世界一小さな取引所と呼ばれた静安証券営業部が開業してから1カ月ほどが過ぎた1986年11月10日、ニューヨーク証券取引所のジョン・フェラン理事長をはじめとする米国の金融関係者一行が、北京市を訪問した。中国人民銀行(中央銀行)が主催する金融市場研究会に参加するためだ。
細身のスーツを着た20人ほどの米国金融関係者が、いわゆる人民服(中山装)を着た200人あまりの中国の金融官僚に対し、米国の金融マーケットについて説明。社会主義国家と米国金融マーケットのファーストコンタクトだった。当初は証券取引所の開設に否定的だった中国人民銀行の陳慕華・総裁も、「我々は役立つ経験を他の国から学ぶ必要がある」と発言。会議は成功した。
小飛楽の株券を手渡す鄧小平 フェラン理事長は11月14日に鄧小平と会見。ニューヨーク証券取引所の徽章をプレゼントした。これを着ければ、世界最大の証券取引所に自由に出入りできるという貴重な物だった。その返礼として鄧小平は一枚の紙を手渡した。それは中国で発行された株券だった。
鄧小平が自らの手で株券を外国人に贈呈。株式制が初めて中国最高レベルの権力者によって認められた瞬間だった。中国株を最初に手にした外国人となったフェラン理事長は、その歴史的意義を瞬時に理解し、高揚感を隠さなかった。
株券選びに苦慮
話は少し前に遡る。フェラン理事長からのプレゼントがあることを事前に知らされていた中国側の関係者は、返礼として中国の株券を贈呈することを思いついた。
その当時、赤レンガ株券をはじめ、各地でたくさんの株券が発行され、その多くが“中国初の株券”を名乗っていた。そこで中国人民銀行は中国各地から十数種類の株券を収集。しかし、その多くは償還期限が明記されたり、元本や利払いの保証が付いたりした“疑似株券”。「中国人は株券が何なのか分かっていない」と、外国人に嘲笑されかねないものばかりだった。
そこで中国人民銀行の陳総裁は、上海支店の頭取に電話し、上海市で発行された株券を送るよう指示。上海支店から送られてきたのは、“小飛楽”と呼ばれた上海飛楽音響股份有限公司(飛楽音響)の株券だった。
飛楽音響の株券は紙幣印刷工場で作られ、見た目も申し分ない。株券としての要件も満たしていた。まさに中国人が外国人に対して胸を張って「これが中国の株券です!」と言えるものだった。
陳総裁はこれに満足し、フェラン理事長に贈呈することを決定。これにより、中国株の第一号が飛楽音響の株券であることが決まった。ただ、陳総裁は大きな欠点を見逃していた。
私の名前じゃない!
飛楽音響の株券を手にしたフェラン理事長は喜びを隠さなかった。しかし、株券の裏面を見ると、そこにあった手書きの漢字に目がとまった。「これは何と書いているのですか?」と、フェラン理事長は質問。通訳はそれが「周芝石」という中国人民銀行上海支店の副頭取の名前であることを伝えた。
「何てことだ、私の株券に別の人の名前があるなんて!そうだ、名義を書き換えよう。いいアイデアだろう?」と、フェラン理事長は周囲の人たちに語った。「どこで名義を書き換えることができるのかい?」と中国側に質問。帰ってきた答えは“上海”だった。
中国側としては訪問日程の変更を避けたかったが、フェラン理事長は上海行きを強く希望。誕生したばかりの中国の取引所を見たかったのだ。株券の名義書換という至極正当な理由を持ち出され、中国側は譲歩するほかなかった。
フェラン理事長たちは飛行機で上海市に到着。あの世界一小さな取引所の静安証券営業部に向かうことにし、上海市側に要人警護を依頼した。
50元の株券に2,000米ドル
大事に関わりたくない上海市側は、フェラン理事長たちに早々と帰国して欲しかった。そこで、「要人警護は国家元首の来訪時に行いますが、証券取引所の理事長は前例がありませんので……」と断り、あきらめて帰ってもらおうとした。
だが、フェラン理事長の部下は食い下がった。「我々の理事長は米国経済界のレーガンです。米国ではどの政府官僚よりも重要な存在です」と、かなりの大ボラを吹いた。
そこで上海市側は別の口実を思いついた。「どうしても警護が必要なら、自費で上海市の警察を雇うしかありません」と語り、金銭面から攻めた。
フェラン理事長が「いくらですか?」と尋ねると、上海市側はとっさに「2,000米ドルです」と返事。「オッケー、大丈夫。さあ行こう!」とフェラン理事長は即答し、上海市側が負けた。
「いったい何を考えているのか、あの米国人たちは!たった50元の株券のために、2,000米ドルも払うだと?」――。上海市側の関係者には、フェラン理事長の考えがまったく理解できなかった。
世界一大きな取引所と世界一小さな取引所
警護車両に先導されたフェラン理事長ら一行は、南京西路1806号にある静安証券営業部に到着。世界一大きな取引所の理事長が、10平米ほどの世界一小さな取引所を訪問した。
店内を興味深く見まわしたフェラン理事長は、「株券はどうやって発行するのですか?どのように名義を書き換えるのですか?」と、矢継ぎ早に質問。カウンターにいた責任者はすべての質問に答えた後、恥ずかしそうに「ここは狭すぎますね」と漏らした。
それを聞いたフェラン理事長はまったく気にせず、「問題ない。見たところ、悪くない。米国の株式取引なんて、道に生えていたプラタナスの樹(スズカケノキ)の下で始まったからね。建物すらなかったよ」と、愉快そうに答えた。
事務員によって株券の名義は、フェラン理事長の名前に変更された。名義書換料は1元だったが、米中友好を理由に無料となった。フェラン理事長は自分の名義に変わった株券に満足し、マネージャーの黄貴顕さんらと記念写真を撮った。1986年11月16日の出来事だった。
原始の姿
静安証券営業部での記念写真
欧米では17世紀に過ぎ去った株式制度の“原始の姿”が、1980年代の中国にあった。
「夢やアイデアはあるけど、カネはない」という人々が、それぞれの発意で株券を発行。西側世界では考えられないほどの厳しい環境のなかで大きな流れを生み出し、ちっぽけながらも取引所を開設した。株式制度を否定するはずの社会主義国家も、ついにその存在を認めるに至った。
静安証券営業部を訪問したフェラン理事長は、ニューヨーク証券取引所の始まりとなった「すずかけ協定」の話を語っていた。おそらく自らの仕事の原点と使命を思い返したのだろう。
約11カ月後の1987年10月19日にニューヨーク証券取引所では、史上最大級の株価暴落「ブラックマンデー」が発生。フェラン理事長は強固なプロフェッショナル精神を発揮し、この荒波を乗り越えた。
フェラン理事長の投資成果
フェラン理事長を接待した上海市の関係者は、たった50元の株券のために2,000米ドルを支払う真意が分からなかった。「なんてバカな話だ」と思っただろうが、2016年末時点での投資成果を見てみよう。
飛楽音響の株式は1990年12月19日に上海証券取引所に上場。額面も当初の50元から1元に切り下げられたうえ、株式分割が何度も実施された。フェラン理事長が手にした額面50元の株券は、2016年末では額面1元の株式3,183株に相当する。
2016年末の株価は1株あたり10.53元なので、3,183株は3万3,516元に相当(端数切捨て)。2016年末の為替相場は1米ドル=6.9502元だったので、3万3,516元は4,822米ドルとなる。
フェラン理事長名義の小飛楽 株券の取得コストを警護費用の2,000米ドルと見なすと、株価だけでも約30年で141%増加。配当金を加えると、利益はさらに膨らむ。“さすがニューヨーク証券取引所の理事長”というべき投資成果だが、フェラン理事長が手に入れたかったのは、そんなものではない。
この株券はニューヨーク証券取引所で保管され、いまも展示されている。飛楽音響の株券は中国のオークションサイトに出回っているが、フェラン理事長の名前が書き込まれたものは世界に一枚だけ。その価値は計り知れない。
あの時、フェラン理事長が名義を書き換えなければ、この株券はオークションで買えるものと大差なく、歴史的価値は生まれなかっただろう。機会を逃せば、どんな大金を払うと申し出ても、後からでは絶対に買うことのできない歴史的価値だ。マネーと欲望がうごめく世界最大の証券取引所のトップだったフェラン理事長は、お金を支払うだけでは入手不可能な価値を見極めることができる人物だった。