瀋陽証券交易市場の開業から1カ月あまりが過ぎた1986年9月26日、上海市の中心部にある仏教寺院「静安寺」の近くに、株券の店頭市場がオープンした。株券の市場としては、これが第一号だった。
場所は南京西路1806号。その場所を尋ねると、「証券市場だって?あそこは小さな理髪店だよ」という答えが返ったかもしれない。確かに以前は10平米あまりの狭い理髪店だったからだ。
静安証券営業部の外観
この小さな店舗に引っ越して来たのは中国工商銀行上海信託投資公司静安分公司(上海工商信託静安公司)。店舗のサイズに合わないビッグネームだ。この店を人々は「静安証券営業部」と呼んだ。これが世界屈指の証券市場に成長する上海証券取引所の原点だった。
金融の街の復活に向けた小さな第一歩だったが、ここに至る道のりは平坦ではなかった。
株券発行で大混乱
話は8カ月ほど前に遡る。コピー機事業などを手がけていた上海延中実業股份有限公司(延中実業)が、1985年1月14日に株券を発行。上海市での株券発行としては、1984年11月の上海飛楽音響股份有限公司(飛楽音響)に続く2例目だった。
延中実業の株券は額面が50元。これを10万株発行し、500万元に上る資本金を調達する計画だった。発行規模は飛楽音響の10倍。株券の販売を引き受けたのは、飛楽音響の時と同じ上海工商信託静安公司だった。10万株のうち、7万株が一般の個人投資家に販売されることになった。
飛楽音響の時とは違い、延中実業は上海市の各紙に大々的な広告を出した。これが予想以上の効果を発揮し、販売場所の静安体育館には長蛇の列ができた。行列は数キロメートルに達し、一部の路線バスが運行不能に陥った。上海市民の投資家精神が、本格的によみがえった。
「なぜ事前に警察へ連絡しなかったのか!」
交通の混乱を見た警察が販売場所に怒鳴り込んできた。
「こんなに人が集まるとは思っていなかったのです……」
販売責任者はそう答えるしかなかった。
延中実業の株券
一般向けの販売予定は7万株までだったが、12時にはこれを突破してしまった。販売責任者は中国人民銀行(中央銀行)の上海支店に電話を入れ、指示を仰いだ。
「9万株までだ」という答えが返ってきたが、殺気立つ群衆を抑えられない。15時には9万4,000株に到達し、ついに販売をストップした。
なお、延中実業は上海証券取引所が開業した1990年12月19日に上場(証券コード:600601)。後に北京大学系の企業に買収され、社名も「方正科技集団股份有限公司」に変わっている。
売れない株券
延中実業の株券販売場
飛楽音響と延中実業の株主数は、それぞれ1万8,000人、2,000人に上った。株券の発行は成功したものの、すぐに売却方法についての問い合わせが、販売を引き受けた上海工商信託静安公司に殺到した。
息子の留学、娘の嫁入り……。現金の需要は突然やってくる。友人知人に売り付けることに成功した人もいたが、株券を買ったことを後悔する人も多かった。1986年に飛楽音響が最初の配当を実施すると、今度は株券を買いたいという問い合わせが加わった。
江沢民の指示
辺鄙な瀋陽市とは違い、上海市では“こっそり”と株式市場を開設するわけにはいかない。対応に苦慮した上海工商信託静安公司の責任者は、中国人民銀行の上海支店に報告書を提出し、株式市場の開設を要請。さらに何度も状況を説明したが、まったく回答は得られなかった。
中国人民銀行の上海支店にとって、株式市場の開設承認は政治的リスクが高すぎた。彼らの上司だった中国人民銀行の陳慕華・総裁が、証券市場の開設に否定的だったからだ。
「債券や株券を発行する動きが広がっているが、これは中国が証券取引所の開設を計画していることを意味しない。現在のところ、中国は株券の自由な売買を考えていない」と、陳総裁は語っていた。こうしたなかで上海工商信託静安公司の要請を取り次ぐのは、部下としては危険な冒険であり、報告書は握りつぶされた。
風向きが変わったのは、1986年8月に開かれた上海市長が主催する座談会。この席で上海工商信託静安公司の責任者は、当時の市長だった江沢民に株券流通の必要性と切迫した状況を訴えた。
「発行市場があるだけではダメです。流通市場が必要です」
「株券の命は流通市場にかかっています。流通しなければ、その生命力を失います」
上海市長時代の江沢民(1987年) 事情を知った江沢民は、中国人民銀行の上海支店に報告書を調べ直すよう指示。上海工商信託静安公司の責任者が報告書をもう一度送ると、今度は2日も経たずに店頭市場の開設が許可された。上海工商信託静安公司は静安証券営業部に改組され、業務開始に向け動き出した。
職員5人での船出
10平米ほどの店舗でスタートした静安証券営業部の職員はわずか5人だった。マネージャーは黄貴顕さん。1928年に上海市で生まれ、中華人民共和国の建国前は、華僑系の銀行で働いていた人物だ。
5人の職員のうち、証券業務の経験者はゼロ。手探りで業務を進めるほかなく、何とも頼りない船出だった。しかし、市民の反応はすごかった。静安証券営業部の開業を伝える記事が新聞に掲載された影響で、開店前から大勢の市民が見物にやって来た。店の前にはトロリーバスのバス停があったが、群衆のせいで停車できないほどだった。
群衆をかき分けて入店した黄さんたちは、9時から営業を開始。店の壁に黒板を掛け、2つの銘柄名を書き込んだ。飛楽音響と延中実業だ。いずれも額面は50元だが、書き込まれた価格は飛楽音響が55.6元、延中実業が54元だった。
店を開けると、当然の結果だが、大勢の人々で混雑した。この混乱のなかで、車椅子に乗った人が黄さんに目にとまった。「これはいかん!」と、黄さんは車椅子を押し、顧客第一号とした。
静安証券営業部の内部
車椅子の人物の名前は、残念ながら明かされていない。黄さんたちの記憶によると、この人は1,000元を所持しており、飛楽音響の株券18株を購入。「飛楽の製品が人気だったから投資することにした」と語っていたそうだ。
営業初日はほとんどが買い注文で、売りはとても少なかった。そこで黄さんは延中実業などに電話をかけ、保有株を売り出すよう呼びかけた。現在ではあり得ない話だが、その当時は可能だった。
営業時間は16時30分に終了。出来高は飛楽音響が700株、延中実業が840株。売買代金は8万5,280元だった。これが世界一小さな取引所の最初の成果だった。
海外の反応も大きかった。中国とは国交がなかった韓国から祝電が届いたほか、日本の大手証券会社の社長も来訪した。欧米からも見学者が来たという。
上海総合指数の祖母
開業初日は熱狂的だったが、あっという間に商いは冷え込んだ。1986年10-12月の出来高はわずか1,367株。毎日30株ほどしかなかった。この状況はメディアにも取り上げられ、“取引のない取引所”などと揶揄された。
その後の数年間、静安証券営業部は債券を担保とした融資業務などで、細々と食いつなぐことになったが、その間も大きな功績を遺した。
日本の東洋経済新報社が発行する「会社四季報」を参考に、年に1回の「年報」を考案。黄さんなどが編集に携わり、中国本土で最初の株式年報「1988年股票年報」を発行した。
1989年には中国本土で最初の株価指数「静安指数」を公表。1986年9月26日の株価を100ポイントとする時価総額加重平均型株価指数であり、その計算方法は東京証券取引所のTOPIX(東証株価指数)に学んだ。
上海証券取引所が1990年12月19日に開業したが、独自の株価指数がなかったため、引き続き静安指数が使われた。上海証券取引所が上海総合指数の公表を始めたのは1991年7月15日。静安指数のデータが、その基礎となった。上海総合指数の母が上海証券取引所とすれば、静安証券営業部は祖母、東京証券取引所は曾祖母ということになる。
静安証券営業部は1988年に発足した証券会社「上海申銀証券有限公司」(申銀証券)の母体となった。申銀証券は1996年に上海万国証券公司と合併し、申銀万国証券股份有限公司(申銀万国証券)が誕生。2015年には宏源証券股份有限公司を吸収し、申万宏源集団股份有限公司(証券コード:000166)として深圳証券取引所に上場した。