香港は海外から中国本土へのゲートウェイ(入口)として知られる。その裏で見過ごされがちなのが、香港が東南アジアへのゲートウェイでもあることだ。香港は中華世界と東南アジア世界の境界線に位置するという優位性を持つ。東南アジアは古代から中国人が進出している“中国の裏庭”。東南アジアを安住の地とした中国人の後裔“華人”は、国家レベルの人口を有する勢力であり、国によっては現在も本来のアイデンティティを保持している。今回は中華世界の南方拡張と中国人の東南アジア進出の歴史を中心に解説する。
中国人の領域“両岸三地”
“一つの中国”(中国語:一個中国)とは、「世界に中国は一つしかない」という意味。中国国民党(国民党)と中国共産党(共産党)は、この“一つの中国”の主権をめぐり、国共内戦を繰り広げた。
中華民国の全土地図 国民党の中華民国政府は、台湾に移転。中国本土を支配下に置いた共産党は、1949年10月1日に中華人民共和国を建国した。台湾の中華民国政府が主張する中国の領土は、中国本土やモンゴルの全域に加え、ソビエト連邦、ミャンマー、ブータン、インド、日本、アフガニスタン、パキスタンの一部地域を含み、中華人民共和国よりも広大だった。
こうした領土の範囲をめぐる相違はあったが、共産党の中華人民共和国政府と国民党の中華民国政府は、“一つの中国”という認識では一致し、我こそは唯一の合法的政府であると互いに主張した。
なお、1988年に国民党の李登輝が中華民国の総統に就任すると、台湾では“一つの中国”が揺らぎ始めた。2000年に台湾で民主進歩党(民進党)の陳水扁が総統に就任すると、“一つの中国”はさらに崩れ、台湾独立志向が強まった。
こうした状況はあるにせよ、中国本土も台湾も中国人が住んでおり、そこに住む人々による政府がある。中華人民共和国に返還された香港とマカオでは、高度な自治が認められ、“一国二制度”を実施。そこに住む中国人による特別行政区政府が存在し、返還前の資本主義制度が維持されているが、中華人民共和国の一部だ。
中国本土、台湾、香港・マカオは、それぞれの主義や制度が異なるものの、中国人の政府が統治する地域であり、その総称として“両岸三地”という言葉がある。香港・マカオを分けた場合は“両岸四地”という。
この両岸三地が中国人の統治領域であり、“一つの中国”だ。しかし、中国の外にも国家に匹敵する中国人の勢力が存在する。それが世界各地に散らばる海外華人だ。
ここでは便宜的に、海外に住む中国系の人々をまとめて“海外華人”と呼ぶ。このうち華僑とは、中華人民共和国や中華民国の国籍(中国籍)を保持しながら、外国に暮らす人々を指す。中華人民共和国の出身者である場合、外国籍を取得すると、中国籍を喪失する。そうした人々は“外籍華人”“華裔”など呼ばれ、華僑と区別される。
中華民国の出身者は外国籍を取得しても、中国籍を保持することが可能。こうした人々も中国籍を保持しているので、台湾では華僑に該当する。なお、台湾、香港、マカオは、二重国籍を認めている。ただし、二重国籍者を所持する者は、公職に就くと外国籍を放棄しなければならない。
これから説明する海外華人とは、中国の領域である両岸三地の外に住む華僑、外籍華人、華裔の総称を意味する。
海外華人の規模
台湾の中華民国僑務委員会の「中華民国108年僑務統計年報」によると、海外華人の数は2019年末で4,921万人に上る。これは2019年7月に更新された国際連合統計部(UNSD)の世界人口ランキングで30位のスペイン(4,674万人)を上回る規模だ。
海外華人の数は増加の一途。2018年末~2019年末の1年間で52万人増加した。これは日本の政令指定都市の要件である50万人を超える規模だ。
また、2009年末の海外華人は3,908万人だったことから、10年間で1,013万人も増加したことになる。つまり平均で年間101万人以上のペースで増加したことになる。この増加数は日本の中核都市の人口に匹敵する。
海外華人の勢力は、中堅国並みであり、1年間に日本の中核都市1つ分のペースで拡大していることになる。なお、海外華人の数をめぐっては、中華民国僑務委員会の統計と異なるデータもある。海外華人の定義が難しいうえ、各国で集計の方法が違い、全容の把握が困難だからだ。しかし、継続的に海外華人の統計を発表しているのは、中華民国僑務委員会だけであり、そのデータに準拠して話を進める。
海外華人の分布
2019年末の海外華人のうち、全体の70%に相当する3,445万人がアジア州で暮らしている。アジア州と言っても、そのほとんどは東南アジア。3,445万人という人口は、世界42位のウズベキスタン(3,350万人)を超える。東南アジアの華人は、現地の政財界に大きな影響力を持つことが多い。
アジア州に次いで海外華人が多いのが米州の968万人で、全体の19.7%を占める。米州のうち、中南米は19世紀に海外出稼ぎ労働者の“苦力”(クーリー)として売られた中国人の子孫が多い。在ペルー華人は100万人を超え、ブラジル、アルゼンチン、パナマなどにも、十数万人から数十万人の華人がいる。
ニューヨーク・マンハッタンのチャイナタウン 米州のうち、華人が最も多いのが米国の550万人。在米華人は19世紀の西部開拓時代に送り込まれた苦力に始まった。中国から米国への人の流れは、20~21世紀も絶え間なく続いている。米国に渡る中国人の性質も変化。当初は食うために職を求める人々が大多数だったが、今日では留学やビジネスなど、渡米目的が多様化している。
在カナダ華人は191万人。トロントやバンクーバーなどに華人が集中している。カナダは人口が少ないことから、華人の割合は5%以上。カナダ人20人のうち、1人は華人ということになる。
欧州の華人は230万人。海外華人全体の4.7%にすぎない。在仏華人が75万人で最も多く、これに在英華人の47万人、在伊華人の30万人が続く。各国の人口に占める華人の割合は低く、あまり目立つ存在ではない。しかし、近年はハイペースで増加している。
大洋州も華人の数がハイペースで増加している地域だ。大洋州の華人は166万人。このうち在豪華人は139万人で、在ニュージーランド華人は23万人。大洋州の華人は、海外華人全体の3.4%にすぎないが、存在感は大きい。オーストラリアとニュージーランドのいずれも、人口に占める華人の割合は約5%に達しており、カナダと同じような状況となっている。
アフリカ州の華人は111万人。海外華人全体に占める割合は、わずか2.3%だ。しかし、中国のアフリカ政策や資源開発を背景に、どの地域よりもハイペースで華人が増加している。
ケニアで列車運転技術を指導する中国人
中国がケニアに建設したモンバサ・ナイロビ鉄道
2017年5月31日に開通
このように4,921万人に上る海外華人のうち、70%に相当する3,445万人がアジア州に住み、なかでも東南アジアに集中している。2012年末の統計によると、日本に住む華人は68万人で、韓国は18万人にすぎない。そこで、中国の領域拡張と東南アジアへの華人進出の歴史を見てみよう。
“化外の地”だった長江流域
黄河流域の中原(ちゅうげん)に起こった中華文明にとって、長江流域の南は異民族の領域だった。こうした地域を中原の人々は中華文明が及ばない“化外の地”(けがいのち)と呼び、そこに住む異民族を蛮夷とさげすんだ。
周王朝四代目の昭王は、紀元前10世紀に南方遠征をたびたび実施。目的は荊楚(けいそ)が保有する銅鉱の獲得だったとみられる。荊楚とは長江の支流である漢水(かんすい)の流域に住む異民族であり、荊蛮(けいばん)とも呼ばれていた。荊楚の君主は周王朝二代目の成王から子爵の位が与えられていたが、荊蛮という呼称からも分かるように、蛮族として蔑視されていた。
荊楚の中心地である漢水流域は、現在の陝西省南部、河南省西南部、湖北省北部に相当。華北平原のすぐ南は、異民族の住処だったことが分かる。漢水流域に親征した昭王だが、周王朝の都である鎬京(こうけい)に凱旋することはなかった。
昭王は南方遠征の途上で崩御したようだが、その死因について諸説ある。荊楚との戦いで戦死したという説もあれば、戦利品を満載した船が転覆し、漢水で溺死したという説もある。
周王朝による征服を免れた荊楚は、楚国として発展。長江流域にも勢力を拡大した。紀元前9世紀ごろに熊渠(ゆうきょ)という人物が楚国の君主に即位すると、「我は蛮夷なり。中国の号諡にあずからず」と宣言した。
これは“自分は蛮族とされる異民族であるから、中国からの爵位は不要だ”という意味。こうして異民族国家である楚国の君主は、中華文明の統治者の称号と同じ “王”を名乗り、対等の存在であると誇示した。ただ、熊渠は暴虐で知られる周王朝十代目の厲王(れいおう)を恐れ、すぐに王号を撤回した。
浙江省博物館所蔵の越人像
文献の記録通り断髪文身の姿
一方、長江下流の南岸には、現在の江蘇省蘇州を中心とする呉国と浙江省紹興一帯を支配する越国があった。これら二つの国も中華文明の人々からは蛮族とされ、いずれも髪を結わずに、身体に刺青を入れる“断髪文身”(だんぱつぶんしん)という風俗だった。呉国と越国の言語は同じ古越語だったようで、呉人や越人は中原の人々から“鳥語を話す人”と蔑視された。習俗も言語も同じ呉国と越国だったが、“呉越同舟”の四字熟語で知られるほど、仲が悪かった。
こうした異民族蔑視は楚国に対しても同様であり、儒家の孟子は楚国出身の農業思想家である許行を“南蛮鴃舌”(なんばんげきぜつ)の人と呼んだ。これは“モズの鳴き声のような言葉を話す南の野蛮人”という意味。このように長江流域は、黄河流域の中原から見れば、まさに“化外の地”だった。
強大化した南の異民族
楚国は長江流域にも進出し、勢力を拡大。紀元前740年に楚国の君主に即位した熊徹(ゆうてつ)は、王号を回復した。これ以降の楚国の君主はすべて王を名乗り、中華文明の中心地である中原に侵攻。紀元前613年に即位した荘王(そうおう)は、中原の覇者となった。
河南博物院所蔵の王子午鼎
荘王の子である王子午(子庚)が自ら鋳造
王子午は康王の時代に令尹(宰相)を務めた
荘王は紀元前606年に周王朝の都である洛邑の近くまで軍を進めた。これに驚いた周王朝は使者を派遣し、荘王を慰労。その際に荘王は “九鼎”の重さを使者に尋ねた。九鼎とは夏王朝、殷王朝から周王朝に伝わった鼎であり、それは中華文明の王権を象徴する宝器だった。
その重さを問うということは、これを奪う意図を示す。この荘王の発言は周王朝に対する恫喝だった。この故事から “鼎の軽重を問う”という成句が生まれた。南方の蛮族だった楚国は、中華文明の王権を狙えるほどまでに強大化した。
長江下流域では呉国と越国が激しく争い、それは“臥薪嘗胆”の故事で知られるほど熾烈なものだった。呉国は紀元前506年に兵法家の孫武(孫子)と名将の伍子胥(ごししょ)を起用し、楚国に侵攻。楚国の首都を陥落させ、滅亡寸前まで追い詰めた。
伍子胥は楚国の貴族だったが、主君である平王(へいおう)に父と兄を殺された恨みがあった。祖国の首都を陥落させた伍子胥は、すでに崩御していた平王の墓を暴き、その遺体に三百回も鞭を振るった。この故事から“死者に鞭打つ”という言葉が生まれた。
呉国と越国の銅剣
越族は武器製造の技術水準が高く、剣の名匠が多かった。
干将・莫耶の夫婦が作った名剣伝説などで知られる
このように強大だった呉国も、力を蓄えた越国によって紀元前473年に滅ぼされた。その越国も紀元前306年に楚国によって滅亡。楚国は現在の江蘇省、安徽省、河南省に相当する淮河流域にも進出。紀元前256年には孔子の祖国である魯国に侵攻し、これを滅ぼした。
最後に勝ったのは楚国
中国南部の広大な領域を支配した楚国だったが、西の強国である秦国の侵攻に苦しむ。秦国は紀元前223年に名将の王翦(おうせん)に60万人の大軍を授け、楚国に本格侵攻。楚王を捕虜にし、翌年までに楚国全土を平定した。
秦国は紀元前221年に中国を統一。秦王の嬴政(えいせい)は始皇帝を名乗り、二千年以上に及ぶ中国の帝政が始まった。楚国は秦国に滅ぼされたものの、「楚雖三戸、亡秦必楚」(楚は三戸といえども、秦を亡ぼすは必ず楚ならん)と、楚人は復讐を誓った。
秦の始皇帝が崩御し、秦帝国の支配が揺らぐと、楚国の項燕(こうえん)将軍の孫である項羽(こうう)が決起。ついに秦帝国を亡ぼし、西楚の覇王を名乗った。だが、論功恩賞をめぐり同じ楚国出身の劉邦(りゅうほう)と対立。両者の抗争である楚漢戦争が勃発した。この争いに勝利した劉邦は、漢王朝を樹立。最後の勝者は、楚国出身の劉邦だった。
劉邦の出身地である沛県(はいけん)は、確かに楚国の領域であり、そうした意味で彼は楚人だった。ただ、それは現在の江蘇省徐州市豊県であり、楚国の北限に近い新領土。血統的に劉邦が楚人だったかは謎だ。
しかし、皇帝に即位した劉邦が作ったとされる「大風歌」(たいふうのうた)は、まさに楚歌だ。また、“四面楚歌”の故事でも分かるように、多くの楚人が項羽ではなく、劉邦に味方した。
楚国は滅んだものの、その精神は漢王朝に引き継がれており、最後の勝者だったと言えるのかも知れない。かつては南の蛮族だった楚国だが、数百年に及ぶ戦乱の時代を経て、中華文明の一部となった。
秦帝国の百越征服
中華文明の一部となった楚国の南は、“百越”(ひゃくえつ)の領域だった。百越とはさまざまな越族の総称。その領域は広大であり、長江の南からベトナム北部に及んだ。一部は長江下流の呉国や越国のように国家を形成したが、中華文明と接触しない部族も多かった。
長江下流の越国が楚国に滅ぼされると、その遺民は故地を捨て、南下を開始。現在の浙江省南部に定住した部族は、“東越(東甌)”(とうえつ、とうおう)と呼ばれた。福建省に至った部族は“閩越”(びんえつ)となった。一方、現在の広東省と広西チワン族自治区に相当する嶺南(れいなん)地域は “南越”(なんえつ)の領域。南越は西甌(せいおう)、雒越(らくえつ)など諸部族の総称だった。
秦帝国は紀元前219年に兵力50万人を動員し、百越征服に着手。東越や閩越の地域のほか、南越が住む嶺南地域にも侵攻した。東越や閩越の平定は比較的容易だったが、嶺南地域への侵攻は、慣れない気候風土と南越のゲリラ戦に苦しめられることになった。
現在の霊渠(広西チワン族自治区桂林市興安県) 秦帝国は南越征服を支援するため、紀元前214年までに長江水系の湘江(しょうこう)と珠江水系の漓江(りこう)を結ぶ運河「霊渠」(れいきょ)を完成させた。全長が約36キロメートに及ぶ霊渠は、多くの水門で高低差を乗り越えるという高度な技術を採用。霊渠は現在も使われており、秦帝国の土木技術の高さを今日まで伝えている。
霊渠が完成し、兵站が充実したものの、戦局を挽回することは難しく、秦軍は20万人に激減。秦軍の総司令官は戦死した。惨憺たる結果だったが、南方の豊かな物産に魅かれた始皇帝は、百越征服を続行。戦力を追加投入し、ついに南越を支配下に置いた。
北回帰線の南
嶺南地域の南越を征服した秦帝国は、ここに三つの郡を置いた。この地域の中国化を図るため、北部から数十万人規模の強制移住を実施。だが、女性の数が足りず、現地人との通婚が進み、中国人と越人の同化が進んだ。
秦帝国がどこまで南下したかは諸説あるが、司馬遷の「史記」秦始皇本紀には「南至北向戸」(南は北向戸に至る)とある。この“北向戸”とは“北向きに窓を開ける地域”を意味する。北回帰線の南では、太陽が天頂よりも北側に来る。つまり、北から日が差す状態となる。この記録は秦帝国の領土が、北回帰線の南に至ったことを示唆している。
北回帰線とは何か?現在の北回帰線は北緯23度26分の緯線を指す。人間が体感できる表現で言えば、「夏至の正午に太陽が天頂に来る緯線」だ。太陽が天頂に来る場所を太陽直下点という。北回帰線は夏至の正午に太陽直下点となり、その瞬間は直立した人や物の影が消えるという面白い現象が起きる。
影がなくなる現象“立竿無影”を見守る人々
雲南省墨江(2021年6月21日)
北回帰線では夏至の日の正午にだけ、太陽が天頂に至り、影が消える。この現象は南緯23度26分の南回帰線でも、冬至の日に起きる。北回帰線の北や南回帰線の南では、太陽が天頂に来ることはなく、影が消える現象は起きない。
北回帰線と南回帰線に挟まれた地域では、太陽が天頂に来る機会が二度ある。赤道では春分の日と秋分の日に、太陽が天頂に来る。
影が消える正午を英語ではラハイナ・ヌーンと呼ぶ。ラハイナとは“残酷な太陽”という意味のハワイ語。太陽直下点の北限である北回帰線は、温帯と熱帯の境界線でもある。
世界を分ける北回帰線
“南への扉”と呼ばれたエレファンティネ島に残る遺跡
エラトステネス
(紀元前 275~194 年)
素数判定法を考案したことでも有名
古代エジプトでも北回帰線の存在は知られていた。エジプト南部のシエネを流れるナイル川には、エレファンティネという名の島がある。古代エジプトではエレファンティネ島に “南への扉”という別名があった。この島がエジプト世界の南限であり、そこから先はヌビアなどの異世界と考えられていた。当時の北回帰線がこの島を通過していたからだ。
余談だが、紀元前3世紀に古代エジプトのアレクサンドリア図書館で館長を務めたエラトステネスは、夏至の日にエレファンティネ島では太陽光が井戸の底に届くことを知る。これは太陽直下点になることを意味する。そこで夏至の日にアレクサンドリアで鉛直に立てた棒からできる影の角度を測定。さらにアレクサンドリアとエレファンティネ島の距離を見積り、地球の全周は約4.6万キロメートルであると計算した。
また、ヘロドトスの「歴史」によると、エジプト第26王朝の2代目ファラオだったネコ2世は、海上交易の民として知られたフェニキア人に、アフリカ周航を命じた。紀元前600年ごろのことだった。このアフリカ周航は3年がかりで成功。フェニキア人はアフリカ大陸を時計回りに航海したが、右手の方向に太陽を見たと報告した。
これは太陽が北側にあることを意味する。実際に北回帰線の南に行けば、こうした現象が起きる。しかし、“そんなことはあり得ない”と、ヘロドトスはこの話を疑い、アフリカ周航を信じなかった。現在では逆にフェニキア人の報告は、信頼性が高いと評価されている。
北回帰線はインド亜大陸を横断する。インドでは北回帰線付近で、大まかに北インドと南インドに分かれる。ヒンディー語などのインド・アーリア語派とタミル語などのドラヴィダ語族の領域を分ける境界線にもなっている。
現在の中国で北回帰線は、広東省、広西チワン族自治区、雲南省を東西に走る。このラインは古代から中華世界と東南アジア世界を分ける自然の境界線だった。秦帝国に始まる中国の歴代王朝は、北回帰線により南に進出したが、支配力を維持するのは困難だった。
秦帝国の嶺南進出から、ベトナム北部は中国の王朝に支配されたが、現地の中国化は進まなかった。ハノイ郊外ソンタイ出身のゴ・グエン(呉権)は、中国王朝の支配を打ち破り、938年にベトナム初の独立王朝である呉朝を建国。その後もベトナムは独立王朝が支配した。1407年に明王朝に征服された時期もあったが、その期間は20年しか続かなかった。
海のシルクロードの誕生
1597年作成の地図
エリュトゥラー海案内記の地名を反映
北回帰線は中国王朝の南限だった。だが、歴史に名を残さない商人や民衆は、国境を越えて活動していた。1~2世紀ごろには西洋と東洋を結ぶ海上交易路が誕生し、それは “海のシルクロード”と呼ばれる。
ギリシャやローマの地中海世界は、海路でインドとつながっていた。1世紀ごろに書かれたペリプルス(航海記)の一つである「エリュトゥラー海案内記」は、紅海(エリュトゥラー海)からインド、アフリカ東海岸に至る季節風貿易を紹介している。
この書物では絹の産地である偉大な内陸都市“シナ”(Thina)や“シン”(Thin)への言及がある。これは秦、つまり中国であることを示唆している。また、インドと中国の国境に言及した部分では、背が低く、顔が平らな“セサタイ”という部族を紹介。おそらく、東アジアの人々を示している。
1世紀ごろには、西洋からインドへの海上交易ルートが確立していた。一方の中国でも東南アジアからインドへのルートがあった。後漢時代の班固などが編纂した「漢書」地理志には、東南アジアから南インドへの記述がある。
インドを目指した西洋と東洋の各ルートは、2世紀ごろには連結したようだ。166年に大秦王安敦の使者が後漢王朝の日南郡(現在のベトナム)に到着した。大秦王安敦とはローマ帝国五賢帝の一人であるマルクス・アウレリウス・アントニヌスとみられる。
仏教をめぐる交流
法顕一行を苦しめたタクラマカン砂漠 海のシルクロードが運んだものは、西洋と東洋の物産品だけではなかった。宗教という精神的な遺産も、海のシルクロードで伝わった。仏教僧の法顕(ほっけん)は、五胡十六国時代の337年に現在の山西省長治市に生まれた。彼はインドへの求法の旅を計画。還暦を過ぎた399年に、4人の同志とともに長安を出発した。内陸のシルクロードを通り、6年がかりでインドに到達。インドではサンスクリット語を学び、仏教遺跡の見学や仏典の収集に勤しんだ。
スリランカに渡った後、海のシルクロードを利用し、413年に山東半島に到着。帰国できたのは、法顕だけだった。帰国後は東晋の都である建康(現在の南京)にとどまり、仏典の翻訳に努めた。彼が残した「仏国記」(法顕伝)は、当時の中央アジアや南アジアの情報を伝える貴重な資料だ。
このようにインドから中国への海上交通ルートは、法顕の時代にはかなり整備されていた。5世紀後半には禅宗の開祖とされる菩提達磨(ぼだいだるま)が、海のシルクロードを通り、現在の広東省に渡来した。“だるま”のモデルである菩提達磨の出身をめぐっては、インド説とペルシャ説がある。菩提達磨は中国武術で有名な嵩山少林寺に滞在し、禅の教えを広めたという。
唐王朝の時代には、法顕や玄奘(三蔵法師)に憧れる仏教僧の義浄(ぎじょう)が、671年に広東省からインドに向けて出発。行きも帰りも、海のシルクロードを利用した。695年に帰国した義浄は、中国史上唯一の女帝である武則天(則天武后)の庇護を受け、仏典を翻訳。彼が記した「南海寄帰内法伝」は、当時のインドや東南アジアの情勢を中国に伝える貴重な資料となった。
越族の末裔たち
海のシルクロードの西側は、その担い手が「エリュトゥラー海案内記」を記したアレクサンドリアのギリシャ人や交易相手のインド人に始まり、後にはアラビアのムスリム商人などに引き継がれた。一方、中国側では越族の末裔が、海のシルクロードの担い手となった。
中国南部に住む越族は、水に親しむ民族だった。“南船北馬”(なんせんほくば)という言葉があるように、中国の交通手段は、平原が多い北部は馬で、河川が多い南部は船が中心だった。中国武術でも“南拳北腿”(なんけんほくたい)という言葉があり、北部は蹴りや跳躍が発達したが、南部では船上での戦いに備え、手技が中心になったと言われている。
このように越族が住んでいた中国南部は水が豊富であり、それは彼らの生活習慣や習俗にも影響を及ぼした。
岡山市で発掘された黥面文身土偶 「魏志」倭人伝によると、日本の倭人には“黥面文身”(げいめんぶんしん)の習俗があった。これは顔や身体に刺青を施すことを意味する。同書は倭人の習俗を紹介したうえで、越人の“断髪文身”に言及。刺青の目的が、水中の竜である蛟竜(みずち)から身を守るためだった解説している。
一方、倭人は好んで水に潜り、魚や貝を捕まえるが、それは大魚や水鳥を避けるためと説明。越人と倭人の刺青は、どちらも水に潜ることと関係していると指摘している。
秦帝国や漢王朝は、越族の住処を版図に組み入れたが、彼らはすぐには中国化しなかった。漢王朝の初期も、浙江省温州の東越は東甌国(とうおうこく)として存続し、福建省の閩越も閩越国(びんえつこく)として存在が認められた。南越を征服した秦軍は、紀元前203年に南越国として独立した。
これらの国々も紀元前2世紀には滅亡したが、民族としての越族は残り続けた。三国時代の呉国では、山間部に越族が割拠し、彼らは“山越”(さんえつ)と呼ばれた。呉国は山越を討伐したが、後に兵力として吸収した。
越族は数百年にわたり中国化に抵抗した。しかし、中国北部に遊牧民が侵入し、中原の人々が大挙して南下すると、越族の中国化が進んだ。ただ、中国化されたとは言っても、越族の言語や習慣は根強く残り、むしろ融合という言葉の方が適切かもしれない。
越人が話した古越語は死語となったが、江浙語(呉語)、福建語(閩語)、広東語(粤語)など中国語南方諸方言の基層言語として、今日まで影響を及ぼしている。広東省の略称である“粤”(えつ)は、“越”の字の仮借であり、これも越族に由来する。
中国化されなかった越族の後裔としては、ベトナムの主要民族であるキン族(京族)が知られる。そもそも、ベトナムとは“越南”のベトナム語読み。ベトナム語は修飾語が後ろに置かれるので、これは“南の越”という意味になる。
民族衣装を着た貴州省榕江県の侗族(2016年12月) 中国南部や東南アジアに住むタイ・カダイ語族(カム・タイ語族)の諸民族も、越族の末裔。チワン族(壮族)、トン族(侗族)、プイ族(布依族)など中国の少数民族のほか、タイ人(タイ族)やラオス人(ラーオ族)がこれに該当する。「魏志」倭人伝の記録から、倭人も越族と関連があったとする説もある。なお、日本の縄文人に見られる抜歯や女性の“お歯黒”も、越族と共通する風習だ。
航海の民“閩民系”
漢民族は方言や文化によって、いくつかの“民系”に分かれる。こうした民系は越族の故地だった中国南部に多い。例えば、湖北省は楚民系(そみんけい)、広東省は粤民系(えつみんけい)、上海市などは呉越民系(ごえつみんけい)、福建省は閩民系(びんみんけい)、浙江省温州市は甌民系(おうみんけい)などと呼ぶ。
このうち福建省の閩民系は、閩越と中原の人々が融合して生まれた民系だ。中国の東南沿海地域は、浙江省から広東省に至るまで、海岸線が複雑に入り組んだリアス海岸が続く。こうした地形と越族の文化が、閩民系の海洋性を生み出した。
広州に停泊中のジャンク船(戎克船)(1880年)
オランダの中国地図に描かれた鄭芝竜(右三)
この1727年作成の地図には、鄭芝竜を大海賊と紹介
アモイ付近の根拠地を詳細に説明している。
鄭芝竜は「一官」、鄭成功は「国姓爺」と呼ばれた。
リアス海岸やフィヨルドのような地形では、急峻な山が海岸線に迫り、陸地は起伏が多く、平地は少ない。このため陸地での移動は不便であり、“陸の孤島”になりやすい。外部と交流するには海上交通に頼るほかなく、造船技術と航海術が発達する。また、平地が少ないため、農業で人口を養うことが困難になることも多く、若者が海賊となったり、海外移住したりする傾向が強い。
例えば、日本では三重県の志摩半島、広島県と愛媛県に属する芸予諸島、紀伊半島南東部、九州北西の松浦地方などにリアス海岸が発達。これらの地域では、志摩の九鬼水軍、芸予諸島の村上水軍、紀伊半島南東部の熊野水軍、肥前の松浦党などの海賊衆が生まれた。海外ではスカンジナビア半島のヴァイキング、エーゲ海のギリシャ人が、巧みな航海術で海外に進出した。
“複雑な海岸地形が、船乗りを生む”。この法則は中国にも当てはまる。リアス海岸に住む閩民系の人々は大海原に進出。中国の方言分布をみると、閩民系の人々が話す福建語(閩語)諸方言が、海岸に沿って細長く海南島まで広がっていることが分かる。これは明らかに、閩民系の人々が、航海で領域を広げたことを意味する。
閩民系の人々は、海のシルクロードの担い手となった。なかでも福建省の泉州は、対外交易の港湾都市として発達。アラビア人やペルシャ人も居住する国際都市となった。モロッコの旅行家であるイブン・バットゥータやヴェネチアの商人であるマルコ・ポーロも泉州の繁栄ぶりを紹介。彼らは世界最大の港だった泉州を“ザイトン”と呼んだ。泉州の別名が“刺桐城”(しとうじょう)であり、その閩南語の発音が“ザイトン”に近かったからだ。
他国の例に漏れず、閩民系の人々は海賊集団にもなった。1604年に福建省安南県に生まれた鄭芝竜(ていしりゅう)は、商人、軍人、官僚、海賊など、さまざまな顔を持つ人物だった。閩南海商(びんなんかいしょう)と呼ばれた海賊集団を率い、倭寇として知られた日本の松浦党とも交流。平戸藩士の娘である田川マツとの間に生まれた息子の鄭成功は、清王朝の抵抗勢力となり、台湾に鄭氏政権を樹立した。
鄭成功は明王朝から帝室と同じ朱姓を賜ったことから、“国姓爺”(こくせんや)とも呼ばれた。その活躍は日本にも伝わり、近松門左衛門は人形浄瑠璃「国姓爺合戦」を創作。後に歌舞伎にも取り入れられた。
東南アジアへの進出
このように閩民系の人々は航海術に長けた漢民族であり、東シナ海や南シナ海に進出した。こうした閩民系に加え、その近隣に住む粤民系や客家民系(はっかみんけい)の人々が、海外華人の中心となった。中国人は唐王朝のころから、東南アジアで活動していたようだ。
明王朝の永楽帝(えいらくてい)は1405年に、宦官の鄭和(ていわ)に西洋への大航海を命令。航海は1405~1433年にかけて7回実施され、閩民系の人々もこれに加わった。第1回航海の艦隊は全長130メートルの大船62隻で構成され、東南アジア経由でインドを目指した。乗員は2万8,000人近くに上ったという。
鄭和の艦隊はマジャパヒト王国が支配するスマトラ島のパレンバン(中国語:巨港)に到着。そこにはすでに広東出身の華僑がいて、二つのグループが抗争を繰り広げていた。第4~7回航海では艦隊の一部がアフリカ東岸に到達。キリンなど珍しい動物を持ち帰り、永楽帝を喜ばせた。名君が仁政を施す時代に出現するという瑞獣(ずいじゅう)の麒麟として紹介されたからだった。
永楽帝に贈られたキリンの絵 プラナカンの婚礼(1941年)
この鄭和の大航海は、東南アジアに中国人の拠点が本格的に形成される契機となった。ジャワ島のスラバヤ(中国語:泗水)、スマトラ島のパレンバン(中国語:巨港)、マレー半島のマラッカ(中国語:馬六甲)などには、艦隊の本営が建設され、多くの華人が移住した。
明王朝や清王朝は海上利用を規制する海禁令をたびたび発したが、閩民系の人々による密貿易や東南アジアへの進出は続いた。だが、中国との連絡が難しくなったことで、東南アジアの華人は徐々に現地化。こうしてプラナカン(海峡華人)と呼ばれるエスニックグループ(少数民族集団)が生まれた。プラナカンは大部分が閩民系の人々。中国語を話さなくなったが、その一方で中国の文化や風習を守った。
アジア初の共和国
1738年に広東省梅県(現在の梅州市)に生まれた羅芳伯(らほうはく)は、科挙の地方試験である郷試に落第したことを機に、1772年に親戚友人100人あまりとともに、ボルネオ島に旅立った。ボルネオ島はイスラム化しており、スルタン(君主)が支配する小国が割拠していた。スルタンは鉱山労働者として華人を必要としていた。
その頃のボルネオ島では、オランダ人が植民地化の機会をうかがっていた。そこで現地の華人は広東省から民兵組織である“団練”(だんれん)を招聘した。なかでも客家(はっか)の団練は、尚武の気風と厳格な紀律で、人気が高かった。
広東省梅州市の泰安土楼
客家民系は北部から南部に移住した漢民族
現地人との争いが頻発し、城砦のような集合住宅を建設した。
羅芳伯が生まれた広東省梅県は、客家民系の中心地。彼も客家だった。客家は中国南部を中心に点在する民系だが、ルーツが閩民系や粤民系と異なる。客家は古代に中国南部に移住した黄河流域の人々であり、越族の後裔ではない。閩民系や粤民系とは異質な民系だが、その近隣に住んでいることから、海外華人となる客家が多かった。
ボルネオ島に移住した羅芳伯は教養があることから、現地で私塾の教師となった。彼は胆力と武術にも優れており、人望が高く、やがて華人のリーダーとなった。スルタンは羅芳伯にボルネオ島西部の土地を割譲。領土を得た羅芳伯は、オランダ人の侵略に対抗するため、1777年にポンティアナックを本拠とする蘭芳公司(らんほうこうし)を創設。蘭芳公司の活躍は目覚ましく、オランダ軍を2度にわたり撃退した。
“公司”(コンスー)は現在の中国語で「会社」を意味するが、その当時は違った。“公司”はカンパニーの訳語として広東省や福建省に広まっていたが、必ずしも会社組織を意味するものではなかった。東南アジアの華人の間では、鉱山労働に従事する華人の組織として“公司”という言葉を採用。ボルネオ島には公司と呼ばれる華人組織が複数あった。なお、秘密結社の任侠団体なども、当時は公司という言葉を使っていた。
羅芳伯は蘭芳公司の“大唐総長”あるいは“大唐客長”と名乗り、国事の決定などには合議制を導入。華人や現地人を保護し、インフラ整備や産業育成などに力を入れた。1795年に羅芳伯は58歳で死去。大唐総長の位は選挙や権力譲渡などの方式で、12代にわたり引き継がれた。それゆえ蘭芳公司は“アジア初の共和国”と称され、現代では“蘭芳共和国”という呼び方が広まっている。
オランダ領東インド・アンボン島
1919年以前の華人街の写真
蘭芳公司はオランダ東インド会社の侵略に抵抗。オランダ人が清王朝を警戒していることから、北京に使者を派遣し、臣下として朝貢した。1884年にフランスと清王朝の清仏戦争が勃発すると、オランダ軍が蘭芳公司を攻撃。蘭芳公司は瓦解し、107年の歴史に幕を下ろした。落ち延びた蘭芳公司の華人は、スマトラ島やマレー半島に移住。海外華人として東南アジアにとどまった。
1856年に勃発したアロー戦争で、清王朝は英仏連合軍に敗北。1860年に「北京条約」を締結した。この条約で清王朝は、それまでの海外移住禁止政策を撤廃し、移民を公認。中国人の苦力は、黒人奴隷に代わる新たな労働力として、英国の海峡植民地(マレーシア)、オランダ領東インド(インドネシア)、米国西海岸、カナダ、ペルーなどに向かった。こうした中国人の海外流出は、名目こそ移民だが、実態はほとんど人身売買だった。
「北京条約」の締結を機に、東南アジアの華人が再び増加。その数は古くから東南アジアに住んでいたプラナカンたちの数を大きく上回った。新たにやって来た華人は、“新客”と呼ばれた。現代でも海外華人が東南アジアに多いのは、こうした歴史があった。
弾圧された在インドネシア華人
では、ここで現代の東南アジアの華人分布を見てみよう。海外華人が世界で最も多い国はインドネシア。その数は1,072万人に達する。しかし、国連人口基金(UNFPA)の「世界人口白書2020」によると、インドネシアの人口は2億7,351万人で、世界4位。華人は4%にすぎない。
インドネシアは民族の数が約300に上り、言語の種類は700を超える。人口の大多数はマレー系諸族であり、なかでもジャワ族が4割以上を占める。マレー系のほかにも、パプア系、メラネシア系、ヴェドイド系、ネグリト系など、インドネシアの民族構成は多彩だ。
1965年10月のジャカルタ
スハルトは大規模な反共掃討作戦を展開
数十万人に上る華人を虐殺したという。
1998年5月の暴動でも多くの華人が標的に
1998年5月の暴動の犠牲者
スドノ・サリムの葬儀(2012年6月)
1968年にスハルト大統領の強権支配が始まると、反共産主義路線の下で、多くの華人が粛清された。その後は数十年にわたり、華人を強制的に現地化。中国語を話すことは禁じられ、インドネシア名を使用することが推奨された。華人の学校は閉鎖され、大学入学や公務員就職なども制限された。
その影響で在インドネシア華人の母語は、大多数がインドネシア語となった。一部の人は中国語を話すが、そのほとんどは閩民系の諸方言で、話者は70万人ほど。これに客家語の14万人、広東語の1万人が続く。
インドネシア社会は華人差別が根強い。しかし、商才に長けた華人は富裕層となり、嫉妬と憎悪の対象となった。1997年のアジア通貨危機で、インドネシアでは反スハルト政権の機運が高まった。1998年5月12日に首都ジャカルタの大学で、学生が反政府集会を開催。治安部隊が学生に発砲し、4人が死亡した。すると、スハルト政権に抗議する人々による暴動が始まった。
スハルト政権の弾圧を受けながらも、華人は経済的に豊かになったが、それが理由で暴徒の標的となった。暴動は5月13~16日にインドネシアの主要都市で発生し、華人に対する殺人、暴行、略奪、強姦、破壊が大々的に繰り広げられた。一連の暴行による死者は1,000人を超えると言われる。
インドネシアの経済界では、閩民系のスドノ・サリム(林紹良)が築いたサリム財閥が有名。東南アジア一帯でビジネス展開し、中国への投資にも積極的だ。1998年の暴動では、サリム財閥の資産も大々的に破壊された。
政財界で活躍する在タイ華人
タイは世界で二番目に華人が多い国。その数は2019年末で701万人に上り、人口の10%を占める。最大の民族はタイ族で、人口の7割以上。ほとんどの在タイ華人はタイ族と同化しており、中国の姓を維持している人は極少数にすぎない。
タクシン元首相とインラック元首相
祖先の祭りのため広東省梅州市を訪問 (2019年1月)
習近平・国家主席と握手するタニン・チャラワノン氏
在タイ華人の母語も、大多数がタイ語。中国語を話す人は高齢層を中心に46万人ほど。大多数の祖先は閩民系で、そのほかでは客家民系が16%、粤民系が9%いる。
タイでもインドネシアのように華人の現地化が進んでいるが、それは差別や強制によるものではなく、割と自主的なものだった。タイは仏教国であり、華人とタイ族の同化は宗教的なハードルが低く、それが影響したとみられる。
また、タイでは華人に対する政治的な差別もない。例えば、第31台首相のタクシン・チナワット(丘達新)と第36代首相のインラック・シナワトラ(丘英楽)の兄妹は、広東省梅州出身の客家を祖とする華人だ。
このほかにも、第33代首相のサマック・スントラウェート(李沙馬)、第35代首相のアピシット・ウェーチャチーワ(袁馬克)など、タイの歴代首相の多くは在タイ華人。タイ族の人々も、在タイ華人を同じタイ国民として認めている。
経済界ではチャロン・ポカパン・グループ(CPグループ)のタニン・チャラワノン(謝国民)が有名。彼の祖先は広東省スワトー出身。CPグループはタイ最大の企業集団であり、中国への投資に積極的。中国では正大集団の社名で知られる。
独自性を守る在マレーシア華人
マレーシアは世界で三番目に華人が多い国。その数は2019年末で670万人に上り、人口の21%を占める。5人に1人が華人ということになる。在マレーシア華人で最も多くのは、やはり閩民系の人々で、その数は300万人近くに達する。粤民系と客家民系も、それぞれ100万人に上る。
英国の植民地だったマレーシアは、複雑な多民族国家だ。インドネシアと同じく土着のマレー系諸族が多数派で、人口の6割以上を占めるが、そのほかにも華人、インド人などが住んでいる。
1969年5月13日の暴動
経済格差を背景とした民族衝突だった。
クアラルンプールのプタリン通り(茨廠街)
有名な観光名所の中華街
マハティール・ビン・モハマド首相
(2019年9月)
中国語紙「星洲日報」の一面
題字は蒋介石の手よるもの
1963年の建国前から、マレー系と華人の民族対立が深刻化。それを背景に、華人が多いシンガポール州はマレーシアから追放され、1965年8月9日に共和国として分離独立することになった。1969年5月13日には議会総選挙をめぐり、マレー系と華人が衝突し、大規模な暴動が発生。200人近い死者を出した。
1971年に始まった“プミプトラ政策”の下で、在マレーシア華人は現在も不平等な扱いを受けている。プミプトラとはサンスクリット語で “土地の子”を意味し、マレー系を含む土着の民族を指す。プミプトラ政策とは華人の経済的優位に対抗し、民族間の格差解消を図るという名目で、マレー系を優遇する政策だ。
企業の設立、租税の軽減、公務員の採用、国立大学への進学などでは、マレー系の人々が優遇される。それゆえ、民族差別政策であると国内外から批判を受けるが、マレー系による統治を維持するため、撤廃は難しいとされる。
このプミプトラ政策の影響で、マレーシアの政界や行政機関では、マレー系の人々が優位に立つ。だが、経済界での華人優位は揺るがなかった。こうした状況について、1981年に首相に就任したマハティール・ビン・モハマドは、「マレー人には勤勉さが足りない」と分析。日本人の勤勉さに学べと、“ルックイースト政策”を提唱した。勤勉さのモデルを華人ではなく日本人に求めた背景には、マレー系の人々を刺激しない配慮があった。
在マレーシア華人は独自のコミュニティ(共同体)を維持し、ほとんど現地化していない。それを支える“三本柱”は、華人団体、華人教育、中国語メディアだ。マレーシアでは小学校から大学校まで中国語による教育システムが完備している。そうした地域は両岸三地の外では、マレーシアが唯一だ。漢字の字体は、中国本土と同じ簡体字を使う。
これを背景に中国語メディアも多く、革命家の孫文が1910年にペナンで創刊した中国語紙「光華日報」は1世紀を超える歴史がある。「星洲日報」は軟膏「タイガーバーム」で財を成した胡文虎が1929年にシンガポールで創刊した中国語紙。マレーシアで広く読まれている。
在マレーシア華人の多くは、所属する民系の方言のほか、標準中国語を話すことができる。また、マレー語と英語を話せるマルチンガル(多言語話者)も多い。優秀な人材が多い在マレーシア華人だが、プミプトラ政策の影響で、海外に流出するケースが多く、国内問題の一つとなっている。
華人の共同体があるため、在マレーシア華人がマレー系の人と結婚するケースは少ない。文化と宗教の違いが、大きな壁となるからだ。在マレーシア華人は両岸三地の中国人と大差なく、中華圏の芸能界で活躍する人も多い。
経済界では“アジアの砂糖王”と呼ばれた郭鶴年(ロバート・コック)が有名。彼の祖先は福建省福州出身。1970年代からは香港を中心に活動し、ケリーグループ(嘉里集団)やシャングリラホテル(香格里拉酒店)などの経営で知られる。
習近平・国家主席と会談する郭鶴年氏 1990年代には英字紙「サウス・チャイナ・モーニング・ポスト」(南華早報)や地上波テレビ局TVB(無線電視)など、香港のメディアに積極投資していた。2018年に第七次マハティール政権が発足すると、内閣顧問に就任した。
華人国家のシンガポール
シンガポールは世界で五番目に華人が多い国。その数は2019年末で299万人に上り、人口の51%を占める。これは「中華民国108年僑務統計年報」と「世界人口白書2020」から算出した数字だが、永住権を持たない滞在者も含まれていることから、華人人口の割合は低くなっている。
シンガポール統計局が発表した2010年のデータによると、常住者は507万6,732人。このうち国民と永住者は合計377万1,721人で、全体の74%を占める。残る26%は永住権を持たない滞在者で130万5,011人に上る。シンガポールは外国人の多い国でもある。
国民と永住者のうち、74.1%が華人。つまりシンガポール人の4人に3人が華人ということになる。マレー系は13%、インド系は9.2%。シンガポールは多民族国家であり、公用語は英語、中国語、マレー語、タミル語と、四つもある。
国民や永住者である華人のうち、最も多いのが閩民系で、その下位区分は閩南人が40%、潮州人が20%、海南人が6%、福州人が2%となっている。このほかでは粤民系が15%、客家民系が8%だった。
母語の調査では、36%がシンガポール中国語(シンダリン)。シンダリンとはシンガポールとマンダリン(標準中国語)の合成語。標準中国語に英語、マレー語、閩南語が混じったクレオール言語を意味する。
シンガポール英語(シングリッシュ)は32%。これは英語に、中国の諸方言、マレー語、タミル語が混じった言葉だ。マレー語は12%、タミル語は3%。そのほかでは、福建語が7%、広東語が4%、潮州語が3%だった。
マレーシアの州として独立した1963年9月の写真
左は華人のリーダーである李光耀
右は初代首相のトゥンク・アブドゥル・ラーマン
マレーシアから追放され、涙を流す李光耀
1965年8月9日の分離独立発表にて
2015年の総選挙
右の白い旗が人民行動党、左の赤い旗はシンガポール労働者党
このようにシンガポールは華人が多い。シンガポールがマレーシアの州だった当時、初代首相のリー・クアンユー(李光耀)は、プミプトラ政策のような土着民優遇主義に公然と反対し、民族平等主義を主張した。だが、華人とマレー系の対立が激化し、マレーシア中央政府はシンガポール州の追放を決定した。
リー・クアンユーはシンガポールのマレーシア残留の道を模索したが、最終的に1965年8月9日にシンガポール共和国として分離独立した。独立の発表はテレビで生中継され、リー・クアンユーは涙を流した。
独立したシンガポールは苦難の船出となった。この小さな島国は、何の天然資源もないうえ、人間に必要な水資源でさえ十分ではなかったからだ。この国が生き残るには、地の利を生かすことと人的資源を開発することしかなかった。
シンガポールは経済的に豊かな国だが、人民行動党(PAP)による一党独裁国家であることから、“明るい北朝鮮”という異名もある。議院内閣制を採用し、大統領や国会議員の選挙がある。投票は国民の義務であり、強制される。直接選挙で選ばれる国家元首の大統領は、儀礼的な役職であり、行政権を持たない。政府の長は首相であり、国会議員から選ばれる。
選挙システムは人民行動党に有利にできており、1968~1980年は国会の全議席を占めていた。1981年の国会補欠選挙で、初めて野党議員1人が議席を獲得。2020年の総選挙では初めて野党の議席が2ケタの10人に達したが、総議席の1割を占めたにすぎない。
人民行動党は身内にも厳しく、シンガポールは汚職の少なさで世界トップクラス。行政や政治の腐敗も、ほとんどない。そうした国柄の影響で、国民の多くが中華人民共和国に好感を持っている。
国民や来訪者は厳しい法律で管理される。この国にビデオやDVDを持ち込む場合、検閲の対象となる。海賊版やポルノ作品は禁止。日本の週刊誌につきもののグラビア写真でさえ、持ち込みが禁じられている。街を清潔に保つため、ガムを持ち込んだ場合、数十万円の罰金が科される。
シンガポールの警察官 国内での生活では、さまざまな場面に罰金がつきまとう。罰金の対象となる行為は幅広く、駅や鉄道での飲食、トイレの水の流し忘れ、横断歩道や歩道橋を利用しない道路の横断、ゴミのポイ捨て、屋内喫煙、泥酔行為など、挙げればきりがない。つばや痰を路上に吐くことも禁止。男性の同性愛も法律で禁じられている。
鞭打ち刑も存在し、死刑の執行率も高い。特に違法薬物の密輸犯は、確実に死刑となる。報道や言論の自由も規制され、政府批判、民族対立、宗教不和を煽るような内容は、特に問題視される。近年ではフェイクニュースに対しても、厳しい姿勢で臨んでいる。
シンガポールの名門校として知られる徳明政府中学の生徒たち シンガポールで最も重要な資源は人材だ。一般家庭では英才教育が当たり前。政府も人材開発に積極的で、教育省への歳出は、国防省に次いで二番目に大きい。多言語教育は当たり前で、教育水準も高い。この教育環境を目当てに、外国からの移住者も多い。
シンガポールは開発独裁の国家であり、人民行動党による一党独裁体制の正当性は、経済発展によって裏付ける必要がある。国民に政治の自由はないが、経済の自由度は世界屈指の高レベル。その結果、経済は急速に発展し、国民の暮らしは豊かになった。
世界的評価の高いシンガポール航空
筆頭株主はテマセク・ホールディングス
シンガポールの産業では、地の利を生かした海運業と航空業が盛ん。そのほかでは観光業やIT産業など、サービス業に力を入れている。また、優秀な人材を生かし、金融業が発達しており、東京を凌ぐアジア屈指の国際金融センターに成長している。
シンガポールには政府が出資するソブリン・ウエルス・ファンドが二つある。一つはテマセク・ホールディングスで、シンガポールや世界各国の大企業に投資しており、世界的評価も高い。中国の銀行株にも主要株主や大株主として投資している。
もう一つはシンガポール政府投資公社(GIC)で、これは外貨準備の運用会社。日本では汐留シティセンターなどに投資している。この二大ソブリン・ウエルス・ファンドを通じ、シンガポール政府は経済に大きな影響力を有している。
こうしたシンガポールの国家モデルは、もしかしたら中華人民共和国が目指す国家の姿なのかもしれない。
華人の現地化
華人が多い東南アジア4カ国の状況を解説した。このように各国の環境の違いにより、華僑の状況もさまざまだ。フィリピン、ミャンマー、ベトナムにも100万人を超える華人が住んでいるが、人口に占める割合は1~2%程度にすぎない。
在ベトナム華人は独自性を保持。地理的に近い粤民系が半数以上を占め、ベトナム語と広東語が主流言語となっている。広東語を話せることから、香港の芸能界で活躍する人も多い。
大統領に就任するコラソン・アキノ氏
(1986年2月25日)
一方、在フィリピン華人や在ミャンマー華人は、現地化が進んでいる。フィリピンでは政治指導者となる華人も多い。第11代大統領のコラソン・アキノは、祖先が福建省泉州出身。第16代大統領のロドリゴ・ドゥテルテは、祖父が華人だった。東南アジアではないが、韓国でも第13代大統領の盧泰愚(ノ・テウ)や第16代大統領の盧武鉉(ノ・ムヒョン)も、華人の末裔という。
彼らのアイデンティティや忠誠心はそれぞれの国にあり、華人の血を引くことが、政治家となるうえで障害となることはない。それは彼らが選挙を通じて国家元首となったという事実が証明している。
海外華人が世代を越えて中国人としてのアイデンティティを維持するのは非常に難しい。筆者は1997~1999年に上海市の復旦大学に留学した。復旦大学の国際文化交流学院では、世界各国から来た数百人の留学生が、一つの敷地内で寮生活を送った。このなかで海外華人は、大きな割合を占めていた。
復旦大学に留学していた海外華人は、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの粤民系が多かった。知っている限りでは、インドネシア、ドイツ、マカオからの華人もいた。留学の主な目的は、標準中国語の習得。広東語しか話せない華人や漢字を書けない華人のほか、外国語しかできない華人も多かった。
海外に移住して華僑となった場合、何もしなければ次世代は現地化する。中国人のアイデンティティを維持するには、相当のエネルギーが必要だ。
留学中の筆者も映っているが、小さすぎるし、痩せているので、分かりにくい。
東南アジア華人と中国本土を結ぶ香港
香港は北回帰線のすぐ南に位置する。つまり、中国のほぼ南限にある。香港には中国と東南アジアという二つの小世界の接点に位置するという地の利がある。香港と言えば、中国へのゲートウェイという印象が強いが、実は東南アジアへのゲートウェイでもある。
香港にとって東南アジア諸国連合(アセアン)は、中国本土に次いで二番目に大きな貿易相手。一方、アセアンにとって香港は、六番目に大きな貿易相手だ。香港とアセアンの貿易額は、2020年に1兆339億香港ドルに上った。これは香港の貿易額全体の12.6%に相当。2016~2020年の平均成長率は5.5%だった。
アセアンは香港にとって、中国本土に次ぐ二番目の輸入先。2020年の輸入額は7,510香港ドル。香港の輸入額全体の17.6%を占めており、2016~2020年の平均成長率は7.2%に達した。アセアンからの輸入品は、すべてゼロ関税となっている。
香港はアセアンと中国本土にとって重要な中継港。アセアンと中国本土をつなぐ香港の中継貿易額は、2020年に5.051香港ドルに上った。これは香港の中継貿易額の13.0%に相当する。
東南アジアの華人マネーは香港に集まり、中国本土へ流れる。また、中国本土のマネーも香港経由で東南アジアに向かう。香港株式市場は華人企業の資金調達先でもあり、インドネシアのサリム財閥、タイのCPグループ、マレーシアのケリー・グループの傘下企業が上場している。
シンガポールのテマセク・ホールディングスやGICにとって、香港市場は重要な資産運用先でもある。2018年の香港証券市場の現物売買代金のうち、シンガポールからの取引は全体の3.0%だった。これは日本からの取引の5.2倍、オーストラリアからの取引の3.8倍。シンガポールは小さな島国だが、その売買代金は英国を除く欧州からの取引の7割に相当する。シンガポールからの取引のうち、82.5%が機関投資家によるものだった。
中国は2014年から“一帯一路”政策を推進。これは一帯(シルクロード経済ベルト)と一路(21世紀海上シルクロード)からなる広域経済圏構想。この21世紀海上シルクロードを背景に、中国と東南アジアを結ぶゲートウェイの香港は、その重要性がさらに増すことになるだろう。
北回帰線と赤道のライバル関係
赤道付近のシンガポールは、北回帰線付近の香港にとって、最大のライバルでもある。いずれも都市国家レベルの大きさであり、中継貿易で栄える国際自由港。近年はどちらも国際金融センターとして成長している。
この良きライバル関係は、香港とシンガポールに切磋琢磨を促し、競争力向上の原動力にもなっている。世界金融センター指数(GFCI)、IMD世界競争力ランキング、THE世界大学ランキング、コンテナ取扱量などで、香港とシンガポールは日本など足下に及ばないハイレベルな競争を展開。中華人民共和国が理想の国家モデルや新たな政策を模索するうえで、シンガポールや香港の経験は貴重な参考材料になっている。