それは1992年8月10日の夜だった。広東省深圳市の迎賓館では、宴が開かれていた。中国共産党深圳市委員会の李灝・書記と深圳市の鄭良玉・市長が、全国人民代表大会(全人代)常務委員会の陳慕華・副委員長をもてなすレセプションだった。
鄭良玉・市長(左一)、李灝・書記(左二)と鄧小平(1992年1月) 深圳市の視察に訪れていた陳副委員長は、中国人民銀行(中央銀行)総裁を務めていた人物であり、証券取引所の創設に慎重だったことでも知られる。その陳副委員長との関係構築は、証券取引所を開設してから間もない深圳市にとって極めて重要だったが、そのレセプションの最中に、凶報が飛び込んだ。
鄭市長は秘書から耳打ちされると血相を変え、宴もたけなわなのに急いで会場を後にした。李書記はレセプションが終了した後、初めて「一大事です!」との報告を受けた。
緊急事態の発生を知った李書記は、公用車の運転手に急いで市庁舎へ向かうよう指示。だが、大通りに面した市庁舎の正門には、殺気立った群衆が押し寄せていた。人々は声高々に「腐敗を撲滅しろ!インチキを正せ!」と訴えていた。
自動車への放火や商店の略奪も発生し、暴徒と警官が衝突。公安当局は催涙弾と放水砲を群衆に向けて発射した。この混乱で死傷者も出る事態となった。
裏口から市庁舎に入った李書記は、鄭市長ら幹部たちと落ち合い、事態の把握と分析、それに対応策を考える必要に迫られた。
この暴動は、なぜ発生したのか? その背景には、人々の欲望と深圳市政府の腐敗があった。
一攫千金の夢
仕事を求めて広東省に来た出稼ぎ労働者
(1991年3月・広州駅付近)
1992年5月21日に起きた上海総合指数の暴騰を受け、“株式投資は儲かる”との認識が中国全土に広がった。なかでも新たに発行される株式、つまり新株を買えば、大儲けできるというのが常識となり、人々はチャンスを待ち望んだ。
その当時の深圳市では、月収が1,000元を超える人は珍しくなかったが、そのほかの地域では数十元が相場だった。1,000株の新株を購入し、たったの1元だけ値上がりしても、その稼ぎは1,000元であり、大勢の人々の年収を超えることになる。出稼ぎ労働者などにとっては、天文学的数字に思える稼ぎだ。新株の購入に成功することは、宝くじで大当たりするようなものだった。
こうしたなか、報道がまったくないにもかかわらず、「深圳市の経済特区で新株の発行が計画されている」という情報が各地に流れ始めた。これを耳にした人々は一獲千金を夢見て、迷うことなく深圳市を目指した。
深圳市政府の思惑
うわさは本当だった。深圳市政府は1992年3月から新株発行を計画していた。その情報が外部に漏れていた。
深圳市政府では新株の発行方法をめぐる議論が交わされ、最終的に前年も実施していた数量限定の抽選表方式が採用されることになった。
それによると、新株の購入希望者は、まず1枚100元の抽選表を購入しなければならない。抽選表の購入には、身分証(IDカード)が必要。1人の人物でも10枚のIDカードを預かっていれば、10枚の抽選表を購入できた。
抽選表に必要事項を記入し、購入を申し込んだとしても、抽選に当たらなければ、新株は買えない。もっとも、当選確率は10%で、宝くじなどに比べると非常に高い。10枚の抽選表で申し込めば、少なくとも1,000株は購入可能な確率だった。
新株の抽選表 この抽選表の販売は、深圳市にとって大きな“うま味”があった。前年に1枚30元で抽選表を販売したのだが、これで大儲けできたからだ。今回は抽選表の価格を1枚100元に引き上げ、これを500万枚も販売する。深圳市には5億元に上る収入がもたらされる見込みだ。
深圳市政府は1992年8月6日夜、新株発行の具体案を発表。8月9~10日に経済特区の銀行など約300カ所で、抽選表を販売することを明らかにした。
経済特区への道のり
ただし、その当時の人々にとって深圳市の経済特区に行くのは、たいへん困難なことだった。バスやタクシーに乗って経済特区に入るには、全長84.6キロメートルに及ぶ金網フェンス(第二ボーダー)に設けられた検問所を通過しなければならない。
第二ボーダーの監視塔 ここを通行するには立入許可証が必要。さらに、それを入手するには、職場からの紹介状を持参し、公安局で手続きしなければならなかった。また、その当時は休暇申請の条件が厳しく、正当な理由がなければ、有給休暇は取得できなかった。ウソの休暇申請が発覚した場合、軽くても減給、重ければ免職という厳しい処分が下された。
よその人間が深圳市の経済特区に向かう手段は、主に列車だった。深圳市に向かう広深鉄道の乗車券を買うには、特区への立入許可証が必要。乗車しても車内で立入許可証の提示を求められた。
経済特区への立入許可証 宿泊場所の確保も、よその人間にとっては大きな問題だ。抽選表の発売日よりも前に深圳市に到着し、一連の手続きを経て新株の購入を完了するには、数日を要する。深圳市内に親戚や友人・知人がいれば幸運な方だ。ホテルや旅館に泊まるということになれば、けっこうな出費となる。
深圳市での新株購入を夢見る人々は、こうした多くのハードルを乗り越えなければならない。その苦労はたいへんなものだった。
IDカードの大集結
IDカードを手にする警察官
(第一世代のIDカードは2013年に使用停止)
人々の動きは早かった。新株の発行計画が発表される前の7月末ごろから、深圳市の郵便局には全国各地からの小包が急増した。中身のほとんどはIDカード。新株の発行計画を耳にした深圳市政府の職員や深圳市民が、たくさんの抽選表を購入する狙いで、各地の友人・知人から借り入れたものだった。
IDカードの借り賃は1枚20元ほど。買い取りだったら、1枚50元ほどだった。IDカード制度は1984年に導入されたばかりであり、まだ多くの人々にとっては無用の長物だったため、こうした取引が行われていた。
郵便局の関係者によると、約700枚のIDカードが詰め込まれていた小包もあったらしい。その後の統計によると、全国から約320万枚のIDカードが深圳市に“大集結”したという。
混乱する市民生活
全国から人々が深圳市に向かい始めると、市内では物価高騰した。深圳市に向かう広深鉄道の乗車券はダフ屋に買い占められ、通常の30元から300元に急騰。タクシー料金に至っては、乗車賃が3,000元に達した。
猛暑のなか路上に座って並ぶ行列 販売場所に集まった群衆 迷彩服を着た保安要員との小競り合い 広深鉄道の乗車券価格も暴騰。だが、列車で深圳市を目指す人々は後を絶たなかった。ついに輸送能力は限界を超え、8月8日ごろから数日にわたって運休となった。
ホテルや旅館はどこも満室となり、野宿する人々が激増。近隣地域の工場は操業を停止し、工場長が大勢の従業員をトラックに乗せ、抽選表の購入に向かわせた。
深圳市内の生活物資も高騰した。1本1元だったミネラルウォーターは、10元に値上がりした。それでも売れ行きは良好だった。
深圳市の常住人口は1991年末で226万7,600人。うち深圳戸籍を所持しているのは73万2,200人だった。そうした状況下で、新株を購入するために深圳市に集まった人々は100万人を超え、抽選表の販売場所には長蛇の列ができた。この群衆を見てひと儲けしようと、行列の代行サービスを始める人々も現れた。
人口の急増を受け、市内の治安も急速に悪化した。8月8日に深圳市政府で緊急会議が開かれ、公安局は抽選表の販売量を増やすことで、人々の分散を図るよう強く要請した。政府関係者はこれに同意せず、保安要員の追加で事態を乗り切るよう指示した。
だが、追加動員された保安要員の中には、秩序維持の名目で友人や知人を行列に割り込ませる者もいた。時には暴力を使って仲間を前列に割り込ませ、小競り合いと負傷者の数を増やす結果となった。
行列の人々
男たちに挟まれ、行列に並ぶ女性
抽選表の販売場所では、8月7日から行列ができ始めた。そのほとんどが外地からの来訪者で、深圳市民は少なかった。深圳市民は所得水準が高く、長蛇の列を見てあっさりと購入をあきらめる人が多かった。また、政府関係者とのコネがある人は、横流しされた抽選表を買う約束を取り付けており、わざわざ行列に並ぶ必要もなかった。
スコールのなかで並ぶ人々
行列では東北、湖南、上海などの方言が飛び交い、“ミニ中国”のような状況だった。最初のころは腰かけなどに座りながら並び、のんびりとした雰囲気だった。しかし、後から来た人による割り込みが横行すると、ケンカが増え、殺気に満ち溢れた。
雨中の群集
行列はますます伸び、割り込みもますます増加。うっかりしていると、行列から弾き出されてしまう。そこで、後ろの人が前の人の身体をしっかりと抱きしめ、割り込まれないように並ぶようになった。若い女性も胸を前の人に押し付け、耐え続けた。
深圳市は北回帰線の南に位置し、8月は頭の真上から太陽が照りつける。亜熱帯気候であることから、夕方にはスコールが降る。こうしたなかでも行列の人々は一攫千金を夢見て耐え続けた。
深圳市内の各所にできた行列は、昼夜を問わず絶えることがなかった。金銭をめぐる人間のエネルギーが、どれほどすごいのかを見せつける光景だった。
大哥大(携帯電話)を持つ深圳の女性と靴磨き
(1990年代)
二日二晩も並んだあげく、行列から弾き出された青年。 現金と身分証を握りしめ、絶望の表情を浮かべている
改革開放が進み、カネさえあれば何でも買える時代が到来した。むかし映画やテレビで見た先進国のような暮らしも夢じゃない。現に改革開放の勝ち組は、それに近い生活を送っていた。
取り残された人々は、目の前の仕事にいくら励んでも、勝ち組のようにはなれない。だが、株式投資は誰にでも可能であり、給与以上の収入をもたらす。貧しさから脱出する唯一の突破口だった。
灼熱の太陽、滝のようなスコール、保安要員の暴力、ひどい体臭、猛烈な睡魔や空腹感、それに便意――。行列の人々は、一生分のエネルギーをここで使い果たすほどの覚悟で、これらに絶え続けた。
失望と怒り
どんな苦行にも終わりがある。8月9日の朝、販売場所の窓口が開かれたものの、ほんの数時間で閉められた。500万枚の抽選表は、あっという間に完売したという。
だが、抽選表を購入できた人は、ほんの少しだった。多くの人々が落胆し、失望したが、あの行列の苦しみを思うと、諦めきれなかった。500万枚の抽選表が、たったの数時間で売り切れたという情報をにわかに信じることができなかった。
深圳市政府の市庁舎には、新株の販売が問題なく完了したという報告が届いた。鄭市長をはじめとする幹部は、盛大な拍手で販売成功を祝った。
一方、外では諦めきれない人々が、窓口が閉められても並び続けた。午後になると、スコールが降り出したが、行列の人々は立ったままだった。8月10日の午前になっても、行列は絶えなかった。
8月10日付の朝刊には「公平、公正、公開の原則に基づき、抽選表の販売は円満に完了した」という記事が掲載された。そのころ、販売所の周辺には、1枚100元の抽選表を800元や900元で売り付けようとするダフ屋が現れた。
“なぜ買えなかった人がこんなに多いんだ?”“ダフ屋はどこで抽選表を入手したんだ?”――。そうした疑問が人々の脳裏に湧いた。
不信感を募らせた人々は、情報交換を始めた。その結果、“不正があったに違いない!”という見方が、群衆の間に広まった。
そうしたなか、抽選表の提出期限を当初の8月10日午後6時から8月11日午前11時に延長するという措置が発表された。これを聞いた人々は、「抽選表を不正入手した連中が、高値で転売するための時間を稼いでいる」と受けとめた。
行列に並んだ人々は疲労困憊で、精も根も尽き果てたようだったが、新たなエネルギーが加わった。それは怒りのエネルギーだった。
衝突
“不正と汚職に断固反対!” “株券をよこせ!株券をよこせ!” などの横断幕を人々は急きょ用意し、8月10日の午後6時ごろ市内の一角に集結。市庁舎に向け行進を始めた。これに大勢の人々が合流し、最終的に群衆は1万人を超えた。
午後8時ごとになると、群衆は市庁舎を包囲し、周辺の交通はマヒ。群衆の一部は暴徒化し、自動車を破壊し、オートバイに放火。これまでのお返しとばかりに、警察官に暴行を加えた。これに警察隊も応戦し、死傷者が出たと伝えられるが、詳しい被害は今日でも明らかとなっていない。
冒頭で紹介した惨事は、このようにして発生した。
深圳市政府の緊急措置
深圳市政府の市庁舎に集合した李書記、鄭市長をはじめとする幹部は、この混乱を鎮めるための対策を協議。事態は一刻の猶予もなかった。
「そうだ! 来年分として認められた500万株の新株発行枠をすぐに使おう」と、李書記長が提案した。
これに対し、「それはいけません」と、幹部の一人が発言。「新株発行枠の流用には、上層機関の承認が必要です」と指摘した。
群衆を抑える警察
混乱する販売場所
だが、対策の緊急性を理解している李書記長は、「どこにそんな時間がある。私一人が責任を負う。ただちに実行しろ」と幹部に指示。午後9時40分に政府広報車を使い、深圳市政府の決定を群衆に伝えた。
「デモ隊の政府機関襲撃は、誤った行為である。政府は必ず腐敗を撲滅する。政府はすでに500万枚の抽選表を追加発行することを決定した。来年分の新株発行枠を前倒しで使用する。明日の早朝から銀行などの販売場所で発売する」という内容だった。
この放送は効果てきめんだった。放送内容を理解した群衆は、我先にと販売場所へ散り、新しい行列に並んだ。こうして暴動は収まった。
後始末
暴動は何とか沈静化した。しかし、約束を実行せねば、再び大きな混乱が起きるだろう。そう考えた李書記は「500万枚の抽選表を急いで用意できるか?」と、中国人民銀行・深圳支店に問い合わせた。
「たぶん無理でしょう。抽選表は偽造防止処理を加えた造幣所の専用紙を使っています。500万枚の追加印刷は準備ができていません」という返事が返ってきた。
しかし、選択肢は一つしかない。「これは絶対命令だ!何としても明日の午前8時までに印刷して、販売場所に配送しろ!」と、最大級の権限を行使した。
無理難題を命じられた中国人民銀行・深圳支店は、造幣所の関係者と協議。500万枚の抽選表ではなく、50万枚の交換券を印刷すると、李書記に報告した。この交換券は後日に抽選表10枚と交換できるという仕組み。1枚あたりの面積も小さくし、これで対処することにした。
この案を李書記は採用し、念のために80万枚ほど印刷することにした。造幣所は大急ぎとなった。
だが、李書記の仕事はこれで終わったわけではない。10日午後11時に臨時の幹部会を招集。抽選表の発行過程で深刻な腐敗があったと糾弾し、厳しい調査を命じた。
また、11日の交換券販売について、販売場所の監督を幹部に指示。不適切な行為が確認されれば、監督者の責任を追及すると明言した。
書記の眠れぬ夜
暴動の発生は、中央政府にも知られた。11日の午前2時ごろ、国務院の羅干・秘書長から問い合わせの電話が来た。国務院とは最高の行政機関であり、日本の内閣に相当する。
李書記は許可もなく来年分の新株発行枠を流用した。これは重大な規則違反であり、処分を覚悟した。李書記はありのままに事件の経過を語り、暴動が沈静化したことを告げた。
羅秘書長の電話が終ると、しばらくして中国共産党・中央宣伝部の丁関根・部長からの電話が来た。同じような報告を行うと、今度は李鵬首相からの電話が来た。
李書記は来年分の新株発行枠を流用し、11日に抽選表500万枚分の交換券を発行することで、事態の収拾に至ったことを報告。これ以外に事態を打開する方法が見つからず、どんな処分も甘受すると語った。
これを聞いた李鵬首相は、「きみは第一線にあり、状況をよく理解している。きみの考えに従って事件を処理しなさい」と声をかけた。李書記は首相が自分を支持してくれたことに深く感動したと、後日語っている。
午前3時ごろ、李書記はやっと自宅に着いた。すると、すぐに中国共産党・広東省委員会の謝非・書記長からの電話があり、再び報告に追われた。
11日の交換券販売は、中央政府の支持と造幣所の努力の結果、大きな問題もなく完了した。だが、今回の事件を受け、株価は急落。上海総合指数は11日の終値が前日比10.4%安。12日も続落し、9.5%安だった。
処分
深圳市で起きた暴動は“8.10事件”と呼ばれ、中国証券史上における大きな傷となった。8月27日から9月5日にかけて中央政府による調査が実施され、9月9日に報告書が国務院に提出された。
報告書によると、不正行為の通報件数は8月9~12日だけで2,415件。これに関連した副処長(副課長)以上の幹部は25人。通報が特に多かった3カ所の販売場所を調査したところ、2万4804枚に上る抽選表が横流しされていた。銀行や証券会社でも社員がおびただしい数の抽選表を横流ししていたことも判明した。
1992年12月10日までの調べによると、横流しされた抽選表は10万5,399枚。これに関わった金融機関の職員は4,180人に上った。
中央政府は李書記、鄭市長は中央政府からの譴責を受けた。主な責任があると指摘された鄭市長は、改革開放の先進都市である深圳市から、江西省の副省長に転任。直接的な責任があるとされた張鴻義・副市長は、中国銀行・香港支店への異動が命じられた。
CSRC発足
中央政府では1992年2月ごろから、株式関連の法律整備を進めていた。8.10事件が発生すると、その動きは加速。国務院は証券監督機関を創設することを決定した。
中国証券監督管理委員会(CSRC) 1992年10月12日に朱鎔基・副首相を主任とする国務院証券委員会(証券委)が発足。その実働組織として中国証券監督管理委員会(CSRC)が誕生した。証券委とCSRCは1998年に合併。CSRCが中央政府の監督管理機関として、中国本土の証券市場を統一的に管理するようになった。
CSRCが発足した背景には、こうした流血の惨事があった。この事件を通じ、中国政府は公正さを欠く証券市場の存在が、いかに危険であるかを痛感した。これ以降、証券市場をめぐる法整備が加速。なかでも新株発行に関する規則は、8.10事件の教訓を受け、事細かなルールが設けられた。
また、8.10事件を通じ、中国政府は群衆化した個人投資家の恐ろしさを知った。これを知ってか、中国本土では株価が急落すると、証券会社の店頭で個人投資家が政府を強烈に批判する場面がよく見られる。政府の方も投資家の顔色をうかがい、株価の動きを気にしており、時には株価の買い支えに走る。
上海市場や深圳市場の株価の動きには、こうした独特の“パワーバランス”が存在する。