券は1981年に発行が始まったが、自由に売買することは禁じられていた。職場ごとに割当販売され、償還期限まで保有し続ける必要があった。しかし、すぐに売ってしまいたいという人が多く、闇市での売買が横行。その取り締まりに苦慮した政府は、一部の都市で国庫券を銀行で自由に売買することを認めた。これを国庫券市場の開放という。楊さんはこの政策に目をつけた。
初めての投資
「5万元で国庫券を買えば、1年間で7,500元も利子が得られるじゃないか」――。そう考え、楊さんは国庫券を買うことにした。慎重な楊さんはとりあえず、2万元だけ買ってみることにした。額面100元の1985年国庫券の価格は108元で、償還期限まで2年2カ月。期限まで保有した場合の最終利回りは約15%だった(*1985年国庫券の償還期間は5年、個人向け表面率は年率9%、元金と利子の支払いは償還期限後の1回のみで、145元が支払われる)。
1985年国庫券 とりあえずという気持ちで2万元を投じた楊さんだが、大金が手元から離れ、気分は落ち着かない。そこで、その日の午後に銀行に行ってみると、なんと1985年国庫券の価格は112元になっていた。楊さんは急いで国庫券を売却し、800元の利益を得た。
「800元と言ったら、以前の年収じゃないか。それを数時間で稼いでしまうとは……」――。稼いだ現金を手にし、何とも言えない気分を味わった。
安い国庫券を求めて地方へ
価格差を利用すれば、利子収入よりも儲かることに気づいた楊さんは、再び図書館に向かった。ほかの都市の国庫券相場を調べるためだ。すると、上海市のほかに6つの都市が国庫券市場を開放しており、それらの相場が違うことに気づいた。それを見て楊さんは、さらに儲ける方法を考えた。
「安徽省合肥市の国庫券は、上海市よりも2元ほど安い」――。そこで楊さんは親戚や知人から総額14万元を借り入れ、列車で合肥市へと向かった。
合肥市の中国工商銀行に着いた楊さんは、現金の詰まったカバンを銀行員に見せ、国庫券を買えるだけ買うと申し出た。安徽省のような貧しい地域では、国庫券はなかなか売れない困りものだったが、それを“爆買い”しようとする楊さん言葉を聞いて、銀行員は驚かずにいられなかった。その当時、地方の銀行はどこも資金繰りに悩んでおり、楊さんはまさに救世主だった。
開放された国庫券市場に集まる上海市民
(1988年4月)
楊さんがこの日に買えた国庫券は総額10万元ほど。急いで上海市に戻り、翌日に売却することに成功。2,000元あまりの利益を得た。以前なら数年分に相当する稼ぎが、たった2日間で手に入った。それからというもの、上海市と地方都市を行き来するようになり、カバンに詰め込む現金は雪ダルマ式に増え、それに応じて利益も膨らんだ。
心身をむしばむ現金の力
多額の現金を抱えた列車行脚は、楊さんの神経を擦り減らした。家に帰るたびに、妻と一緒に現金を数えるが、その当時の最高額紙幣は10元だったので、1万元は1,000枚、10万元なら1万枚に達してしまう。手は疲れ果て、神経は興奮状態にあり、なかなか眠れない。4錠の睡眠薬を飲んでも、たった2時間ほどしか寝つけなかったそうだ。
大量の現金は体力までも奪っていく。10万元の現金は重さ6キログラム。カバンの現金が増えれば増えるほど、重さは増すし、カバンの数も増え、人目も引く。安徽省を走る列車のなかでは、8万元が入ったカバンを危うく盗まれそうになった。50万元を運んだ時は、重さが30キログラムを超えたという。
多額の現金は、人を恐怖に陥れることもある。列車の荷物検査ではカバンにぎっしりと詰まった人民元が見つかり、海外逃亡を企てる汚職官僚と誤解され、拘留されたこともある。また、もし大量の現金を持っていることが悪人に知られれば、どこまでも追跡され、命を狙われることにもなりかねない。
大量の現金は楊さんの心身に大きな負担となったが、その一方で“カネの魔力”に後押しされ、苛酷な列車行脚を乗り切れたという。
“楊百万”の誕生
楊さんの列車行脚は、安い国庫券を求めて全国各地に及んだ。国庫券市場を開放する都市が増え、西は新疆ウイグル自治区、北は黒竜江省にまで足を運んだ。経済的に遅れた地域ほど、国庫券が安かったからだ。
改革開放の初期段階にあった中国本土では、人々の金融についての概念が希薄だった。国庫券を買わざるを得なかった地方の人々は、急いで換金したいがために、2割引で銀行に売却していた。一方、地方の銀行も資金繰りが厳しく、多額の現金で国庫券を買う楊さんには、1割引の90元ほどで国庫券を売ってくれた。楊さんは上海市に戻ると、それを110元ほどで売却。おもしろいように財産が増えた。
その当時、年収1万元の“万元戸”になるのが人々の夢だったが、楊さんは数カ月で百万元を超える財産を得た。用心深い楊さんは、カネ儲けの手口が知られないように、上海市の銀行で国庫券を売却する時は、かならず購入先の銀行名が記された帯封を取り外し、どこで買ったものなのか分からないようにしていた。
タバコをふかす楊百万とファンたち しかし、財産が百万元を超えると、楊さんについての噂は多くの上海市民に知られるようになった。そもそも、大量の国庫券を持ち込む楊さんが、銀行員に顔を覚えられないはずがない。また、その当時の上海市では、国庫券の1日の売買代金が80万元ほどだったが、その4分の1が楊さん一人によるものだったというから、嫌でも名が知れわたる。
楊さんが信じられないほどの資金を持っているのは、誰の目にも明らかだった。人々はいつしか楊さんのことを“楊百万”と呼ぶようになった。
朱鎔基の発言に恐怖
「たった一人の人間に、こんな大金を稼がせてしまうとは!わが国の制度にどんな抜け穴があるのか、もういちど調べ直せ!」――。楊百万の評判を耳にした上海市長(当時)の朱鎔基は、部下たちに調査を命じた。やがて朱鎔基の命令は噂となり、楊さんの耳にも届いた。
その当時の楊さんにとって、最も恐ろしかったのは“資本主義の信奉者”として糾弾されることだった。個人による金融業の経営は法的に禁止されていたが、楊さん自身も自分の国庫券売買がそれに該当するのか分かりかねていた。また、これが投機的行為と見なされれば、大きな政治的リスクを負うことになる。さらに、自営業の納税拒否が社会問題となっていたこともあり、荒稼ぎして税金を納めていないことも心配だった。
朱鎔基の言葉を聞いて、楊さんは震え上がった。「どのようにすれば、糾弾を避けることができるのだろう……」――。楊さんは考えに考えた。
3つの馬鹿げたこと
上海市税務局の“局長接待日”には、普通の市民でも税務局長に会うことが可能。そこに楊さんが現れた。「私は鄧小平同志が言うところの“先に豊かになった人”です。そういうわけで、税金を納めたいと思います」――。税務局長に向かってそう言った後、楊さんは“楊懐定”と名乗った。
「あぁ、あなたが楊百万ですか!われわれは以前から、あなたに目をつけていましたよ」と、楊さんの出現に驚きながら、そう語った。「国庫券は非課税です。取引にも課税されませんよ」と、局長は楊さんに説明した。
次に楊さんが向かったのは、中国人民銀行(中央銀行)の上海支店。「金融法規について分からないことがありますので、党と国家の教育を受けに来ました。国庫券の売買は合法ですか?それとも違法ですか?」――。楊さんは応対に出た職員に問いかけた。
急な質問に当惑した職員は、「あなたはどう思います?」と聞き返すのが精一杯だった。楊さんは準備していた経済新聞「金融時報」を取り出し、「上海市民による自由な売買を歓迎します」という一文を見せた。これは国庫券市場の開放日に、中国人民銀行の上海支店長が語ったものだ。「私は上海市民であり、行っているのは自由な売買だから、合法なはずです」と強調した。職員も楊さんの主張を認めざるを得なかった。
このようにして、稼いだカネの合法性について当局者の言質を取った後、楊さんは公安局を訪れた。「警察官2人をボディーガードとして雇いたい。毎月600元を支払います」――。なんと楊さんはボディーガードとして警察官を雇うことで、公安局を自分の国庫券売買に巻き込んだ。
「こうすれば、公安局の監視の下で国庫券を売買しているとも言えるし、万が一のことがあっても、大きな処分は下されないだろう」――。これが楊さんの狙いだった。
税務局、中国人民銀行、公安局を訪れた3つの件について、楊さんは周囲から「何とも馬鹿げたこと」と言われた。だが、その狙いを聞かされ、人々は楊さんのすごさを思い知らされた。これらの3つの“馬鹿げたこと”は、いずれも上海市の新聞に掲載され、楊さんの評判はますます高まった。
伝説の個人投資家
楊さんは1980年代末期の国庫券市場で巨額の富を得た。その後、楊さんのマネをする人が増え、価格差を利用した裁定取引はできなくなった。楊さんの蓄財は、その時代しかできなかったことであり、幸運に恵まれたとも言えるだろう。
しかし、楊さんの活躍はその後も続いた。1990年代に入ると国庫券市場から舞台を株式市場や不動産市場に移し、そこでも市場の変化を読み解き、その言葉は多くの投資家に信頼された。2006年の株高と2008年の急落も見通し、富を増やし、うまく切り抜けた。
大規模講演会での楊百万(2014年) 証券市場の黎明期に巨万の富を築いた個人投資家は何人かいるが、今日まで負けなかったのは楊さんだけだ。これを見れば、単に幸運に恵まれた人ではないことが分かるだろう。
では、楊さんの富の源泉は、どこにあるのか?その答えは情報だ。情報と言っても、特別な情報ではない。楊さんは膨大な数の新聞に目を通し、政策関連の記事から、政府の思惑と証券市場や不動産市場などに与える影響を分析している。
「中国の株式市場とは、言ってしまえば“政府主導の政策マーケット”」と、楊さんは語る。「中国株に投資するには、必ず党と政府の話を聞き、党と政府とともに歩む必要がある」というわけだ。
著書へのサインを求められる楊百万 そして、もう一つの富の源泉は行動力。自分の分析結果を信じて投資行動を起こし、誰もが見向きもしない物を大金で買いつけ、価格が上昇するなかでも売却に踏み切れる力だ。言うのは簡単だが、行うのは難しい。だが、楊さんはやってのけた。
こうした楊さんの考えや行動力は、多くの個人投資家に影響を与えた。各地で講演会が開かれ、テレビにもたびたび出演し、著書も売れに売れた。中国本土の個人投資家は1億人を超えるが、彼らの投資家心理の底には、楊さんのような考え方が流れている。