1989年6月4日に起きた天安門事件は、武力鎮圧の様子が各国メディアによってテレビ報道され、中国に対する評価は地に堕ちた。西側先進国は中国を非難し、経済制裁を実施。鄧小平の主導で始まった改革開放路線は、この事件を機に大きく後退するという見方が世界中に広がった。
それまで中国に投資していた外国資本は、改革開放路線の後退を恐れた。再び社会主義路線に戻れば、中国に設けた工場などの資産が、国有化という名義で没収される可能性があるからだ。天安門事件を機に外国企業は中国国外へ資金を引き揚げたり、投資を抑えたりするようになった。だが、こうした中国を取り巻く危機的状況が、上海証券取引所の創設を後押しすることになった。
中国政府の指導者層は改革開放路線の継続を海外にアピールすることで、イメージ回復を図ろうとしていた。こうした情勢を背景に、その当時の上海市長だった朱鎔基は1989年12月2日に、中国人民銀行(中央銀行)の劉鴻儒・副総裁を招いて、金融体制改革をテーマとした会議を開催。かつての国際金融センターの復活を目指すことが決まった。その方針の目玉の一つが、証券取引所の創設だった。
3人組の編成
水利工事を視察する朱鎔基(右)
(1989年12月)
会議では証券取引所の創設に向けた“上海証券市場リーダーグループ”を編成することも決まった。メンバーは交通銀行と中国人民銀行(中央銀行)上海支店の経営トップに、上海市経済体制改革弁公室の主任という3人構成。彼らは“3人組”と呼ばれ、朱鎔基・市長に直属する独立組織として活動することになった。
3人組のメンバーは不安だった。社会主義路線の巻き返しが危惧されるなか、資本主義の象徴的存在である証券取引所の創設にかかわることは、政治的リスクを負いかねないからだ。そんな3人の表情を見て朱鎔基は、「心配することはない。何か問題が起きたら、私と劉鴻儒が第一に責任を取る。きみたちは、まだ二番手だ」と、微笑みながら慰めの言葉をかけた。
ただ、朱鎔基の言葉を聞いても、3人組の不安は払しょくされなかった。「ほんとうに問題が起きたら、やっぱり“二番手”の責任になるだろう」と、心の中で思った。同僚からは、「資本主義にかかわらない方がいい」とアドバイスされ、不安は増すばかりだった。
3人組の心配をよそに、朱鎔基は証券取引所の創設に問題がないと確信していた。「なんでも試してみなさい」という鄧小平の言葉が、その根拠だった。1990年4月18日に李鵬首相は上海市の浦東地区の開発・開放を宣言し、証券取引所の創設も計画に盛り込まれた。
鄧蓮如という女性
3人組の編成と同時に、上海証券取引所の開業は1990年12月に定められた。それは香港貿易発展局(HKTDC)の女傑として知られる鄧蓮如(リディア・ダン)主席が、香港貿易代表団を率いて上海市を訪問するタイミングだった。
香港を訪問した英女王を接待する鄧蓮如(前右)
(1986年10月)
英皇太子夫妻を接待する鄧蓮如(前右)
(1989年11月)
鄧主席は1940年に香港で生まれ、英国資本のスワイヤ・グループ(太古集団)やHSBC(香港上海匯豊銀行)などの要職を歴任した。その一方で植民地政府の立法局や行政局に加入。華人であることから、植民地政府と中国政府の橋渡し役にもなった。こうした香港政財界での活躍を背景に、1989年に英国政府によって司令官騎士(D.B.E)に叙せられ、華人女性として初の大英帝国勲章の叙勲者となった。
天安門事件が起きた際は、中国政府を非難しつつ、香港市民に英国居留権を付与しないと決定していた英国政府を批判。香港市民の不安を英国の国会で涙ながらに訴えた。これが人々の心を動かし、英国政府は一部の香港市民に英国居留権を付与すると決定。こうした活動が評価され、1990年にはバロネス(女男爵)に叙せられ、華人女性で初めての一代貴族となった。1996年からは英国に移り住み、貴族院の議員として政界に入った。
このように鄧主席は香港や英国に大きな影響力を持つ人物であり、天安門事件の直後は特に注目されていた。「上海証券取引所の開業を鄧主席の上海訪問に合わせれば、世界に対する改革開放政策のアピール効果は絶大だ!」――。そうした思惑が朱鎔基にあった。
つまり、上海証券取引所の開業スケジュールは、一人の女性に合わせて決められたのだった。
創設準備オフィス
証券取引所の創設という大事業を3人組だけで成し遂げろというのは不可能な話だ。そこで3人組の下に、実務担当の創設準備オフィスが設けられ、6人の金融関係者を配置。具体的なルールやプランの策定は、この創設準備オフィスが担当することになった。その責任者には中国人民銀行・金融管理処の王定甫・処長(課長)が選ばれた。
55歳で白髪頭の王定甫・処長は、何事にも慎重な人物だった。“考えに考えたうえで動き出すが、考えても理解できなければ、何もしない”という性格。そのため、王定甫・処長の仕事ぶりはスローペースだった。証券取引所の創設は分からないことだらけであり、考えてばかりで時間が過ぎ去っていったからだ。
朱鎔基からのプレッシャー
怒った時の朱鎔基
(1998年)
こうした状況だったことから、1990年12月に開業するというスケジュールは、非常に厳しかった。そこで3人組は“1990年内に試験運転を実施し、正式開業は1991年の4~5月”という新たなスケジュールを朱鎔基に提出。だが、「これでは遅すぎる。何としても年内に設立しろ!」と、朱鎔基は即座に却下した。
それからというもの、朱鎔基は深夜に3人組に電話し、進ちょく状況を尋ねるようになった。朱鎔基からの深夜コールに備え、3人組は電話機を枕元に置いて寝るようになったという。
朱鎔基は3人組と創設準備オフィスに、さらなるプレッシャーを加えた。1990年4~5月に朱鎔基は米国やシンガポールなどを歴訪し、最後に立ち寄った香港で記者会見を開催。上海証券取引所が年内に開業すると宣言した。これは海外メディアを通じて大きく報道され、“改革開放という中国の目標に変化なし”ということを世界中にアピールする結果となった。
中国市長代表団を率いてNYを訪問した朱鎔基
(1990年7月)
「なんてことだ……」と、3人組は朱鎔基の記者会見に動揺した。まだ具体的なことは何も手をつけていないのに、朱鎔基は世界に向けてタイムリミットを約束し、後には退けなくなった。
創設準備オフィスの責任者である王定甫・処長は、考えてばかりの人物であり、彼に任せては絶対に間に合わない。その王定甫・処長も朱鎔基からのプレッシャーを受け、すでにストレスに耐えられなくなっていた。
かくして、タイムリミットまで約半年という瀬戸際で、35歳の尉文淵が上海証券取引所の創設準備オフィスの責任者に決まった。それまで無名の若者だった。
尉文淵という若者
尉文淵さん
(1990年代初期)
尉さんは上海市出身だが、15歳で5年にわたって新疆ウイグル自治区で兵役に就くかたわら、農業に従事。上海市に戻ってからは映画館での雑用を務めていた。その後、上海財経大学の財政専攻で学び、卒業論文のテーマは“株式制”だった。
1986年に尉さんは北京市に移り、国の監査を担う国家審計署の処長(課長)に就任。だが、上海市で出産したいという妻の要望を聞き入れ、中国人民銀行・上海支店に転職し、金融管理処の副処長を務めていた。
尉さんの性格は王定甫・処長と正反対だった。“やりたいと言えば、何でもやってしまう。行きたい思えば、どこにでも行ってしまう”という人物だ。若く、考え方も柔軟で、何より“勢い”があった。
そうした勢いのある若者の尉さんだったが、証券取引所の創設責任者という任務を命じられた時は、さすがに手に汗を握った。
「家の引っ越しだって、何カ月もかかる。ましてや証券取引所。ただの商店じゃない。世界が注目する中国初の証券取引所だ。これを“半年で創設しろ”だなんて、冗談じゃあない!」と、心の底から思った。
そのうえ尉さんは、証券取引所に対する基本知識がない。証券取引所と聞いてイメージできるのは、戦前の様子を描いた映画の場面しかなかった。この任務の性質も分からなければ、どれだけの仕事や困難が待ち受けているかは、まったく分からなかった。
だが、この尉さんこそ3人組が口をそろえて「彼がいなければ、証券取引所の創設は無理だった」と言うほどの大活躍をみせるのだった。