ジャームズ・ジョンストン・ケズウィック 香港の株式市場が正式に創設されたのは、英領香港の発足50周年に当たる1891年。それ以前にも香港では株券が売買されていたが、それは自然発生的な取引であり、整備された市場はなかった。香港の株式市場の誕生は、今日の証券会社に相当する株式仲介人(ブローカー)が結束し、香港股票経紀会(The Stockbroker’s Association of Hong Kong)を設立した時とされる。
ただ、この連載の第三十四回でも紹介したように、この組織は株式投機の規制をめぐる争いの中で誕生した。株式の転売規制を主張するジャーディン・マセソン商会のジェームズ・ジョンストン・ケズウィック(JJケズウィック)に対抗するための組織であり、株券売買の利権を守ることが創設の目的だった。
香港股票経紀会の実力
香港股票経紀会の創設覚書には21人の名前が挙がっている。会員となった株式仲介人は、香港政財界の大物たちだった。
1866年にオープンしたクラブ・ルシターノ
香港在住ポルトガル人のプライベートクラブ
例えば、ローザ・ブラザーズ・ジェネラル・ブローカー(羅沙兄弟経紀行)のダ・ローザ(J.F.C. da Roza)は、ホンコン&ワンポア・ドック(香港黄埔船塢公司)やホンコン・ホテル(香港大酒店)など、4つの会社で取締役に就任していたほか、ポルトガル人クラブのクラブ・ルシターノ(葡萄牙会)で役員を務めていた。
このほかの株式仲介人も、複数の会社や組織で要職に就いている。彼らが所属する香港総商会(HKGCC)が、香港政庁の立法にも大きな影響を及ぼすのは、当然のことだった。
揺れ動いたチャター氏の思惑
キャチック・ポール・チャター(1924年) 香港股票経紀会の創設メンバーに、キャチック・ポール・チャターという名が記録されている。株式投機の規制をめぐる立法局の会議で、JJケズウィック氏に賛同した人物だ。そのことは、この連載の第三十四回でも、少しだけ触れた。
なぜ、JJケズウィック氏に対抗するために創設された香港股票経紀会に、規制に賛同したチャター氏の名があるのか?そこには、チャター氏の友情、衝動、後悔、暗躍があった。
チャター氏は1846年に英領インドのカルカッタ(現在のコルカタ)で、公務員を務めるアルメニア人の家庭に生まれた。7歳の時に英国籍を所持していた父が病死し、9歳の時に母も亡くなった。
コルカタのラ・マルティニエール・カレッジ サッスーン家の人々 ホルムジー・ナオロジー・モディ 九龍倉の倉庫(1890年) 苦学の末に、現地で有名な私立学校のラ・マルティニエール・カレッジを卒業。1864年に香港へと旅立った。香港に着いたチャター氏は、英国系銀行の利生銀行(Bank of Hindustan,China & Japan)で職を得た。
銀行業務に従事するなかで、チャター氏はユダヤ系富豪であるサッスーン家の知遇を得る。これを機に香港の上流階級で人脈を広げた。銀行は2年ほどで辞め、築いた人脈を生かし、外国為替や貴金属の売買仲介人として独立した。
その後、利生銀行で働いていたパールシー(インドのゾロアスター教徒)のホルムジー・ナオロジー・モディと知り合い、1868年に会社を共同設立。不動産や株券の売買も始めた。モディ氏は1880年代末の株式ブームで大儲けした人物であり、香港大学の創設に貢献したことでも知られる。
株券売買ではブームに乗って大儲けし、何年もしないうちに資産家へと上り詰めた。JJケズウィックとも知り合い、1886年に共同で九龍倉(ザ・ワーフ)と呼ばれる港湾荷役会社を設立。1889年にもJJケズウィックと共同で香港置地(ホンコン・ランド)を設立し、香港島での不動産開発を展開。ビジネスパートナーとして、チャター氏はJJケズウィック氏との関係を深めていた。
1890年7月21日に開かれた立法局の会議で、JJケズウィック氏が株式転売規制の草案を提出したのは、突然の出来事だった。なぜなら、いかなる草案も会議の2日前に立法局に提出するのが慣例であり、これを破る“奇襲”だったからだ。
この席でチャター氏は、友人のJJケズウィック氏が提出した草案に、即座に賛同した。ただ、その時のチャター氏は、草案の内容を理解していなかったようだ。友人の動議に反射神経的に賛同したものの、その後のチャター氏は密かに反対側に立つ行動をしていたからだ。
草案の内容を理解したチャター氏は、反対側につきたがったようだが、もう手遅れだった。草案の賛同者として最初に名乗りを上げたうえ、長年の友人であるJJケズウィック氏との関係もある。表立って反対を表明したり、前言を撤回したりすることができなくなった。
こうした窮地に陥ったチャター氏は、立法局での議論を避けることにした。立法局で草案をめぐる激しい論争が起きるなか、チャター氏はロンドンに外遊しているという理由で、いつも欠席となっていた。
チャター氏はJJケズウィック氏に知られないように、こっそりと仲間内に本心を明かしていた。香港股票経紀会が植民地省に宛てた抗議書では、チャター氏が実は反対派であることが書かれており、その証拠として残っている。
チャター氏がJJケズウィック氏の草案に賛成しながらも、これに反対する香港股票経紀会の創設にも貢献することになった背景には、こうした事情があった。
チャター氏の思惑はともかく、彼は結果的に香港股票経紀会の運営に大きく貢献。皮肉なことだが、香港株式市場の秩序を正し、基本制度を確立した人物として、チャター氏は歴史に名を遺した。
香港股票経紀会の自主規制と業界統一化
利権を守るために創設された香港股票経紀会だが、これにより業界内のルールが統一された。例えば、取引時間、手数料、決済期限、受渡手続といった事務的業務が一つとなった。株価をめぐる報道も基準化された。
株券の売買は、毎営業日にアイス・ハウス・ストリート(雪廠街)10A号の取引所で、10時~14時30分に行われた。ここでは会員である株式仲介人たちが、顧客が希望する売買価格を提示し合い、双方が納得すれば、それで取引が成立した。
ここでの取引情報をネタに、会員は新規顧客を探し、取引を活発化させた。銘柄ごとの取引価格は香港股票経紀会で整理し、翌日の新聞に掲載された。
会員が顧客から徴収する手数料については、暴利をむさぼることを抑制するため、手数料率を公開。手数料は売り方と買い方の双方の顧客から徴収し、取引価格ごとの段階逓減制が採用された。
取引が成立すると、双方の顧客は手数料のほかに、印紙税を支払う必要があった。株券の取引はすべて香港政庁に届け出て、初めて有効になるという規定があり、印紙が必要だったからだ。印紙税の税率も、手数料と同じく段階逓減制が採用された。
香港股票経紀会の排他性
香港股票経紀会の誕生により、業界内の管理や運営は透明化が進み、個人投資家の信頼回復や金融の安定にとって、プラスに作用した。
その一方で、香港股票経紀会に不満を抱く人々も存在した。「香港股票経紀会では、会員のほか、認可された株式仲介人だけが、株券売買を取り仕切る」と規定しており、株券売買の利権を少数の富豪だけが享受できるような仕組みだったからだ。
会員の利権が縮小しないように、入会には厳しい条件が設けられていた。
入会希望者はHSBC(香港上海匯豊銀行)に口座を開く必要があったが、それは非常に難しいことだった。なぜなら特別な推薦人が必要だったうえ、相当な資力も求められたからだ。
仮に資力があったとしても、香港股票経紀会の取締役全員から賛成を得る必要があった。そのうえ、会員は英国籍の所持者に限定されていた。非英国籍の人間に対する差別意識のほか、特権を独占しようとする意図が鮮明であり、非常に排他的な組織だった。これが以前から株式仲介業を営んでいた人々の不満につながった。
香港股票経紀会のライバル出現
英国人による利益独占集団としての色彩が強かった香港股票経紀会は、創設15周年を迎えた1914年2月に、組織名を香港股份総会(Hong Kong Stock Exchange)に変更。社会的認知度をさらに上げ、ますます繁栄した。
しかし、香港股份総会の独占状態は、創設30周年目の1921年に崩れた。この年の10月1日に香港股票経紀協会(Hong Kong Share broker’s Association)が発足。会員の大部分は、香港股份総会に入会できなかった株式仲介人だった。
香港股票経紀協会の顔ぶれは、香港股份総会ほどの“大物”ではなかった。ただ、その取引所はアイス・ハウス・ストリート10号。すなわち、香港股份総会の隣であり、挑戦的な姿勢をみせていた。
さらに1924年6月に香港股份総会を脱会した株式仲介人が、香港股票及物業経紀社(Share & Real Estate Broker’s Society of Hong Kong)を創設。背景には香港股份総会への不満があった。この組織の取引所は、セントラル(中環)の広東銀行大廈(バンク・オブ・カントン・ビルディング)の3階に設けられた。
このほかにも、1920年代の初期には香港匯兌経紀所(Exchange Broker’s Association of Hong Kong)という小さな株式仲介人の組織もあった。1920年代の香港証券業界は、まさに“百花斉放、百家争鳴”という状態だった。
中国人の株式仲介人が出現
こうしたなか、香港の証券業界では、ある変化が起きていた。それは中国人の株式仲介人の増加だった。
1890年代ごろの香港では、中国人に占める株式投資家の割合が小さかった。中国人の株式仲介人に至っては、幻のような存在であり、極めて少なかった。株式業界は欧米人、ユダヤ人、ペルシャ人の天下だった。
1895年のクイーンズ・ロード(皇后大道)
中国式建築が増加
しかし、20世紀に入ると、香港の中国人コミュニティが発展。中国人の資力も増強した。こうした状況を背景に、中国人の投資家が急増。中国人の株式仲介人も増加した。
彼らは香港股票経紀協会や香港股票及物業経紀社の会員となっていく。なかでも香港股票経紀協会では、中国人の株式仲介人が大きな割合を占めたという。香港股票経紀協会の会員名簿には、西洋人に混じって、蘇佩紹と蘇佩賛の兄弟や蕭貫之といった中国人の名前が記録として残っている。
再び香港股份総会の時代に
1920年代の香港では、複数の株式仲介人組織が、それぞれ取引所を設け、競争を繰り広げた。ただ、そうした状態は長く続かなかった。1920年代の末から1930年代の初めに、香港股票及物業経紀社と香港匯兌経紀所が廃業した。
香港股票及物業経紀社は創業者が香港股份総会に戻り、短い歴史に幕を下ろした。香港匯兌経紀所は外国為替業務に集中するため、株式業務を終了した。
香港股票経紀協会は1947年まで生き残ったが、香港政財界の重鎮が集まる香港股份総会にはかなわず、業界の隅で細々と活動するほかなかった。短い競争期を経て、香港股份総会が証券業界を主導する形が固まった。
香港の貿易拡大
19世紀末から20世紀初頭の香港株式市場について概観したが、続いて当時の香港経済を見てみよう。
英国は1898年6月9日に清王朝から九龍半島のバウンダリー・ストリート(界限街)の北から深圳河の南までの土地を租借することで契約。この土地は新界(ニューテリトリー)と呼ばれ、香港政庁の統治下に入った。
こうして香港の土地資源は大幅に拡大し、国際経済での競争力が一段と強まった。1890年の香港の貿易規模は、貨物重量ベース(以下、同じ)で977万トンほどだったが、これが1904年には2倍の1,933万トンに膨れ上がった。
こうしたなか、中国本土は列強間の権益獲得競争や革命をめぐる不穏な空気が漂っていた。その影響を受け、香港の貿易規模は、辛亥革命が起きた1911年に前年比で2%ほど減少した。
第一次世界大戦中に英軍が香港で披露した戦車 もっとも、1912年には前年比5%増となり、その翌年は同6%増を記録するなど、香港経済には力強さがあった。
1914年7月に欧州を主戦場とする第一次世界大戦が勃発すると、宗主国である英国の参戦にともない、香港も間接的な戦争状態に突入。過去数十年にわたり拡大を続けた香港の貿易規模も縮小に転じた。
1913年の貿易規模は2,294万トンだったが、大戦初年の1914年は前年比3.8%減の2,207万トン。大戦が終結した1918年はわずか1,398万トンで、開戦前の1913年に比べ39%も減少した。
だが、大戦が終結すると、復興需要を背景に、中国本土で生産される日用品などが、欧州で飛ぶように売れた。香港は中継貿易の拠点となり、貿易規模も拡大。1919年は前年比32%増の1,847万トンとなり、その後も成長が続いた。1923年には3,000万トンの大台を超え、1924年には3,547万トンを記録。1918年の2.5倍となった。
低調な株式市場の拡大
香港の貿易規模は大戦期を除いて拡大が続いたが、株式市場の規模的拡大は低調だった。株式の売買が可能な有限責任公開会社(公開会社)は、1890年末で59社だったが、その後は減少が続き、1894年には48社となった。
そこから再び増加に転じ、1900年末には57社に回復。20世紀最初の年の1901年は一気に20社あまりも増え、年末には78社に達した。
もっとも、勢いは続かず、再び減少傾向に転じる。一時的に急増することはあっても、短期的な現象に終わり、1917年には49社となった。公開会社の数が本格的に増加するのは、大戦の終結後だった。
公開会社の業種変遷
時代に応じて、公開会社の業種構造も変化した。1890年代の初頭は鉱業やプランテーションの会社が多く、投資家の人気を集めた。だが、赤字が続く経営実態が明るみになると、バブルが崩壊。こうした業種の公開会社は減少の一途となった。
1890年代の中期になると、香港では製造業が萌芽期を迎え、繊維工業が盛んになる。これに関連する公開会社も増加した。
大戦後は銀行業に変化が起きた。それまではHSBCだけだったが、東亜銀行(バンク・オブ・イースト・アジア)、渣打銀行(チャータード・バンク)、半島東方銀行(P&O バンキング・コーポレーション)、有利銀行(マーカンタイル・バンク)などが、公開会社の列に加わった。
列強はアフリカで天然ゴムに注目
現地住民にゴム採取を強要
ノルマ未達者は腕を切り落とされた
保険業は海上火災保険が中心だったが、中国本土をめぐる列強間の利権争いや大戦の影響を受け、数が大幅に減少した。一方、海上輸送業は香港の貿易拡大を追い風に、安定的な数を維持した。
こうしたなか、1900年代の初頭に入ると、新素材の“ゴム”が注目を集めた。1909年はゴムを手掛ける公開会社が一気に15社も出現。翌年には26社に達し、ゴム会社の株券が活発に取引された。だが、“ゴムバブル”は一気にはじけ、1911年には1社を残すだけだった。なお、“ゴムバブル”は上海でも発生しており、この連載の第四回でも触れている。
“ゴムバブル”は1890年ごろの鉱業株やプランテーション株のバブルに類似している。それは経営実体が東南アジアにあったことだ。香港からは目が届かず、新聞も大した調査もせず、誤った業績や経営状況が伝わったことが、“ゴムバブル”の原因とみられる。
株式売買で情報の正確性が重要なのは、今も昔も変わらない。また、怪しげな情報が流布することも、今も昔も同じだ。一時は怪しい情報が信じられ、株価が上昇しても、事実が判明すれば、それに合わせて株価も調整することも、今も昔も違いはない。一方的な情報は、無条件に信じるのではなく、ほかの情報と合わせて正しく評価することが重要だ。
情勢不安定化がもたらす実体経済と金融経済の乖離
19世紀末から20世紀初頭にかけて、香港は貿易の成長が続いたが、株式市場の拡大は停滞気味だった。
貿易は世界情勢の変動を機に、商品構成の調整や需給の均衡化を通じて、利益を得ることができた。一方の株式市場は世界情勢の不安定化で先行き不透明感に包まれると、投資家心理が冷え込んだ。
実体経済に比べ、金融経済は世界情勢の不安定化に弱いという特徴がある。それは現在でも同じだ。例えば、米中摩擦のなかで、中国が高い経済成長率を維持しても、株式市場が低調なのは、その一例と言えるだろう。
歴史をひも解けば、いま起きている事態も特殊なことではないことが分かり、未来を見通すうえでの指針も見つかるだろう。歴史を学ぶ意義は、これに尽きる。