香港では1865年に「会社条例」が制定され、株式取引が活発化した。もっとも、香港経済の主役は、あくまでも英国系の大企業。香港の中国人は土地を取得できないなどの差別的政策の下にあったが、国際貿易などのビジネスで徐々に実力をつけてきた。ジョン・ポープ・ヘネシー卿が第八代総督として着任すると、中国人の地位は大きく改善。その一方、香港で最初の不動産バブルも発生し、多くの中国人資産家が破産した。
香港での投資選択肢では、現在でも不動産の存在感は株式に並ぶ。こうした香港の不動産市場を理解するため、今回は複雑な香港の土地制度をまず概観し、続いてヘネシー総督の時代を眺めていくことにする。
土地は誰のもの?
若き日のビクトリア女王 経済学における生産要素は、土地、資本、労働を指す。これに起業家を加える説もある。このうち土地は生産要素の筆頭であり、これをめぐり国家が武力で争うことは、古くから“戦争”という名で知られていた。中世の日本では“一所懸命”という言葉が生まれるほど、土地は命を懸けて守るものだった。
このように重要な土地という資源だが、英領香港では開港時から、中国人に借地権を販売することが禁止されていた。香港では昔も今も、土地の取引とは借地権の売買しかない。所有権の売買はなく、日本とは制度が大きく違う。そこで、まずは香港の土地制度について、その概要を見てみよう。
聖ヨハネ座堂(聖約翰座堂)
日本統治下では日本人倶楽部として利用された
夜の太古城(タイクーシン)
英領香港の土地は、ビクトリア女王の国王大権に基づき発布した英皇制誥(Hong Kong Letters Patent)により、すべてが王室領となった。香港の土地は英国王の所有物であり、所有権が売り出されることはなく、リースホールドという名の借地権を販売していた。
借地権の期間は長い。香港開港当初は999年間という超長期の借地権もあったが、後に期間は99年間に短縮され、現在では50年間が一般的だ。
ちなみに、香港島セントラル(中環)にある聖ヨハネ座堂の用地は例外的なものであり、教会として使用することを条件に、1847年に永久借地権が認められている。999年間の超長期借地権としては、香港島北東の商業・住宅地「太古城」(タイクーシン)などが例として挙げられる。
香港の主権が中華人民共和国に返還された後も、香港の土地は公有地のままだ。歴史的運命なのか、社会主義の中国本土では、土地が国家所有あるいは集団所有の公有制だったからだ。立憲君主制国家と社会主義国家の土地制度が似ているとは、なんとも皮肉な話だ。
もし英領香港の土地が私有制だったら、中華人民共和国への主権返還は公有制への移行をともない、非常に複雑な問題となっただろう。
リースホールドという土地の考え方になじみのある日本人は少ないようだ。だが、英国では王侯貴族がフリーホールドという形式で土地を所有し、それを長期のリースホールドで販売するのが一般的だ。
基本的に英国や香港のリースホールドと中国の土地使用権は同じような性質。リースホールドという土地利用の仕組みは、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、マレーシアなどにもあり、世界的には珍しくはない。
中国の土地が公有制であり、企業や住民が入手できるのは期間数十年の土地使用権だけと聞くと、中国の株式や不動産に投資することに怖気づく日本人は多い。
ところが不思議なことに、「英国や香港も同じ制度ですよ」と説明すると、安心したり、納得したりする。日本人の中国観の一端が垣間見える。
租借地の新界
新界との前哨地で撮影された税官吏と警備員(1898年)
バウンダリー・ストリート(界限街)(2002年)
右が九龍、左が新界
第十二代香港総督のヘンリー・アーサー・
ブレイク卿(左) 新界の士紳たち(右)
新界の統治原則について説明している(1899年)
新界の丁屋
香港の衛星写真地図
香港の領域のうち、香港島と九龍は英国に割譲された土地だが、広大な面積を占める新界(ニューテリトリー)は租借地だった。このため英領香港時代から新界の扱いは異なる。新界には特別な制度のほか、国家間のすき間に取り残された特殊地域が存在する。
英国は1898年6月9日に清王朝から九龍半島のバウンダリー・ストリート(界限街)の北から深圳河の南までの土地を租借することで契約。こうして新界は香港政庁の統治下に入った。新界の租借期限は1997年6月30日までの99年間。結果的に、この新界の租借期限到来が、香港返還につながることになる。
香港政庁は1899年4月14日に新界の接収を開始したが、住民の激しい抵抗に遭い、英軍が出動。“新界六日戦”と呼ばれる戦闘で、約500人の住民が殺害された。一方の英軍は1人が軽傷を負っただけだった。
戦闘は1899年4月19日に終結し、香港政庁は正式に新界を接収。新界六日戦の影響もあり、中国の紳士階級である士紳による間接統治下に置かれた。新界の大部分は、地主や小作人などが住む農地。土地所有権の変更作業は、非常に複雑だった。
新界の住民が清王朝と交わした土地所有契約は、1905年に香港政庁との集団借地権契約(ブロック・クラウン・リース)に変更された。当初の借地期限は1973年6月末まで。後に延長され、香港返還3日前の1997年6月27日とされた。清王朝との土地契約書がない土地などは、公有地とされた。
こうした経緯があり、香港政庁が自由に開発できる新界の公有地は限りがあり、土地収用も難しい。このため新界の都市開発は進まなかった。
1960年代に入ると、香港の人口増加を背景に、新界の都市開発が大きな課題となる。だが、新界は土地利権が複雑に絡んでいることから、開発を進めるには住民の支持が不可欠。このため香港政庁は1972年に、当初からの新界に住んでいた住民の子孫に特権を与え、成人男性は生涯に一度だけ3階建て以下の小型住宅を建てることを許可した。
この特権は壮丁(成人男性)に与えられたため、“丁権”と呼ばれる。丁権を行使して建てられた小型住宅は“丁屋”と言い、新界の各所にみられる。この特権制度は今日も続いており、他地域住民に不公平感を抱かせ、今日でも潜在的な社会問題となっている。
香港政庁は1970年代から新界の埋立地を中心に、ニュータウン(新市鎮)を建設。しかし、衛星写真を見ると分かるが、新界には未開発の緑地が多く残っている。人口が増えているにもかかわらず、複雑な土地利権が絡んだ新界の開発と公共住宅の建設は、遅々として進んでいない。これが香港の住宅価格高騰の一因となっている。
東洋の魔窟
清王朝が建設した九龍城(1898年) 九龍城の南面(1993年) 上空から撮影した九龍城(1989年) かつてアジアン・カオスの象徴だった九龍城は、新界の特殊地域。1842年に香港島が英領となった後、1847年に清王朝が対岸の新界に建設した要塞が、九龍城の始まりだった。
1898年に新界の租借が決まった際、その条件に九龍城は引き続き清王朝が管理するという内容が盛り込まれていたため、事実上の飛び地となった。だが、香港政庁は九龍城に駐屯していた清王朝の管理者を追放。その一方で香港政庁には九龍城の管理権がなく、放置される形となった。
清王朝が滅亡した後、中華民国や中華人民共和国が九龍城の管理権を主張したが、実行は不可能だった。このように九龍城は無政府状態だったことから、やがて難民や犯罪者が逃げ込む場所となった。
0.026平方キロメートルの土地にピーク時は5万人が住んでいたと言われ、人口密度は世界最高。無計画に鉄筋コンクリートの建物が密集して建てられ、その異様な姿から“東洋の魔窟”と呼ばれるようになった。
1984年に香港返還が決まると、1987年から英中両国は九龍城の住民移転を開始。現在は公園となっている。
“一街二制度”の中英街
九龍城ほど有名ではないが、もう一つの特殊地域が “中英街”。新界北東部の沙頭角に位置する商店街だ。中英街の位置はもともと新界と中国本土の境界線に設定された川だった。後に川が干上がり、河道が天然の通り道となったことで、その両脇に商店が立ち並び、中英街が形成された。
この通りが中英街
道の左側の商店は中国本土、右側は香港
写真右下の地面にある石が境界線を示す
中英街を警備する中国本土の警察(右)
香港警察(左)(1995年)
中英街で向かい合う英兵と中国兵(1949年)
人間の対立をよそに、犬は自由に往来
その結果、中英街は通りの片方が中国本土で、もう片方が香港という状態。境界線は通りの中心線に置かれた8個の境界碑だけだ。つまり、この商店街に入ると、香港と中国本土を自由に往来できてしまう。一国二制度ならぬ“一街二制度”という状況であり、この中英街に入るには特別な通行証となる。
東西冷戦の時代、中英街は資本主義陣営と社会主義陣営が対立する最前線だったが、なんと開きっぱなしの状態だった。過去には香港警察と武装民兵の銃撃戦が発生したこともある。また、長年にわたり密輸が横行し、中国本土では黄金などが安く買える街ということでも知られていた。
自然が豊かな香港辺境禁区
最後の特殊地域は、フロンティア・クローズド・エリア(香港辺境禁区)。これは中国本土との境界線に沿って設けられた緩衝地帯だ。
国共内戦最中の1949年6月に中国人民解放軍が香港に接近すると、香港政庁は1951年2月に中国本土との自由な往来を禁止。1962年に緩衝地帯として2,800ヘクタールのフロンティア・クローズド・エリアを設定した。ここに入るには、住民と中国本土との往来者を除き、特別の許可が必要となる。
新界の元朗から深圳を望む(2014年)
間には未開発の香港辺境禁区が広がる
長期間にわたり一般の立ち入りが禁止されていたことから、ここは豊かな自然が残る地域となっている。だが、土地開発需要などを背景に、2016年にフロンティア・クローズド・エリアは約400ヘクタールに縮小された。今後の開発がどう進むかが注目される。
人道主義の香港総督
第八代香港総督のジョン・ポープ・ヘネシー
中国語名は軒尼詩
複雑な香港の土地事情を開設したが、それを踏まえて第八代香港総督のジョン・ポープ・ヘネシー卿の時代を見てみよう。彼が香港に着任したのは1877年4月22日。それまでの任地は、マレーシアのラブアン島、英領ゴールド・コースト、シエラレオネ、バハマ、バルバドス・ウィンドワード諸島。東南アジア、アフリカ、カリブ海を回り、東アジアの香港にやって来た。
彼は英領植民地のエリート官僚とは不仲だった。その原因は出身と信仰。アイルランド出身のカトリック教徒であったことから、英国国教会に属する同僚たちは、彼を部外者として扱った。
その一方で彼は現地民に親和的であり、人道主義を重んじる人物だった。ラブアン島では囚人の待遇を改善。シエラレオネではキリスト教の宣教師を批判し、イスラム教徒を称賛するようなこともあった。
前回も紹介したように、香港では中国人が差別的な扱いを受けていた。着任したばかりのヘネシー卿が、中国人の境遇に同情するのは時間の問題だった。
総督と英系企業の対立
清朝末期の鞭打ち刑
ロイヤル香港ジョッキークラブの理事長記念盾
フィニアス・ライリー氏は初代理事長だった
着任したばかりの1877年7月に、ヘネシー総督は中国人に対する残酷な刑罰の改善を提案。烙印刑や鞭打ち刑を廃止する考えを示した。有力な英系企業は表立って反対しなかったものの、内心では厳罰こそが英国人の安全保障につながると考えていた。
1878年2月に病院を視察したヘネシー総督は、中国人の商人たちが公益活動などに熱心なことを称賛。中国人の住民にも西洋人と同等の地位を与えることを主張した。
ヘネシー総督の主張を聞き、中国人は喝采を送った。一方で西洋人は驚愕。英系企業は手を組み、ヘネシー総督の方針に反対した。なかでもターナー商会のフィニアス・ライリー氏は、公の場で何度もヘネシー総督と衝突した。
ライリー氏は香港政庁の立法局で、非オフィシャル議員も務める有力者。彼によると、中国人と西洋人は区別されるべき。西洋人の生活と利益を中国人は侵してはならないと主張した。ライリー氏は香港の既得権益集団を代表し、英植民地省に陳情書を送り、ヘネシー総督の更迭を要望。ヘネシー総督と英系企業の対立は、日増しに激しくなった。
保良局の徽章 こうした対立に陥っても、ヘネシー総督は人道主義を貫いた。誘拐された貧困婦女子を救済するための慈善組織を設立したいと広東省出身の商人たちが要望したところ、ヘネシー総督はこれを大いに賞賛。香港政庁に“保赤安良”(子どもを保護し、婦女を助ける)をスローガンとする保良局を1878年11月に発足させた。
太平紳士の正装
写真は俳優の劉徳華(アンディー・ラウ)
さらに同年12月には英国留学から帰国した伍廷芳を“掌法紳士”に任命し、中国人エリートを香港政庁に引き入れる布石を打った。
掌法紳士は今日では“太平紳士”と呼ばれる。英語ではジャスティス・オブ・ザ・ピース、日本語では治安判事と呼ばれる地位だ。略称はJP。英領植民地だった国・地域でみられる制度であり、その役割は各地でまちまち。香港では囚人の訴えに耳を傾けることなどが義務であり、いわゆる名士であることから、民事契約の証人としての資格も有している。現在でも香港のエリートは、多くが“太平紳士”の称号を持っている。
中国人商人の勃興
低賃金で働く米国の中国人は、米国白人労働者の怒りを買った 中国人擁護の声も高まった
ヘネシー総督は就任早々から中国人商人の実力に目をつけていた。不況時に欧州系企業が香港との貿易を縮小するなかでも、中国人商人の船や積荷が増加を続けていたからだ。
中国の商品を英国で売る場合、価格の面でも、量の面でも、中国人商人は英系企業よりも競争力があった。英国の商品を香港や中国本土で売る時も、同じく中国人商人の方が力は上だった。
中国人商人が実力をつけた背景には、香港の地政学的ポジションと独特の歴史があった。アヘン戦争以降の華南地域は、農村経済が壊滅。海外のゴールドラッシュが起きると、食い扶持のない広東省や福建省の貧農は、“苦力”(クーリー)という名の安価な労働力として海外に送られた。
海外に出た中国人は、現地でも中国式の生活スタイルを維持した。彼らの衣食は香港からの輸入品。故郷への仕送りも、香港経由で送金された。香港は中国本土と海外に住む中国人の“仲介者”としての役割を担うようになり、こうした状況は今日も続く。
ビクトリアハーバーを行き交う船舶(1880年) 中国本土と海外の中国人を結ぶ交易の中で、香港の中国人商人は有利な商業ネットワークを構築。香港は英国の統治下にあったことから、大英帝国の植民地の情報も手に入り、中国人商人が活躍する余地も拡大。やがて中国人商人は、欧州企業から嫉妬の眼差しを受けるようになった。ヘネシー総督が中国人エリートを香港政庁に引き込もうとする背景には、こうした状況があった。
中国人エリートの政庁入り
法衣をまとう伍廷芳
中国人初の法廷弁護士(バリスター)
香港の総検察官を務めるジョージ・フィリッポが英国に帰る機会を狙い、ヘネシー総督は伍廷芳を総検察官代理に任命することを検討した。この情報が流れると、英系企業は騒然となった。このような高い地位を中国人に与えれば、香港の統治権もやがて中国人の手に落ち、西洋人と英国政府に不利益が及ぶと考えたからだ。
そこで英系企業は再び本国政府に陳情書を送り、伍廷芳の就任に反対するよう求めた。さらにヘネシー総督は中国人に寛容すぎると批判。彼の統治下では、西洋人に不利益が及ぶと訴えた。こうした強い反対を受け、ヘネシー総督は方針を撤回するほかなかった。
だが、ヘネシー総督はしつこかった。1880年1月に立法局で非オフィシャル議員を務めるヒュー・ボルド・ギブ氏が病気療養の帰国。これをチャンスとみたヘネシー総督は、議員に欠員が出たことを理由に、伍廷芳を暫定的に非オフィシャル議員に任命するよう英国政府に求めた。英国政府はヘネシー総督の推挙に賛成したものの、伍廷芳の任命は一時的なものであり、任期は3年だけとクギを刺した。
こうして一時的ではあるものの、中国人エリートを香港政庁に引き込むというヘネシー総督の統治方式は、英国政府のお墨付きを得た。香港の開港から40年近くを経て、初めて中国人の伍廷芳が、香港政庁の議事堂である立法局に足を踏み入れることになった。
公平な制度の重要性
シルクハットとステッキを手にしたヘネシー総督
19世紀の典型的な英国紳士の服装
前述の通り、香港では開港当初から中国人に借地権を販売することが禁止されていた。この不公正な制度をヘネシー総督が問題視するのは、時間の問題だった。1881年6月の立法局会議で、中国人に対する借地権販売の規制緩和が話し合われることになった。
この場でヘネシー総督は公平性の原則に基づく統治を強調。貴重な香港の土地をめぐる不公正な制度の下では、中国人の不満を高めるだけであり、香港社会全体の長期的な安定と発展にとって不利益と主張した。
ヘネシー総督が見たところ、英領香港が繁栄している裏側には、中国人の少なからぬ貢献があった。もし中国人に公平な地位を与えず、少数の欧州企業が政治にも介入し、利益を独占すれば、経済発展の原動力と社会の安定を目指すうえで、基盤を失うという考えに至っていた。
ヘネシー総督の統治下で、中国人が社会参加する機会はますます増え、経済も日増しに繁栄した。香港政庁と中国人リーダーの間には、安定した社会の下での経済発展という共通の目標があり、パートナーシップのような関係が築かれようとしていた。
香港政庁に入った中国人は、同胞からの名声を得る。そうした恩を売ることで、香港政庁は中国人コミュニティの力を利用し、欧州企業を牽制できる。結果的に香港政庁は西洋人と中国人の調停役となり、香港総督の権威を高めることになった。
住宅バブル
香港コクランストリート(科克倫街)
19世紀後半
1881年6月の立法局会議で中国人に対する借地権販売禁止の緩和が話し合われた。もっとも、中国人の資産家による“住宅不動産”の購入は、それ以前から頻繁に起きていた。
香港島の地形は山が多く、居住可能な土地は限られており、多くが西洋人の手中にあった。中国人の住める地域が少ない一方で、人口は年々増加。狭い地域の小さな住宅に中国人は押し込められ、衛生状態は劣悪なのに、高い賃借料を支払わなければならなかった。
人口の増加にともない、住宅の賃貸料はますます上昇。ヘネシー総督が着任してからの4年間で、賃借料は60%も上昇したといわれる。住宅の購入者から見れば、わずか8年間の賃貸料収入で購入費用を回収できるとまで言われた。
住宅投資の利回りが非常に高かったことから、中国人の資産家による住宅購入が1979年末ごろから徐々に活発化し、住宅価格が上昇。値上がりで大儲けしたという話が流れると、さらに住宅を買い求める動きが広がり、価格は一段と上昇した。
住宅を売るのは西洋人が中心で、買うのはほとんどが中国人だった。1880年1月1日から1881年5月11日までに中国人が西洋人から購入した住宅は172万7,741香港ドル相当。これに対して西洋人が購入した住宅は、わずか22万1,810香港ドルにすぎなかった。短期間で住宅不動産が中国人にわたり、西洋人が現金を手に入れるという資産移転が起きた。
住宅売買はますます過熱し、どこに物件があるか知らないまま、購入契約を交わす投機家もいた。だが、この住宅バブルはわずか数カ月ではじけた。
バブル崩壊のきっかけは、1881年10月に英植民地省が開始した香港の衛生環境に関する調査。衛生問題解決のために、香港政庁が基準を満たさない中国人の住宅を取り締まるという噂が流れた。これを聞いた中国人の資産家たちは、住宅が没収されることを恐れ、一斉に投げ売りに走った。すると、住宅価格は急落し、多くの中国人が破産した。
李鴻章の幕僚となった伍廷芳 このバブルで大儲けしたのは、西洋人だった。住宅投機に勝つことができたのは、情報力の違いだった。香港の衛生環境に関する調査の情報を本国から一早く入手し、英国の基準に満たさない住宅が撤去される可能性を知ったが、中国人には伝わらないように連携した。
さらに西洋人は投機熱を煽ることで、1881年上期に値上がりした住宅を売却。結果的に中国人がババを引くことになり、彼らが貿易などで蓄えた資産は、やすやすと西洋人の手にわたった。
ヘネシー総督が寵愛した伍廷芳も住宅バブルで破産し、立法局議員の地位も捨て、中国本土に逃げるほかなかった。なお、中国本土で伍廷芳は北洋大臣だった李鴻章の幕僚となり、清王朝の政治改革や外交に携わる。中華民国でも要職に就くなど、香港ではかなわなかった政治家としての活躍の場を得た。
株価の上昇
住宅バブルは短期間で崩壊し、中国人の資産家は打撃を受けた。しかし、住宅市場は短期間で落ち着きを取り戻し、香港経済の根底が揺るぐことはなかった。貿易は住宅バブルの影響を受けず、成長が加速。大型企業は業績を伸ばし、株価も上昇を続けた。
香港上海匯理銀行(HSBC)の株価を見ると、ヘネシー総督が着任した1877年の年末は+58%だったが、1882年12月26日には+163%に達した。なお、HSBCは1881年に中国語の社名を香港上海匯豊銀行に変更している。
この連載の第三十三回でも紹介したように、当時の株価の表示法はさまざま。HSBCの場合、額面の125香港ドルに対する変動率で表示するので、+58%は197.5香港ドル、+163%は328.75香港ドルを意味する。
だが、いつまでも上昇し続ける株価はない。住宅バブルの崩壊から数年後の1880年代末に、今度は株式バブルを経験することになる。次回はこれについて解説する。
ヘネシー総督の時代
ヘネシー・ロード(軒尼詩道)の様子
香港島コーズウェイベイ(銅鑼湾)
ヘネシー総督は1882年3月7日に香港総督を離任。香港の西洋人たちはヘネシー総督の時代を振り返り、“混乱の絶えない5年間だった”と形容した。中国人に親和的なヘネシー総督の統治が、西洋人の利益を損なったからだ。
実際のところ、160年近くにわたる英領香港の歴史で、ヘネシー総督のように中国人を公平に扱った総督は、ほんの一握りだった。後任の香港総督たちは、中国人エリートを引き込むという政策を継承したものの、西洋人や欧州系の大企業を優先する姿勢が顕著だった。
香港政庁に引き込まれた中国人エリートは、政治的なお飾り的な存在であり、政策を導くための補助的な仕事だけしか任されず、真の政治的影響力など持ちえなかったという。香港の中国人が大きな力を発揮するには、なお長い年月を必要とした。