いわゆる中国とは、“両岸三地”を指す。これは台湾海峡の両岸である中国本土と台湾に、香港マカオを加えた範囲を意味する言葉だ。香港とマカオを一つではなく、二つに分ける場合は“両岸四地”ともいう。いわゆる“一つの中国”とは、これらの地域全体を意味する。しかし、一つの中国には四つの通貨が並存している。その背景を探ると、激動の中国近現代史の影響が見えてくる。
一つの国に複数の通貨
アジア通貨危機で香港ドルは通貨防衛に成功した。これまで解説したように、香港ドルは世界的に見ても異質な通貨であり、その特殊性がヘッジファンドを撃退した一因となった。
しかし、そもそも香港ドルは、その存在自体が特殊だ。香港は特別行政区であるとは言え、中華人民共和国の一部であるのに、中国本土とは異なる地域通貨が流通しているからだ。つまり“一国二制度”であると同時に、“一国二通貨”の状態と言えよう。
香港と同じく特別行政区のマカオでは、パタカという通貨が流通しており、それを含めれば“一国三通貨”だ。さらに“一つの中国”という認識に立ち、中華民国政府が統治する台湾を含めると、“一国四通貨”ということになる。
この“一国四通貨”のうち、香港ドルについては詳しく説明してきたが、残る三通貨の紹介はほとんど触れなかった。そこで、今回は人民元、台湾ドル、パタカの歴史と概要を紹介する。これらの通貨は、1840年のアヘン戦争勃発で幕開けした中国近現代史の産物。“一国四通貨”という現状は、激動の時代が今日まで大きな影響を及ぼしていることを意味する。
日本の降伏
降伏文書に署名する重光葵・外務大臣
戦艦ミズリー号の甲板にて
(1945年9月2日)
1945年8月15日の玉音放送で、大日本帝国が「ポツダム宣言」を受諾し、米国、英国、中華民国、ソビエト連邦(ソ連)の四カ国に無条件降伏したことが発表された。9月2日に外務大臣の重光葵は大日本帝国を代表し、東京湾に停泊中の戦艦ミズリー号に乗船。降伏文書に調印した。
降伏文書への調印を受け、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは直ちに“一般命令第一号”を大日本帝国に発した。その内容はアジア各地に残る日本軍に対する降伏先などの指示。大日本帝国の大本営は、一般命令第一号に従うよう各地の日本軍に発令した。
中華民国への降伏式典
(1945年9月9日)
満州を除く中国、台湾、北緯16度以北のフランス領インドシナに残留する日本軍は、中華民国の蒋介石・大元帥に投降。満州の日本軍は、ソ連の極東最高司令官に下った。
中華民国では1945年9月9日午前9時に江蘇省南京市にあった中央陸軍軍官学校の大礼堂で、降伏文書への調印式が挙行された。支那派遣軍の総司令だった岡村寧次・大将が降伏文書に署名。式典は15分ほどで終了し、岡村大将は中国陸軍総司令部の何応欽・総司令に佩刀を差し出した。
内戦の危機と重慶会談
蒋介石(右)と毛沢東(左)
重慶会談で祝杯を挙げる。
岡村大将が降伏文書に調印したころ、中華民国の戦時首都だった重慶市では、8月29日から中国国民党(国民党)と中国共産党(共産党)の話し合いが始まっていた。国民党の蒋介石は中華民国の国民政府の主席であり、招かれた共産党の毛沢東は中央委員会主席という肩書。二人は日本との戦争に勝利したことを称え合い、祝杯を挙げた。
この重慶会談の目的は、国共内戦の再発防止だった。1937年7月7日の盧溝橋事件を発端に日中戦争が勃発すると、国民党と共産党は内戦を停止し、再び共闘することになった。これを“第二次国共合作”という。
蒋介石(左)と毛沢東(右)
重慶にて
第二次国共合作では共産党の中国工農紅軍のうち、北部の軍事力が1937年8月22日に国民党の国民革命軍(国軍)に編入され、 “国軍第八路軍”(八路軍)に改組された。この軍隊は1937年9月12日に名称が“国軍第十八集団軍”に変わったが、その後も“八路軍”という愛称で親しまれた。一方、南部の中国工農紅軍も1937年10月12日に“国軍陸軍新編第四軍”として編成され、“新四軍”と呼ばれた。
日本との戦争が終結すると、国民党と共産党が協力する理由がなくなり、戦時中は眠っていた対立関係が、再び目を覚ました。終戦後に国民党と共産党の軍隊は、都市の管轄権や戦略物資の接収をめぐって衝突。満州の日本軍はソ連に投降し、その兵器や物資は共産党に流れた。一方、米軍は国民党を支援。終戦直後から国民党と共産党の小競り合いが続いていた。重慶会談はこうした情勢下で開かれた。
戦いながらの話し合い
閻錫山(1947年) 重慶会談は戦いながらの話し合いだった。会談が始まる直前の1945年8月27日、共産党の八路軍が、山西省長治市の管轄下にある襄垣県を包囲。長治市の一帯は、古代より“上党”と呼ばれ、春秋戦国時代は各国が争奪戦を繰り広げる戦略上の要衝だった。
上党地域では北洋軍閥の一人だった閻錫山が、国軍の司令官を務めていた。閻錫山は国軍の第十九軍と第六十軍に加え、日本軍の残存勢力を再編し、八路軍との対決姿勢を強めた。
こうしたなか毛沢東は8月28日に米国のパトリック・ジェイ・ハーレー大使とともに重慶市に到着。国民党との話し合いを続けながら、重慶市の通信設備を利用し、上党地域の八路軍を指揮した。
重慶会談に向かう直前の共産党代表
ハーレー大使の左が毛沢東、右が周恩来
日本軍の岡村大将が降伏文書に調印した翌日の9月10日、八路軍は閻錫山の国軍を攻撃。両軍合わせて6万~7万人の兵力が交戦状態に入った。この“上党戦役”と呼ばれる戦いは八路軍が優勢であり、重慶会談で毛沢東は蒋介石に一歩も譲歩しなかったという。
重慶会談は43日間に及び、国民党と共産党の代表は、10月10日に「政府与中共代表会談紀要」に署名。この文書はその署名日から“双十協定”と呼ばれる。毛沢東は10月11日に重慶市を離れ、根拠地の陝西省延安市に帰還。周恩来などは重慶市に残り、国民党との協議を継続した。
毛沢東が使った重慶市の通信機
これで上党戦役を指揮した。
上党戦役は10月12日に終結。勝利した八路軍は、山西省の上党地域を占領した。閻錫山の軍隊は3万人以上が捕虜となり、総兵力の3分の1を失った。
停戦への努力
1945年8月14日のホワイトハウス
トルーマン大統領が日本の降伏を発表
双十協定には内戦の回避などが盛り込まれたが、投降した日本軍の受け容れをめぐり、各地で八路軍と国軍の武力衝突が続いた。日本軍の投降を受け容れれば、その地域に勢力を拡大することが容易。日本軍の残存勢力や戦略物資は、争奪戦の対象だった。
こうした情勢を受け、米国の第三十三代大統領のハリー・S・トルーマンは、1945年12月にジョージ・キャトレット・マーシャル・ジュニアを全権特使として中国に派遣。その任務は中国の統一を実現するため、中華民国の国民政府を説得し、主要政党からなる国民会議を開催させること。その環境を整えるため、国民党と共産党の敵対行動を止めさせることが必要だった。
停戦協議の三人グループ
中央はマーシャル全権大使
左は国民党の張群、右は共産党の周恩来
マーシャル全権特使は12月22日に重慶市に到着。国民党の張群、共産党の周恩来、米国のマーシャル全権特使による三人グループを設立させ、停戦に向けた話し合いを重ねた。その努力が実り、1946年1月10日に国民党と共産党は、全国に向けて停戦命令を発した。
この日は双十協定に盛り込まれていた政治協商会議の開催も実現。国民党、共産党、少数政党、有識者、資本家などから38人が参加し、憲法制定、軍事問題、施政綱領、政府組織、国民大会などについて議論が交わされた。
重慶市の学生デモ
政治協商会議の成功を要求
政治協商会議の開幕式で演説する蒋介石
(1946年1月10日)
これらの議案は1月31日に決議され、初めての政治協商会議は一応の成果を出した。しかし、国民党は大幅に譲歩したことから、党内から反対の声があがり、3月中旬には政治協商会議と異なる党方針を決定。これに共産党が反発し、再び不穏な空気が漂い始めた。
政治協商会議と人民政協
1946年1月10日に開かれた政治協商会議は、中華人民共和国の“中国人民政治協商会議”(人民政協)の前身に当たる。人民政協の第一期全体会議は、建国直前の1949年9月21~30日に北京で開催。その目的は中華人民共和国の建国準備だった。
この会議の全662議席のうち、政党枠は142議席であり、共産党員はわずか16議席だった。しかし、軍人枠は60議席で、すべて共産党の軍人。地域枠は102議席で、ほとんどが共産党の支配地からの代表だった。
人民政協の第一期全体会議
(1946年9月21日)
人民政協の開会式で、毛沢東は中華人民共和国の建国を宣言し、人類の四分の一を占める中国人が立ち上がったと、誇らしげに語った。この会議では人民政協や中央人民政府の組織法のほか、首都、国歌、国旗、紀年法などについて採択。“中国人民政治協商会議共同綱領”(人民政協共同綱領)も決まった。最終日に開かれた選挙で、毛沢東が中央人民政府の主席に当選。その翌日の10月1日に、毛沢東は天安門で中華人民共和国の成立を宣言した。
中華人民共和国の国旗“五星紅旗”
人民政協の第一期全体会議で承認
(1949年9月27日)
人民政協が発足した当時、最高立法機関の全国人民代表大会(全人代)は存在せず、正式な憲法も制定されていなかった。このため人民政協が立法機関としての役割を担い、人民政協共同綱領が臨時憲法として機能した。
全人代の第一期第一回会議が開かれたのは1954年9月15~28日になってからのことで、そこで最初の「中華人民共和国憲法」を可決した。全人代の誕生で、立法機関として人民政協の役割は終了。現在の人民政協は立法機関でもなければ、国家機関でもないが、共産党と少数政党などによる統一戦線組織として、諮問機関のような役割を果たしている。
中華人民共和国の成立を宣言する毛沢東
(1949年10月1日)
「中華人民共和国憲法」の序文には、“共産党が率いる複数政党の協力体制と政治協議制度が長期にわたり存在し、発展し続ける”と明記されている。現在も中国本土には民主党派と呼ばれる八つの政党組織がある。
これら八つの政党組織は、“中国致公党”(致公党)、“中国農工民主党”(農工党)、“中国民主政団同盟”(民盟)、“中国民主促進会”(民進)、“中国民主建国会”(民建)、“九三学社”、“台湾民主自治同盟”(台盟)、“中国国民党革命委員会”(民革)――。いずれも建国前から活動している政党組織であり、現在も人民政協や全人代で一定の議席を確保している。
人民政協の第十三期全国委員会第五回会議
2022年3月4日に開会
全人代の第十三期第五回会議の開会は翌日
人民政協と全人代が開く年に一度の会議は、1995年から3月上旬に開催するのが慣例となっている。これら二つの会議を合わせて、中国では“両会”と呼ぶ。両会が開会する順番は、人民政協が先で、全人代が後というのが不文律。その理由は、最高の権力機関である全人代を始める前に、複数政党の協議機関としての人民政協の役割を保障するためという。
和平交渉の失敗
黒竜江省ハルビン市(哈爾濱市)を占領したソ連軍 話を政治協商会議の直後に戻そう。国民党と共産党の間に不穏な空気が広がるなか、旧満州である東北地域を占領していたソ連軍が、1946年4月から撤退を始めた。ソ連軍の占領地には、連絡を受けた共産党が即座に進駐。国民党も東北地域への北上を目指し、双方は武力衝突した。しかし、撤退するソ連軍と連携した共産党が有利であり、東北地域は次々と共産党の支配地に変わった。
東北地域で相次ぐ武力衝突を受け、マーシャル全権大使が再び動き、6月5日に二度目の停戦命令が下された。今回は停戦の地域と期間を限定。“東北地域で6月7日から15日間”とされ、後に6月30日まで延長された。しかし、山東省や中原地域で国民党と共産党の武力衝突は深刻さを増した。
マーシャル全権大使は停戦に向けて奔走したが、情勢は悪化の一途をたどった。河北省張家口市での戦闘をめぐり、マーシャル全権大使は10月5日に蒋介石から10日の停戦を取り付けたが、共産党は無期限にすることを要求し、この調停は失敗に終わった。
南京市で開かれた憲法制定の国民大会 こうしたなか蒋介石は、憲法制定に向けた国民大会を11月15日に開催。共産党と民主党派の民盟は、前々から一方的な国民大会に反対しており、開催すれば和平交渉を中止すると警告していた。国民大会に先立ち、国民党は無期限の停戦を共産党に呼び掛けたが、もはや何の効果もなかった。
国民大会が開かれたことを受け、1年あまりにわたり和平交渉を続けてきた周恩来は、共産党の根拠地である延安市に帰還。和平の道が断たれたことを受け、マーシャル全権大使も1947年1月に帰国した。調停に当たっていた米国の人員も、翌月には中国を離れた。
マーシャル全権大使と蒋介石夫妻 国民党は3月15~24日に第六期中央執行委員会の第三回全体会議を首都の南京市で開催。共産党に対する全面攻撃を決めた。共産党は1947年10月10日に“蒋介石の打倒と全中国の解放”を呼びかける「中国人民解放軍宣言」を発表。共産党が率いる八路軍や新四軍は、国軍の番号を捨て、“中国人民解放軍”(解放軍)に改称した。
国共内戦と人民元の誕生
中国人民解放軍の1950年式胸章 国共内戦については、この連載でもたびたび紹介したが、共産党は“三大戦役”と呼ばれる“遼瀋戦役”、“淮海戦役”、“平津戦役”に勝利。大勢が決したことを受け、1949年10月1日に中華人民共和国の建国が宣言された。
この時点で国民党の支配地は南部に中心に残っており、解放軍は全面侵攻を開始。中国本土での国民党の掃討は、1950年6月まで続いた。さらに各地に残る武装勢力の壊滅やチベットの占領など、もろもろの軍事作戦は1953年まで続いた。
国共内戦の形成図
赤塗りの地域が解放区、それ以外は国統区
左は1946年の夏、右は1948年の秋
国共内戦中の中国本土は、共産党が支配する“解放区”と国民党の支配地である“国統区”に分断された。こうしたなかで通貨をめぐる戦いが起きていた。
国統区では中華民国中央銀行などが発行する法定紙幣(法幣)が流通。また、民間から黄金を徴発するために発行した金圓券という紙幣も使われていた。法幣や金圓券は、この連載でも何度か紹介したので、今回は説明を割愛する。
民国25年(1936年)発行の100元法幣 一方、解放区は一塊ではなく、いくつかに分断されており、陸の孤島のような状態。各地の解放区では、それぞれの銀行が独自に紙幣を発行していた。例えば、北海銀行の“北海幣”、冀南銀行の“冀南幣”、魯西銀行の“魯西幣”などが、分断された解放区の内部で流通。これらの紙幣は“人民幣”や“新幣”などと呼ばれた。
民国33年(1944年)発行の10元北海幣 国共内戦で共産党が優勢となり、解放区が一塊になり始めると、紙幣統一の要望が高まった。その理由は、紙幣の種類が多すぎるうえ、交換レートの計算などが不便だったからだ。
そこで共産党は華北銀行、北海銀行、西北農民銀行を合併し、1948年12月1日に河北省石家荘市に中国人民銀行を設立。“人民幣”(人民元)の発行を始めた。
解放区の拡大と人民元の流通
初版の人民元は額面が1元から5万元までの12種類。ただ、中国人民銀行という統一名義で発行したものの、初版の人民元は各解放区で独自にデザインしたため、統一感がほとんどなかった。額面は12種類だが、デザインの違いを含めると、62種類の紙幣が存在した。
石家荘市の旧・中国人民銀行本店 同時期に存在した同じ額面の紙幣でも、見た目がかなり異なった。文字は右横書きがほとんどだが、左横書きのものも存在した。発行年の表示についても、“民国”の年号を表記するものもあれば、西暦を採用したものもあった。
初版の人民元10元紙幣サンプル
民国37年(1948年)発行
右横書きの繁体字で表示
中華民国の金圓券、額面は500万元
初版の人民元は、華北地域、華東地域、西北地域などで流通が始まった。解放区では国民党の法幣や金圓券が、共産党の人民元に交換され、外貨、銀貨、金貨の流通が禁止された。解放区が拡大するとともに、人民元も普及。法幣は乱発で価値を失い、金圓券も国民党の劣勢とともに暴落した。
解放軍は1949年5月27日に金融の中心地である上海市を占領。この連載の第四回でも紹介したように、上海市の人々は人民元を信用せず、銀貨や外貨を買い求めた。銀相場は上昇を続け、物価も急騰。これに対処するため、共産党は人民元が唯一の法定通貨であると宣伝し、使用を義務づけたが、効果は乏しかった。
上海市に進駐した解放軍兵士たち
小雨の中、数十万人が路上で睡眠
市民の家に立ち入らない紀律を遵守
東北銀行地方流通券1万元紙幣
発行年は民国37年(1948年)
そこで、6月10日に銀貨取引の中心である上海証券交易所のビルに、共産党の公安部隊が突入し、200人を超える通貨ブローカーを一斉逮捕。こうして銀貨相場は急落し、上海市でも人民元が普及した。
1950年7月には中国最南端の海南島でも、人民元の流通が始まった。東北地域では遼寧省瀋陽市の東北銀行が1945年11月から独自の“東北銀行地方流通券”を発行していた。内モンゴル自治区でも、さまざまな独自通貨を発行。これらの通貨も1951年4月に回収が始まり、人民元に切り替わった。新疆ウイグル自治区やチベット自治区でも独自通貨が使われていたが、これらの地域でも数年間で人民元が普及した。
国際情勢と経済成長に揺れた人民元
第二版の人民元10元紙幣サンプル(表面)
文字は左横書きの繁体字で、ソ連で印刷
初版の人民元は発行量が急増し、1949年1月から1年あまりにわたり、急激なインフレーション(インフレ)が発生。人民元の購買力が急減し、額面との乖離が著しくなった。そこで中国政府は1955年2月に初版の人民元を回収すると決定。3月1日に発行を始める第二版の人民元と交換することになった。
第二版の人民元10元紙幣サンプル(裏面)
チベット語、モンゴル語、ウイグル語の表示も
この交換作業では、初版の人民元1万元を第二版の人民元1元とするデノミネーション(デノミ)が実施された。額面は11種類で、最高額は10元。補助単位である“角”(10分の1元)、“分”(100分の1元)の紙幣も発行された。
第二版の人民元には、中国語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語の表示も印刷され、文字もすべて左横書きとなった。3~10元の高額紙幣はソ連で印刷された。偽造防止の印刷技術が、中国では未熟だったからだ。
内戦に敗れた国民党は台湾に移転し、蒋介石は反撃の機会をうかがっていた。そこで人民元の信用を崩すため、台湾で人民元の偽造紙幣を印刷。これを飛行機から中国本土に投下したり、香港やマカオ経由で密輸する作戦を展開したりした。
第三版の人民元10元紙幣サンプル(表面)
新たにチワン語の表示が加わった。
“大団結”の愛称で呼ばれた。
1961年に中国とソ連の関係が悪化。3~10元の原版はソ連にあり、人民元の信用を守るため、中国政府は1962年4月に第三版の発行を始めた。額面は1角から10元までの7種類で、チワン語(壮語)の表示が加わった。
第四版の人民元100元紙幣サンプル(表面)
右から毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳の肖像
1978年12月に中国の改革開放政策が始まると、経済規模が飛躍的に拡大。紙幣の最高額面が10元では不十分となった。そこで1987年4月に第四版の発行が始まった。額面は9種類で、最高額は100元。漢字がすべて簡体字で統一されたほか、点字の表示が加わった。
第五版の人民元100元紙幣サンプル(表面)
どの額目の紙幣も毛沢東の肖像で統一された。
現在流通している第五版の人民元は、1999年10月に発行が始まった。額面は1角から100元までの8種類。紙幣のデザインは毛沢東の肖像で統一された。偽造防止技術や機械鑑別性が強化された。額面は100元が最高であり、現在では物価に比べて低いが、すでにキャッシュレス決済が普及しているため、不自由はなくなっている。
人民元の特性
人民元は日本円などと同じ“信用貨幣”(信用通貨)であり、香港ドルのような“本位貨幣”(本位通貨)ではない。その発行を担う中国人民銀行は、日本の日本銀行のように政府から独立した法人ではなく、最高行政機関である国務院の一部門とされる。
人民元は「中国人民銀行法」で定められた法定通貨であり、強制通用力が付与されている。さらに中国本土では外貨決済が基本的に禁じられており、例外的な取引を除き、すべての債務は人民元で支払う必要がある。
北京市の中国人民銀行本店 人民元は誕生から今日に至るまで、自由化されたことがない。貿易決済や海外旅行など、通貨交換の実需をともなう経常取引では、手続きが面倒なものの、人民元と外貨の交換が基本的に可能。一方、証券売買などの資本取引では、人民元と外貨の交換は厳しく制限されている。
人民元為替相場の変遷
中華人民共和国の建国直後、人民元は金本位制でなかったことから、外貨の交換は変動相場制を採用。黄金ではなく、物価を基準に為替相場が決められた。1955年3月~1971年11月はブレトン・ウッズ体制の下で、1米ドル=2.46元で固定された。
ブレトン・ウッズ体制の崩壊後、人民元の為替レートは数度にわたり調整された。1973年に変動相場制が世界的に広がると、人民元は西側諸国の通貨変動に合わせた“通貨バスケット制”を採用。人民元は米ドルに対して価値が上昇し、1981年には1米ドル=1.5元ほどの水準に達した。
中国銀行の外貨兌換券(FEC)
1980年4月~1994年末に流通
訪中外国人が使用する紙幣
額面価値は人民元と同じ
人民元と違い、外貨との交換が可能
FECがあれば、外国人向け商店に入店可能
闇市では1FEC=1.5~1.8元で両替可能
改革開放政策が始まると、人民元は計画経済から市場経済への過渡期に合わせ、1981年1月から二重相場制を採用した。対外貿易に適用する“内部決済レート”(内部結算価)を新たに設定。1米ドル=1.5元から大きく切り下げられ、1米ドル=2.8元の水準で固定された。
一方、従来からの“公定レート”(官方牌価)も引き続き利用され、海外送金、旅行、労務、在外機関の経費、交通、通信、金融、保険、外交などに適用された。こちらは1米ドル=1.5元から緩やかな人民元安が続き、1984年7月には1米ドル=2.3元の水準となった。
上海の友誼商店で買い物する外国人
中国人が入店するには外貨兌換券が必要
内部決済レートは1985年に廃止され、公定レートに一本化された。ただし、中国銀行は1980年10月から“外貨調整市場”(外匯調剤市場)と呼ばれる企業間の外貨取引業務を始めており、そこでは内部決済レートの1米ドル=2.8元に対し、10%の範囲内で取引レートが形成されていた。
外貨調整市場は1980年代の中頃から全国的に拡大し、各地に外貨調整センター(外匯調剤中心)が設けられた。1985年に内部決済レートは廃止され、名目上は人民元の為替レートが一本化されたが、実質的には公定レートと外貨調整センターの取引レートが並存。これは新たな二重相場制になったことを意味する。
広東省深圳市の外貨調整センター 内部決済レートは固定されていたが、公定レートと外貨調整センターの取引レートは変動する。いずれのレートも、米ドルに対して下落が続いた。1990年代の初めになると、外貨取引の大部分は外貨調整センターで行われるようになった。公定レートに対し、外貨調整センターの取引レートは大幅な人民元安の状態が持続。この価格差を利用した不公正な取引が横行するようになった。
こうした状況を受け、1994年1月1日に公定レートが外貨調整センターの取引レートに合わせるかたちで、人民元相場が一本化された。これは実質的な人民元の切り下げだった。企業が輸出で稼いだ外貨は、すべて銀行に売却することを強制。さらに全国統一の銀行間外国為替市場を創設し、人民元は管理変動相場制に移行した。ただ、管理変動相場制とは言っても、実際は1米ドル=8.3元の水準でペッグされた事実上の固定相場制だった。
2001年12月11日に中国は世界貿易機関(WTO)に加盟。割安で固定された人民元相場への批判が強まった。こうした情勢を背景に、中国は2005年7月21日に通貨バスケットを参考とした管理変動相場制に移行。1米ドル=8.27元だった人民元相場は一気に1米ドル=8.11元に切り上げられた後、米ドルとのペッグを解消した。
ただし、人民元と米ドルの日々の変動幅は、毎日発表される基準値の上下0.3%に制限された。この変動幅は拡大が続き、2007年5月21日には上下0.5%、2012年4月16日には上下1%、2014年3月17日には上下2%になった。
人民元のSDR入りを発表するIMFのラガルド専務理事
(2015年11月30日)
2015年8月11日には基準値の算出方法を改革。基準値と取引レートの乖離を縮め、より市場原理に任せることが目的だった。この改革は国際通貨基金(IMF)が2015年11月30日に発表した人民元を特別引出権(SDR)の構成通貨に含める決定に合わせたものとみられる。しかし、基準値が一気に大幅な人民元安に動いたため、通貨の切り下げと受けとめられ、外国為替市場は騒然となった。
なお、人民元のSDR組み入れは2016年10月1日に発効。構成比は10.92%であり、日本円の8.33%や英ポンドの8.09%を上回った。中国の経済規模は2030年ごろには米国と肩を並べると予想され、人民元への注目度もさらに高まるとみられる。
台湾の中国返還
カイロ会談の米英中三カ国首脳(1943年11月25日)
左から蒋介石・主席、ローズベルト大統領、チャーチル首相
台湾は1895年4月17日に締結された「下関条約」(馬関条約)により、大日本帝国に割譲され、日本統治時代が半世紀続いた。戦時中の1943年11月下旬にエジプトのカイロで開かれた米英中三カ国の首脳会談(カイロ会談)では、“満州、台湾、澎湖諸島などは中華民国に返還されるべし”ということで合意。これは12月1日に「カイロ宣言」として発表された。
ポツダムの米英ソ三カ国首脳
左からチャーチル首相
ローズベルト大統領
スターリン首相
(1945年7月25日)
1945年7月26日に発表された「ポツダム宣言」でも、その第八条で「カイロ宣言は履行すべき」と明記されており、これを大日本帝国は降伏文書で受諾。一般命令第一号が発令されると、台湾の日本軍は蒋介石に投降することになった。
8月15日に終戦を迎えたが、中華民国は戦後処理に追われ、台湾接収の準備機関が台北市に置かれたのは10月5日になってからだった。その間の台湾は無政府状態であり、そうした中で日本人は次々と日本本土へ引き揚げた。
台湾での降伏式典
右は中華民国の陳儀・台湾省総司令
左は諌山春樹・参謀長
(1945年10月25日)
台湾で日本軍の降伏式典が開かれたのは10月25日で、台湾総督だった安藤利吉・大将が降伏文書に調印。この日をもって、台湾に住む中国人は国籍が中華民国に変更された。
旧台湾ドルの誕生
台湾では1899年9月26日に開業した台湾銀行が、“台湾銀行券”という紙幣を発行していた。台湾銀行券は日本で印刷され、台湾に運ばれていた。しかし、1944年に日本が制空権を失い、海上輸送も困難になると、台湾で印刷されるようになった。印刷の速度を上げるため。記番号は省略された。
1942年(昭和17年)版の台湾銀行券1円紙幣
金本位制を背景に
「此券引換に金壹圓相渡可申候也」と表示
終戦を迎えると、台湾ではインフレが深刻化。台湾銀行券の最高額面は100円であり、これでは足りなくなった。そこで日本で1945年8月17日に発行が始まった千円札(日本銀行兌換券甲号)が台湾に運ばれ、その背面に台湾銀行が社印と頭取印で裏書きした紙幣が、8月19日から流通。この千円札が台湾に運ばれた量は、日本での流通量を超えた。このため台湾のインフレは一段と悪化した。
戦後直後の台湾で一時流通した千円札(裏面)
薄っすらと“株式会社台湾銀行”の社印が見える。
台湾を接収した中華民国政府は、11月8日に千円札の流通停止を発表。中国本土の法幣の流通も禁止した。中華民国政府は中央銀行に台湾支店を開設させ、過渡的な紙幣として“中央銀行台湾流通券”を発行しようと計画。しかし、この構想は頓挫し、千円札以外の台湾銀行券の流通を引き続き認めた。
台湾銀行を接収した中華民国政府は、これに台湾貯蓄銀行と三和銀行の台湾支店網を合併させたうえで、新たな銀行に再編。新たな台湾銀行は、1946年5月22日から“台幣兌換券”を発行した。これを“旧台湾ドル”という。
民国35年(1946年)版の旧台湾ドル10元紙幣
上海で印刷
この時点で旧台湾ドルの発行は、中華民国政府の許可を得ておらず、6月15日に追認された。旧台湾ドル紙幣は上海市で印刷し、台湾に輸送。台湾銀行券と一対一の比率で交換が進み、台湾の紙幣が入れ替わった。
新台湾ドルの誕生
民国37年(1948年)版の旧台湾ドル1万元紙幣
台湾で印刷
国共内戦で国民党の国軍が劣勢になると、1948年から航空機や艦艇の台湾移転が始まった。国庫の金塊や貴重な国宝も、台湾に運ばれた。上海市の造幣所は法幣や金圓券の印刷に追われ、旧台湾ドルは後回しになった。そのため、1948年から旧台湾ドルは、台湾で印刷されることになった。
中国本土の法幣や金圓券は、大量発行のために大暴落。中国本土から台湾への資本逃避が進み、法幣や金圓券を旧台湾ドルに交換する動きが加速した。その影響で旧台湾ドルも大量発行されるようになり、その購買力が急減。台湾でインフレが進行した。
初版の新台湾ドル
10元紙幣
それまでの旧台湾ドルの最高額面は100元だったが、それでは十分に物を買えないことから、1948年に入ると500元紙幣や1,000元紙幣の印刷を開始。年末には1万元紙幣も誕生した。
旧台湾ドルの購買力低下を受け、中華民国政府は1949年6月15日に通貨制度改革を発表。台湾銀行が“新台湾ドル”を発行することが決まった。新台湾ドルの価値は、米ドルで裏付けられ、その交換レートは1米ドル=新台湾ドル5元。4,000万米ドル相当の黄金を準備資産とし、2億元の新台湾ドルを発行することになった。
こうして発行された新台湾ドルは、新台湾ドル1元=旧台湾ドル4万元のレートで交換された。黄金で裏付けられた新台湾ドルの価値は安定し、交換作業は順調に進展。旧台湾ドルは1950年1月14日で流通停止となった。
金門島の新台湾ドル
1元紙幣
初版の新台湾ドルは縦長のデザイン。漢字は右横書きの繁体字。紀年法は民国の年号を使い、孫文の肖像画が印刷された。
地域通貨から国家通貨へ
国共内戦に敗れた国民党の国軍と中華民国政府は、1949年12月7日に台湾への遷都を発表した。1950年6月21日に中華民国政府は銀本位制を継続すると発表。銀圓(銀貨)との交換価値は1949年12月29日に公示レートに基づき、1銀圓=新台湾ドル3元とされた。1950年7月1日には中華民国の通貨単位としても、新台湾ドルが採用された。ただし、この時点でも新台湾ドルは地域通貨としての色彩が強かった。
なお、福建省福州市付近の馬祖列島と福建省アモイ市付近の金門島は、中華民国の支配地だが、中国本土に近接した“最前線”であることから、地域限定の特殊な新台湾ドルが流通することになった。なお、この特殊な新台湾ドルは、現在は廃止されている。
民国50年(1961年版)の新台湾ドル100元紙幣
初めての横長デザイン、印刷は台湾銀行
中華民国の中央銀行は、1961年7月1日に台湾で業務を再開。新台湾ドルの発行権は中央銀行にあるものの、引き続き台湾銀行に委ねられた。これに合わせ、新台湾ドルの紙幣も横長のデザインに変わった。1970年12月21日からは紙幣に“中華民国”と印刷されるようになり、徐々に国家通貨として認知されるようになった。
民国59年(1970年版)の新台湾ドル100元紙幣
初めて“中華民国”と表示、印刷は台湾銀行
1992年8月5日に中華民国政府は銀本位制からの離脱を発表。2000年7月1日には中央銀行が新台湾ドルを直接発行することになった。こうして新台湾ドルは正式に国家通貨となり、台湾銀行は発券業務を終了。銀圓建てで記載された法律の条文は、すべて新台湾ドル建てに変更された。
民国89年(2000年版)の新台湾ドル100元紙幣
初めての“中央銀行”の表示と左横書き
新台湾ドルが国家通貨となったことを受け、2000年7月1日から中央銀行と表記された新台湾ドルの発行を開始。漢字も左横書きとなった。台湾銀行が発行した新台湾ドルは2002年7月1日で流通が終了した。
パタカの誕生
このように人民元と台湾ドルの対立は、背景に“一つの中国”をめぐる共産党と国民党の争いがあった。中台両岸問題は今世紀も未解決の課題。台湾では国民党の勢力が減退する一方、民主進歩党(民進党)などの地場勢力が伸長し、この問題はさらに複雑さを増している。“一つの中国”に複数の通貨が並存する状況は、中台両岸問題が残る限り、解消することはないだろう。
一方、香港ドルとパタカの背景にあるのが、植民地の歴史だ。香港ドルの誕生と発展については、これまでの連載で何度も説明したので、今回はパタカについて紹介する。
16世紀末に描かれたマカオ
セオドア・ド・ブライ作
明王朝は1553年にマカオをポルトガル人の居留地として認めた。1840年に勃発したアヘン戦争の結果、香港が英国の植民地になると、これにポルトガルが触発された。ポルトガルは1887年に清王朝と友好通商条約を締結し、マカオを正式に植民地とした。
マカオでは銀圓や外貨などが流通していたが、1901年ごろからポルトガル政府は独自通貨の導入を構想。1905年9月4日にマカオの大西洋銀行(バンコ・ナシオナル・ウルトラマリノ)に通貨発行権を与えた。
マカオの大西洋銀行(BNU)本店
1997年に高層ビルとなったが、外壁等を保存
こうして1906年1月27日にマカオの独自通貨である“パタカ”が誕生した。パタカとはメキシコ・ドル(メキシコ銀)を意味するポルトガル語の“パタカ・メキシカーナ”に由来。その価値は銀貨で裏付けられ、パタカのレートは銀相場に連動した。しかし、パタカは信用力に乏しく、額面に比べて割安なレートでしか外貨との交換に応じられなかった。
マカオ返還
1994年発行の5パタカ紙幣 1935年に中国や英領香港が銀本位制を離脱すると、パタカはポルトガルの通貨であるエスクードとの固定相場となった。本国のポルトガルは1933年から続く“エスタド・ノヴォ”と呼ばれる独裁体制の下で衰退が続き、マカオ経済は近接する英領香港との関係が緊密となった。これを背景に、1977年からパタカは香港ドルとの固定相場に移行した。
カーネーション革命を祝うリスボン市民
(1974年4月25日)
ポルトガルのエスタド・ノヴォ独裁体制は、1974年4月25日の軍事クーデーターで打倒された。これを“カーネーション革命”という。こうしてポルトガルは第二共和政に移行した。
ポルトガルの第二共和政は、“脱植民地主義”の政策を推進。1974年末にはマカオ駐留のポルトガル軍も撤退した。1979年2月8日に中華人民共和国とポルトガルは、国交樹立に向けた共同コミュニケを発表。マカオが中国固有の領土であることを両国が確認した。
共同声明の調印式(1974年4月25日) 香港返還が決まると、1986年6月30日からマカオ返還をめぐる交渉が始まった。この連載の第四十回でも紹介したように、マカオでは1966年12月3日に起きた“一二・三事件”の結果、マカオ政庁の権威が失墜しており、“影の総督”と呼ばれた何賢が実権を掌握していた。これを背景に、中国とポルトガルの交渉はスムーズに進み、1987年4月13日に両国は共同声明に調印。1999年12月20日でマカオの主権が中国に返還されることが決まった。
パタカの変遷
1980年にマカオ政庁は“澳門発行機構”(IEM)を設立し、通貨発行権を付与。大西洋銀行は引き続きパタカの発行を続けたが、IEMの代理として位置づけられた。マカオ返還が決まると、IEMは解散。通貨発行権は1989年7月1日に発足した澳門貨幣曁匯兌監理署(AMCM)に移譲された。しかし、パタカの発行は大西洋銀行が続けた。
中国銀行の初版10パタカ紙幣 マカオ返還が迫った1995年10月16日にマカオ政庁は中国銀行マカオ支店をパタカの発券銀行として承認。こうしてパタカの発券銀行は、大西洋銀行と中国銀行マカオ支店の二行体制となった。
中国銀行の2008年版1000パタカ紙幣 現在のパタカは、香港ドル本位カレンシーボード制を採用。発券銀行は1香港ドルを澳門貨幣曁匯兌監理署の後身である澳門金融管理局(AMCM)に差し入れることで、1.03パタカを発行できる。香港ドルが1米ドル=7.75~7.85香港ドルでペッグしていることから、間接的に1米ドル=8パタカの固定相場が実現している。
大西洋銀行の2005年版1000パタカ紙幣 パタカ相場は1香港ドル=1.03パタカ、1米ドル=8パタカで固定されているが、これは1983年9月27日に決まった。英中交渉の難航が伝わり、香港ドルが急落したことを受け、マカオ政庁は9月26日にパタカを3%切り上げると発表。その結果、1パタカ=1香港ドルとなった。すると、パタカを売り、香港ドルを買おうと、マカオ市民が銀行に押し寄せた。
この騒ぎを鎮めるため、マカオ政庁は9月26日の午後に1香港ドル=1.003パタカで固定すると発表。しかし、騒ぎが収まらなかったことから、9月27日に1香港ドル=1.03パタカに調整し、事態を収拾した。
パタカの地位
パタカはマカオの独自通貨だが、その流通規模は小さい。2021年末のマカオのマネーストックM2を見ると、パタカは35%にすぎない。最も多く流通しているのは香港ドルであり、M2の50%を占める。そのほかは米ドルが7%、人民元が6%という状況だ。
マカオのカジノや商店では、香港ドルが普通に使え、観光客がわざわざパタカに両替する必要はない。もちろん、手持ちの香港ドルや米ドルをマカオでパタカに両替することは可能。しかし、パタカを外貨に両替することは、マカオ以外では極めて困難であり、注意が必要だ。このため、観光客は香港ドルを好んで使う。
マカオのコタイ・ストリップに広がるカジノホテル マカオで香港ドルを使う場合、パタカと等価値を見なされる。つまり、1香港ドル=1パタカだ。しかし、実際は1香港ドル=1.03パタカであり、マカオ市民同士では主にパタカを使っている。
香港ドルの法的地位
一つの国家に複数の通貨が存在するというのは、かなり特殊と言えるだろう。そこで香港に話を戻し、香港ドルの特殊性が法律でどのように位置づけられているのかを見ていこう。すると、香港の異質な通貨事情と香港ドルの将来も見えてくるだろう。
香港基本法(中華人民共和国香港特別行政区基本法)
1990年4月4日公布、1997年7月1日施行
序文、全160条、付属文書1~3で構成
香港の地域憲法に相当する「香港基本法」には、香港ドルの地位が明確に定められている。第111条では「香港ドルは香港特別行政区の“法定通貨”であり、引き続き流通する」とある。これは中華人民共和国への主権返還後も、香港の通貨を人民元に切り替えることなく、英領香港からの香港ドルが引き続き通用することを明確化した条文だ。少なくとも“一国二制度”の継続が保証された2047年までは、香港ドルが存在し続けることを意味する。
ユニークなのは第111条の続きだ。「香港ドルの発行権は香港特別行政区に帰属する。香港ドルの発行には“100%の準備金”が必要。香港ドルの発行制度と準備金制度は、法律で規定する」とある。
法定通貨の発行について“100%の準備金”を憲法に定めることは、世界的にも珍しい。この条文は米ドル本位カレンシーボード制を念頭に置いたものだが、その一方で準備金の種類については、何の記載もない。
一方、「香港ドルの発行制度と準備金制度は“法律”で規定する」とある。ここでいう法律とは、「外貨基金条例」(外匯基金条例)を指す。現在は香港ドル発行の準備金は米ドルであり、発行レートは1米ドル=7.8香港ドルだが、それは財政長官に決定権がある。準備金の種類についても定めはない。
つまり、その気になれば、「香港基本法」を変更せずとも、米ドル本位カレンシーボード制を廃止することが可能となっている。ただし、その場合でも“100%の準備金”は必要であり、本位通貨であり続けることには変わらない。
第112条では「香港特別行政区は外貨管制政策を実施しない。香港ドルは自由交換が可能。引き続き外国為替、黄金、証券、先物などの市場を開放する。香港特別行政区は資金の流動と自由な出入りを保障する」と定めている。
香港は国際金融センターとしての地位を保持
香港基本法の第109条にも明記
これも憲法の条文に似つかわしくなく、香港という地域の特殊性を示している。第109条には「香港特別行政区は適切な経済と法律の環境を提供し、香港の国際金融センターとしての地位を保持する」とある。つまり、香港の存在意義は“国際金融センター”であることが憲法で明記されており、通貨制度に関する条文はそのためにある。
香港の通貨事情
「香港基本法」の第111条に明記されているように、香港ドルは香港特別行政区の法定通貨だ。しかし、香港ドルの使用は強制されない。外貨の使用と流通を禁じる法律がないからだ。
英領香港時代の1913年に外貨の使用と流通を禁じる法律が制定されたが、1980年代に廃止された。香港の将来に対する不安から、通貨のドラライゼーション(米ドル化)という最終手段を確保するためだった。
現行の米ドル本位カレンシーボード制はうまく機能しており、香港の通貨が米ドル化する可能性は低い。しかし、万が一に備え、外貨の使用と流通を禁じる法律は、返還後の香港にも設けられていない。
SARS集団感染が起きたアモイガーデン(淘大花園) こうした事情を背景に、香港のマネーストック統計には、香港ドルと外貨の二種類がある。香港返還直前の1997年6月末は、マネーストックM2の総額が2兆7,393億香港ドルで、内訳は香港ドルが1兆6,753億香港ドル、外貨は4,767億香港ドル相当だった。外貨は香港ドルの3割ほどだった。
外貨の使用と流通を禁止しない枠組みは、意外なかたちで機能した。2003年の春に重症急性呼吸器症候群(SARS)が猛威を振るい、観光業や小売業を中心に香港経済は大ダメージを受けた。
董建華・行政長官(2003年11月18日)
人民元業務の試験的導入を発表
そこで、香港経済の回復を支援するため、北京の中央政府と香港政府は2003年6月29日に「中国本土と香港の緊密な経済貿易関係の構築に関する協定」(CEPA)を締結。中国本土住民の香港個人旅行を試験的に導入した。
これに合わせ、董建華・行政長官は2003年11月18日に香港の銀行による人民元業務の試験的導入を発表。香港を訪問した中国本土住民が、人民元で消費することを認めたうえで、香港の銀行に人民元業務を解禁した。香港域内での人民元による消費や銀行の人民元業務を解禁するうえで、法的問題はまったくなかった。
オフショア人民元の誕生
香港を訪れた中国本土からの観光客は、人民元で買い物した。香港の小売店などは人民元を受け取り、銀行の人民元口座に預けた。こうして人民元は初めて中国本土の域外での流通を開始し、香港に“オフショア人民元”(離岸人民幣)が誕生した。これは人民元の国際化に向けた第一歩だった。
オフショア人民元とは中国本土の域外で流通する人民元を指し、“CNH”と表示される。これに対して中国本土で流通する従来からの人民元は“オンショア人民元”(在岸人民元)と呼ばれ、その表示は“CNY”だ。つまり、現在の人民元はオフショアとオンショアの二種類が存在する。
中国本土のオンショア人民元は自由化されておらず、外貨との交換が規制されている。貿易や観光など実需をともなう経常取引では、人民元と外貨の両替は面倒ながらも可能だ。ただし、証券投資などの資本取引では、人民元と外貨の交換が厳しく規制されている。
陸路で中国本土から香港に向かう人々 オンショア人民元と外貨の交換レートは、中国人民銀行(中央銀行)が日々発表する基準値に対し、上下2%の範囲内でしか変動しない。
一方、香港などの域外で流通するオフショア人民元は、中国政府も取引を規制できず、外貨と自由に交換できる。外貨との交換レートも自由に決まる。
クロスボーダー人民元決済
中国銀行がクロスボーダー人民元決済業務を開始
(2009年7月)
2009年7月9日に中国本土と海外のクロスボーダー人民元決済が試験導入された。これにより中国人民銀行が指定する中国本土の地域と海外の地域については、人民元建てによる貿易決済が認められた。指定された地域は、中国本土が上海市のほか、広東省の広州市、深圳市、東莞市、珠海市。海外では香港、マカオ、東南アジア諸国連合(アセアン)が指定された。
なお、現在では中国本土の指定地域が20省・自治区・直轄市に拡大。海外の地域指定は完全に撤廃されている。
クロスボーダー人民元決済の導入により、香港の貿易会社は香港で人民元口座を開設し、中国本土の企業と人民元建てで貿易できるようになった。つまり、中国本土への輸出代金は、香港の銀行に開いた人民元口座で受け取ることが可能。こうして香港金融機関の人民口座にオフショア人民元が急速に蓄積されるようになった。
香港の“点心債”市場
香港など中国本土の域外で発行される人民元建て債券を“点心債”(ディムサム・ボンド)という。“ディムサム”とは中国の小料理である“点心”の広東語読み。ちなみに標準語(普通話)では“ディエンシン”と読む。
余談だが、海外の企業が中国本土で発行する人民元建て債券は“熊猫債”(パンダ・ボンド)という。熊猫債は2005年10月に国際金融公社(IFC)とアジア開発銀行(ADB)が初めて発行し、オンショア人民元を調達した。
香港は人民元債券を発行するための金融インフラが整っていた。債券の発行、清算、決済、寄託をパーパレスで処理する香港の“CMUシステム”(セントラル・マネーマーケット・ユニット)は、1996年1月に香港ドル以外の通貨にも対応。人民元の“即時グロス決済”(RTGS)も可能となっていた。
国家開発銀行の点心債(香港人民幣債券)発行式典
(2009年7月27日)
最初の点心債は2007年6月に国家開発銀行が発行。外資企業としてはマクドナルドが2010年に初めて点心債を発行し、オフショア人民元を調達した。中国本土の非金融系企業では、2011年10月には鉄鋼大手の宝山鋼鉄集団が発行。点心債の発行は香港以外の地域にも拡大し、2012年11月には中国建設銀行が初めてロンドンで点心債を発行した。
オフショア人民元センターの香港
国際銀行間通信協会(SWIFT)の統計によると、2015年8月に人民元は国際決済通貨の月間ランキングで4位に躍進。初めて日本円を抜いた。この時の国際決済通貨に占める人民元の割合は2.79%で、5位の日本円は2.76%。ちなみに、1位の米ドルは44.82%、2位のユーロは27.20%、3位の英ポンドは8.45%であり、4位との差は大きい。
その後、人民元の割合は再び日本円に抜かれ、低迷が続いた。しかし、2021年12月に再び日本を抜いて4位に浮上。2022年1月も4位を維持した。順位は1位の米ドルが39.92%、2位のユーロが36.56%、3位の英ポンドが6.30%、4位の人民元が3.20%、5位の日本円が2.79%だった。
金融市場ではオフショア人民元の存在感がさらに強まっている。2022年1月は世界の金融市場で取引される通貨のランキングで、オフショア人民元が月間3位だった。1位は米ドルで、割合は87.38%と圧倒的。2位はユーロの5.76%、3位は人民元の1.92%、4位は日本円の1.70%だった。
このように存在感を強めているオフショア人民元は、大部分が香港で取引されている。2022年2月は香港がオフショア人民元の取引額で世界の76.23%を占めた。それゆえ香港は“世界最大のオフショア人民元センター”と呼ばれる。
ちなみに、オフショア人民元の取引額が2番目に大きいのは、香港の宗主国だった英国で、世界の6.34%。日本は10番目の0.56%であり、韓国の2.76%や台湾の1.40%を大幅に下回る。
人民元の国際化と香港
オフショア人民元の誕生と人民元の国際化を背景に、香港は世界最大のオフショア人民元センターとして存在感を強めている。
香港のマネーストックM2は2021年末で総額16兆2,727億香港ドル。内訳は香港ドルが8兆439億香港ドル、外貨が8兆2,287億香港ドル相当。返還直前の1997年6月末と大きく異なり、外貨の方がやや多い。
2021年末の香港金融機関の受入預金は総額15兆1,554億香港ドルで、内訳は香港ドルが7兆4,009億香港ドル、外貨が7兆7,545億香港ドル相当。うちオフショア人民元は9,268億元(約1兆1,349億香港ドル)であり、外貨預金の約15%を占めている。
香港経済は中国本土に大きく依存しており、人民元建て商品に対する香港ドルの購買力は大きな問題だ。人民元の価値が米ドルに対して上昇すると、香港ドルの人民元建て商品に対する購買力が低下する。香港の市民や企業が人民元を貯蓄する背景には、こうした事情がある。
国際金融センターの香港では外貨取引が活発
街角には両替店が多く、市民も為替取引に参加
金融マーケットの動きに非常に敏感
前述のように、香港には外貨の流通を禁止する法律がない。また、香港ドルの発行には“100%の準備金”が必要だが、準備金の種類についての決まりもない。今後の情勢によっては、香港で人民元の流通量がさらに拡大し、香港ドルを駆逐する可能性もあるだろう。また、香港ドルの価値を裏付ける準備金が、米ドルから人民元に置き換わることも、ありえない話ではない。
香港の通貨が香港ドルから人民元に置き換わるか否かは、それを使う香港市民の選択しだいだ。ただ、人民元は昔に比べて国際化が進んだとはいえ、その世界的な流通規模や自由度はまだまだ小さい。香港の通貨が人民元に置き換わるという未来があるとしても、それは何十年も先のことだろう。