最新号(毎月5日更新)
2023年1月5日
15世紀に始まった“ポルトガル海上帝国”は、20世紀に入ると崩壊に向かった。ポルトガル共和国(ポルトガル)が次々に海外領土を失うなか、最後まで残ったのが中国のマカオだった。だが、4世紀以上にわたりポルトガル人が統治したマカオも、ついに1999年...[ 続きを読む ]
2007年2月27日、上海総合指数の大幅な株安を発端に起きた世界同時株安。その1年半後、こんどは同じ上海総合指数が発端の世界同時株高が起きた。“ちっぽけな存在”と思われていた中国株が、わずか十数年で世界を揺るがす存在となってしまったのだ。
そもそも中国株とその市場は、成り立ちからして特異。現在でも世界に類のない極めて特殊な株式と証券市場だ。その底流は長い年月と様々な出来事を経て形成された。そこで、中国株とその市場の誕生から振り返り、どのようにして今日のような姿になったのかを見ていこう。そこにある様々な物語を見れば、中国株とその市場だけではなく、その背後にある中国の人々と国家の本当の姿が浮かんでくるだろう。
2023年1月5日
15世紀に始まった“ポルトガル海上帝国”は、20世紀に入ると崩壊に向かった。ポルトガル共和国(ポルトガル)が次々に海外領土を失うなか、最後まで残ったのが中国のマカオだった。だが、4世紀以上にわたりポルトガル人が統治したマカオも、ついに1999年...[ 続きを読む ]
2023年1月5日
第74回 マカオ返還までの道程(前編)~ポルトガル人統治の黄昏~
ポルトガル共和国が統治するマカオは、賭博、麻薬、売春、人身売買でにぎわう“ヴァイス・シティ”(悪徳の都)だった。第二次世界大戦が勃発すると、マカオは東アジアで唯一の中立地帯として、危ういながらも、大きな戦火を免れる。こうしたなか...[ 続きを読む ]
2022年12月5日
約2世紀にわたる衰退期を終えたマカオは19世紀後半に、賭博、麻薬、売春、人身売買でにぎわう“ヴァイス・シティ”(悪徳の都)へ変貌。非道徳的な産業に支えられながらも、ともかくマカオ経済の独自化が進んだ。こうしたなか、ポルトガル王国と...[ 続きを読む ]
2022年12月5日
19世紀の前半に混乱に陥ったブラガンサ朝ポルトガル王国だが、1834年の内戦終結で立憲君主制に移行すると、国内はようやく落ち着きを取り戻した。こうしたなか1842年に英領香港が誕生すると、その近隣に居留地マカオを有するポルトガル王国は、...[ 続きを読む ]
2022年11月20日
第71回 マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)~内憂外患の時代へ~
ブラジルの黄金とダイヤモンドは、ブラガンサ朝ポルトガル王国の王権を強化した。1706年に即位した第四代国王のジョアン5世は、潤沢な王室財政を背景に、貴族や聖職者を必要としなくなり、身分制会議(コルテス)を開催しないことを決めた。...[ 続きを読む ]
2022年11月5日
第70回 マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)~ブラジルの黄金~
1550年代にポルトガル人の居留地となったマカオは、1630年代に“黄金時代”のピークを迎え、その後は約2世紀にわたる衰退期を迎えた。この長い衰退期の間、ポルトガル王国の海外領土は次々と新興国のオランダに侵略され、マカオはアジアで...[ 続きを読む ]
2022年10月5日
マカオは16世紀半ばにポルトガル人が東アジアに確保した小さな“居留地”だった。他のポルトガルの海外領土と違い、マカオには香辛料のような産物もなく、それだけでは無価値な土地だ。長所と言えば、“上陸できる”ということしかなかった。...[ 続きを読む ]
2022年9月5日
1999年12月20日にポルトガル領マカオの主権が中華人民共和国へ返還された。これにより中国大陸における外国支配地が一掃され、“アジア最後の欧州植民地”だったポルトガル領マカオが消滅。それと同時にマカオ返還は、15世紀から約6世紀も...[ 続きを読む ]
2022年8月5日
1999年を“20世紀最後の年”と勘違いしていた人は、洋の東西を問わず、世界的に多かった。特に2000年開催オリンピック競技会の招致活動に力を入れていた中国では、“新世紀で最初のオリンピック”と宣伝していたので、そうした誤解が一般化。...[ 続きを読む ]
2022年7月5日
中国本土の株式市場は、1997年に本格的な変革期を迎えた。この年から中国政府は、投機の抑制、不正の摘発、秩序の確立、証券行政の中央集権化などを推進。そうした変革は株価の低迷をともない、株式市場は約2年に及ぶ“冬の時代”を迎えた。...[ 続きを読む ]
2022年6月5日
1990年代に中国本土を訪れた人は、明るい将来像を見据えた熱気や活気を感じると同時に、社会の激変にともなう無秩序ぶりも目撃したのではないだろうか? 1997年9月に初めて訪中した筆者は、留学先の上海市のほか、広東省深圳市、返還直後の...[ 続きを読む ]
2022年5月5日
アジア通貨危機で中国本土はヘッジファンドによる通貨攻撃を受けなかったが、無傷ではいられなかった。改革開放政策が進んだ結果、中国企業は世界とアクセスするようになっていたからだ。計画経済から改革開放への移行は“現実が先行し、法整備...[ 続きを読む ]
2022年4月5日
いわゆる中国とは、“両岸三地”を指す。これは台湾海峡の両岸である中国本土と台湾に、香港マカオを加えた範囲を意味する言葉だ。香港とマカオを一つではなく、二つに分ける場合は“両岸四地”ともいう。いわゆる“一つの中国”とは、これらの地域...[ 続きを読む ]
2022年3月5日
アジア通貨危機を引き起こしたヘッジファンドは、1997年10月に香港ドルを攻撃したが、一時撤退を余儀なくされた。そもそも金融危機から生まれた香港ドルは、通貨攻撃を撃退する仕組みが予め備わっており、それが機能したためだ。しかし、それは...[ 続きを読む ]
2022年2月5日
1997年7月2日にタイ王国で起きた通貨危機は、周辺の東南アジア諸国に広がり、あたかも台風のように北上した。10月には台湾や香港にも通貨危機が波及。大韓民国(韓国)もかつてない危機に直面した。韓国の人々は未曽有の“国難”を乗り越えようと...[ 続きを読む ]
2022年1月5日
香港返還直後の1997年7月にアジア通貨危機が始まった。ヘッジファンドの空売り攻撃を受け、東南アジアの主要通貨が急落。東アジアの通貨も動揺し、世界の金融市場に緊張が走った。1997年10月に入ると、ヘッジファンドの矛先は返還されたばかりの...[ 続きを読む ]
2021年12月5日
一世紀半にわたり続いた英国の香港統治は、1997年6月30日に終焉を迎えた。その4カ月ほど前に、香港返還を主導していた鄧小平が死去。だが、その香港統治に関する方針は、中国の歴代指導者に引き継がれ、今日に至るまで大きな影響を及ぼしている。...[ 続きを読む ]
2021年11月5日
中華人民共和国の香港特別行政区が、1997年7月1日に発足。一世紀半にわたった英国の植民地統治が終焉し、香港は新時代を迎えた。だが、返還直後に東南アジアの金融市場に異変が発生。香港はかつてない金融の暴風に見舞われようとしていた。今回は1997年...[ 続きを読む ]
2021年10月5日
英領香港では1990年代に入ると、返還に向けた本格的な変革期を迎えた。約一世紀半に及んだ植民地時代は、終焉を告げようとしていた。英領香港は新しい時代への不安と希望が入り混じる独特なムードに覆われた。この連載の第五十一回では香港市民の身分を...[ 続きを読む ]
2021年9月5日
香港は海外から中国本土へのゲートウェイ(入口)として知られる。その裏で見過ごされがちなのが、香港が東南アジアへのゲートウェイでもあることだ。香港は中華世界と東南アジア世界の境界線に位置するという優位性を持つ。東南アジアは古代から中国人が...[ 続きを読む ]
2021年8月5日
戦後の香港では、上海出身者を筆頭に、新たな香港望族が台頭。歴史の転換点や高度経済成長の追い風を背景に、新興の香港望族はかつてないほどの富を築き、人々が憧れる対象となった。だが、貧富の格差がすさまじい香港華人社会には、香港望族の財産を...[ 続きを読む ]
2021年7月5日
第二次世界大戦と中国本土の国共内戦は、香港華人社会を大きく変えた。3年8カ月に及んだ日本占領時代を経て、香港の社会と経済は徹底的に疲弊。香港華人社会のリーダー格である“香港望族”も、災難を免れることはできなかった。こうしたなか、国共内戦で...[ 続きを読む ]
2021年6月5日
英国人の香港統治が始まったころ、そこに暮らす中国人は社会的地位が低く、経済的にも貧しかった。だが、弱者である中国人でも、才覚のある者は、のし上がることができた。東洋と西洋が交わる英領香港が、商売をするには絶好の場所だったからだ。成功を勝ち...[ 続きを読む ]
2021年5月5日
ビクトリア女王が1843年4月に英皇制誥と皇室訓令を発布し、英領香港を統治する制度的枠組みが決まった。英領香港の統治者は、英国王に任命された総督(ガバナー)。1843年に就任した初代のヘンリー・ポッティンジャーから数え、28人の香港総督が英領香港を...[ 続きを読む ]
2021年4月5日
1984年の英中共同声明で、1997年7月1日の香港返還が確定した。中華人民共和国と英国は、返還に向けた準備に着手。香港、英国、中華人民共和国の関係や位置づけも、再構築されることになった。英中両国は返還後を見据え、様々な布石を打ち合った。...[ 続きを読む ]
2021年3月5日
天安門広場に集まった大学生たちの民主化要求は、香港でも連日のように報道され、市民は高い関心をもって成り行きを見守っていた。それもそのはず。1984年9月26日に正式調印された英中共同声明で、香港の主権が1997年7月1日に中華人民共和国に返還...[ 続きを読む ]
2021年2月5日
1989年6月4日起きた天安門事件は、香港の人々に衝撃を与えた。4年半前に調印された英中共同声明で、香港の主権が1997年7月1日に中華人民共和国へ返還されることが決まっていたからだ。天安門広場で起きたことは他人事ではなく、近い将来の自分たち...[ 続きを読む ]
2021年1月5日
香港証券市場は百年以上にわたり英国人に支配されていたが、1969年12月17日にその独占体制は打ち破られた。四つの取引所が並存する“四会時代”を迎え、香港財閥の形成や 株式投資の大衆化が進展した。しかし、狭い香港に四つの取引所は多すぎ...[ 続きを読む ]
2020年12月5日
中華文明と西洋文明が混沌と入り混じる香港は、人々に独特の魅力を感じさせる個性的な大都市だ。英領香港は1840年のアヘン戦争で起きたウエスタン・インパクト(西洋の衝撃)によって誕生。一世紀以上の時間をかけ、複雑な香港社会が...[ 続きを読む ]
2020年11月5日
2007年2月27日、上海総合指数の大幅な株安を発端に起きた世界同時株安。その1年半後、今後は同じ上海総合指数が発端の世界同時株高が起きた。“ちっぽけな存在”と思われていた中国株が、わずか十数年で世界を揺るがす存在となってしまったのだ。...[ 続きを読む ]
2020年10月5日
2007年2月27日、上海総合指数の大幅な株安を発端に起きた世界同時株安。その1年半後、今後は同じ上海総合指数が発端の世界同時株高が起きた。“ちっぽけな存在”と思われていた中国株が、わずか十数年で世界を揺るがす存在となってしまったのだ。...[ 続きを読む ]
2020年9月5日
香港が英国の植民地となった1842年以降、英国系企業は一世紀以上にわたって香港経済界の主役だった。第二次世界大戦の終結後は、製造業を中心に中国系市民が経営する香港地場の華人企業が台頭。それでも英国系企業が香港経済界の主役の座を譲る...[ 続きを読む ]
2020年8月5日
第二十五代香港総督のクロフォード・マレー・マクレホースが着任したのは1971年11月19日。その任期は1982年5月8日まで続き、香港総督としては歴代最長の10年半に及ぶ。その統治期間は“黄金の十年”と呼ばれた。マクレホースは1917年10月16日に...[ 続きを読む ]
2020年7月5日
香港は個人投資家が多い。どれくらい多いかというと、2006年に中国銀行が上場した際は、新株の申込者が100万人近くに上った。当時の香港の人口が686万人だったことを考えると...[ 続きを読む ]
2020年6月5日
戦後の香港は製造業が目覚ましく発展し、中国人資本の地場企業が数多く育った。その一方で香港の株式市場は、西洋人や中国人エリートの閉鎖的なコミュニティであり続け...[ 続きを読む ]
2020年5月5日
国共内戦後の香港では、中国国民党(国民党)寄りの右派市民と中国共産党(共産党)寄りの左派市民との対立が激化し、1956年10月の“双十暴動”という流血の大惨事に至った...[ 続きを読む ]
2020年4月5日
国共内戦の結果、中国本土から大勢の難民が、香港に押し寄せた。中国本土からの資本と労働力の流入で、香港の製造業が発展。その一方で、ただでさえ複雑な香港社会に...[ 続きを読む ]
2020.3.5
日本の敗戦によって、英領香港が復活した。だが、日本占領時代の爪痕は深く、香港経済や香港株式市場が復活するには、時間を要した。こうしたなか、第二次世界大戦の終了後も...[ 続きを読む ]
2020.2.5
1841年から1997年まで英国の植民地だった香港だが、その支配が3年8カ月にわたり中断した時期があった。太平洋戦争の始まりと同時に、日本軍が英領香港に侵攻。香港の株式市場も...[ 続きを読む ]
2020.1.5
2019年の香港は、「逃亡犯条例」の改正案をきっかけに、大規模なデモ行進や激しい抗議活動が頻発した。大学生を中心とした若者と香港警察が衝突し、互いに暴力を振るう映像が、テレビやネットで何度も流れた。こうした香港社会の混乱は、これが初めてではない。これまでに何度か起きている。今回は...[ 続きを読む ]
2019.12.5
香港の株式市場が正式に創設されたのは、英領香港の発足50周年に当たる1891年。それ以前にも香港では株券が売買されていたが、それは自然発生的な取引であり、整備された市場はなかった。香港の株式市場の誕生は、今日の証券会社に相当する株式仲介人(ブローカー)が結束し、香港股票経紀会...[ 続きを読む ]
2019.11.5
1880年代の香港では、初期に住宅バブルが起き、終盤では株式バブルが発生した。住宅バブルで損したのは主に中国人であり、西洋人への悪影響が少なかったことから、香港政庁は傍観するにとどまった。一方、株式バブルでは西洋人同士の利害が対立し、株券売買をめぐる論争に発展。香港の西洋人社会は...[ 続きを読む ]
2019.10.5
香港では1865年に「会社条例」が制定され、株式取引が活発化した。もっとも、香港経済の主役は、あくまでも英国系の大企業。香港の中国人は土地を取得できないなどの差別的政策の下にあったが、国際貿易などのビジネスで徐々に実力をつけてきた。ジョン・ポープ・ヘネシー卿が第八代総督として...[ 続きを読む ]
2019.9.5
1840年にアヘン戦争が勃発すると、英軍が香港島を占領。人影もまばらな中国南部の島が、英国の支配下に入った。今日の香港は東西文明が交わり、ユニークな文化が築かれ、経済的にも繁栄しているが、開港したばかりのころは、英国人による強権的な支配とちっぽけな経済基盤しかなかった...[ 続きを読む ]
2019.8.5
英領香港の領域は、清王朝が割譲した香港島と九龍半島のほか、99年間の期限付きで租借した新界(ニュー・テリトリー)で構成される。面積は1,100平方キロメートルで、札幌市と同程度。地理的制約から実体経済の基盤は小さく、多くの生活物資を海外からの輸入に依存するしかない。産業も...[ 続きを読む ]
2019.7.5
英領植民地となった香港では、さまざまな地域の銀貨が流通し、複数の民間銀行が紙幣を発行していたことを前回紹介した。紙幣はその当時の正貨だった銀と交換可能な兌換紙幣であり、それによって価値が裏付けられていた。 “どうやって紙幣に価値を与えるか?”この問題は100年以上にわたり...[ 続きを読む ]
2019.6.5
香港は特殊な地域だ。主権は中国にあるが、法制度や社会の在り方は、中国本土とまったく異なる。この特殊な地域の証券市場の成り立ちを語るうえで、避けて通れないのが通貨の話だ。香港の通貨は、人民元ではなく、香港ドル。これは特殊な仕組みのうえに成り立つ通貨であり、その特性は香港...[ 続きを読む ]
2019.5.5
“証券王国”と呼ばれるほどの隆盛を誇った万国証券を一代で築き上げ、“中国証券業界の司祭”と呼ばれた管金生(かん きんせい)は、“東洋のハワイ”と呼ばれた海南島を目指した。“中国本土の証券史上、最も暗い一日”と呼ばれた1995年2月23日の327国債先物事件を引き起こした結果、その年の...[ 続きを読む ]
2019.4.5
1994年は株式市場が低迷。上海総合指数は年間で22.30%下落した。こうしたなかで過熱していたのが、国債先物市場だった。そんな国債先物市場で、1995年2月23日に中国の金融界を揺るがす大事件が発生。取引コード「327」の国債先物取引で、終了間際の7分47秒に起きた異常な値動きが、多くの...[ 続きを読む ]
2019.3.5
宝安企業による延中実業の買収事件から3カ月が経ち、1993年12月29日に全国人民代表大会(全人代)の常務委員会は「公司法」(会社法)を承認。中国の経済体制改革はさらに前進し、1994年を迎えた。中国の市場経済や証券市場は、まだまだ未熟な状態。日本人にとって5年前の天安門事件の印象が...[ 続きを読む ]
2019.2.5
中国本土では1980年代に株式制度が復活し、瞬く間に膨大な数の個人投資家が誕生した。投資家が株式を売買する目的は、“金儲け”の一言に尽きる。それ以外の目的は考えられなかった。だが、1993年に入ると、“それ以外の目的”で株式を買う投資家が出現。株式投資の別の側面を人々に知らしめた...[ 続きを読む ]
2019.1.5
ネイホウ!――これは香港市民が挨拶に使う言葉であり、漢字では「你好!」と書く。この漢字を見て、“ニイハオ!”ではないのかと思う人もいるだろうが、それは中国本土の標準語での読み方だ。香港の事実上の標準語は、現地の方言である広東語であり、「你好!」は“ネイホウ!”と読む。簡単な...[ 続きを読む ]
2018.12.5
中国は広い。どこで何が起きているのか?それを把握することは中央政府にすら難しい。深圳市が8.10事件に揺れた1992年、そこから1,300キロメートルあまり離れた四川省成都市では、株券ブームが起きていた。証券取引所のない成都市だが、現物の株券と現金を手にした人々が数万人も集まり、...[ 続きを読む ]
2018.11.5
それは1992年8月10日の夜だった。広東省深圳市の迎賓館では、宴が開かれていた。中国共産党深圳市委員会の李灝・書記と深圳市の鄭良玉・市長が、全国人民代表大会(全人代)常務委員会の陳慕華・副委員長をもてなすレセプションだった。 深圳市の視察に訪れていた陳副委員長は、中国人民銀行...[ 続きを読む ]
2018.10.5
株式市場が活況だった1992年だが、深圳市場の投資家たちは愕然とした。この年の7月7日に深圳原野実業股份有限公司(原野実業)が売買停止となったからだ。原野実業に何が起きたのか?そこには株式市場に萌芽した“悪意”があった。 原野実業を支配していた彭建東は、広東省の福建語地域に属す...[ 続きを読む ]
2018.9.5
上海総合指数が前日比105.27%高という驚異的な暴騰を記録した1992年5月21日以降、さらに多くの個人投資家が証券会社の押し寄せるようになった。証券会社の店頭は投資家であふれ、その売買注文の処理能力は限界に達した。こうしたキャパシティ(許容量)の問題を解決するため、上海証券取引所...[ 続きを読む ]
2018.8.5
中華人民共和国の建国記念日である10月1日は、国慶節と呼ばれる。1991年の国慶節は、中国本土の株式市場にとって、大きな節目となった。深圳市場はこの連載の第十六回で紹介したように、初の市場介入によって株価が上昇局面に入った。一方、すでに堅調だった上海市場は、株価が一段と上昇...[ 続きを読む ]
2018.7.5
1990年12月に上海と深圳の証券取引所が開業すると、エクイティファイナンスによって海外マネーを調達する試みが始まった。エクイティファイナンスを簡単に言えば、“株式を発行し、資本金を調達すること”。その試みのなかで誕生したのが、B株と呼ばれる特殊な株式だった。1978年に始まった...[ 続きを読む ]
2018.6.5
開業したばかりの深圳証券取引所は取引の減少に悩まされていたころ、上海証券取引所は大忙しだった。忙しさの原因は、株券の名義書換処理だった。名義書換とは株券の保有者の変更を株主名簿に記録すること。開業したばかりの上海証券取引所は、注文処理こそコンピューター化されていたが、...[ 続きを読む ]
2018.5.5
広東省深圳市が株券をめぐり大混乱となった1990年。その年の12月1日に深圳証券取引所は中央政府の許可がないまま、“試験開業”した。だが、その数カ月前から矢継ぎ早に繰り出していた株価抑制策が効果を発揮し、深圳証券取引所の開業直後から長期にわたって株価が下落。1991年4月22日には世界的にも稀な証券市場の出来高ゼロを記録した。...[ 続きを読む ]
2018.4.5
上海市長だった朱鎔基は1990年内に上海証券取引所が開業すると、世界に向けて宣言した。そうは言うものの、開業に向けた準備はまったく進んでいない。残された時間は約半年という瀬戸際で、35歳の尉文淵が創設準備オフィスの責任者となった。
尉さんも前任者と同じく証券取引所に関する知識はほとんどなかった。だが、考えてばかりでは、時間が過ぎ去るだけで、何もできない。そこで、一番簡単に思いつくことから手をつけた...[ 続きを読む ]
2018.3.5
1989年6月4日に起きた天安門事件は、武力鎮圧の様子が各国メディアによってテレビ報道され、中国に対する評価は地に堕ちた。西側先進国は中国を非難し、経済制裁を実施。鄧小平の主導で始まった改革開放路線は、この事件を機に大きく後退するという見方が世界中に広がった...[ 続きを読む ]
2018.2.5
全日本空輸の二代目社長だった岡崎嘉平太と中日友好協会の初代会長だった廖承志という日中両国の大物が、禹国剛という人材を生み出した。その禹さんは岡崎氏の念願だった日本留学を終え、深圳証券取引所の創設に向けた...[ 続きを読む ]
2018.1.5
1990年に広東省深圳市で起きた株券をめぐる混乱を受け、中央政府では市場を閉鎖すべきという論調が強まっていたが、中国人民銀行(中央銀行)の劉鴻儒・副総裁が江沢民・総書記に熱弁をふるい、かろうじて株式制の存続を許された...[ 続きを読む ]
2017.12.5
最初は株券売買に冷淡だった深圳市民だが、それが信じられないくらいに儲かることが分かると、打って変わって熱狂した。その情報は全国に伝わり、1990年に入ると大混乱を引き起こした。そのころの深圳市の株式市場は...[ 続きを読む ]
2017.11.5
かつての深圳経済特区は、広東省深圳市を横断する全長84.6キロメートルの金網フェンス(第二ボーダー)の南から、英領香港との境界線(第一ボーダー)までの封鎖された区域だった。第二ボーダーの検問所を通過して経済特区に入ると、そこは外国資本を...[ 続きを読む ]
2017.10.5
「あいつが盗んだんじゃあないのか?」「きっと、あいつだろう!」こんな言葉を同僚たちから耳にし、合金工場の倉庫番を務めていた楊懐定さんは、自尊心を深く傷つけられた。1988年の旧正月前に起きた窃盗事件。1トンあまりの銅地金が...[ 続きを読む ]
2017.9.5
世界一小さな取引所と呼ばれた静安証券営業部が開業してから1カ月ほどが過ぎた1986年11月10日、ニューヨーク証券取引所のジョン・フェラン理事長をはじめとする米国の金融関係者一行が、北京市を訪問...[ 続きを読む ]
2017.8.5
瀋陽証券交易市場の開業から1カ月あまりが過ぎた1986年9月26日、上海市の中心部にある仏教寺院「静安寺」の近くに、株券の店頭市場がオープンした...[ 続きを読む ]
2017.7.5
株券発行の口火を切ったのは遼寧省撫順市。1980年の赤レンガ株券が、股票(株券)と名のつくものの第一号だった。証券市場の第一号も遼寧省で生まれた。撫順市に隣接した省都の瀋陽市。そこに...[ 続きを読む ]
2017.6.5
中華人民共和国の建国35周年を控えた1984年、かつての金融の街だった上海市は、すっかり社会主義国家の都市に変貌。人々は株式とは無縁の生活を送っていた。さまざまな悲劇を生んだプロレタリア文化大革命(文革)が終結してから数年が経ったが、その傷跡は...[ 続きを読む ]
2017.5.5
中国の金融の中心地として知られる上海。それはウエスタン・インパクト(西洋の衝撃)によって誕生した。1840年に勃発したアヘン戦争で英国が勝利。1842年に交わされた南京条約によって、長江の河口に位置する小さな街の開港が決まった。それが...[ 続きを読む ]
2017.4.5
1980年1月1日に遼寧省撫順市で発行された赤レンガ株券を口火に、株券を発行する動きが中国の各地に広がった。「株券発行や株式制度は、合法なのか、それとも違法なのか?」――。中央政府は答えを出していない...[ 続きを読む ]
2017.3.5
1978年に鄧小平が最高指導者となり、「イデオロギーの束縛から自由になれ!頭を働かせろ!何が正しいのかは、事実から導き出せ!」と号令をかけた。だが、一言で10億人の心が瞬間的に変わるはずもない。株式について語ることは、まだまだ危険な行為だった...[ 続きを読む ]
2017.2.5
上海市と広東省深圳市に証券取引所が開業したのは1990年12月。では、中国株の歴史はここから始まったのだろうか?答えはノーだ。中国株は証券取引所の開業以前から存在していた。では、中国株はいつ誕生したのか? そもそもの発端は1978年に遡る。この年の中国社会はどんな状態だったのか? それは...[ 続きを読む ]
2017.2.5
「中国株」という日本語の言葉は、1990年代に誕生した。そのころの中国株は、一部の投資家が知っている程度の“ちっぽけな存在”でしかなかった。1989年の天安門事件から日も浅く、中国株という言葉にリスキーな印象を受けた人もいただろう。中国経済は1990年代から高成長が続き、それを伝えるニュースも増え...[ 続きを読む ]
千原 靖弘(ちはら やすひろ)
内藤証券資調査部 情報統括次長
1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。